兎のカタパルト
冷えた空気の中で、原因の黒いうさぎ耳だけがぴょこぴょこと動いている。
母はしばらくキョトンとしていたが、はっと思い出したように女の子の方を振り返った。
「ああ、そうそう、これよ! 持って行って」
「え、あ……どうも」
カラフルな包装紙に包まれたお茶菓子の箱を半ば強引に押し付けられて、女の子は戸惑いながらも受け取った。その際に頭から突き出たうさぎ耳がお礼を言うかの様にぺこりと垂れる。
そうごは段々と、自分の呼吸が浅くなっていくのを感じていた。
(か、帰りたい……っ!)
何がどうして、うさぎ耳の少女がこの家にいるのか分からない。耳がどういった原理で動いているのかも。おそらく先日の記憶が無い部分に、状況を理解するための手掛かりがあるのかもしれないが。とにかく面倒くさそうな予感に、そうごは何も知らないまま自分の世界に戻りたいと切に願う。
二人から目を離して、視線を床に落とした。……血だまりが出来ている。いつの間にか押さえつける事を忘れていた右腕の傷口から、指の先まで血が流れている。傷は深く無いが、放置したせいで悪化したのだろうか。急にくらりと眩暈がしてきて、後ろの壁に背中がぶつかった。
「いっ、」
「あら? そーちゃん……どうしたの、その腕!!」
ようやく息子の事態に気づいた母親が、血相を変えてリビングの扉を開けて駆けてくる。後ろからうさぎ耳の少女が少し驚いたように呟いた。
「……ちゃんと塞いだと思ったのに」
(このガバ治療したの、お前かよ!!)
思わず叫び出そうとしたが、そうごは表情を曇らせるだけに留めた。昨日の疲れもまだ抜けていない。下手に体力を削る行為は得策じゃないだろう。
母は息子の血に染まった右腕を見ながら「きゅ、救急箱……救急車? 救急車の方が良いのかしら?」と慌てふためいていた。
「母さん、救急車はいいから……とりあえず止めて、血」
「そ、そうね! 何事も最初は応急処置よね!」
再びリビングに戻っていく母と入れ替わりで、少女がそうごの前まで歩み寄って来た。
「……」
「……」
「……」
(え、なに? この空気)
少女は深刻そうな表情でそうごの右腕を注視している。
お互い何も喋らない。人と対面する事を苦手とするそうごだが、無言の空気に耐えられるほど気楽なタイプでも無かった。
相手の目を見れない事はもちろん、謎のうさぎ耳について触れる勇気も無かったため、少女のおでこ辺りを少し睨むようにしてそうごは口を開いた。
「……、……なんれすか」
噛んだ。
「いや、すまん……処置したつもりだったのだが、巻き方が甘かったらしい」
スルーされた。
そうごは微妙な気分で歯噛みした。男勝りな口調とは裏腹に、少女は少し落ち込んでいるようだった。長い耳がぐでんと垂れている。それを出来るだけ視界に納めないようにしながら、彼女に答えた。
「いや、別に……えっと、でも、どうして」
「昨日、お前が道に倒れていたんだ。酷い有様だったぞ」
「はあ……倒れてた……」
倒れて無意識だったのなら、確かに記憶が無いのにも説明が付くだろう。疲労困憊の中で、意識が混濁している内に気絶したのだろうか。何か引っかかりを覚えながらも、とりあえず納得する。
「じゃあ、ここまで運んできて来たのも……」
「私だ。正確には、もう一人いたが……いや、それは良い」
何かを思い出したのか、少女が少し顔をしかめる。しかし一瞬の内に無表情へと切り替わり、少女はじっとそうごを見つめた。そうごはつい目を逸らした。
「妹は、もう学校に行っているぞ」
予想外の単語に、首を傾げた。
「いもうと?」
「そうだ。パンを口に咥えながら出ていったぞ」
「そんなお決まりな……」
「まあ登校の仕方なんてどうでも良いんだが、お前は行かなくて良いのか」
「いきなり地雷踏むの止めて」
やばい。こいつはずけずけ迫ってくるタイプだ。プライバシーを尊重しない人種だ。土足で踏み荒らして勝手に帰っていく奴だ。だらだらと冷や汗が流れ出す。自分から話しかけた事を早々に後悔した。母が来るまで無言で待機しているべきだった。
「き、今日は休みで……俺は」
「石上高校だよな。ここに来る前に立ち寄ったが、普通にみんな登校していたぞ」
「実は通信制で」
「クラス表にはちゃんと名前が書いてあったぞ? 担任にも確認した」
(何この人ストーカー!?)
およそ三年間、そうごは引きこもり生活を続けている。この中で外に出たのは高校受験の為と、先日の家出騒動の時だけだった。
だから身分証なんて持ち歩いていないし、昨日の今日で学校まで調べられるなんて。顔が引きつるのを感じながら、そうごは視線をあちこちに差し向けた。なんだこれ。どうすればいい?
「そうよお、そーちゃん。せっかく入ったのに、退学になっちゃうわよ」
タイミング悪く、母が救急箱を持って戻って来た。少し落ち着いてきたみたいで、いつもの間延びした声色になっている。そうごの右腕をとると、タオルで流れた血を拭きながら擦り切れた個所にガーゼを当てている。
「別に、退学になったらなったで……」
「退学になるのか? だったら都合が良い」
「は、」
「お前、妹を……」
そこまで言いかけた所で、少女は母を見やって口を閉ざした。
「え、なに?」
「いや、ここで話すことじゃないな。お前の部屋はどこだ? そこで待ってる」
「待ってるって、教えるわけ、」
「そーちゃんの部屋は二階の奥よ、クロエちゃん」
「母さん!!」
腕を掴まれているので追いかけることも出来ず、彼女はうさぎ耳をぴょこぴょこさせながら廊下を抜け階段を登っていく。
「友達なんでしょ? 良いじゃない、ちゃんとお茶は持っていくから」
楽しそうに、どこか嬉しそうに言っているが、あんなコスプレ(?)女と友達になった覚えはない。
「そんなんじゃない」
「中学からの友達だって言ってたわよ? あんた覚えてないだけじゃない?」
「中学からの……?」
それなら、なおさら無い話だ、とそうごは思う。中学の頃は最低な思い出しか無かった。同年代には見えるから、もしかしたら本当に同級生だった可能性も無くは無いが……しかし友達だと名乗る訳が分からない。嘲笑いにでも来たのだろうか?
次はしっかりと包帯がきつく巻かれて、ピンで固定される。窮屈さを感じながらも、これがちゃんとした応急処置だよな、と頷いた。さっきのはあまりにもお粗末すぎた。
「一応、ちゃんとした病院にも行った方が良いと思うのだけど……」
「いらない」
息子の即答に、母は困ったように首を傾げるだけだった。足早に自分の部屋へ戻ろうと背中を向けるが、今はあのうさ耳少女が部屋にいると思うと少し足取りが悪くなった。唯一の、安息の場所だった筈なのに。
(というか、あの部屋に女子を入れていいのか? ダメだろ……)
完全なオタク部屋に、足の踏み場も僅かしかない。家デートなら即刻失敗、二秒でフラれるコース確定だった。デートする相手なんてそもそもいないが。
芳香剤から流れてくるココナッツの匂いに呻きながら、自分の部屋の扉を引き開いた。
少ないスペースの中に、年頃の少女が立っている。なんだか申し訳なくなって、中に入らず入り口の所で留まった。少女がちらりとそうごの腕を見る。
「来たか。腕は平気だったが」
「ああ、まあ」
「じゃあ、話の続きだが」
彼女はさっき、退学なら都合が良いと言っていた。どういうことだろう。土足で踏み荒らして、いきなり慰めの言葉やら叱咤やらしてきては、勝手に帰っていくタイプだと思っていたのだが。そうごの勝手な被害妄想は的を外れていたらしい。実は共感タイプだったのだろうか。
次の妄想矢を装填しながら、少し親近感に満ちた目で彼女を見た。うさぎ耳は微動だにせず、少女も無表情なままで口を開いた。
「暇なら、妹を殺しにいけ」
……どうやら、矢を放った先はとんでもないファンブルだったらしい。