羊のパンデモニウムⅢ
岸辺そうごが目覚めた時、景色はいつもの日常と変わりなかった。
六畳一間の寝室。折りたためる茶色のテーブルの上に、デスクトップパソコンがどんと置かれている。テーブルの下にはUSBマイクやらヘッドフォンやら、主に音声に関わる機材が少し誇りを被った状態で放置されており、後は小物やコード類などが乱雑に詰め込まれている。
これらを囲うように漫画からライトノベルから、アニメのビデオ、またはブルーレイディスクなどが壁際から伸びる様に並べられて(もしくは床に敷き詰められて)おり、使い古されて固くなった敷布団から抜け出せば、行動出来る範囲は二畳にも満たない。
そうごは自分の部屋の惨状をぐるりと見て、次にカーテンを注視する。隙間から漏れ出る淡い光は、外がまだ明るい朝であることを示していた。
起きるには、まだ少々早い時間帯のような気もするが――ニート生活には起床時間なんて、ゲームのイベントが始まる時間に差し障りなければ何時でもいい。日常が戻ってきた。そうごは一安心したとばかりに、胸を撫でおろした。
ただ妹を探して、見つけられなかったので帰って来ました――これだけの事実ならば、わざわざ日常である自分の部屋を再確認しようとは思わなかった。何時ものようにぼうっと起きて、何となくパソコンの前まで移動する。家出した妹がどうなったのか、帰ってきたのか、そんな一切の疑問は全て昨日の中に捨てていた。
帰って来た、という記憶があればの話だが。
(夢遊病……は、違うよな?)
実は人格を二重に持っていたのかもしれない、とも考えてみるが、今までに自分の知らない所で自分が行動していた形跡があった覚えは無いし、突然発現した! なんて突飛な事象でも無い限りはあり得ないだろう。例え有っても、そうごが覚えている限り、最後の自分は相当疲弊した状態にあった。自力で帰るのは難しいのではないか? 実際に今も、そうごの身体には無数のすり傷が残っているし、右腕なんて皮膚がじりじりに裂けて血が出ている所もある。
「……って、え!? 血!? あれっ、まじかよ!!」
驚いて出血した右腕を凝視する。一応処置された様な跡があるが、だいぶ甘かったらしい。ほどけた包帯が薄っぺらい布団の上に落ちている。それを引っ掴んで、適当にまとめると傷跡の部分に強く押し付けた。びりびりと痛みが走るが、緩める訳にもいかない。この部屋には救急セットなんてものは無い。ナースなら布団横の壁に、ピンクの注射器を持ってでかでかと貼られているが……とにかくと、そうごは歯を食いしばって自室の扉を押し開けた。
「うっ……!」
むせ返るほど濃厚な、外の匂い――正確には、自分の家の廊下で、隅に配置された芳香剤からココナッツの香りが漂っているのだが、彼にとっては自室以外の場所は外とそう変わりない。
母が居る寝室、もしくはリビングは一階にあり、そうごと妹の部屋は二階にある。
向かい風の嵐に対抗する様な気持ちで廊下を進み、しっかりと前後、左右を確認しながら手すりに捕まって階段を降りる。なんせ昨日は、母に無理やり部屋から引きずり出され、あっという間に家の外まで叩き出されてしまったのだ。普段は畜生の息子を放っておくほど大人しいのに、いきなり怪力を見せられては、昨日の今日で警戒せずにはいられなかった。
安全に一階まで到着すると、奥から何か話声が聞こえてきた。リビングから、母と誰かが談笑しているようだ。詳しくは聞き取れないが、お客人ならなるべく関わりたくないな、とそうごは思った。
救急セットが入手出来ればそれで良いのだが、普段部屋から出ない彼には置いてある場所が分からない。母はおっとりしている様で生真面目な所があるから、どこかに常備していると思うのだが――未だ出血している右腕を見て、お客人が帰るのを待って仕切り直すのも微妙だと思う。そして、またあの嵐の中を抜ける為に心血を注ぎたくない。
そろそろとリビングの入り口付近まで移動して、ちらりと扉の木枠にはめ込まれたガラス越しに中を覗き込んだ。もしかしたらお客人では無く、帰って来た妹かもしれない。話声も先ほどより鮮明だった。
「……ああ……そうなの? でも、悪いわねえ」
「いや、あいつは別に……」
「そーちゃんの友達なのでしょう? やっぱり悪いわよ」
「じゃあ、私から伝えときますので、」
「ああ! なら、ちょっと待って。どこかにまだ未開封のお茶菓子があった筈だから」
「え、あ、ちょ」
何の話をしているのか、全く分からない。友達とか何とか、不穏な単語が出て来たような気もする。母とは別の、困惑したように声を上げているのは、やはり妹では無くお客人のようだ。扉からちょうど見える位置に、ローテーブルを前にして少女がソファにちょこんと座っている。
黒いパーカーに白いスキニーパンツ。フードは目深に被っていて、特に俯いているので顔は見えない。艶のある黒髪が少し覗いている程度だった。
単純に怪しい。
室内でフードを被る人間は基本中二病か強盗犯くらいだ。勝手な偏見を掲げながら、そうごはゆっくりと後退した。触らぬ神に祟りなし、知らぬ人間に関わりなし。彼女が帰るまで、やっぱり部屋に戻っていよう。どうせすぐに朝食を持って母がやって来るのだから、その時に救急セットについて聞けば良い。
考えをまとめると、そうごはリビングの扉から目を離そうとした。
——何かに反応したかのように、突然少女が顔をあげた。
目が合った。
(あ、やべ……)
びくりと肩をはねさせて固まるそうごに対して、少女は勢いよく立ち上がった。
それはもう、何か重大な事件でも起こったかのように。
しかし、大事は少女では無くそうご側に対して起きていた。
数年ぶりに生身の女の子と目が合ったからでは無い。
少女が立ち上がった時に、目深に被っていたはずのパーカーのフードが突き破られ――否、突き破れてはいないのだが――そうごにはそう見えた――フードを押しのけ、何か高いものが少女の頭の上にそびえ立っていた。
耳。
うさぎの耳。
そうごは空いた口が塞がらないとばかりに呆然としていて、うさぎ耳の少女もそうごを見つめたまま何も言わない。ああ見つけた見つけた、なんて呑気な声を発しながら、お茶菓子を持った母親がキッチン奥から出てくると、少女と扉の前に立っているそうごが見つめあっているのを、首を傾げながら
「あら? 何のごっこ遊び?」
なんて検討違いな言葉すらスルーされてしまうくらいには、空気は凝り固まっていた。