羊のパンデモニウム Ⅱ
思ったより、土煙が舞ってしまった。
廃墟ビルの手前で、一人の……少女のようなものが、げほげほと咳き込みながら、薄手のノースリーブについた土や砂を払い落としていた。
(……、二分と四十秒)
懐から取り出した懐中電灯で、何か時間を確認すると、少女は廃墟ビルを振り返った。点滅する蛍光灯の下で、ノースリーブの裾がふわりと揺れる。それと共に、彼女の頭の上で何かがぴょこんと動く。
兎のように高く、闇夜を写したかの様に黒い耳。彼女の動きに合わせて揺れるそれは、まさしく生えている事を表していた。
少女はビルの中には踏み入らず、じっと眼だけを凝らして中を見る。出入口だったガラスの扉は破れていて、破片は隅に寄せられ小高い丘を作っている。中も雑草だらけで、長い年月、放置されたままだということが良くわかる。
都市改革も始まっている昨今の中で、未だに手が回っていないのは中央から順にやっているからだろう。後回しにされ続けた廃墟ビルの階段付近を少女は仰ぎ見た。ちょうど、青いセーラー服を身に着けた一人の少女が降りてくる所だった。
制服の少女は心ここにあらずといった様子で、ビルから出る。顔を伏せているので、黒いうさぎ耳が生えた少女のことには気づかなかった。ただ近くに人がいる——それだけを理解すると、軽い会釈をして通り過ぎていった。
「…………ふむ」
うさぎ耳をぴょこぴょこと動かして、小さく唸った。遠くなっていく少女の背中を見送ると、慌てて辺りを見渡す。何かが足りない。わざわざ此処まで"降り立った"のは、彼女を見送る為だけでは無い。
(確かに迎えに来る"予定"なんだが……どこに行ったのだ? あの子の兄は)
道の先をじっと見てみるが、誰かが来る気配も無い。首を傾げながら、次は車道を挟んだ向こう側の歩道を見やる。誰もいない。いや、誰か……何かがある。どちらの歩道でも無く、車道の真ん中に。
絞り切った雑巾のようなものが。
少女は初めにそう形容したが、よく見てみると人間の造形をしている事がわかる。まさかと思って近寄って見れば、伸びに伸び切った人の男だと理解した。
理解したが、なぜこんな所に?
「…………もしもし?」
しゃがんで彼の肩をツンとこずいてみる。反応は無い。完全に意識を失っている。いや、それよりも、こいつは――――
(もしや、あの子の兄じゃないか!?)
重大な可能性に気が付くと、少女はとりあえず彼を引っ張って歩道側に寄せる事にした。いくら車通りが少ない場所とはいえ、放っておけば確実に轢かれてしまうだろう。ましてや視界の悪い夜なのだから。
骨と皮しか無いような肢体は、少女の細腕でも易々と動かす事に成功した。動かすといっても、ずるずるとコンクリートの道の上を引きずっているだけなのだが。
彼の半ズボンに手を突っ込んでみる。何もない。身分証くらい持っておけよと舌打ちしつつ、少女は自分のノースリーブについた浅いポケットから少し無骨なスマートフォンを取り出した。手のひらサイズだが、薄いベゼルレスが流行っている現代の型よりも幾つか昔のものだとよく分かる厚みがあった。
コール音が数秒流れ、目的の人物が応答する。
『あー……、現在この電話回線は使用されておりません。次回の新規契約が履行されるまでお待ち下さい』
「今どこに居る? ちょっと人を運んで欲しいんだが」
『まず僕の渾身のネタについて感想を伺おうか?』
「つまらん」
『批判コメントは受け付けません。三週間後くらいに、また出直して来て下さい』
ぷつりと電話が切れた。
少女はしばらく暗くなった通話画面を見つめて、またかけ直した。
『……お掛けになった電話番号は、三週間ほど時間が経たないと復活いたしま』
「加胡野町。八丁目。廃墟ビル。人倒れてる。住所不明」
言うだけ言って、今度は自分から電話を切った。
倒れている男の横にぺたんと体育座りをすると、そのまま空を仰ぎ見た。
満月が雲の中に隠れようとしている。
(……雨が降りそうだな)
はあ、と一つ息をして、ノースリーブの裾を抑えている両手をきゅっと握りしめた。
遠くから――まだずっと遠くの場所から、足音が聞こえる。
数多の雑踏の中をかいくぐって、何かを踏む音、飛び越える音、そして――跳ぶ音。
彼女の耳は、まさにうさぎの耳だった。
しかし、うさぎよりも鋭く――音を拾い、感覚を拾い、痛みを拾う。
何処かから突然の異質物として降りて来た少女は、口元を引き結んで夜の寒さに耐えながら、拗ねた声を出した。
「ここで倒れるなんて、聴いてない……」
むすりと顔を顰める少女は、普通の女の子と同じあどけなさを持っていた。