羊のパンデモニウム
岸辺そうごは、今日が自分の命日だと本気で思っている。
その子ヤギのような足取りは、見ず知らずの他人でさえつい手を差し伸べたくなるほど、弱弱しく滑稽であった。しわくちゃの黒いTシャツと、薄緑の半ズボンから伸びる手足は夜空の下でも青白く輝き、あちこちに飛び散った髪の毛の間からは、ひどく充血した赤眼が覗いている。一見不気味な化け物のようにも思えるが、彼はまだ17の年若い少年で、一生懸命に夜の街を前進しているところだった。
(ああ、最悪だ……最悪の極みだ)
息も絶え絶えに、必死の状態で歩く彼は、時々誰か知らない人の手を借りながら、久しぶりの外に身を震わせていた。数年ぶり、いや、もはや初めての、知らない街と言っても良い。
生まれてからずっとこの街に住んでいるものの、すべての道を知っているわけでは無いし、商店街を抜けた先のここら辺は特に来た事が無い。それでも薄い記憶を手繰り寄せながら歩いて来ているのは、最後に妹と遊んだ場所がここだからだ。正確には、もう少し歩いた先にある、ずっと昔に廃棄されたビルのことなのだが。
家出した妹を探す気なんて、更々無かった。そうごは筋金入りの引きこもりだ。もう何年も顔を合わせていない妹の顔など、すでにぼやけ始めていたのだ。例えどこかですれ違っても、お互い一目では気づけないかもしれない。
だから遂に切れた母親に妹を探して来いと家から追い出されたとき、そうごは確実に今日が命日だと悟った。妹のよく行く場所など把握している訳が無いし、いま彼女がどんな立場でどんな性格で、なぜ家出をするに至ったのかも知らない。ただフラフラと探しまわるだけの行為に意味があるとも思えなかったから、そうごは拙い記憶の中から妹と遊んだ場所を引っ張りだして来たのだが――これが予想以上に遠く、予想以上に久々の外はキツイことこの上無かった――日々の運動不足が積み重なって、身体の調子も万全とは真逆の状態だ。いきなり陽のひかりに照らされた吸血鬼の気分だ……今は夜だが。
太陽は完全に沈み込み、月が辺りを照らしている。そうごはビルまで延びる石レンガの壁に身体を預けながら、ずるずると気だるげに歩いていく。
(腹へった……)
昼間、ネットゲームのやり込みすぎで昼食を断った事が悔やまれる。疲労と空腹で、意識は混濁としている。このままでは確実に倒れるだろう。母さんもこんな状態の俺を外に放りだすなんて、いよいよ死んでくれってことだろうか? まあ、妹が家出して大分困惑した様子だったから、俺のこと気に掛ける余裕なんて無かったんだろうけど……ぽやぽやと考えながら、そうごはビルまで後どのくらい距離があるのかと確認した。しようとした。
(ああ、だめだこれ。魚眼レンズみてーになってる。やばい)
視界はぐらぐらとぼやけていて、遠近感がてんで死んでいる。ビルまでの道が異様に遠く感じるのだ。まさか延々と長い道のりを歩かされるのか? いや、それはさすがに無いだろうが……。
肺に溜まった淀みを吐き出すために、深呼吸を繰り返した。少し冷たい、夜の空気が鼻腔を通って、身体の中を喚起させていく。少し余裕を取り戻したおかげか、肌に寒気すら感じて来た。今は夏とはいえ、夜にTシャツ一枚で出歩くものではない。そうごは余計に壁に縮こまって、肌に接触する外気を出来るだけ避けようと試みた。ずりずりと擦り付けられた彼の右腕が、細かい傷跡と共に赤みを増していく。
ぐらぐらと揺れる視界のなかで、走馬灯のように昔の記憶が蘇った。物心がついたばかりの、まだ世の中というものを一欠けらも理解していなかった無垢な少年。生まれたばかりの妹を抱き込んで、ヒーローのように明るい笑顔を浮かべていた彼は、年を重ねる毎に薄くなり、周りを否定する毎に妹とは離れていった。人生の大半は暗い四畳半の部屋の中で過ごした自分だけが思い出される。掠れた笑みを浮かべた。
そうこうしてるうちに、彼の足は目的である廃墟ビルの真下まで来ていた。
やっとだ。ここに妹がいるかどうかは知らないが、とにかく早く帰って休みたい。石壁から身体を離して、夜の静けさと冷たい寒さを一身に受け止めた。鼻腔に涼しい空気をめいっぱいに貯めて、今日はじめての深呼吸をした。
(ああ、もうすぐ帰って眠れるんだ……)
気持ち回復した手足に最後の力を振り絞らせて、そうごは廃墟ビルの中にいざ一歩踏み出そうとした。
土煙が舞った。
疲労困憊だったそうごの五感は、完全に遮断された。身体が紙切れのように吹き飛ばされ、後ろの道路側まで押し出される。地面に打ち付けられた背中から、わずかな感覚さえ奪い取られる。
何かを考える間もないうちに、岸辺そうごは気絶した。