愛がなんだ
「愛って何なんでしょう」
視線を合わせないまま、小夜さんは呟いた。
「愛ですか」
「そう、愛です。わからないんです」
チチチと小鳥が鳴く声が聞こえた。でも、こんなに近くに聞こえるはずもない。鳥はもういないのだ。それなのに、不思議なくらい平和な音が響く。
「鳥のことでしょうか」
「それって、もしかしてツバメのことですか?」
「……ふ」
物が少ない部屋だ。テレビは壁際にあるけれど、このリビングに他にあるものは、中心にあるソファと小さな机。あとは、よくわからない観葉植物だけ。
モスグリーンのソファにゆったり腰掛ける小夜さんの表情は、長い髪に隠れて見えない。手元に視線を落としたまま、全く動かない。こんなに近くにいるのに、彼女が何を考えているのかは、わからない。
ページが捲られる。
「いち君は、何だと思いますか」
唐突にそんなこと聞かれても困る。今の今まで、小夜さんの深い髪の色は何色か、なんてことしか考えていなかったのに。深緑と黒の混ぜたような色か、はたまた紫の光を反射するような色か。
「僕ですかあ? うーん……」
考えるふりをして伸びをする。仰ぐように体を反らすと、外から差し込む優しい光が顔に当たった。
息を吐きながら元の体勢に戻り、自分の指先を見つめる。愛、なんだそれは、考えたこともないぞ。でも、すぐに諦めると小夜さんは不満げな顔をするんだよなあ。そんなところも、綺麗なのだけれど。
また、風でページが捲られる。
「難しいことを考えているんですねえ、考えたこともないや」
満足のいく答えは返せそうにないので、僕は素直に降参した。
それを聞いて呆れたようにため息を小さくつき、彼女はゆっくりと目を閉じた。
小夜さんは不思議な女性だ。聡明で優美な雰囲気なのに、どこか憂いを帯びている。彼女は僕とあまり年齢差はないはずなのに、ずっと年上のように感じる。
勿論、良い意味で。
「それ、本当に良い意味?」
小夜さんは、見た目とか雰囲気では些末なことを気にするようには思えないのだけれど、そんなわけでもなく、実は普通にむくれる。
「もちろん、成熟して自立した素敵なじょせ……あいたたた」
当然心からの思いなのだが、どことなく不満らしい。腕の薄い皮をつねられた。
「可愛らしい、人形みたいな女じゃなくてごめんね?」
ぱっとつねる手を離して、それから少し眉を寄せて困ったように笑うのだ。そんな顔が可愛らしくて、こらを見るたびに、僕はこれが夢なんじゃないかと思ってしまう。
小夜さんの全ては、測れない。想像できる通り、出会ったばかりの彼女はまさに高嶺の花で、こんなことになるなんて思ってもいなかった。
ツバメの巣作りの様子をじっと見て、優しく微笑む小夜さんをたまたま見かけるまでは。
その時どんな風に声をかけたのか、どんな風に接したのか、その先はもう覚えてない。早過ぎた。
小夜さんの膝に乗せられた本のページが捲られる。
彼女が好きな、本物の愛を探す少女の話。意外なことに少女趣味なのだ。
彼女の目から溢れた涙が、ぽっぽっと音を立ててソファに当たって、滲みになった。
また、本のページが、風でぱららららと捲られた。
音がなんだか心地いい。小夜さんも同じ様に感じたのか、ソファの外に放り出した細くて白い指先が力無くしなって、しぼんだ。そのまま眠るように、彼女は深く項垂れた。
もう目を開くことはない。
これはまだ、僕の夢と、理想のまま。
オチが見つからないとすぐに◯してしまう癖、やめたいです。