ドールハウス
ミキちゃんのお姉さんは何でも持っています。
お姉さんはミキちゃんより十歳年上で、とても可愛らしい人です。
色が白く、たっぷりふわふわとした茶色っぽい髪の、きれいな小鳥を思わせるような雰囲気の人です。
賢く優しく、お友達もたくさんいます。
お姉さんが笑いかけると、たとえちょっと機嫌の悪い人でもつられてにっこりしてしまう、そんな不思議な力も持っていました。
ミキちゃんは小さい頃から、お姉さんがうらやましくてたまりませんでした。お姉さんみたいになりたいと、ずっと思っていました。
お姉さんが持っているもので一番うらやましかったのは、素敵なドールハウスです。
ドールハウスといってもミキちゃんが幼稚園へあがった頃に買ってもらった、プラスティックで出来た子供っぽいおもちゃとは違います。
いえ、ミキちゃんは自分が持っているドールハウスももちろん好きでしたけれど、お姉さんのドールハウスはもっと素敵なのです。
本物の木で組み立てられた本物そっくりのサイドボードやチェスト、藤で編まれたテーブルといす、銀色の燭台に乗った白いろうそく、縁に金の線が描かれた白い陶器のティーセット。
ため息が出そうなくらいはかないレースで縁取りされた真っ白なテーブルクロスをその藤のテーブルに広げ、小さなティーセットを並べると、自分も小さくなってこの素敵なお茶会のお客様になりたいと思います。
「お姉ちゃん、お人形は置かないの?」
ある日、ミキちゃんはたずねました。
お姉さんのドールハウスにお人形はありません。ミキちゃんが持っているドールハウス用に作られた、ウサギやクマのお人形なら大きさもぴったりですが、アンティークで大人っぽいドールハウスのお茶会に、ウサギさんやクマさんはあまり似合いません。この素敵なお茶会にふさわしい、貴婦人のように優雅なお人形があればいいのにと思ったのです。
「うん、置かない」
お姉さんは例の、機嫌の悪い人までほほ笑ませる笑顔で答えました。
「だって私がこのお茶会の、ホストでゲストだもん。だからお人形は必要ないのよ」
『ホストでゲスト』がどういう意味なのか、小学生のミキちゃんにはよくわかりませんでしたけれど、素敵な魔法の呪文を教わったような気分になり、意味もわからないままうっとりしました。
それからしばらくして、お姉さんに恋人が現れました。
お姉さんが通う学校の先輩だという彼は、背が高くて優しそうなお兄さんでした。
二人はとてもお似合いの恋人同士で、寄り添って立っていると青春映画のヒーローとヒロインのようでした。
お姉さんは元からきれいな人でしたが、この頃はまぶしいくらいきれいでした。こんなにきれいな人が本当に自分のお姉さんなのだろうかとさえ、ミキちゃんは思ったくらいです。
その年のクリスマスでした。
お姉さんはおしゃれをして、彼とディナーを食べにゆくことになりました。
赤いヴェルベットのワンピース、オーガンディーのスカーフを首筋に飾り、白いコートに白いパンプスという古風で優雅な服装で、お姉さんは出かけました。出かける前にお姉さんは玄関で一度振り返り、行ってきますとほほ笑みました。
いつも通りの美しいほほ笑みでした。
いつも通りでなくなったのはそのすぐ後でした。
彼と腕を組んで歩道を歩いていたお姉さんへ、暴走する車が突っ込んできたのだそうです。
それから後のことはあまりにも激しすぎて、ミキちゃんはちゃんと覚えていません。
たくさんの人が家へ出入りしました。
取り乱して泣いているママ、恐ろしい顔で怒っているパパの姿を、ミキちゃんはただただ、ぼんやり見ているしかありませんでした。
ようやくお姉さんのお葬式が終わり、台風の後のように家の中が静かになったころ。
ミキちゃんは、久しぶりに言葉を思い出したような気がしました。
「ママ」
くたびれ切ったうつろなママの目が、ミキちゃんへ向けられます。果ての見えない深い洞を覗き込んだような気がして、ミキちゃんはうろたえました。うろたえたせいでしょうか、ミキちゃんは思ってもいなかったことを、自分でも知らないうちに言っていました。
「ねえママ。お姉ちゃんのドールハウス、私がもらってもいい?」
その瞬間のママの目を、ミキちゃんはきっとおばあさんになっても忘れることはないでしょう。
お姉さんが亡くなったとたんにお姉さんの持ち物を欲しがるなんて、とんでもない欲ばりだとその目は言っていました。
ミキちゃんは口ごもり、目を伏せました。頭の中も胸の中もぐちゃぐちゃになり、パタパタと涙がこぼれ落ちました。
ミキちゃんの涙を見て、ママは後悔したようにちょっと笑いました。
「そうね、ミキちゃんが大切に遊んでくれるのなら、その方がきっといいわね」
あの子も喜んでくれるわよね、と、自分に言い聞かせるようにママはつぶやきました。
ミキちゃんは自分の部屋の、ローチェストの上をきれいに片付けました。
そして、ひとつひとつそうっと、お姉さんの部屋から自分の部屋へ、ドールハウスとドールハウスの家具や調度、食器類を運びました。
まるで儀式のようなお引越しでした。
お姉さんがしていたように家具を置き、藤のテーブルに白いテーブルクロスを広げ、そこに小さなお茶の道具をならべました。
その時。
ふっ、と、すぐそばにお姉さんがいるような気配がしました。
『だって私がこのお茶会の、ホストでゲストだもん』
ほほ笑みながらそう言ったお姉さんの顔が、まざまざと見えました。
しばらくは特に何もありませんでした。
お姉さんがいなくなった以来、家の中ががらんとし、変に静かになってしまったものの、ミキちゃんは今まで通り学校へ通います。
宿題をし、習い事へ通い、時にはお友達と遊ぶ、そんな日々が戻ってきました。
やがて春になり、ミキちゃんは進級しました。
ミキちゃんの部屋のローチェストの上には、やはりお姉さんのドールハウスが飾られています。
ミキちゃんは、たとえ自分の部屋がちょっと散らかっていても、お姉さんのドールハウスだけはきれいにしてきました。
きちんとしていないと天国のお姉さんが悲しむ気がしましたし、ママに、欲ばりな上にあきっぽい、悪い子だと思われそうでもあったからです。
ある真夜中のこと。
ミキちゃんはふと目が覚めました。
ドールハウスのあるローチェストの上が、なんだか明るいような気がしました。半分寝ぼけながら、ミキちゃんはそちらを見ました。
ドールハウスの藤のテーブルの上はいつも通り、お茶会の用意がととのっています。
テーブルの中央には白いろうそくが乗った銀色の燭台があり……そのはかない燭台のはかないろうそくに、何故か、あかあかと火がともっているではありませんか。
夢の続きかしらと、ミキちゃんはぼんやり思いました。
何かがひらひら動いています。
かすかな音も聞こえてきます。
ミキちゃんは目をこらし、耳をすませました。いつの間にかねむけは消えていました。
ちょうちょのようにひらひらと動いているのは、赤いドレスの、貴婦人のように優雅なお人形でした。
背中をおおうふわふわした髪、首元を飾るオーガンディーのスカーフの裾が、お人形の彼女が動くたびにひらひらとなびきます。
(え?お姉ちゃん?)
その姿はあの日、行ってきますと幸せそうにほほ笑んでいた、お姉さんにしか見えませんでした。
彼女はティーポットを持ち上げました。重そうです。ポットをゆっくりかたむけると、湯気といっしょにすきとおったお茶が、ろうそくの火にきらめきました。かぐわしい香りがただよってきそうです。
次に彼女はミルクポットを取り上げ、ティーカップに注ぎました。
そして満足そうにほほ笑むと彼女は、いくつかある藤の椅子のうち、一番立派な背もたれのあるいすに座りました。
ソーサーごとカップを持ち上げ、彼女は目を閉じて大きく息を吸い込んでいるようです。お茶の香りを楽しんでいるのでしょう。
『だって私がこのお茶会の、ホストでゲストだもん』
お姉さんの言葉がよみがえります。
小さな小さな彼女……お姉さんは、心から幸せそうな顔でティーカップからひとくち、お茶を飲みました。
その瞬間、ミキちゃんは大声をあげました。ベッドからとびおり、訳のわからないことをわめきながらローチェストの上のドールハウスをなぎはらいました。ひどい音を立て、壁や床にたたきつけられたはかない家具や調度、ティーセットは、割れたり欠けたりしながら散らばりました。
音を聞きつけ、パパとママがミキちゃんの部屋へとんできました。
肩で息をしながら散らばったドールハウスをにらんでいたミキちゃんは、ふたりの姿を認めた途端、声を上げて泣き出しました。
お姉ちゃんが……お姉ちゃんが、と、しゃくりあげながらうわ言のようにつぶやくミキちゃんを抱きかかえ、パパとママはお互いの顔を見ました。そしてその後は何も言わず、ミキちゃんの背中を優しくなでました。
お姉さんのドールハウスは結局、壊れてしまったあれこれといっしょに紙の箱に入れ、庭の隅に埋められました。
これでお姉さんはいつでも天国で、ドールハウスのお茶会が楽しめるでしょう。
あのドールハウスはやっぱり、お姉さんのものだったのです。
今でも時々ミキちゃんは、あの夜の不思議を思い出します。
思い出すと、うららかに晴れた日の窓に大きな鳥影が落ちるように、ふっ、と胸が暗くなります。
少し落ち着いてからミキちゃんは、パパとママに、ドールハウスにお姉さんの幻が現れたこと、まるでお姉さんがドールハウスに囚われているみたいな気がして怖くなったのだということを話しました。
お姉さんがこのままドールハウスに囚われているのは良くない、そうも思ったのだと。
うそではありません。
うそではありませんが、まじりっけなしの本当でもありません。
ミキちゃんは。
とてもとても、お姉さんがうらやましかった、のです。