初陣 3
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敷石に足を乗せた途端に重力が何倍にも感じられるほど、空気と良い、自分自身の身体と良い、ひどく重たくなった。ひそひそと大勢の人のささやくような声がする。無数のオーブがシャボン玉のように浮遊していた。
振り向くと夜の闇が濃すぎて、二人のシルエットもおぼつかない。見上げる空には月がなかった。今夜は新月だったようだ。
霊の気配が多すぎる。悪戯をしかけられるのを嫌って、私は丹田に意識を集中させ皮膚の外側にバリアを張った。こうすると霊に入られることはない。
玄関から入ると廊下に無数の人影が見えたが、すぐに消えてしまう。ここの家の関係者じゃない霊は今すぐ外に出て欲しいものだ。紛らわしいことこの上ないから。
「関係者以外は出ろ!」と無人の室内に向かって叫んだら、ヒソヒソとした声は消えた。
心の中に光を錬成していく。
豆電球サイズからもっと大きな電球サイズに光を丸め、大きくしながら前に進んだ。階段の前を通りこして、リビングのドアの前に来ると、曇りガラスの向こうに白い人影が視えた。
ドアノブに手をかけようとしたら、スゥッとドアが開く。
そして、そこで待ち構えていたのは見覚えのある女の人の霊だった。
髪はボサボサ。
細身の割に大きなバスト。
背は美貴と同じぐらい。
廃人のような青白い顔には表情もない。
人形のように無感情の目が虚空を見つめていた。
わずかに揺れる身体は半分程度透けている。
「佐伯……詩織さん……ですよね?」
私の問いかけにも無反応。だけど、少しだけ動揺したように揺れた。
私は握りしめた手を顔の前まで持ち上げて、手を開いた。
指と指の隙間から金色の小さな塵が飛び出して、私と詩織さんの周りを一時的に清めたのだ。すると―――突然。
人形が自分の意思を持ったように、我に返った。
驚いた詩織さんの顔が迫ってきて、白い手が私の身体に触れようとした。
バチン!
弾かれた手を慌てて抱きよせ、怯えた目が非難の色を帯びる。
「なに? どうしてこんなことになってるの? あなたは誰なの?」
まるで自分が死んだこともわからないような口ぶりだ。
実際、本当に何も覚えていないのかもしれない。
「私はあなたの味方です。美貴の友達で、まどかって言います」
「まどかちゃん? 覚えてるわ。美貴ちゃんの一番の親友だった……」
生前ならば四年ぶりの再会に喜びたいところだけど、もう違う。遣り切れない思いを込めて、私は真実を伝えた。
「あなたはもう死んでいます」
「……え??!!」
詩織さんは目を丸くして驚いた。
「……茉奈は? 杏奈は?」
さすがに母親だ。真っ先に我が子の身を案じている。
「生きてますよ。美貴も無事です。だけど、美貴のお父さんはあなたと同じ、死んでしまいました」
詩織さんは悲鳴を上げた。
神経を逆なでするような高音が混ざる不快な音が部屋の様子を変えていく。詩織さんの闇が広がって行く。さっきとは全く別の知らない部屋にすり替わった。
霊の心の中で起きていることが、空間に反映されているようだ。
よく見れば物置小屋のような場所に、女の子は痣だらけで寝ていた。
静かに涙を流しながら、声ひとつあげずに悲しみに打ちひしがれている。
足元には散乱した少女の筆箱と真っ黒く汚れた消しゴム、ところどころ破れた教科書やノートがあった。
引き戸のガラス越しに見える家の明りには、家族団らんのシルエットが視える。
テレビ番組の陽気な音楽と、笑い声。
温度差が酷い。
場面は変わり、高校生になった詩織さんが同じ物置の中で男に乱暴されていた。男はかなり年上の薄汚い笑みを浮かべ卑猥な言葉を投げつけていた。
また場面が変わった。
看護師になった彼女は悲しみや喪失感を心の奥に押し込んで、働いていた。自分に生きている意味を求め、人の役に立つ仕事に付かなければと必死な想いでここまで来たというのに、誰かの生き死にを見るたびに無力感に苛まれ、看護師としてやっていく自信を失いかけた時―――。
小さな美貴に出会った。
愛くるしい幼い少女が、笑顔を向けてくれる。
母親の重い病状を知らない気の毒な女の子は、毎日のように母を見舞ってはベッドで添い寝をしていた。
女の子があまりにも可愛くて、患者さんの様子を見る頻度が上がる。
日々弱っていく母親とは裏腹に、美貴の生命力溢れる姿に心を奪われていた。
「吉永さん、ご結婚は?」
美貴のお母さんは、彼女に訪ねた。
点滴を変えながら、詩織さんは「そんな良い話はまったくないんです」と恥ずかしそうに答えた。
よく見れば、末期がん患者のはずの美貴のお母さんは、眠り込む娘の髪を指先で梳きながら美しく微笑んで詩織さんをジッと見つめていた。
「私はもうすぐ死ぬ運命です。この子を置いて先立つのは、とても辛い……」
「佐伯さん」
「もしも、あなたさえ良かったら……。
この子を……、あなたの眼差しは信じられるって思って……」
「私の?」
二人の女の人は見つめ合っていた。
そして目覚めた美貴が、お母さんに抱きしめられて、しがみつくように抱きしめて。こんなに強く抱きしめても、迫り来る死は母娘を引き離してしまうのだと思うと、視ているだけの私の目にも涙が滲む。




