深淵を覗くとき 8
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私はまた新しく自動販売機でコーラを買った。ガコンという音でウトウトしていた陵平の頭がふわりと高く持ち上げられた。
顔を上げ朦朧としている彼は遠巻きに私を探しているのがこちらから見ていてわかる。私の姿を見つけた時の、安堵の表情がまた心を擽ってきた。
飼いならしたペットに対する愛情のような気持ちで、私は陵平に手を振った。
「俺も欲しい」
目を擦りながら幼い子供のようにそう言われ、私は尻のポケットから財布を出して小銭を取り出した。そうしている間に陵平が立ち上がりゆっくりと近付いてくる。
寝ぼけている彼が何かに躓いてふらりと体が左右に揺れた瞬間だった。
一瞬の残像のように、黒い影法師が残った。
それを見た瞬間、私の心臓が反応した。
ほんの一瞬の、コンマ一秒程度の視覚情報。
気のせいだったと思えば吹いて消えてしまう程度の、残像。
でも、私にはそれがこれから始まる何かの予兆のように感じて、毛穴から冷たい汗が噴き出てきた。ゆっくりと鼓動する心臓がそのまま速度を落として、止まってしまいそうな冷たい予感が身を包む。
「まどか?」
いつの間にかすぐ目の前まで来ていた陵平に肩を押され、目が覚めた。
匂いも気配もない。
今は―――――、まだ。
「……どうした? 何かやばいモノでも視えた?」
開けたコーラを私の手から奪い取って飲み下している陵平の喉ぼとけを、ぼんやりと見つめた。
外に出ると日がとっぷりと暮れていた。大分長いこと、私達は待合所のベンチで時間をすりつぶしていたということだ。空腹を感じて陵平を誘い、病院内の近くのファミレスでホットケーキセットを二人で分けて食べていると、やっと瀬良さんから電話が来た。場所を伝えたら飛んできて、車を鍵を見せながら「私が立ち会うわ」と言われた。
事情を知らない陵平は訝し気に私と瀬良さんを交互に見つめてくる。鬱陶しいけど、説明しなければならない。
「これから美貴の家に行って、悪魔祓いをするんだ」
「悪魔祓い? 一日でそんなに出来るようなことなのかよ?」
「出来るかどうかはやってみないとわからないんだ。今日の昼に美貴の両親共死んだっていうから、魂はきっとそこに居る。悪魔にとっては死んだばかりの人間の霊魂を喰ったらもっと質の悪い悪魔に成長してしまうんだ。早いうちに手を打たないと、また美貴の家族みたいな不幸が生まれちゃうんだよ」
「なんでお前がそこまでするんだよ?」
陵平はかなり怒りをむき出しにして抗議してきた。私の身を案じてくれているんだろうが、それはお門違いというもので、ある意味迷惑な話。
「私にしかできないからだよ」
「本当に、ほんっとうにそうなのか? お前のおふくろさんは?」
「……母さんのことはあまり知らない」
「もしも、万が一。お前に命の危険が迫ったらどうすんの? どう助ければ良いの? それを教えてくれよ!! じゃないと、行かせられない!」
「心配し過ぎもたいがいにしろよ? 私は一応専門家のお墨付きを貰ってる悪魔祓いんだからさ」
「専門家?! 誰だよ、そいつ。俺に合わせろよ!!」
―――正直、こんなに暑苦しいほど抵抗されるとは夢にも思わなかった。
なぜ、私がこいつの許可を得なければならない?
面倒くさいやつ。
どう助ければ良いか?
そんなことは自分の頭で考えろよ、タコ。
思い浮かぶ戯言の裏で、甘酸っぱい気持ちがして居心地が悪い。
まだ気付かれたくはない。
私の心の変化を、こいつにだけは気付かれるもんか!
「会わせられるなら会わせてやりたいが、それは無理なんだ。なぜなら、そいつは私にしか見えない存在だから」
陵平と、テーブルの横に突っ立ったまま私達のやり取りを見守っていた瀬良さんが、同時に「!!」と、言葉にならない声で驚いた。
「お前、それ俺以外の他所で絶対に言っちゃ駄目なやつだからな!!」
広いテーブル越しだというのに腕を伸ばして私の頭に手を乗せながら、陵平は左手の人差し指を唇に当てて「シー」という仕草をする。それを、面白そうな目で瀬良さんが見ていた。
「言うわけないだろ? お前だから言ったんだよ、ボケ」
「仲良いのね」
瀬良さんが私の隣に座ってきた。そのタイミングでなぜかウエイトレスが瀬良さん用の珈琲を運んできた。黒い液体がゆらめく珈琲カップに目をやりながら、心の奥深いところで身悶えているもう一人の自分にそっと蓋をした。
珈琲の香は気分を変えてくれることを学んだのは、たぶんこの時だ。
「ごめん、ちょっとお手洗いに行く」
私は瀬良さんにどいてもらって、ファミレスのトイレに向かった。角を曲がる瞬間、ちらりとテーブルを振り返ると頬杖ついた陵平が瀬良さんと話をしながら笑っているところだった。引き上げられた唇のすぐ下から、八重歯が見えた。
―――あいつ、八重歯なんかあったっけ?
今までちゃんと顔を見たことがなかったせいかもしれない。
目ばっかり見て、鼻とか口とか、もっと引いた目線から陵平の全体像をしっかりと見たことがなかった気がして、もすかすると意識していたのは私の方だったんじゃないかと思うと、せっかく蓋をした心の奥が疼き始めた。
用を足し個室を出ると、女が一人立っていた。鏡越しに私を見つめている顔は不自然な色をしている。
ゾク……
突然、電灯が消えた。
女の顔が溶け落ちていく蝋人形のように歪んでいく……
急速に冷たい空気に支配され、鳥肌が立った。
まるで冷凍庫に入ったような冷たさだ。
「なにこれ」
吐く息まで白い。
目の前に立つ女が悲鳴のような甲高い声を上げたものだから、私は思わず飛び上がって後退した。一瞬だけ目を離したら、もう消えている。
―――悪魔の警告なのか?
「ビョン? まだ戻って来てくれないの?」
美貴の病室での一件以来、ビョンデットの気配は完全に途絶えている。あいつがいない今、一人で悪魔祓いができるのか正直わからない。だけど、すぐに取り返してやらないと自分が何者だったのかさえわからなくなってしまう。
私には漠然とした記憶がある。
断片的だけど、強烈な―――――
人生を奪われた苦悩の記憶。意識はあるのに、自分の身体を何者かに支配され続けた挙句に沢山の人の死体の中で潰されて死んだ前世の記憶だ。




