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ダークサイド 真実は闇の中  作者: 森 彗子
第5章
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深淵を覗くとき 2

 感情の激しさを海の波に例えるならば、今の私の感情は津波に匹敵する。それぐらい、私はずっと泣いて来なかった。記憶が正しければ、最後に泣いたのは小学四年生の終わり頃。溜まりに溜まった悲しみのダムは水門を開く前から勝手に放流を開始してしまった。


 突然の別れ。やり場を失った想い。それが一気に溢れ出し我を失う程のたうち回ったのが最後の記憶。人生で初めての墓堀りをした時の土の感触や匂いまでもが鮮明に蘇る。当時、飼っていたハムスターの突然死は、私の人生観をがらりと変えてしまう程の衝撃体験だった。


 情をかければいつか、別れが来た時に相当後悔することになる。あの頃は本気で、そんな心配に取りつかれ友達なんかいらないという安直な発想に飛びついた。


 そんな中での、美貴との出会い。

 だからこそ、彼女は特別な友達で。


 今、私に胸を貸してくれている陵平も特別な友達になってしまった。



 喜びと同時にやがて来る別れを想い胸が痛む。

 皆、どうやって息をし続けられるのか私には理解できない。



 頼んでもないのに陵平の大きな手が私の背中を優しくさすってくれている。


 ふと、父親らしき男が去っていく背中を思い出した。

 何の事情も知らせず、時々現れて熱い視線を注ぐあの男が父親ではないというのなら、あの男は一体どんな存在だというの?


 陵平の肩越しに見上げた街路樹の下で、お母さんと手を繋いで歩いた日が蘇る。


 いつも誰もいない場所に立つ男の人の大きな手を、

 戸惑いながら嬉しそうに握り返した小さな私がいる。



 期待しなければ、失わずに済んだはずだった。


 失ったと気付いたのは、つい最近。

 お母さんの部屋には、彼の写真ひとつ存在していなかった。


 口火を切った勢いの涙は徐々に衰えて、やっと落ち着いてきたと思った頃合いを見計らったように、陵平は質問してきた。


「暁ってお父さんの姓なの?」


「いや。お母さんの姓だよ。私に、戸籍上の父親はいない」


「そうなんだ……。珍しい苗字だなぁと思ってさ……」


 陵平は困っている。妙におかしくなって、つい笑ってしまった。


「え? なに? 今の笑う要素どこにもないけど」


「だって、お前があんまり良い奴だから」


「え?? それ、笑うところじゃないでしょ?」


「ごめん、気を悪くしたなら謝るよ」


 どさくさ紛れに涙を引っ込めてホッとしていると、陵平は調子に乗って私の頭に手を乗せて、撫でてきた。思いがけない優しさに驚いた私は過剰な反応をした。


「やめろよ!」と、その手を叩き落とす―――


「………!!」


 また、陵平は固まってしまった。


「………そ、そういうことは、よそでやってくれ!」


 呆然と私を見下ろす陵平は、ぽかんと口を開けていたと思ったら「ごめん!」と謝ってきた。


「今の、弁慶の泣き所ってやつ? 偶然でもすまん。ほんっとにごめんね! でも、さっきお前だって俺の前髪触ってたし良いかと思って……。そんなに嫌ならもうしない。約束する」


 やけに丁寧に謝られて、私は完全にペースを乱されてしまっていた。


 まっすぐ頭を下ろすものだから、陵平の金髪のうなじが眼下にある。九十度なんてものじゃないぐらい低いところまで頭を垂れている姿に、どうしようもない気分が込み上げてきた。


「こういうの、やめよう。私も悪かったよ。他意はないってわかってるのに……」


 やっと顔を上げた陵平は、私の様子を観察している。今まで、こんな風に、こんな距離から私の気持ちを覗き見ようとした奴なんかいなかったもんだから、またジワリと胸が熱くなってきて、いともたやすく目尻から涙が零れ落ちた。


「……わかったよ、お前だから言う。 全部、打ち明けるから。そんな目で見ないで……」


「俺、どんな目で見てた?」と、陵平はオロオロした。


「……お父さんはいなかったけど、お父さんじゃないかって思う人はいたんだよ。その人は時々一緒に暮らしてた。ずっと居て欲しかったんだ……でも……」


 締め付けられる喉から声を絞り出そうとしても、掠れて音にならない。

 くっくっく、と笑いとも泣きともつかない奇妙な音が漏れ、言葉にならない。


 唇は震え、涙がぼろぼろと大粒となって落ちていく。


 とてつもなく寂しい。

 そんなときの涙は、やけにでかいのだ。


「………」


 ―――深夜。玄関のドアが閉まる音で目覚めた私は、追いかけずにはいられなかった。


 何か重要な話し合いをしていたお母さんと篠原 正和まさかずという彼女の親友は、何か大きな決断を迫られていた。話題の中心になにがあるのか、何を得て何を失う話だったのか、私にはわからない。覚悟を決めたお母さんは沈黙し、正和は部屋を出て行った。大人同士の間にどんなやり取りがあったのか、当時の私はまだ幼過ぎてなにひとつ理解できていなかった。


 去るならせめて、さよならぐらい言って欲しかったと今だに引き摺ってしまう。

 全力で追いかけたつもりだけど、正和の姿は跡形もなく消えて、それきりになってしまった―――。


 私は彼が好きだった。まるで父親のように優しい彼を求めていた。


 その夜以来、お母さんの口から正和の名前を聞くこともなくなって、現在に至る。聞いてはいけないのだと察していた私にとってはかなり消化困難な出来事だった。


「大人の事情なんてわからないさ。子供から見ればくっだらない理由で、大切な人を天秤にかける話にはうんざりする。何かを選ぶとき、同時に何かを捨てる。それだけの話さ」


 裏返った声でも格好つけてみたが、何ともいえないほど惨めになった。

 正和はお母さんと私を捨てたのだと思い、傷付いて泣いた時期もあるから。それまでの時間が、あまりにも幸せ過ぎたせいだ。子供の私から見てもお母さんと正和は愛し合っていると感じていたのに、どうしてこうなったのかという答えさえも聞けないほど、お母さんの頑なな固い表情や態度は私の心さえも弾き飛ばしてしまっていた。やり場のない疑問と寂しさと持て余す怒りに悶絶した日々を懐かしく思い出す。


「お前が大人っぽいのは、そんな風に考えてるせいなんだな」


 陵平は神妙な顔付を向けて、口がへの字になっていた。

 鼻腔が広がって視えるのは気のせいなんかじゃない。こいつはもらい泣きを耐えているのだろう。その努力がいじらしくて、私はまた笑ってしまった。


 今度は何も言わずに、私に笑われているのを甘んじて受け入れている様子だ。溢れ出しそうな涙も上手い具合に引いていくまで、私達は立ち尽くし見つめ合い、クスクスと笑って泣いた。


 陵平は良い奴だ。

 思った以上に、良い意味で裏切られた。


 こいつをピエロになんかしたくはない。

 ちゃんと心と心で通じ合いたい。


 いつしか、私は柄にもなくそんなことを思っていた。



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