助けを求める声 1
私にしか聞こえない声があるから、私はその声を拾いに行くだけ。
*
泣いていた。
私は混沌という恐怖に怯えて泣いていた。
見下ろしたつま先より先はなにもない穴がぽっかりと口を開けている。ガクガクと震え、いまにも転びそうになるけれど掴まるものなどなにもない。そこで倒れたら、奈落に落ちるしかない。一寸先どころか、すでに闇の中にいる。
「美貴」
突然、背後から声をかけられ飛び上がるほど驚いた。
「どうか、そのまま。振り向かないで」
声は静かに、優しく、語り掛けてくる。
「あなたは今闇に飲まれてしまった……。もう少し早く、異変に気付いてあげられていたら、こんなことにはならなかったかもしれない。先に謝らせて…。ごめんなさい…」
その声は、強い悲しみを帯びていて、どこか懐かしさを匂わせる。
「あなたをそこから救うために助けを呼んで来ます。だからどうか、これ以上深い闇に引きずり込まれないようにしっかり気持ちを奮い起こして待っていて…! 必ず、助けに来ます」
私は震えながら頷いた。
「お守りをあげます」
声はそう言うと、風に流されるラジオのように遠ざかって行った。最後には、消え入るような微かな声で「どんなことがあっても、私は貴女を愛してる」と―――。
目を閉じると、目の前が眩しいほどに輝いている。漆黒の闇の中で、唯一光が存在する場所が私の中にある。このお守りをぎゅっと抱き締めると、足の震えが止まった。
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膝上まで伸び放題の雑草を踏みしめるように歩いていくと、いつだったか佐伯美貴が話していた秘密のアジトらしき古びたアパートが突然現れた。廃墟と化したアパートを繁々と眺め仰ぐ。なにかとてつもなく悪い気が溜まっている気がしてならない。余程の理由でもない限り近付きたくないと思うような、そんな場所だ。全身鳥肌が立ち、耳の奥にはズンとした重苦しい振動をキャッチしている。ずっと聞いていると、いつか狂いそうな不安定な重低音。そんな感覚。
昨日、ニュースで知った不可解な事件を知って、居てもたってもいられなくなった私は、小学校六年の頃の親友だった佐伯美貴のために汽車に乗って七十キロ旅をしてきた。懐かしい田舎の駅に降り立つと、その足でこの高台に取り残されている廃墟まで徒歩でやって来たのだ。
携帯電話を見ると、午後二時になっている。ここまで夢中で突き進んで来たのには理由がある。
事件が起きる日の早朝のことだ。私は突然誰かに起こされた。目覚まし時計を見ると午前二時。ふと視線を感じて部屋中を見渡すと、一番暗い場所の片隅に何か居るのに気付いた。
目を凝らすと、いるはずのない女の人がいる。
「だれ?」
「た……す……け………て………」
消え入りそうな声。でも、悲壮感が濃くて只ならぬ事態が起きていると思った私は、ベッドを下りて彼女の傍まで歩み寄った。その人は身長一五五センチほどの痩せ型で、年齢は三十歳ぐらいに見える。見知らぬ女性だった。
「貴女はだれ?」
私は迷いなく彼女の手を掴んだ。ひんやりと冷たい。顔がはっきりと見える距離から良く見ると、どこか懐かしさを感じる顔。頬を濡らして助けを求める彼女の瞳に意識を吸い込まれ、私の脳裏に映像が流れ込んできた。
寂れた廃墟の屋上に一人の少女が立っている。爪先はもうその先の虚空に突き出ていて、今にも落ちてしまいそうな危険な状態だ。少女の背後には黒い煙の塊のような何者かが立っていて、耳のそばで何かを囁いてる。 ヒソヒソと聞こえてくる甘ったるい女の声は、優し気なのにとても残酷な二文字を繰り返した。
『死ね、死ね、死ね、死ね、死ね……………』
「やめろ!!」
思わず、叫んでいた。
黒い煙人間は黙り、周囲を見回すような仕草をする。その隙に、落ちそうな位置で震えていた少女が金縛りから解放されて、屋上の床に滑り落ちるようにしゃがんで、手摺りにしがみついた。間一髪だ。
お楽しみを邪魔されてお怒りの黒い煙人間が、私の周囲を漂うように周り出す。黒いフードを被ったゴーストに姿を変えたそいつの顔に、どぎつい黄色の目が浮かび上がった。焦点の合わない目玉が私を探して、忙しなくギョロギョロと動いている。時空を超えて、こちらに入って来ようとしていた。抑え込むために両手を翳して抵抗すると、ピシッ、パシッとラップ音がにぎやかに鳴り始める。目玉が徐々に私に焦点を合わせてきて、とうとう目が合った。その途端、今度はこちらが金縛りにかけられた。
痺れるような強い束縛に筋肉と関節が押さえつけられ、締め上げられるような苦しさが呼吸を頼りないものに変えられる。歯を食いしばって恐怖に絡め取られまいと意識を強く保とうとした。が、すぐ目の前にやってきた黄色い目のゴーストが、私を見つけて満足そうに笑った。
―――見つかった!!
ゾクゾクと背筋を這い上がる冷気に震え上がりながら、切り札の名を心の中で叫んだ。
―――ビョンデットォォォォ!!
ヒュッと空気を切り裂く鋭い音が聞こえたと思ったら、ゴーストがぱっと散った。と同時に、身体の自由が帰ってきた。煙は砕け散り空気に溶けるようにして消えてしまったが、硫黄の独特の匂いが残された。
―――危なかった……。
ゼェゼェと肩で息をしている私のすぐ背後に居た女性が突然叫んだ。
「あの子を助けて!!」
振り向いた瞬間もう消えていた。




