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ダークサイド 真実は闇の中  作者: 森 彗子
第1章
1/41

闇の中へ

 この作品は私にとって二作品目の長編小説です。自分にとって書きたいテーマのひとつと真摯に向き合って書き上げました。

 人の心の闇に漬け込む悪魔の存在と戦う女の子。ファーストエピソードなので、彼女はまだ半覚醒です。


現在、シリーズとしてこの「ダークサイド」と「ダークサイド2」(改稿作業中)があります。今後、「3」も書きたいと思っています。



挿絵(By みてみん)



 泣いていた。


 将来の夢を想うとき、これ以上ないほどの不安に襲われてしまう、己の弱さに泣いていた。


 情けなくて、恥ずかしくて、誰にも相談できずにいる。とりつくろった優等生の仮面の下では気が休まることなんてない。今はまだ誰も私が臆病者だなんて気付いていない。でも、隠し続けてきた恐怖と劣等感が、もういつでも体のあちこちから溢れ出してもおかしくないところまで来ている。


 つま先の一寸先は、闇しか見えない。怖くて、一歩も踏み出せない。


 これが絶望というものなのだろうか―――。


 生ぬるい夜風が、私をそっと抱きしめるように包み込む。


 舞い上がる自分の黒髪に肌を撫でられるたびに、ぶるぶると震えた。


 対照的に、錆びたフェンスを掴む手が氷のように冷たくなって、痺れている。寒くて、心細くて、でも誰にもこんな私を見られるわけにはいかない。私は、絶対に弱音を吐いてはいけないから―――。


 夜景が涙でにじむと、せきを切ったようにあふれ出す感情。喜びも悲しみも、孤独による寂しさも混ざっていて、一度に全部を吐き出すことが快感にもなっている。だってここは、誰も来ない私だけの秘密の場所だから。


 家には帰りたくない。一応自分の部屋はあるけど、まだ幼い妹のおかげでいつでも気が休まることができない。それに、几帳面で口うるさい継母がいる。


 お父さんは妻と子供三人を養うために、単身赴任先で別居中。継母を信頼しきっていて、私には彼女の言うことを聞くようにと念を押すしか能がない。だから、話にならない。


 街を見下ろす高台に並んだ四角い団地の中に、一棟だけ離れた場所に建つ居住者がひとりも居ない棟がある。ここは無人の廃墟とは思えないほど、まだ荒れてもなければ寂れてもいなくて、むしろ不思議なほど快適だった。


 良く知らないけれど、管理人がしっかりと清掃してくれているのだろう。いつ来ても整然として清潔感もあって、自分の家より何倍も落ち着くのだ。


 五階建ては、学校よりもかなり高い。高い丘の上に建っているから、体感はもっと高い場所にいる。爪先だけ空に突き出せば、ぞわぞわと太ももの内側から背筋にかけて冷たい電流が走る。生きていることを実感できる。


 古い鉄筋コンクリート造りの市営住宅の屋上、その一角が私のお気に入り。この無人の世界が、本来の自分を呼び覚まし受け入れてくれる。不思議で、素敵な場所。誰にも知られたくない、私だけの神聖な場所。


 入り口に立て付けてある「立ち入り禁止」の看板の文字が、長い年月のおかげで大分色褪せてはいるけれど、ならず者が落書きをしたり悪いことに使ったりした形跡もない。すべてが、あの頃のまま……。


 ここは、私が生まれ育った我が家だ。死んだお母さんとの記憶が数多く刻まれた、ホーム。ここでなら、誰に気兼ねすることなく泣きたいように泣けるし、笑いたいだけ笑っても平気。気狂いだと思われる心配もない。


 いつからだろう。


 時々、大声を張り上げて欲望のままに叫びたくなったのは。


 幼い子供に帰ったみたいに感情が迸るまま泣きたくなると、私は必ずここへと足を向けた。見えない存在となったお母さんが、草間の影から私を見守ってくれているような気がするし、お母さんの微かに私の名前を呼ぶ声が聞こえてくるようで、嬉しくて。姿は見えなくても、お母さんを感じる。ここにいれば、お母さんと一緒にいられる、気がする。


 最近ではどうしようもなく涙が込み上げることが増えてきて、自分でもかなり困っている。涙を拭いても拭いても、溢れ出す寂しさに溺れてしまう。こんな泣きはらした顔で誰かに会うのは気まずいし、血縁のない母親が待つ家に帰る気には到底なれなくて、この場所に留まる時間がどんどん増えていった。


 この日も、私は居たたまれない気分に酔い、鬱憤を吐き出すために学校帰りに真っすぐここへとやって来た。


 涙の理由はいつも漠然としている。とにかくなにをどう考えどこから手を付ければ良いのか、よくわからない。頭がぼんやりとして考えることができない。


 中学三年になり、進学のことを親や教師に問われる事が増えてから、猛烈な焦りが湧き上がり出した。今のところ、具体的な目標が全く見えていない。簡単に自分の将来を設定しているクラスメートを見ると、不安をあおられる。進学のために通い始めた塾も、気怠い感じの講師が抑揚のない乾いた喋り方ばかりするせいで苛々するだけだし、行く先が真っ暗過ぎると意欲も沸かないものだということを初めて知った。


 幼い頃は、看護士になろうとか花屋さんになろうとか、深く考えずに思いつきで夢を語っていたものだ。でも、最近はそんなに気軽に自分の将来を決めて良いとは思えなくなっていて、改めて世の中にある様々な職業を見てみると、唐突にやる気が失せてしまう。


 看護士はありえない。私は見知らぬ人に親切に出来ない。花屋だって、早朝起きて市場に仕入れにいくと知ってから、朝が猛烈に弱い自分には無理だと思った。妹達の世話は楽しいときとそうではないときがあった。だから、保育士も絶対に難しいと思う。


 小さい子供の思いつきの行動は、コントロール不能で手に負えない。こちらが一方的に我慢しなければ成り立たない仕事は無理だ。


 あれもダメ、これもダメ。完全なる八方塞のように感じていた。


 継母は元看護士で、専業主婦になった今は家事と育児をパワフルにこなしている。彼女のようになれるものなら、と時々考えるが、残念ながら私は彼女の血を引いていない。


「美貴ちゃんもできるようになるわよ。今はまだ無理だと思ってても、人は成長するものだから」


 継母の詩織さんは、からっとした物言いをしてくる。


 お父さんが不在中の間、彼女が家の大黒柱だ。頼りになる女性だと思う。でも私は、毎年誕生日を迎える度にお父さんと詩織さんに対する反抗心を強めてきた。


 私がまだ三歳の時、母が癌で入院している病院で彼女は看護してくれる人だった。


 その年の夏の終わりに、母は死んだ。


 母の葬式に彼女がやって来たことを私は鮮明に覚えている。白い看護服とは違い、真っ黒の喪服を身に纏った彼女はお父さんに正反対の印象を与えた。白い肌がまるで陶器のように艶やかに輝いて、薄く差した口紅がなまめかしくて魅力的に見えた。三歳の私がそんな風に感じるのはおかしなことだと最近になって気付く。あれは多分、お父さんの感想を感じ取ったのかもしれない、と考えている。


 長年苦しんだ果てに安らかさの中で旅立ったお母さんの遺影は、まるで全てを悟っているかのように微笑んでいた。揺らめくろうそくの炎が、細長く立ち上るのを見詰めながら、私は微かにお母さんの声を聞いた気がして喜んだ。


 あの時の私の笑顔が、お父さんの背中を押したのかもしれない。お父さんは翌年の夏に詩織さんと再婚したのだ。突然、新しいお母さんが出来たと言われた時、私は……。


 ダメだ、はっきりと思い出せない。




 すっかり暗くなった頃、私は荷物を引き摺るようにして家路を急いだ。約束の時間に遅れると、詩織さんはすぐにお父さんに告げ口する。


 心配してくれるのはわかる。でも、だからって私のことを全部自分の思い通りに操ろうとする態度が見え見えな時がある。


「心配しているのよ」


 そう言えば、こちらが折れるとでも本気で思っているのだろうか。


 私にだって、事情があるのだ。


 大人の事情を黙って汲取ってあげた恩を仇で返すような態度をするなら、私はいよいよこの継母と決別する日も近いと実感せざる得ない。


 私は唇を舐めた。カサカサに荒れた唇の薄皮を前歯で噛みちぎると、血の味がした。


 お父さんが詩織さんとの新しい生活をスタートさせようと買った新築一軒家の前に着いた。美味しそうな料理の匂いがそこら中から漂ってくる。


 詩織さんが大好きな薔薇の庭を通り抜けて、玄関のドアを開けた。白い大理石の玄関にきちんと並んだパンプスと、小さな子供達の靴が二足、まず目に飛び込んでくる。私は備え付けられた玄関横のクローゼットの扉を開けて、上着を脱いでそこに収めた。


 洗面所で手を洗っていると、すぐ下の妹がやって来た。


「おかえりなさい。お姉ちゃん」


 優等生の代表のように、きちんとした挨拶をする妹の茉奈を私は抱き上げた。


「ただいま。良い子にしてた?」


 五歳の茉奈を抱いて、私は居間に入った。すると、もうすでに出来上がった夕食がテーブルにきちんと並べられている。一番末の妹の杏奈がニコニコ笑っていた。


「おかえり」


 台所からカフェの店員のようにエプロンを着こなした詩織さんが現れた。


「丁度よかった。もう出来てるから、食べよう」


 私は茉奈を席に座らせて、着替えのために一度自分の部屋がある二階に上がった。


 部屋は片付いていた。今朝、脱ぎ散らかしたまま出掛けたのに、まるでホテルのようにきちんと整理整頓されている。そんなことはいつものことだというのに、私は苛立ちを覚えた。


 クローゼットを開けると、そこもまた整然としている。私は引き出しから私服を出し、ベッドの上に放り投げた。制服を脱いでハンガーに吊るしてベッドの上に腰かけたとき、シーツやベッドカバーも交換されていることに気付いた。枕の下に隠しておいた日記帳を思い出して、私は手を枕の下に突っ込んだけれど、そこには何もなかった。


 私は下着姿のまま本棚や机を見回ってみたが、日記帳が、ない。


 ざわざわと嫌な感覚が肌を逆撫でた。


 乱雑に部屋着を着て、階段をドタバタと降りた。


 居間のドアを開けると、着席して食事を始めている幼い妹たちが驚いた顔をしてこちらを見ていた。


 純粋無垢な四つの眼差しを受けて、私の沸騰した頭は一気にクールダウンした。


「掃除してくれるのはありがたいけど、あれはどこ?」


 詩織さんは杏奈の口にスプーンを運びながら、こちらを一瞥した。


「あれって?」


「日記帳」


「あ、ごめん。あれね、シーツに包んだまま洗濯機に入れて回しちゃったみたいで、幸いそれほどボロボロにはならなかったんだけど、干してあるわよ」


「濡らしたの?」


「だから、ごめんね。うっかりしちゃって」


 私は庭の窓を開けて、裸足のまま外に飛び出した。


 タオルハンガーの上に日記帳が置かれている。乾いてはいるようだけど、一枚一枚の紙がしわしわに萎れていた。ボールペンで書かれた文字が滲んだり消えたりしている。そして、そこに書いてあった内容を見て、ゾッとした。


 ダイニングテーブルに戻り、日記帳を詩織さんの前に乱暴に置いて、思わず声を荒げた。


「読んだでしょ?」


 詩織さんの背中はギクッと反応したように見えた。


「ごめんね…。そんなつもりなんて、微塵もなかったんだけど…」


「…私、謝らないから」


 詩織さんは目も合わさずに、箸を置いて日記帳を手に取ると表紙を閉じて私に差し出した。


「うん、いいのよ。そんなの、いちいち気にないから。思春期の子なら、そのぐらいことは思うし書くし、感じてることだもんね」


 私は日記帳を受け取って、ぎこちない彼女の笑顔に免じてクールダウンを試みる。


 自分の席に座り、気まずい空気の中で食事を始めた。


 最近書いた日記の中には、詩織さんの悪口を書き殴ったページが何枚もあった。その中で一番読まれて欲しくなかった文字が、私の頭の中で大きく踊っている。


 【母親じゃないくせに】


 あれをどんな気持ちで読んだのかと考えると、胸をえぐられるような痛みを感じた。でも、一方で謝るつもりは一ミリも感じていない。どんな理由があったとしても、他人が日記を読む権利など存在しない。


 私の心の中に土足で踏み込んできた罰だ。そこに書かれている内容で傷付くのは、読んだ人間の心の問題だ。


 私は、ただ素直な気持ちを日記帳に書き綴ってきた。誰をどんな風に思い、どんなことを考えたか、あますところなく正直に書いている。その気持ちに、偽りやごまかしなんてない。


 一瞬でも詩織さんのことを「母親じゃないくせに」と思ったことは真実だ。その真実をひょんなことで知った詩織さんが、どう感じ、どう思っているかなんて、私には関係ない。


 美味しいはずの料理が、口の中で噛み砕かれて喉を滑り落ちていく。


 流し込むように食事を終えると、さっさと部屋に戻った。よれよれになった日記帳を一枚ずつむしり取ってやぶり捨てようと思ったけれど、すぐに思いとどまった。


 鞄に入れて、図書館で借りた本を持って風呂に向かった。


 半身浴をしながら読書するのは好きだ。でも、今日はその一人の時間を侵略者が攻め込んできた。茉奈が突然風呂場のドアを開けて、ニコニコ笑いながら入ってきた。


「お姉ちゃんと入る」


 私は「いいよ。おいで」と答えた。


 少女の顔や髪を洗い、全身を洗ってあげると茉奈も見よう見真似で私の背中や腕をスポンジで洗ってくれた。純粋さしか感じられない妹の存在は荒もうとする私の嵐を抑え込むようだ。長い髪を結い上げてあげると、茉奈は嬉しそうに私に抱き着いてきた。


「今日はお姉ちゃんのお部屋で一緒に寝る~、良いでしょ?」


「良いけど、ママとじゃないと眠れないんじゃなかったの?」


「ママは私のお話聞いてくれないんだもん」


「え?」


「時々怖い顔になって、全然話しかけても返事してくれなかったりするもん」


「そうなんだ」


「パパ早く帰って来てくれないかな」


「そうだね」


「茉奈はすっごくパパに会いたい」


「お姉ちゃんも、パパに会いたいな」


「じゃあ、明日パパにお手紙書くね。お姉ちゃんも会いたいって言ってるって書いとくね」


「うん。ありがとう、茉奈。よろしくね」


 時間が経っても詩織さんが茉奈のパジャマを持ってきてくれないので、私はバスタオルで茉奈を包み、抱き上げて居間に向かった。


 居間のドアを開けようとすると、中から詩織さんの悲痛な声がなにかを叫んでいた。私はハッとしてドアを開けた。すると、信じられない光景がそこにはあった。


 詩織さんが半狂乱になって杏奈の首を絞めていた。杏奈は顔を真っ赤にして虚空を見ている……。


 私は茉奈を降ろして、詩織さんに掴み掛った。奪い取るように杏奈を抱き締めて、背中をよしよしと叩く。杏奈はゴホゴホと苦しそうに咳をしてから火が付いたように泣き出した。


 放心状態の詩織さんが不思議そうな表情をしてこちらを見ていた。その目がまるで死んだ魚みたいで不気味だった。まん丸く見開いた両目の瞳孔が真っ黒くパッカリと開いている。


 私はゾッとして腰が砕けそうになった。怯えているタオル姿の茉奈が私の腰に縋り付いて泣き出した。


「なに? どうしちゃったの?」


「あっちへ行ってなさい」


 詩織さんは乾いた言葉を吐くと、そのまま庭へふらつきながら出た。そして、バーベキューコンロの横に置いてあるコンテナを開けて、中から大きなライターを持ち出した。反対の手にはオイルがしみ込んだ着火用の固形燃料が見える。


 信じられないことに、詩織さんは火をつけると、窓の隙間から部屋の中に燃え盛る固形燃料を放り込んだ。


 カーペットが燃え始めるのを見て、私は慌てて妹たちを抱えて後ろに下がった。


「なにしてるの? どうしてこんなこと!」


 そう言っている間にも火が勢いを増して有機物を飲み込んで行く。


 私は茉奈と杏奈を抱き上げて、玄関から外へ飛び出した。


 振り返ると大きな窓の内側はすでに火柱が見えている。


 その大きな炎のすぐ傍でユラユラを身をよじりながら、詩織さんのシルエットが揺らめいた。


「詩織さん!」


「ママぁぁぁ」


 私たちが泣き叫んでも、詩織さんはそこを離れようともしない。こちらを振り返ろうともしない。


 次第に火が天井まで届き、家具を飲み干そうとしていた。黒い煙が空いた窓からモクモクと流れ出ている。


 熱を感じていた。


「危ないから、もっと下がって!」と、隣のおばさんが声をかけてきた。


 私は咄嗟に小さな妹をおばさんに押し付けると、自分でも信じられないことに熱い空気の中へと身を躍らせた。


 大窓の隙間から家の中に入ろうとしている詩織さんを掴まえ、背中方向へ二人重なって倒れた。


「正気じゃない! こんなの、詩織さんじゃない!」


 叫びながら、必死で詩織さんを引き摺って炎から離れようともがいた。でも、そんな努力も虚しく詩織さんは手を振りほどいては火の方へと突き進もうとする。


 私は詩織さんの腰に蹴りを入れた。ばったりと倒れた詩織さんの両足を掴まえて、引き摺って玄関へ行こうとすると近所の人が数人駆け寄ってきて手を貸してくれた。


 遠くからサイレンが聞こえる。大勢の人達が家の周囲に押し寄せてくる。


 わんわんと泣く妹たちの声が聞こえる。私は死んだ魚の目をした詩織さんを抱き締めて叫んでいた。


「お願いだから! 正気に戻って!!」


 声が枯れるまで叫び続けた。


 焦げ臭い匂いとオレンジ色のまばゆい光と熱風と。白い陶器のような肌の壊れた女を抱いている。


 生きた人間とは思えないほど、詩織さんの体はやけに冷たい。冷たくて重くて、触れている手が痺れてくる。


 叫ぶ声が掠れても、私は叫び続けた。


「詩織さん! あの子達を見捨てないで!!」


 それからの事は、あまり良く覚えていない。


 引き剥がされるようにして、救急の人達によって運ばれていく詩織さんを見送った後、大勢の人達の声が言葉になり切れずに素通りしていくような感覚に酔っていた。


 全身が震えていた。


     *


「災難でしたね」


 初めて聞く大人の男の声に、我に返った。


 個室の病室に私は軟禁されている。あれから一体どうしてこんなことになったのか、記憶がない。


 私は両手に火傷を負って、自分で食事をすることもトイレに行くことも困難になっていた。ゆったりと大きな車椅子に座って、久しぶりに外の空気を吸おうと誘われるまま部屋を出た。


「ゆっくり休めましたか?」


 静かに頷いた。


「それは良かった。君が早く元通りの元気なお嬢さんに戻らないと、施設で頑張っている妹さん達が可哀想ですから」


「……妹」


 突然、ガツンと脳天に衝撃を覚えた。真っ赤な顔をして泣く杏奈の姿が脳裏によみがえる。


 怯えて声も出ない茉奈の強く握りしめてきた腕の感触を太ももに感じた。


「あの子たちは今、どうしてるんですか?」


 男は私の様子を観察しているようだ。じっと顔を見詰めている。


「ちゃんとした施設で暮らしています。食事も温かい寝床もあって、快適な場所なので安心してください」


「あれから、どれぐらい経ってるんですか?」


 男はその質問に反応した。そして、口を一文字に結ぶと私の目線になるようにしゃがみ込んだ。


「あれから三日が経っています」


「お父さんは? なぜ、お父さんがまだ来てないの?」


「君のお父さんは、佐伯正志さんは…」


 男は歯切れ悪く口ごもってしまうと、そもまま沈黙した。


「…お父さんに何かあったんですか?」


 私は息の飲むようにやっと声を出した。


「君の…お父さんは。あの火事の室内で発見されました」


 理解できない。脳が拒絶している。突然、目の前が赤黒い世界に染まった。その暗い帳の向こうで、背を向けて立つ父が居る。


 私は多分、最悪の夢の中にいるだけだ。


 絶望というものがある。こんなにも、真っ暗だなんて知らなかった。


 あまりにも酷い現実が押し寄せ、災難だなんて言葉に納めきれない不幸を震えながら実感する。


 お父さんは背中を向けたまま、去って行く。小さくなって消えて行く。


 それを、呼び止めることさえ出来ない。声が、出なくなっていた。



「美貴さん!」



 男の人の声が鼓膜にやっと届いたけれど、私は闇に同化していく自分の姿を感じていた。





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