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「 ―――――――― !! 」
うぅ……、恐いよう。不気味だよう。
もうずっとこの呻き声を聞き続けている。
「手を止めないで下さいな。ワタクシだって好きでこんなことをやっているんではありませんのよ」
「うぅ……、だって」
巨大なリリスの背に立って濡れタオルを絞っては巨大な肌を拭いていく。
魔獣を生み出す怪物リリスとの初対面もそこそこに「丁度いい機会ですわ」と掃除用具一式を持ってきたベガさんと共にその怪物の体の掃除をさせられている。
「これ、本当に動き出したりしないんですよね?」
「しつこいですわね。100年動いてないものが今になって急に動き出したりするものですか」
地下の怪物は死体として扱われているものの定期的な掃除はやはり必要なようで、もっぱら新しいリリスの娘の仕事としてあてがわれるのだそうだ。それはもちろん気味が悪くて誰もやりたがらないからだろうけど、手伝ってくれるベガさんとボクにはこの呻き声がハッキリ聞こえるしもしかしたら生きているかもしれない怪物は気味が悪いを通り越してもはや恐怖でしかない。
「どうしてこんなことを……」
「それはポラリスがこの仕事をやらないからですわね」
「ポラリスの仕事なんですか!?」
「そうですわ。ポラリスはあなたの少し前にここへ来たのですから、あの娘もまだまだ新顔ですわ」
あの白熊が働かないせいで先にボクへ仕事が回ってきたわけか。今頃はメサルティムに見つかってハダル先生に言いつけられキツいお仕置きを受けていることだろう。
「ベガさんはいつからここにいるんです?」
「ワタクシはここへ来てもう二年半になりますわね」
そ、そんなに……、
ボクもポラリスもこのままでは何年ここで暮らすことになるかわからないな。
「こんなに時間がかかるなんて……、上手くいかないものですわ。早く良いお方に買って貰いたいところですが、まあワタクシの価値を考えれば無理もありませんわね」
「………………」
リリスの娘はみんな、あの魔法使いに異世界から召喚された男性らしい。
それを女の子の姿にして、貴族の男たちの相手をさせ身柄を売買すらするのだから、ここのみんなはどんな思いで生活しているのかと思っていたのだが……、
「ベガさんはここで物みたいに売り買いされるの、イヤじゃないんですか?」
「……? どうしてイヤだと思うんですの?」
ポラリスがそうだったように、ボクとベガさんも価値基準が違うらしい。
「自分の価値を認められるということは良いことでしょう? ここではそれが評価ですわ」
「ええ……」
「まあ最初はみなさんそういう顔をしますわね。急に新しい環境に放り込まれて戸惑う気持ちもわかりますけど、ここも存外悪い所ではありませんわよ?」
「ボクの価値観では最悪なのですが……」
「ワタクシの価値観では最高ですわ。何よりここには『自由』があるのですから!」
「は……」
はぁ……?
「はぁぁぁ!!???」
あまりにもあまりな言葉に素っ頓狂な叫び声を上げてしまった。
地下の部屋の壁に何重にも響いて耳鳴りを残しやがて掻き消えても耳に残るベガさんの言葉だけは消えない。
「いきなり大きな声を出さないで下さいまし……」
「ごめんなさい。いえそうじゃなくて! ここが自由ってどう言うことなんですか!?」
首輪を付けられて城の敷地内に閉じ込められているこの状況のどこらへんに自由などと言うフリーダムが存在するんだ??
こんなの、完全に奴隷じゃないか。
「自由ではありませんこと?」
「この首輪! 人に首輪付けるなんてありえないでしょ!」
「そう言われましても、服や靴と同じですわ。外せませんから少々邪魔かもしれませんが」
「首輪が作動すれば死ぬかもしれないのに!?」
「管理者が罰を与えるのは当然の権限でしょう? 決まりさえ守れば妄りに使用されませんわ。それに死ぬまで首輪を作動させることなんてないんですのよ? その前に命令を撤回するのが常ですわ」
「ボクらは、この城から外に出られないんですよね……?」
「権限さえあればその限りではありませんわ。この場合は星堕ちの日に買われることがその条件になりますわね」
「…………」
なん、だこの人……??
さっきから話が全く噛み合わない。目の前の緋色の鳥の美女が何を考えているのか全然わからない。理解出来ない。
「……その様子ですと、ワタクシとあなたでは故郷の理に大きく違いがありそうですわね」
ボクはこの異世界に来る前は平和な日本で暮らしていた。
ここにいるリリスの娘はみんなあの魔法使いに召喚された異世界の人。故郷があるのだ。ポラリスだって可能なら帰りたいと思ってるはずだ。
「ポラリスに故郷の話は聞きましたけど、よくわかりませんでした」
「あの娘の故郷はとんでもなく原始的な時代だった様子ですわね。あの娘自身の認識も幼稚ですけど」
「ベガさんの世界は、どういうところだったんですか?」
「ワタクシの故郷は、……というか、ワタクシも自分の故郷のことをよく知らないのですわ」
「ポラリスみたいに?」
「知能と認識力に問題があったわけではありませんわ」
ベガさんは一度、ぐるりと回って見せた。
部屋の広さを確認したみたいだ。巨大なリリスが収まるこの部屋は中々大きい。
「大体この部屋の半分くらいの面積の部屋から、ワタクシは出たことがありませんでした」
「え?」
「それがワタクシの知るワタクシの故郷の全てですわ。ワタクシの年齢ではまだ社会を知る権限を獲得出来なかったんですの」
「????」
社会、を知る、権限??
「ええ、ここにいる多くの娘たちと違ってワタクシは『飢え』というものを知りません。豊かな世だったのは間違いないでしょうね。写真で両親を見たことはありますが育成は機械が行うものでした。様々な学習を受けましたが基礎的なことですらこちらの世界では高水準の様ですわね。他人とのコミュニケーションの権限が与えられてからも、通話も代替交信も使わず創作物の鑑賞に没頭していましたわ。閲覧出来る情報には限りがありましたけど、その頃のワタクシは特に恋愛物語に強い関心がありましたの。外出の権限と対話接触の権限が与えられる日を待ち遠しく思ったものですわ」
「ちょっと待って下さい」
なんだその権限が全ての世界は。
外出の権限だと? それが無ければ部屋から出ることも叶わないのか。
まるで、
まるっきりディストピアじゃないか!!
「まあ今から考えれば、不自由で退屈なところでしたわね」
「最悪な世界ですよそれ!」
最悪過ぎてびっくりした。
そんな世界に比べたらこんな城でも少しはマシかもしれない。この部屋の半分くらいだから……、30坪くらいの面積? それが世界の全てだとすればボクには牢獄としか思えない。
「この城にも飢えはありませんわ。ほとんどの娘はそこを気に入りますわね」
「…………」(絶句)
他の娘たちはいったいどんな環境で育ってきたんだ。
ポラリスも、話では原始的な生活だったなら、食べるものに困る世界から来たということか。
「その様子ですとあなたの故郷も豊かな世だったのですわね? こうして話もしやすいですし。ここではまともに会話を続けることも難しい娘が多いんですのよ」
「たしかにボクも飢えたことはないです」
「やっぱり。あなたとはもう少し仲良くなれそうですわね。今度ワタクシの部屋へ来ませんこと? あなたの話も聞かせてくださいな」
「ベガさんは元の世界に帰りたいなんて……」
「これからはベガでよろしくてよ。ええ、あんな不自由な世界へはもう帰りたくありませんわ」
……どうやらリリスの娘というのは本当に、様々な世界から召喚されているようだ。
あまりに世界観が違いすぎる。価値観も常識もまるで違う。
飢えるのが当たり前なんて世の中、ボクは知らない。でもそれがここの多数派の常識ならば、元の世界へ帰りたいなんて思う人は少ないかもしれない。