10話 さようなら
夜の教室。
約束していたわけじゃない。
でも、そこに雫はいた。
「よう」
「こんばんは」
出会いの時を再現するように、雫は月明かりに照らされて宙に浮いていた。
「この教室で和人くんと出会って、約一ヶ月……なんだか、あっという間の日々だったね」
「そうだな」
「楽しい時間ほど早く過ぎるっていうけど、あれ、本当のことだったんだね」
「雫は楽しかったのか?」
「もちろんだよ。和人くんは?」
「俺も楽しかった。雫と出会って、一緒の時間を過ごして、恋人になって……すごく楽しかった」
雫は気づいているだろうか?
俺が過去形で話していることに。
「ずっと……ずっとずっと、こんな楽しい時間が続けばいいね」
「……でも、それは無理だ」
俺は静かに雫の願いを否定した。
「俺は人間で、雫は幽霊で……先輩が言っていた通り、一緒にいることはできない」
「……」
「いや。一つだけ一緒にいる方法がある……俺も幽霊になってしまえばいい」
そうすれば雫と一緒にいることができる。
この先、ずっと……永遠に。
「……でも、それはできない」
「……」
「少し前まで、それもいいって思っていた。雫と一緒にいるためなら、人間をやめてもいいって思っていた。本気だった。だけど、それって、一人よがりの考えなんだよな……他の人のことをまるで考えていない、自分勝手なものだ。俺には妹がいる、大事な家族がいる。美月のことを考えたら……雫のことを追いかけることはできなくなった」
「……うん、それでいいんだよ」
恋人より家族を取る。
俺の出した残酷な答えに、雫は動じることなく、ただ優しく微笑んだ。
「私もね、似たようなことを考えていたんだ。和人くんと一緒にいられるなら、幽霊のままでも構わない。生き返ることができなくてもいい。そう思っていた。でもね……今日、見ちゃったんだ」
わずかに雫がうつむいた。
その肩は小さく震えていた。
「病院に行ったら、お母さんらしい人がいたんだ……ベッドに寝ている私に必死になって話しかけていて……最後は、また来るね、って言って微笑んで……そんなお母さんを見ていたら、生き返らなくてもいいなんて、思えなくなっちゃった……生き返りたい……それで、心配かけてごめんなさいって謝りたい……例え、それで……和人くんと、別れることに……なったと、しても……」
「……それでいいんだよ」
大事なものを……家族を偽性にしても、俺たちは幸せになれない。
心の底から笑うことなんてできない。
だから俺たちは、別れることになったとしても、未来のある道を選ばなくちゃいけない。
「和人くんっ……今まで、ありがとう……私の体を探してくれて……一緒にいてくれて……好きになってくれて……本当に、ありがとう……」
「こちらこそ……ありがとう」
雫が実体化して、そっと抱きついてきた。
愛しい人の温もりが、胸いっぱいに広がる。
このまま時間が止まればいいのに……
そんな未練がましいことを思ってしまうくらい、雫を愛しく思った。
「和人くん……これで、最後だから……思い出を、ください……」
「……ああ」
見つめ合い。
目を閉じて。
どちらからともなく顔を寄せて。
「……んっ……」
二人の距離はゼロになった。
――――――――――
甘えるように、雫が肩に寄りかかってきた。
そのまま頬をすりすりする。
「んー、和人くんの匂いだあ」
「猫みたいだな、お前」
「こうしていられるなら猫でいいもん、にゃあー」
「まったく……」
苦笑しながら、雫の頭をなでた。
まるで本当の猫のように、うれしそうに雫は目を細めた。
幸せって、こういうことをいうのかもしれない……柄にもなく、そんなことを感じた。
そして、同時に思う。
幸せは、長続きしないものなんだ……って。
「さてと」
雫の声のトーンが切り替わった。
俺から離れて、すっと立ち上がる。
「それじゃあ……そろそろお別れかな」
「もう、行くのか?」
「うん。これ以上和人くんと一緒にいたら、決意が鈍りそうだから」
「そうだな……俺も、これ以上雫と一緒にいたら、引き止めてしまいそうだ」
覚悟したはずなのに……決意したはずなのに……
それでも、心が揺れ動いてしまう。
「和人くん、今までありがとうございました」
雫はぺこりと頭を下げた。
そうやって頭を下げたまま、言葉を続ける。
「和人くんがいたから、私は自分の体を見つけることができた。和人くんがいたから、楽しい時間を過ごすことができた。和人くんがいたから、恋をする幸せを知ることができた。本当に……ありがとう、ございました……」
ゆっくり顔を上げた雫は、いっぱいの涙を浮かべていた。
それでも涙は流さないで、ぐっと我慢している。
ともすれば泣きだしてしまいそうになるのを堪えながら、俺も口を開いた。
「それは、俺のセリフだ。雫は、かけがえのない大切な時間をくれた……幸せをくれた。だから、俺も、こう言うんだ……ありがとう」
そっと手を差し出した。
柔らかい笑みをたずさえながら、握手を交わした。
そして……
「……ばいばい」
闇に溶けるように、雫の姿が消えた。
「……雫?」
声をかけるけど、返事はない。
それでも、問いかけずにはいられない。
「雫!」
答えは返ってこない。
雫の残滓なのか、わずかに光の粒が辺りに漂っていた。




