8話「敗走の空」
雲の中は寒く雨が降っていた。
時折雲の隙間から見えるのは、更に上空の月光のみだった。
振り落とされぬよう、鴉の背中に必死にしがみつく。
前にいるニケの背中は小さく、脇腹を手で押さえている。
指の間からは血が滴り落ち、渚をかすめて遥か後方に飛んでいく。
「主は、死んでも良いと思ったのか?」
ニケの声は小さく、だが、憤っている様子だった。
渚は胸の内を当てられ言い淀む。
「そうだな。死んでもいいと思った。そのせいでお前に怪我を負わせてしまった。申し訳ない」
「そうか」
ニケは鴉の背中に仁王立ちになると、ナイフの切っ先を渚の首筋に突き立てた。
「なら、わしがここで殺してやろう」
冷たい刃先が肌に伝わり、死を連想させられる。
「お前に殺されるのならば構わない。だが、この先どうする? 母親を救う事、俺との約束はどうなる?」
自分で言ってから、はたと気づく。
そうだ、俺が死んだらニケとの約束はどうなる?
あそこまで豪語して契約を結んだのに、それはどうなる。
阿呆だ。俺は阿呆だ、と渚は舌を噛む。
ニケは自らが伝えたかったことを渚が察した様子を汲み取り、ナイフを仕舞った。
黒い髪の毛は風に煽られ、滴る雨が月光で煌めき四方に飛んで行く。
沈痛な表情で呟く。
「わしは一人じゃった。大魔女の子というだけで、人間も、魔女も、わしから一線を引いていた。主くらいじゃ。正体を知っても普通に接してくれるのは。もう、一人にしないでくれ」
ぐらり、とニケの身体が揺れ、中空に放り投げられた。
「ニケ!」
渚は叫び手を伸ばす。虚しくその手は空を掴む。
躊躇せず、渚は鴉の背を蹴り、飛んだ。
強風が身体を打ち付ける。息をすることさえままならない。
少し先に見えるニケは、ボロ布のように風に弄ばれ、右へ左と落ちて行く。
ーー届け……届け……!
渚は必死で手を伸ばす。
ーー届いた!
ニケの細く頼りない腕を掴むと、自分の胸に手繰り寄せ抱きしめる。
出血し過ぎたのか、ニケは気を失っている様子だった。
雲を抜けると下方に森が見え、あっという間に木々の枝さえも視認できる距離に近づく。
身勝手なもので、今は死にたくないと思っていた。
だが、このスピードで地面に激突すれば、二人とも死は免れないだろう。
せめてニケだけでも助けたい。
その一心で、渚はニケを強く強く抱きしめた。