2話「相棒との出会いは唐突に」
ちょんちょん、と鼻頭を小突かれる感触がした。次いで聞き覚えのある声。
「なんじゃピクリともせんの。死んだか?いや、息はしておるな」
ニヒヒ、と悪い笑い声を立てる。
「また書いてやろう。次は何が良いかのう」
頬に感触。何かを書いている。
目を開けると目の前に見覚えのある少女の顔があった。
渚はむくりと上体を起こし目頭を揉む。
「悪夢、再来か……」
「悪夢とはなんじゃ。人が折角ここまで運んで来たのに。半日丸々呑気に寝入りおって」
「半日? あれは夢じゃなかったのか?」
「夢とはなんじゃ? 寝すぎて阿呆になったか」
くつくつと笑い声をあげる。
「まあ良い。主には聞きたいことがたくさんある。下の酒場で一杯やろう」
渚は釈然としないまま少女に手を引かれ部屋を後にする。
嫌な音を立てる階段を降りるとそこは酒場になっており、三組ほどの客が酒を飲みやんややんやと話に花を咲かせていた。
「マスター、ビールふたつ」
少女は空いているテーブルに腰掛けるとカウンターに立つ髭面の店主に告げた。
渚も次いで少女の向かいに座る。木製の椅子が軋みを上げた。酒場の中は淡いランプの光に照らされ程よい闇が部屋の隅に同居していた。窓の外を見やるとすっかり帳は落ち、夜空に欠けた月がちんまりと浮かんでいるのみだった。
「お待ち」
マスターが木製のジョッキを二つテーブルに置いていった。
とりあえずと少女がジョッキを掲げる。
「何に乾杯するんだ?」
渚もジョッキを掲げる。
「ん〜、そうじゃなあ。災難に、乾杯」
ニカッと笑い乾杯する。
少女は旨そうに喉を鳴らしビールを飲み干した。
二日酔いを悔やんだばかりなんだけどな、と渚は苦笑いを浮かべビールを呷る。
「マスター、おかわり。あとつまめるもの何個か」
少女が空のジョッキを掲げ声を上げる。お前はおっさんか、と心中で突っ込む。
おかわりのビールとつまみのハムやチーズが並ぶとそれをアテにしながら少女の質問が始まった。
「まず、名はなんという?」
「名前を聞くときはまず自分から名乗るのが筋じゃないか?」
「はあ、面倒な奴じゃのう。まあよい、わしの名はニケ。魔女じゃ」
魔女、という部分だけ渚に聞こえるほどの低い声音で告げ、不敵な笑みを浮かべた。口の端に見える尖った八重歯は猟犬の持つソレの様に鈍く光り、渚はゾッとした。
「なるほど」
と渚は平然を装う。相手が魔女だろうが殺人鬼だろうが恐れることはないのだ。これは夢なのだから。
「俺は渚。しがないサラリーマンだ」
「渚か。いい響きだ。して、さらりーまんとはんだ? 二つ名か?」
ニケは真面目くさった顔をし小首を傾げている。ふざけている風もない所を見るにサラリーマンを知らないらしい。魔女と名乗る者が飽きれる。
「なんじゃその顔は。わしにも知らないことくらいある」
「威張って言うことではないだろう」
ニケの不貞腐れた表情が可愛らしく渚は苦笑いした。
「サラリーマンっていうのはだな、会社の為に汗水垂らし小銭を集める仕事だ」
「小銭を集める……物乞いのことかや?」
「違う! 俺は会社に雇われている正社員だ。他の会社に出向かい商品を売り金を稼いでいるんだ」
「なるほど。れっきとした仕事を持っているんだな。正社員というのは位か?」
「まあそんなものだな。正社員であれば社会での信用度も高いし、親はとりあえず安心する」
「ほう。お主は案外立派な人間なんだな」
案外とはなんだ、心の中で悪癖をつく。
「昨日着ていた黒い服もサラリーマンとやらの正装なのか?」
「スーツのことか。そうだなあれがサラリーマンの正装だ。同時に社会という檻に閉じ込められた人間であることも指しているな」
「くふふ。主、面白いのう」
「酒が入れば大抵の人間は愉快になるだろう」
「そうじゃな。酒は自らの檻を外し一時の自由を与えてくれる良薬じゃ」
「俺も聞きたいことがあるんだが」
「なんじゃ?」
「お前がま……」
凄まじい眼光でねぶられ渚は低い声で続ける。
「魔女というのは本当なのか?」
「そうじゃ」
ニケはにべもなく頷く。
「そんなに幼いのに?」
「魔女に歳は関係ない。親が猿であればその子も猿である様に、魔女の子は必然的に魔女なんじゃ。望まなくてもな」
瞳に陰りを落とし最後の一言は誰に言うでもない、自分に言い聞かせているかの様だった。
「にしても!」
その陰鬱さを自ら振り払う様にニケが喜々とした声を上げる。
「幼いと言われるのは少し癪じゃが、若く見えるということだろう?」
「そ、そうだな」
渚は気圧されながら改めてニケを見やる。
髪の毛は黒く艶があり、光の加減で深緑色にも見える。肌は太陽の陽を知らないかの様に白くシミひとつない。左目の下にホクロがひとつありアクセントになっている。眼は瑠璃色掛かっており、世の全てを見透かしているかの様な自信と危うさを兼ね備えている印象を受けた。まだ歳半ばもいかない顔付きだが所々に女の色気が窺える。
「そんなにジロジロ見るものでない。身体が火照ってしまうじゃろ」
ニケがわざとらしく身体をくねらせる。
「なっ」と渚は口にしていたビールを吐き出すのを堪え飲み下した。
「幾つに見える?」
「17、8位かな」
平静を保ちつつ答える。
「そうか。そうか、そうか。マスター、一番高い酒をくれ!」
ニケが上機嫌で手を上げる。
「大丈夫なのかお前」
「金か? 大丈夫じゃ」
すぐにウィスキー瓶が運ばれて来た。マスターは流石に代金を払ってくれるのか心配そうな顔をしていた。それもそうだろう。本来ならば子供は寝ていなければいけない時間。そんな少女が一番高い酒をくれと言ってきたのだから。そもそも酒を飲んで良い年齢なのか、と今更ながらの疑問が浮上する。
「いくらかや?」
「30ウィーンです」
「うむ」
とニケ。
懐からガマグチ財布を取り出すと札束をマスターに握らせた。
マスターは驚きながらも受け取ると「ごゆっくり」と恭しく頭を下げ引っ込んでいった。
「凄いな。金持ちなんだな」
「良薬を買えるのならば金に糸目はつけないじゃろう」
各々ウィスキーロックを作り飲み下す。喉に熱が走り次いで鼻腔から森林を思わせる香りが突き抜ける。
「143歳じゃ」
「え。なにが」
「歳じゃ。わしの歳は143歳じゃ」
「酒飲みすぎたか? チェイサー頼もうか?」
「酔っとらんわ! 正確な年齢じゃ」
「はあ、凄いですねえ」
思わず敬語が飛び出す。
「魔女はな寿命が人の倍以上あるんじゃ。大体が200歳くらいまで生きる」
「はあ」ため息しか出てこない。
「それじゃあその容姿も仮の姿なのか?」
「いいや、これはわしの本当の姿じゃ。勿論呪文で老婆にも鴉にもなれるがな」
ホッと胸を撫で下ろす。なぜホッとしたのかは渚自身よくわからなかったが。
「安心したか?」ニケがくつくつ笑う。
「ああ」と頷きふと思う。夢というのは物語の良いところで夢から醒めたり、脈絡のない事の連続だったりする訳だが、どういう事かこの夢は一向に終わる気配がない。
「なあ」と渚は問う
「お前にこんな事を尋ねるのはどうかと思うが、これは夢だよな」
「なんじゃ藪から棒に」
「いや、一向に夢から醒める気配がしないから」
「それはわしと酒を飲むのが苦痛だから早く切り上げたいという事か?」
「違う。お前と酒を飲んで話すのは楽しい。だがどうにも引っかかるんだ。夢の様な気がしないんだ」
「それはそうじゃろう。これは夢ではない現実じゃからな」
「え」
「え」
しばし沈黙が流れ先に口を開いたのはニケだった。
「主、気づいてなかったのか。主は他の世界から紛れ込んだ迷い猫じゃ」
「どういうことだ。俺は普段と変わらず自分の部屋で眠りに就いただけだぞ。夢でもなく別の世界に飛んできただなんて、まるで今流行りの異世界へ行って来たっていう……」
自分でその言葉を口にして身震いする。俺が異世界に飛んできたとでもいうのか。
「昨日会った時に感じてはいたが、間違いなくお主は異世界からの訪問者じゃ。この世界の人間とはどこか違う。わしは出会ったことはないが、以前鴉達が騒いでおった。異世界からの訪問者が来た、と」
「それはいつ頃だ?」
「ここ半年以内の話じゃ」
異世界の話題が取りざたされる様になった時期と酷似している。
「その訪問者は自らの世界から持ち込んだなにか、と引き換えに国王から赤い血の指輪を手に入れそれ以降はこの世界に現れていない」
「赤い血の指輪って、梨沙が欲しがっていたものだ」
「ほう、主も指輪を探してこの世界に迷い込んだのか」
「探して、というわけではない。俺の婚約者がその指輪が無ければ結婚しないと言っていて困っていたんだ。国王がそれを持っているのか?」
「落ち着け」
ニケに制され渚は自分が興奮している事に気付き位直した。
「恐らく国王が指輪を持っている事は間違いない。しかし、わしは気乗りせん」
「何故だ?」
「その指輪は魔女の血を生成して作られたものだ。国王はどうやってその血を集めていると思う? 魔女狩りだ。今国を上げて魔女狩りが行われておるのじゃ。昨日わしを襲ったのも国王の手先の聖教師団じゃ」
「なぜ魔女狩りだなんてするんだ?」
「邪魔になったからじゃ。今まで魔女は国事を決める際に占いを行い国王に助言をしてきたんじゃが、今の国王に変わり方針が変わった。これからは科学と宗教の時代だと宣言した。科学と宗教は善で魔女は悪と位置付けた。だから古き時代と決別する為に魔女を一掃しようとしているのじゃ。それに敵がいた方が国は民意は団結する。それを今の国王は知っている」
ニケの瞳が琥珀色に変わりわなわなと肩を震わせていた。
「わしのな、わしの母上が幽閉されているんじゃ」
小さな、小さな声だった。
「母上は大魔女と呼ばれておって魔女達を束ねる存在じゃった。だが、国王に捕まってから他の魔女達は散りじりになり生きているのか死んでいるのかすらわからない。母上がいさえすれば、皆を集め国王に一矢報えるかもしれんのに」
「お前はその大魔女の娘なんだから皆をまとめる事は出来ないのか?」
「わしには無理じゃ。そんな大役は務まらん。他の魔女よりも扱える術は多いが人望がない。人を纏めるのに必要なものが欠如しているんじゃ」
自嘲気味に笑うニケは一層小さく小さく見えた。可哀想、そう思うと同時に渚の中に熱いものがこみ上げて来た。
「俺は部外者だ。しかも異世界の住人だ。そしてお前と話したのは両手の指にも足らない時間だ。だが言わせてもらう。お前は母親を助ける為に何か行動したのか? その足と頭を使い仲間に助けを求めたのか? 俺たちサラリーマンが最初に教わる事は『まずその足を使え。そして頭を使え。それでも駄目なら頭を下げろ。その三つを駆使しても駄目ならば諦めろ。お前はよく頑張ったと自らを讃えよ』だ。お前はそれをしたのか?」
ニケはギッと渚を睨みつけた。顔を紅潮させ目頭が赤くなっていた。
「お前に、私の何が……」
「悔しいという事だけはわかる。自分が無力で悔しいんだろう。だが行動しなければ始まらない」
「だって、どうすればいいのかわからない」
鼻をすするニケは容姿も相まって子供のようだった。子供が迷子になり途方に暮れているようだった。
「ここで提案させてもらおう。俺はしがないサラリーマンで社会経験も短いが、人と交渉する力は少なからずあると自負している。そして自分を売り込む術もだ。俺が魔女達を纏めるためのアドバイザーになってやる。だから、お前の母親を無事救い出すことが出来たならその見返りとして赤い血の指輪を俺に譲ってくれないか」
ニケは目を瞬かせ惚けた様な面をしていた。
「それは、私の味方になってくれるということか?」
「そうだ。相棒になるという事だ」
ニケは目を見開き、そして涙を流し笑った。
「ありがとう」と。