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第三幕<ヴェルディ作曲「ナブッコ」より「金色の翼に乗って」>後半  終曲<「私の名はミミ」>

病状の悪化と戦いながら、指揮者の夢をかなえようと奮闘する美晴。そして、彼の魂は空の高みへと飛ぶ。

大地さんの看護日誌から その3


1月11日(日)

 美晴退院。

 状態が改善したとは必ずしもいえないが、誕生日前になんとか家に帰りたい、ということで、こども病院の先生とおばあちゃんが決めた。

 病室を出る時には嬉しそうだったが、移動のタクシーで疲れたらしく、家についた時にはかなりぐったり。

 今後は病院に連れて行くことは考えたくない。体力を消耗するだけだ。

 おばあちゃんもそのつもりで、体制を整えよう、という話をする。

 おばあちゃんが小児科医でラッキー、とは言え、こども病院の先生との連携や何かあった時の薬や各種機器の準備など・・・

 次に何かあったら、とは考えたくないが、おばあちゃんはそれを考えなければならない。

 いつも豪快に笑ってばっかりいるおばあちゃんの背中に向かって、頭を下げる。

 

1月14日(水)

 美晴の6歳の誕生日。

 おじいちゃんとおばあちゃんから、一張羅のスーツのプレゼント。

 瑞穂とパパからは、ランドセル。

 ママは、自分のオペラアリアのCD。ママのはレコード会社からタダで分けてもらっただけで、元手がかかっていないからずるい、と瑞穂が図星を指して、詠子さんに頭をはたかれていた。

 午後に幼稚園の先生が来て、同級生のみんなの寄せ書きと、みんなが描いた美晴の似顔絵を持ってきてくれる。どの似顔絵も笑顔だ。

 美晴に見せてあげられないのが残念、というと、美晴はボードで、

 「みんなの、わらう、こえで、いい」

 と言った。

 我々家族が、美晴の似顔絵を見て笑っている声が聞こえれば、それでいい。

 そう言って、美晴は微笑む。

 

1月16日(金) 

 美晴の世話をママにまかせ、おじいちゃんと二人で、美晴の小学校の手続きに行く。

 普通の公立小学校は無理だったが、養護学校で受け入れてくれる所がなんとか見つかった。送迎バスで通うのだ。

 指揮者の次は、小学生になる、というのが美晴の目標になればいい。

 帰宅したら、美晴がヒーヒー声にならない声で泣いていて、ママが途方にくれている。

 尿チューブがはずれて、ベッドがぐしょぐしょだ。小池さんを呼ばずに自分で何とかしようとしたらしいけれど、美晴の体を持ち上げることもできずにおろおろしている。

 美晴の母親なんだから、自分でなんとかしないと、と思った、というけれど、結局美晴に気持ち悪い思いをさせるのなら、意味がないだろう、と叱りつける。

 ママの気持ちは分かるのだが。

 便の出が悪く、軽い下剤を処方してもらう。

 

1月18日(日) 

 昨夜からずっと眠りっぱなし。結局、昼くらいまで目を覚まさなかった。

 胸が呼吸で上下しているのを確かめながら、呼吸の合間でしばらく胸が動かなかったりすると、心臓が跳ね上がる。

 ずっと寝顔を眺めていたので、肩がこる。目を覚ましてくれて、本当にほっとした。

 美晴が起きているうちに、と、瑞穂がピアノを弾く。

 「金色の翼」はかなり仕上がってきた。一通り、リビングのピアノで弾くと、キーボードを抱えてきて、美晴の指揮で合わせの練習。

 美晴の視線を追うわけでもなく、美晴の方をじっと見ながら、決して明確とはいえないタクトをちゃんと追いかけて弾く。

 どうやって入りのタイミングを合わせているのか、瑞穂に聞くと、

 「美晴の息を見てるんだよ」と答えた。

 確かにこの子には伴奏者の才能があるように思う。

 

1月21日(水)

 微熱あり。原因がはっきりしない。

 尿と便の出は順調。血圧が少し高めなので、解熱剤と降圧剤を処方される。

 早紀ちゃんのお母さんが来てくれる。酒蔵コンサートの構成について、ママと相談。

 コンサートに参加してくれる合唱団員は、思ったよりずいぶん多くて、大体20名くらい。酒蔵の規模を考えると、相当な人数だ。

 美晴が指揮する「金色の翼に乗って」だけじゃなく、せっかくの機会なので、詠子さんと一緒に、数曲オペラの曲を歌おう、という話になったのも一因。

 榊原詠子と一緒に歌える、というので結構希望者が集まったらしい。

 美晴の体力を考えて、冒頭を「金色の翼に乗って」にして、後は早紀ちゃんのお母さんの指揮で、オペラ合唱曲、それもソプラノソロがある曲を数曲。

 そのステージが終わったら、ママのソロステージ。

 伴奏者に、小杉翔子さんが来る、と聞いて驚く。あの忙しい人のスケジュールをよく確保できたな、と言ったら、

 「榊原詠子をなめるんじゃないよ」

 と、いつもの決め台詞。

 相当ごり押ししたんだろう。小杉さんに後で謝っておかないと。

 

1月23日(金) 

 熱はじわじわ上がるばかりで、昨夜は嘔吐。

 最低血圧が130くらいまで上がる。

 小池さんがつきっきり。脳圧を下げる薬、降圧剤、解熱剤、下剤、胃の薬、ビタミン剤・・・薬のリストが延々と続く。書き取るのが嫌になる。

 朝からほぼ意識がない状態。このまま昏睡状態に陥ってしまう可能性もあると。

 熱は38.5度。何もできない自分に腹が立って腹が立って、自分で自分の頭をがんがん叩く。

 明後日は本番だぞ。美晴、頼むから頑張ってくれ。

 

1月24日(土) 

 朝になって、美晴の熱は下がったが、意識は朦朧としている様子。

 美晴、と呼びかけても、反応がない。

 ママや瑞穂と、交互に声をかけてもダメ。

 このまま昏睡状態に入ってしまう、と思ったが、瑞穂が、

 「美晴があきらめるわけがない」

 と叫んで、隣のリビングで猛然と「金色の翼に乗って」の伴奏を弾き始めた。

 ママも、半泣きの声で歌い始めた。

 おばあちゃんも、おじいちゃんも、パパも、調子っぱずれの声で歌った。美晴の魂を呼び戻そうと歌った。

 10回くらい繰り返して歌った時だった。美晴が右手に握り締めていた指揮棒が、小さく動いているのに気が付いた。

 美晴がタクトを振っている。

 指揮棒は段々大きく振れ、その動きはどんどんしっかりしてくる。

 美晴が帰ってきた。美晴、と呼ぶと、顔の表情がぎこちなく動いた。笑顔になった。

 美晴はあきらめなかった。明日は本番だ。最高のステージになりますように。

 

岡崎さんの胸

 

 美晴の指揮者デビューの舞台、すなわち、私の伴奏者デビューの舞台が、目の前にある。

 No.3ギャラリーと二番蔵の間は細い路地のようになっていて、そのまま奥にある母屋に続いている。母屋の中で、蔵に一番近い部屋が出演者の控え室になっていて、私はその入り口から、ギャラリーの方を眺めている。

 さっきから、お客様が続々と入ってきているのが見える。

 受付に立っている岡崎さんの背中が、ものすごく忙しそうだ。間違いなく、No.3ギャラリー始まって以来のお客様の数だろう。

 

 私の後ろでは、早紀ちゃんママの合唱団のおばさま方――というか、半数以上はおばあさま方――がペチャペチャとかしましい。

 おじさま方――というか、おじいさま方――もいるんだが、おばさま方の存在感に押されて今ひとつ影が薄い。

 美晴は、もうギャラリーの自分の席に陣取って、大地さんとスタンバイしている。

 美晴の移動はなるべく少なくて済むように、美晴は自分の席から、そのまま指揮者の位置に移動する段取りだ。

 早紀ちゃんが、受付の手伝いからこっちに走ってきて、私の顔を見て、

 「あんた、血の気ないで」と言った。

 

 おばさま方――と影の薄いおじさま方――が立ち上がって、ぺちゃくちゃ喋りながら、ギャラリーの方へぞろそろと移動し始めた。

 そろそろ開演、合唱団の入場だ。しかし、どうして関西のおばさん達は、人が喋っている時に黙っていないのだろう。常に複数の人が同時に喋っている。その声がわんわんと耳の中に響く。

 と、ギャラリーの方から大きな拍手がした。

 合唱団の入場にあわせて、お客様が拍手している。

 耳の中でどっくんどっくん音がし始めた。うるさいったらありゃしない。何の音だよ、と思ったら、自分の心臓の音だった。

 

 次は、早紀ちゃんママと、伴奏者の私の出番だ。

 早紀ちゃんママは先に立って、ギャラリーの入り口、お客様からは見えないところから、合唱団の方に、列の調整の合図をしている。

 えっと、私はどうするんだっけ。

 ピアノを弾くんだよ。

 ピアノってのは何だっけ。

 えっと、これからどっちに歩くんだっけ。

 スカートのすそをふんずけた以前の発表会の失敗を教訓にして、今日はパンツルックにしたんだ。 ちょっと少年ぽくって素敵だ、と、岡崎さんが誉めてくれたぞ。

 大丈夫、大丈夫。

 「大丈夫か、あんた?」早紀ちゃんの声がする。

 私の心臓の音の向こう、はるか遠くから聞こえる。何を言ってるか理解できない。

 「あかん、これは。もう緊張でガチガチや。叩いたら割れるで。」早紀ちゃんがつぶやく声がする。割れてたまるか。

 大丈夫。大丈夫。

 

 早紀ちゃんが受付の方に走っていく。

 岡崎さんに何か話しかけた。

 岡崎さんがこっちを見て微笑んでいる。いいなぁ、岡崎さん。

 それで私は何をしに来たんだっけ。

 どっくんどっくん。体が跳ね上がりそうだ。

 もうだめだ。

 

 「瑞穂ちゃん。」目の前に岡崎さんの笑顔がある。心臓が止まった。確かに止まった。

 跳ね上がりすぎたところに、岡崎さんの笑顔のアップだ。

 これで死ぬなら、ちょっと幸せかも。

 と思ったら、岡崎さんは、私の肩に手をかけて、そのまま自分の方に引き寄せた。

 ちょっと、ちょっと待ってくれ。

 岡崎さんの柔らかな胸に、私の頬がぎゅっと押し付けられた。

 岡崎さんが、私を抱きしめている。

 心臓だけじゃなくて、息も止まった。

 なんで生きてるのか、よく分からない。

 

 「大丈夫だよ、瑞穂ちゃん。」岡崎さんの声がする。

 岡崎さんの胸の奥から聞こえてくる。

 岡崎さんの心臓の鼓動も聞こえてくる。

 岡崎さんのぬくもりと、確かな鼓動に包まれる。確かな言葉が響いてくる。

 

 「瑞穂ちゃんならできる。美晴くんもついてる。ママも、パパも、早紀ちゃんも、私もついてる。瑞穂ちゃんは、一人じゃない。」

 

 そうだ。

 美晴が待ってる。伴奏者の登場を。

 心臓の音がゆっくり静まる。岡崎さんの胸の奥から聞こえる心臓のリズムに合ってくる。

 緊張してる場合じゃない。

 美晴を支えてあげられるのは、私だけだ。

 

 私は岡崎さんの笑顔を見上げた。

 「行って来る。」

 

早紀ちゃんママからご挨拶、そして、「金色の翼に乗って」

 

 皆様こんばんは。笠原由紀子でございます。

 今夜は、この神戸の街が生んだ、素晴らしい歌い手、榊原詠子さんのコンサートです。

 榊原さんの演奏会をお手伝いできるなんて、私にとっても、私の合唱団、東灘区民オペラ合唱団にとっても、本当に光栄なことだと思っております。

 今夜は、榊原さんの光輝く歌声を、最後までお楽しみくださいませ。

 そしてもう一つ、私が嬉しく思っておりますのは、私のオペラ合唱団を、榊原さんのご子息、美晴くんが指揮してくれることです。

 ご覧になってお分かりの通り、美晴くんは、今、大きな病気と闘っています。

 病気は、美晴くんの視力を奪い、体の自由を奪い、今も美晴くんを苦しめています。

 でも美晴くんは決して負けていません。病気と闘いながら、「指揮者になりたい」という夢を持って、今日まで、お姉さんの瑞穂さんと一緒に、毎日練習を重ねてきました。

 今日、美晴くんの夢の実現をお手伝いできることは、オペラ合唱団にとって、最高の名誉だ、と思っています。

 皆さんも、美晴くんの夢の立会人として、彼と、瑞穂さんの演奏を、しっかり心に留めてください。

 そしてこの会場を立ち去った後も、美晴くんを、ずっと応援し続けてあげてください。

 では、お聴きいただきます。ヴェルディ作曲、オペラ「ナブッコ」より、「行け、我が想いよ、金色の翼に乗って」。指揮、大地美晴、伴奏、大地瑞穂。

 

 大地さんが、美晴の車椅子をゆっくり押してくる。美晴が指揮者のポジションに着く。

 おじいちゃんおばあちゃんが、誕生日に買ってくれた一張羅のスーツ。そして右手に持っているのは、大屋さんからもらった指揮棒。

 美晴の視線は読めない。でも、美晴の顔をじっと見つめていれば、その口から、その栄養チューブが差し込まれた鼻から、目に見えない空気の流れが見える。

 私の息はすっかり美晴と同調している。私は美晴だ。美晴の両手だ。

 すうっと息を吸い込んで、美晴の右手が、5センチくらい動いた。

 予備拍2つ。はっきり見える。

 前奏が流れ出す。1小節半。行くぞ、美晴。

 

行け、我が想いよ、金色の翼に乗って

行け、斜面に、丘に憩いつつ

温かく、甘い祖国のそよ風が香る場所

ヨルダンの河岸に挨拶をしておくれ

そして破壊されたシオンの塔にも…

 

 低音から一気に声のうねりが高音域へと駆け上がり、美晴のタクトが大きくなる。

 指揮棒の先のほんの数ミリの動き。

 その数ミリのクレッシェンドのために、美晴は全身の力を振り絞っている。

 その精一杯のクレッシェンドが見える。

 それを合唱団に伝えるのは、私のピアノだ。私の指だ。

 声が、広がる。

 

おお、美しく、そして失われた我が故郷!

おお、懐かしく、そして辛い思い出!

預言者の金色の竪琴よ

何故黙する、柳の木に掛けられたまま?

胸の記憶に再び火を点けておくれ

過ぎ去った時を語っておくれ!

 

 最愛の妻子を病で失い、絶望の淵にあったヴェルディが、ふと出会ったこの歌詞と、湧き上がってきたメロディ。

 そのメロディは、イタリア独立を願う人々に熱狂的に受け入れられ、ヴェルディの名はイタリア独立の象徴となった。

 わが想いよ、行け、はるかな天の高みへと。

 太陽の光を浴びて金色に輝く翼に乗って、天上から僕の愛する人々に降り注げ。

 瑞穂、これが僕の歌だ。僕が天から地上のみんなに歌いかける歌だ。

 僕の魂は金色の翼に乗って飛ぶ。

 そして僕の思いはこの指揮棒から、瑞穂へ、そして合唱団のみんなへ、そして、地上のあらゆる人々の心に届くだろう。

 そしてその心の中に、確かな波紋をくっきりと刻むだろう。

 

あるいはエルサレムの運命と同じ

辛い嘆きの如く響く悲劇を語れ

 

 美晴の指揮棒の動きが、大きな大きなうねりになって、酒蔵全体を包み込む。

 私の呼吸と、合唱団の呼吸、美晴の呼吸、会場のお客様の呼吸。

 全部が一つの大きな流れになっていく。

 呼吸は、命。

 命が、うねる。

 美晴の命が、会場にいる全ての人々の命と共に、大きなリズムを刻み続ける。

 

あるいは主が美しい楽音を奏で

苦痛に耐える勇気を我々に与えるように!

 

 美晴の右手の指揮棒が、ゆっくりと小さな円を描いて、止まった。

 その円の中に、一つの宇宙を閉じ込めるように。

 小さな宇宙は脈動している。

 確かな鼓動で。確かなリズムで。

 美晴の命のリズムで。

 

 しばらく、会場がしん、と静まり返る。

 誰かが拍手を遠慮がちに始め、会場全体がやわらかい拍手の音で包まれる。

 大地さんが立ち上がって、車椅子を客席の方に向けた。私も立ち上がった。

 大地さんは、深々と頭を垂れた。私もお辞儀をした。詠子さんが、すっと私の側に寄ってきて、小声で言った。

 「いい伴奏だったぞ。」そして微笑んだ。「後はママと、小杉さんに任せて。」

 私の側に、優しい笑顔の女の人が立っている。私は慌てて、客席の自分の席に移った。

 拍手はやまない。

 自分の鼓動が、まだ、美晴の命のリズムのままに脈打っているのを感じながら、私は自分の席に座った。

 詠子さんのステージだ。

 

再会

 

 詠子さんの酒蔵リサイタルは2部構成。前半が、オペラ合唱団のみなさんとの共演ステージ。

 曲目は、ヴェッリーニ作曲「ノルマ」の「清らかな女神よ」、マスカーニ作曲「カヴァレリア・ルスティカーナ」の「復活祭の合唱」、そして、ヴェルディ作曲「椿姫」の「乾杯の歌」。

 私はまだ興奮状態にあって、会場全体を包み込んだ美晴の指揮のリズムに呑まれていた。

 視界が上気しているみたいにぼやけて、ステージの中央の榊原詠子さんのオーラだけが、ぼんやりと輝いて見える。

 その詠子さんが、ピアノに向かって微笑みかけるのが見えた。

 視界の隅で、小杉さんが軽くうなずく。そのうなずき方がいい、と、ぼんやり思った。

 大丈夫、あなたのことは全部分かってるわよ、というような。

 さぁ、のびのび、自分の思う通りに歌いなさい、私は何があっても、あなたをきちんと支えてみせる、というような。

 榊原詠子さんにそういう視線で答えられる人を、私はこの世で二人しか知らない。

 大地さんと、この小杉さんだ。

 

 小杉さんはピアノに向き直った。

 その視線が、鍵盤を見ているようで見ていないのに、私は気がついた。

 小杉さんは、鍵盤の向こうに舞台を見ている。ドルイド教徒の住む森の奥、聖なる神殿の場面を見ている。

 小杉さんのしなやかな長い指が、鍵盤の上にふわり、と舞い降り、ゆったりとたゆたうアルペジオが流れ出す。

 はっとした。

 

 私はこのピアノを知っている。

 このピアノの音を知っている。低弦のピッチカートと弦の緩やかな響き。

 私がさっき弾いた同じピアノが、草木をさやさやとゆらす風のように繊細に響くと、ノルマの声がはかない蝶のようにその波紋の上を舞い始める。

 酒蔵の中がオペラの舞台になり、客席の上に、ローマ時代のイギリスを照らしていた月光が降り注ぐ。

 

 これはあのピアノだ。

 ママに捨てられたあの日々、美晴を胸に抱きながら、私が毎晩枕もとで鳴らしていた、「魔弾の射手」の稽古場の録音。

 あのMDに収録されていた、伴奏ピアノだ。

 また会えた。

 あのピアノの音に、また会えるなんて。

 

 美晴の顔を覗きこむと、静かに微笑んでいる。美晴も気がついたのだ、と私は思った。

 瑞穂、僕らは遠くまで来たね。あの頃のことが、本当に夢のようだよ。そう美晴が言っているような気がした。

 ねぇ瑞穂、僕は今日本当に幸せだよ。美晴の心の声がささやく。

 あの一週間、瑞穂と一緒に何もない宇宙空間に二人っきりで放り出された一週間、あれは本当に最悪だった。

 叫んでも届かず、手を伸ばしても届かず、何もない虚無の中を二人で抱き合って漂った日々。

 あの日々に比べれば、この空間の、なんて密度の濃いことだろう。

 みんなが僕を支えてくれている。みんなが僕の夢をかなえてくれている。

 そして、この酒蔵に満ちる、ママの歌声。

 僕は本当に幸せだ。

 

 瑞穂、僕は何かをしたいよ。

 今までの僕は、みんなに支えてもらうばかりだった。

 僕の夢をかなえるために、みんなが一生懸命だった。

 今度は僕が、みんなに何かをしてあげる番だ。何かを与えてあげる番だ。

 僕の夢をかなえてくれた、このNo.3ギャラリー、この神戸の街に、何かを。

 

 美晴、お前はもうみんなに、十分すぎるほど与えているよ。私は心で答える。

 勇気を、元気を。この酒蔵に集った人たちに、あの「ホフマン物語」の舞台に居合わせた人たちに。音楽を。

 

 違うんだ。美晴の声がする。

 もっと違うものを、何かを与えてあげたい。

 僕はこれから、それをずっと考えていくんだと思うよ。

 

 小杉さんのピアノが華やかな三拍子を刻み、合唱団の中から、ロマンスグレイの男性が進み出て、朗々たるテノールで歌いだした。

 ヴェルディ「椿姫」より、「乾杯の歌」。

 素人離れした歌いっぷりに客席が思わず嘆声をあげる。

 詠子さんも楽しそうに微笑み、ヴィオレッタのパートを軽やかに歌い始める。

 酒蔵全体がシャンパンのバラ色に染まったようなあでやかな雰囲気の中で、第一部は終了した。20分間の休憩。

 

第二部「家族へ」

 

 リサイタルの第二部は、「家族へ」というタイトルで、よく知られたオペラのアリアがずらりと並んだ贅沢な構成だった。

 プログラムに載せられた曲目の一つ一つには、家族の名前が当てられていて、それぞれの曲が、家族への思いを込めた曲になっていることが分かる。

 こんな感じだ。

 

一曲目、「私」・・・チレア『アドリアーナ・ルクヴルール』より、『私は創造の神の卑しい僕』

二曲目、「美晴」・・・オッフェンバック『ホフマン物語』より、『オランピアの歌』

三曲目、「瑞穂」・・・プッチーニ『ラ・ボエーム』より、『私の名はミミ』

四曲目、「おかあさん」・・・マスカーニ『カヴァレリア・ルスティカーナ』より、『ママも知る通り』

五曲目、「おとうさん」・・・プッチーニ『ジャンニ・スキッキ』より、『私のお父さん』。

 

 四曲目と五曲目はほとんどそのままだし、一曲目と二曲目も納得はいくけれど、なんで私が「ミミ」なのか、どうも納得がいかない。

 プログラムが決まった時、私はママに2つの質問をした。「なんで私がミミなの?」

 ママは、「可愛い顔して、ロドルフォの部屋に忍んで行ったりするちゃっかりしたところが瑞穂っぽいじゃん」と答えたが、ますます私は納得がいかなくなった。なんでだ。

 もう一つの質問は、「大地さんへの歌はないの?」という質問だったが、ママは黙って私を睨みつけるだけだった。

 私も、頭をはたかれる前に逃げ出したから、この質問の答えは聞かずじまいだ。

 

 休憩時間中、大地さんは美晴の膝かけを直してあげながら、「大丈夫か?」と聞いた。

 美晴は、右手に持った指揮棒で、丸を描いた。大丈夫。

 「これからママがオペラのアリアを歌うけど、まだ聞けるかい?」大地さんが尋ねる。

 また、指揮棒で、丸が描かれた。大丈夫。まだ聞ける。

 

 「失礼します」と、背の高い男の人が、大地さんに声をかけた。

 肩幅の広い、がっしりした男の人。

 大地さんも小さな人じゃないのだけど、その大地さんがちょっと小さく見える。

 「美晴くんの指揮、ビデオにとらせていただきました。ダビングして、後日、お送りするようにします。」

 「ありがとうございます。」大地さんは頭を下げた。私も頭を下げた。

 男の人は、まだ何か言いたそうにして、でも何を言っていいのか分からないような顔で、しばらく突っ立っていた。

 私達も、何を言えばいいのか分からず、3人してぼおっと突っ立っていた。

 

 「あの」と、さすがにまずいと思ったのか、男の人はとりあえず口を開いた。

 「僕も、娘が」と、そこまで言って、美晴を見て、そのまま下を向いた。

 「ありがとうございました」とだけ言って、足早に会場を出て行った。

 大きな背中が、急に小さく縮んだみたいに見えた。

 

 私と大地さんは、顔を見合わせて、何も言わずに自分の席に座りこんだ。

 小児がんの患者さんの家族を援助しているボランティアの人、とは聞いていた。

 でも、娘さんが小児がんになった人が来るとは思ってなかった。

 そしてその娘さんがどうなったのかも、さっきの人の態度が物語っていた。

 娘さんは亡くなったんだ。

 

 休憩が終わって、詠子さんと小杉さんがにこやかに登場した。

 詠子さんは、第一部のさっぱりした地味な浅黄色のドレスから、濃い紺のスパンコール輝くゴージャスなドレスで登場。第二部の開幕だ。

 

小杉さんへの質問

 

 リサイタルの打ち上げは、おばあちゃんの家の客間でやった。

 詠子さんと早紀ちゃんのママは、合唱団のみなさんとのお食事会兼打ち上げに出てから合流する、ということで、とりあえずこちらには、美晴、小杉さん、大地さん、私、岡崎さん、そして、早紀ちゃんの7名。おじいちゃんとおばあちゃんがホストだ。

 美晴の部屋は、客間のすぐ隣の部屋だから、美晴の体調が悪くなれば、すぐにそっちに移動できる。

 でも、美晴は本当にご機嫌で、最近は声を出すのもつらそうだったのに、小さな笑い声をたてさえした。

 

 それでもさすがに疲れたと、少し早めに美晴が下がっていって、大地さんが、そのまま美晴についていったあとも、私はまだ、小杉さんの側にいた。

 小杉さんに尋ねたいことがあるのに、簡単な問いかけなのに、それが言い出せないでいて、頭の中がそのことで一杯だったから、早紀ちゃんがいきなり、

 「瑞穂は?」と聞いてきたとき、私は話の前後がまるで分らなくて目を白黒させた。

 おばあちゃんが、「アンコールで、詠子が歌った曲の話よ」と、助け船を出してくれた。「なんか、いつもの詠子とちょっと違ったなぁって、小杉さんが。」

 「瑞穂はどう思たの?」と聞いてきた早紀ちゃんには答えずに、私は小杉さんに向かって聞いた。「どんな風に違うと思いました?」

 小杉さんは、眼鏡の奥の目をちょっと遠くに飛ばすようにして、首を傾げた。「ちょっとねぇ、詠子さんらしくない歌い方だったのよ。なんか、別の人の歌い口をコピーしてるみたいな。途中までね。」

 

 詠子さんは声の引き出しの多い人でね。演劇的な絶叫芝居みたいな発声から、ちょっと民謡風の発声まで、色んな発声法を身に着けてるし、それを舞台上で使うためのテクニックも身に着けている。でも、そういう引き出しを使うのって、やっぱり喉に負担をかけるから。一つのオペラの中でも、ここぞっていう時にしか使わないで、声帯に無理をかけないベルカントで全体をまとめていく、っていうのが、彼女のやり方なの。特にこういうリサイタルのような時には、しっかり正統派の歌い口でまとめていくのが普通。

でも、今日のアンコールはちょっと違った。少し胸に落とした深い響きを多用して、もっと生々しい音を作っていた。わざとだと思うの。リハーサルの時から、色々試行錯誤して、今までの詠子さんの歌い方とは全然違うものを作ろうとしていた。なぜ、とは聞かなかったけどね。

 

 「小杉さん、詠子さんのことなら何でも分かるんやなぁ。私は全然気づかんかった」早紀ちゃんが言った。「でもあのアンコールは泣けたなぁ。すごい歌やった。」

 「詠子さんが、また別のステージに上がった気がしたね」と、小杉さんは微笑んだ。

 

 この人はどこまで分かったんだろう。私は小杉さんの微笑を見ながら思った。

 アンコールに歌われたのは、「トスカ」の、「歌に生き、恋に生き」。

 ピアノの伴奏が始まった途端、私の隣の大地さんの身体が硬直したのが分かった。

 あの恐ろしい記憶へのフラッシュバック。

 なんでこの歌をアンコールに持ってきたんだ、と思いながら、でも、詠子さんの声を聞いて、私は分かった。

 大地さんも、すぐに理解したと思う。

 

 詠子さんはトスカを演じているのではない。

 詠子さんは、ジュゼッピーナを演じていた。

 ジョルジョと結ばれたばかりの頃の。絶頂期のジュゼッピーナ。

 若々しく、夢と希望と、そして美しいフェニーチェ劇場の温かな家族に包まれていたあの頃の。

 ちょっと感情と勢いに任せた、コントロールの効かない危うさをはらんだ、でもだからこそ、人を惹きつけずにはおかない、生まれついてのプリマ、ジュゼッピーナ。

 

 ジョルジョも、ジュゼッピーナも、みんな、ここにいるよ。

 私はあの人の歌を覚えている。こうやって彼女の声を、再び地上に響かせることもできる。

 だれも、私たちの中の思い出を壊すことなんかできない。

 ジュゼッピーナの歌い口を取り込んだ詠子さんの声が、歌姫トスカの声になって、酒蔵に充ちる。

 

私は芸術に、愛にこの命を捧げてきました。

生きとし生けるものすべてに、決して悪いことはせず、

人知れず手を貸し

どれほどの哀れな人々に救いの手を差し伸べてきたことでしょう・・・

 

 大地さんは、私の側で、ぼろぼろ泣いていた。

 小杉さんは、ただ黙って、優しいピアノで、詠子さんの歌を支えていた。

 詠子さんの想いを支えていた。

 詠子さんの歌の響き、息遣い、その全てに耳を傾けながら。

 あんなピアノを、私も弾きたい。

 

 打ち上げが終って、我が家に一泊してから東京に戻るという小杉さんのために、私は客間で布団を敷いていた。

 お風呂から上がってきた小杉さんが、「ありがとう、先に寝かせてもらうね」と声をかけてきた時、私は今しかない、と思った。

 洗い髪を拭いている小杉さんに向かって、私は言った。「小杉先生。」

 小杉さんが笑顔で振り向いた。「なあに?」

 「先生みたいなコレペティトゥアになるには、どうしたらいいんでしょうか?」私は言った。

 

 小杉さんの笑顔が消えた。

 まっすぐに、私を見つめた。

 私もまっすぐに、その眼を見つめ返した。

 

大地さんの看護日誌から その4

 

2月1日(日) 

 瑞穂が大量のピアノ譜を買い込んできて、居間のピアノの脇に積み上げて、片っ端から練習している。 小杉先生から出された課題だそうだ。いつのまに師弟関係を結んだのか、よく分からない。

 美晴は瑞穂のピアノが鳴っていると機嫌がいいので、瑞穂がお休みの日曜日が嬉しかったらしい。朝、目が覚めて瑞穂のピアノが聞こえると、「にちようびだ」と、ボードで言った。

 

2月3日(火) 

 痰がすぐに溜まり、喉をゴロゴロいわせて苦しそう。小池さんを呼んで吸引してもらう。小池さんはほとんど病院の仕事ができない状況だが、「あっちは気にしないでいいから」と笑顔。

 最近、発熱や嘔吐といった大きな変化はないけれど、ゆっくりゆっくり色んな反射機能が弱まっているらしい。意識はまだはっきりしていて、意思疎通は右手に握り締めた指揮棒でやっている。

 指揮棒はすっかり、美晴の体の一部になってしまった。

 平日、瑞穂が学校に行っている間は、ママのCDを一日中かけているので、ママが照れる。

 

2月6日(金) 

 尿が赤っぽく濁ってきた。膀胱炎かも、とのことで、抗生物質処方。

 多少熱もある。

 酒蔵コンサートのビデオが出来上がってきて、みんなで見る。思ったよりも美晴のタクトが力強く、みんなで感心。美晴も嬉しそう。

 ビデオはボランティア団体の集会でも流れるそうだ。

 

2月8日(日) 

 午前中に体を拭く。しばらくお風呂に入れていないので、結構垢が溜まっている。

 久しぶりに便通あり。

 気持ちよかったらしく、すっきりと寝た。尿も通常に戻り、熱も下がっている。

 この調子で安定してくれるといいのだけど。

 

 夜になって、ママが、相談がある、と言ってくる。スカラ座から出演依頼があったと。

 驚愕。

 演目は「ホフマン物語」。

 アントニア役のソプラノ歌手が、急な体調不良で、代役を探しているらしい。

 今日中に返事をしろ、とのこと。

 先日の「ホフマン物語」で共演したテノール歌手が、今回もホフマン役で、劇場側に「日本に、フェニーチェで歌っていたことがあるものすごいアントニア歌いがいる」と紹介してくれたらしい。

 

 美晴抜きの家族会議。ママはもともと、この2ヶ月はほとんどの仕事をキャンセルして、美晴の看病に集中するつもりでいたから、予定は空いている。

 生涯で二度とないチャンスだが、もしかしたら、と不安がよぎる。

 1週間のプロダクションだから、音楽と演出の確認と直前リハも含め、3週間は日本を離れないといけない。帰国は3月の頭になる。

 瑞穂以外の大人は全員、断ろう、ということになった。でも瑞穂が、強硬に、「行くべきだ」と言う。ぼろぼろ涙を流しながら、半ば叫ぶように繰り返す。

 美晴が絶対に悲しむ。美晴の気持ちを最優先してあげよう、というのが最初の方針だったはずじゃないか。

 美晴の夢は、ママが世界一のソプラノ歌手になることだ。そのチャンスがやってきたのに、世界一の歌劇場からのオファーがあったのに、断る理由なんかない。絶対にない。

 ママは行きたくないのか、と瑞穂が言う。そりゃ行きたい、とママは涙声で言う。瑞穂は美晴の部屋に駆け込んでいこうとする。美晴に言えば、美晴は絶対に、「行け」という。とめようとしたが、おばあちゃんがあきらめたように、

 「あの子らは、オペラの子供や。何より、オペラが大事なんや」

 と呟いた。それでほとんど、大人全員が根負けした状態になった。

 

 みんなで美晴の部屋に行くと、美晴は指揮棒をぐるぐる回している。何重もの丸印。

 榊原詠子、スカラ座衝撃デビュー決定。

 

2月10日(火) 

 ママは慌しく関西新空港からイタリアに発った。とにかく本番までの時間がない。

 劇場側が個人ジェットを借りる、という話にまでなりかけたらしい。

 留守番部隊で、美晴をしっかり看病しなければ。

 痰はまめに吸引しているので様子は安定。尿チューブははずれやすいので、今日からオムツ。本人はむしろ楽そうだ。もっと早くにオムツにしてあげればよかったと反省。

 

2月12日(木) 

 熱が上がる。37度8分くらい。

 先日の血液検査で、炎症の値が高くなっていたとのこと。どこが炎症を起こしているのかはっきりしないが、とりあえず抗生剤を処方。点滴が腕の血管に入りにくくなってきた。

 気が付けば、腕がずいぶん痩せていることに胸を突かれる。

 瑞穂が、ピアノ教室を決めてきた。早紀ちゃんのママのつてで、音楽大学付属高校の受験も視野に入れた、相当レベルの高い教室だ。

 リビングのピアノにサイレント機能をつけてほしい、という話をおじいちゃんにしている。美晴が寝ている時間でも、ばりばり練習しないとだめ、とのこと。

 どうやら本気らしい。

 

2月13日(金) 

 午後になって状態がかなり悪化。熱が39度近くまで上がる。おばあちゃんが診察室から飛んでくる。

 熱を下げる措置をやっている途中で、痰が気管につまったらしく、吸引と酸素吸入で大騒ぎ。

 夜になって意識混濁。指揮棒の反応が読めない。

 ママから夜電話。今日から舞台での立ち稽古が始まったと。

 当たり前だが、無茶苦茶興奮している。

 美晴の様子を聞かれ、「大丈夫」と答える。舞台に集中しろ、と。

 みんな、ママのことを信じて、応援してるから、と。

 電話を切って、自分の嘘を詠子さんに詫びる。美晴は許してくれるだろう。

 

2月14日(土)

 意識レベルが低い。美晴、と呼びかけると、かすかに反応するが、指揮棒は動かない。

 瑞穂が隣の部屋でピアノを弾き始めたとき、少し指揮棒が動いた気がして、大きな声を上げてしまう。

 瑞穂が張り切ってピアノを弾いたが、やっぱり反応は弱い。

 おばあちゃんが憔悴した顔で、心電図モニターの使用を決めた。怒りの持って行く先がない。こんなモニターを、こんな小さい体に、なんでつながなきゃいけないんだ。

 

2月17日(火)

 気道確保の管が口から挿入される。また美晴の体に管が増えた。

 おばあちゃんが自分で挿入措置をやっていたが、美晴もおばあちゃんも辛そうで見ていられない。でも目をそらしちゃいけない。

 俺の役割は、この日誌を書くことだ。

 二人がどんなに辛そうな表情だったか、きちんとこの目に焼き付けることだ。

 それが、逃げ出した俺に与えられた罰なんだとしたら、最後までやりとげないと。

 ママからは毎日電話がある。

 美晴が毎日、ママのCDを聞きながら応援しているぞ、と言う。

 嘘じゃない。美晴は絶対、毎日ママを応援していると思う。

 外から見て、それが分からないだけだ。

 

2月20日(金)

 管が擦れて、口の周りの皮が剥けて痛そう。

 もう少しなんとかならないか、と、小池さんもおばあちゃんも色々やってくれているが、本人が痛いと いう意思表示ができないので、皮がむけたり、皮膚が赤くなったり、という状態から推察するしかない。

 きっとその前に、痛みを感じているはずなのに。

 美晴、代わってやれなくて、本当にごめん。

 明日はママの舞台の初日。

 夜、瑞穂と二人で、地球の裏側へ、頑張れ、の念を送る。

 美晴もきっと、一緒に送ってくれていると思う。

 

2月21日(土)

 今日も反応なし。ベッドの側のモニターは、静かに命のリズムを刻んでいる。

 美晴の魂は今どこにあるのか。部屋の天井あたりから、にこにこ笑って我々を見下ろしているのだろうか。

 瑞穂に聞くと、

 「すぐ戻ってくるよ。今きっと、スカラ座の舞台を見に行ってるんだよ。本番が終われば、きっと戻ってくる」という。

 瑞穂を信じたい。

 美晴、ママの舞台が終わったら、ママと一緒に日本に戻って来るんだぞ。

 

2月22日(日)

 ママの記事が新聞に出た。大絶賛だったそうだ。

 1週間、BキャストとAキャストで交互に舞台があるから、あと本番舞台は2回。

 来週末には日本に戻ってくる。

 ママが帰ってくる。美晴と一緒に。

 

おじいちゃんの愛の告白

 

 もうすぐ、ママが帰ってくる、というある日、おばあちゃんがぶっ倒れた。

 大地さんが限界状態なのは分かっていて、周りもすごく心配していた。でも、おばあちゃんはいつものように豪快に「よし、大丈夫、がんばってる、元気だ」ばっかり言っていたから、誰もおばあちゃんの中がボロボロになっていることに気がつかなかった。

 おじいちゃんを除いて。

 

 美晴の上にかがみこんで、瞳孔反射とかをチェックしていたおばあちゃんが、体を起こした途端、そのまま仰向けに、棒がぱたん、と倒れるみたいにぶっ倒れた時、大地さんも私も、ただ大声で、おばあちゃん、おばあちゃん、と叫ぶだけだった。

 自分の部屋にこもっていたおじいちゃんは、私達のその声に、突風のように飛び出してきて、おばあちゃんのちっこい体を愛玩犬でも抱き上げるようにひょい、と抱き上げ、リビングのソファーの所に運んでいった。80近い老人の腕力とは思えない。

 小池さんが慌ててついていったけど、おじいちゃんは落ち着いた声で、

 「大丈夫。たまにこういうことがある。貧血や。ここんところ、あんまり眠れてないからな」と言った。

 小池さんも、脈を確認して、ほっとしたようにうなずいた。

 わしがそばにおるから、美晴の方に行ったってや、とおじいちゃんは言った。

 そやから、無理やって、申し上げたんですよ。小池さんがおじいちゃんに言った。

 先生は小児科医やけど、小児がんの専門やない。脳外科の専門でもない。

 そりゃ、知識は十分持ってはりますよ。でもね、医療ゆうのは、本で読んだ知識だけで勝負できるもんやないんです。

 どれだけ臨床例を扱ってきたか、どれだけの修羅場をくぐって、どれだけ現場でとっさの判断を下してきたか。そういう経験がモノを言う世界なんです。

 先生が、美晴くんを、もう、こども病院には入院させへん、この家で、私が最後まで面倒を見るっておっしゃった時、それは無茶やって申し上げたんです。外来の患者さんも診ながら、こんな状態の美晴くんをケアするなんて。

 

 わかっとる。おじいちゃんは言った。わしもおんなじことを言うた。

 そやけどな、これはこいつの意地や。

 今度、こども病院に美晴を連れて行ったら、この子はもう二度と、この家には戻ってこられへん。こいつはそう言うた。

 私は絶対に、美晴を病院では死なせへん。

 私は今日の日のために、小児科医になったんや。

 自分の孫を、自分の家で看取ってあげる、そのために、神さんが私を小児科医にしてくださったんや。

 その役割を全うせんかったら、神さんの罰があたるって。

 

 こいつはな。

 小さい頃、大好きやった姉を、病気で亡くしとる。

 医者の道を志したのも、そのせいや。

 その姉がな、病院のベッドで、ことあるごとに、言うたそうや。

 家に帰りたい。

 家の畳で敷いた布団で、家の空気に包まれて眠りたいって、そればっかりな。

 

 世の中には、自分の身内を自分の家で看取ることができるような、そんな恵まれた人なんかほとんどおらん。

 折角、美晴にそんな環境を与えて上げられるのに、それをできる知識と技術を学んできたのに、それが実際に使われへんくらいやったら、私はもう小児科医なんかやってられへん、今すぐ廃業する。

 こいつはそう言うた。

 

 美晴を治すことは、人間の力ではもう無理や。

 少しでも楽に、美晴を笑顔のままで送り出してやるために、こいつは必死なんや。自分の全てを賭けとるんや。

 小池さん、あんたもしんどいやろけどな、こらえたってくれ。

 これは確かに、こいつの意地とワガママや。

 ほんまに、堪忍したってや。

 

 おじいちゃんはボロボロ泣きながら、小池さんの手を握り締めて、伏し拝むようにして、こんなことを言った。

 小池さんも泣き出した。

 私はおじいちゃんを見ながら、これは、おじいちゃんの、おばあちゃんへの愛の告白だ、と思った。

 おばあちゃんが目を覚ましていたら、決して正面きって言うことのできない、おじいちゃんの愛の告白。

 

 美晴はもう治らない。

 私達にできることは、美晴を笑顔で、送り出してやることだけだ。

 でも、どこへ?

 

ミラノの空へ

 

 ママが明後日には帰ってくる、という日の夜。

 眠っている私の手を、美晴が引っ張った。

 ピーターパンみたいに、宙に浮かんだ美晴が、私の手を引くのだ。

 おいでよ、瑞穂。一緒に行こう。これは夢だよ。

 夢の中なら、空だって飛べる。世界中のどこにでも行ける。

 瑞穂が今、一番行きたいところ。今まで僕がいたところ。一緒に行こう、さぁ、ミラノへ!

 

 美晴がぐいっと私の手をひくと、私の体はすうっと浮き上がる。私の周りを万華鏡のように光がさぁっと流れていくと、天空には突然明るい日差しが満ち溢れ、真っ青な空の下、赤い屋根の連なる町並みが広がっている。

 ミラノの町並みだ。

 ミラノに行ったことなんかないけど、はっきり分かる。夢は便利だ。

 

 やっぱり美晴はミラノに来てたのか、と、隣を飛んでいる美晴に言うと、美晴は、いたずらが見つかった子供のように笑った。

 ごめんね、心配かけて、と笑う。だって、ママが心配でさ。

 瑞穂だって、行きたかったろ?僕はすぐに行けたよ。すぐに飛べたからね。

 目の下に大きな建物が見えて、すぐスカラ座と分かった。やっぱり夢は便利だ。

 一度行ってみたかったんだ。美晴はもう行ったの?

 行ったさ。美晴は自慢げだ。

 やっぱり世界一の歌劇場だね。瑞穂だって、いつかきっと行ける。

 僕はいつでも行けるんだ。

 メトロポリタン歌劇場だって、ウィーン国立歌劇場だって行ける。

 ママの舞台があるところだったらどこにでも行ける。本当に、体がものすごく軽いんだ。

 

 ママのアントニア、どうだった?私が言う。

 すごかったよ。美晴が言う。

 アントニアの幕が終わってから、もうスタンディングオベーションなんだ。

 まだ2幕なのに、拍手が鳴り止まない。

 ママは、10回くらいコールに答えたよ。まさに衝撃的デビューだよ。

 さすがだよね。私が言う。

 榊原詠子をなめるな。美晴が言う。

 私たちは声を合わせて、けらけら笑う。

 

 ママは、明後日帰ってくるよ。私は言う。

 ママと一緒に、ちゃんと戻ってくるんだよ。

 ママのところ、覗いてみようか?美晴は、私には答えずに言う。

 私たち二人は急降下する。スカラ座の側のホテルの窓辺へ。

 ふわり、と窓の外の手すりにとまると、窓の中で、ママが歌っている。

 「セヴィリアの理髪師」のロッジーナのアリア「今の歌声は」。

 歌いながら、荷造りをしている。

 髪の毛はぼさぼさ、もこもこのダウンジャケットにジーパン。

 誰も彼女が、夕べ、スカラ座の天井桟敷を熱狂させたソプラノ歌手だとは思わないだろう。

 でもその歌声は透き通って、冬の乾いた空に向かって駆け上がっていく。

 

 ママ!と美晴が叫ぶ。

 ママは気が付いて、驚いたように窓に駆け寄る。

 窓を開いて、私たちを見る。

 美晴はけらけら笑って、ママに向かって手を振って、じゃあね!と言って、さっと飛び立つ。

 私も慌てて後を追う。

 

 ねぇ、瑞穂、と、高く駆け上がりながら美晴が言う。

 素敵だねぇ、僕は今、鳥だよ。鳩だよ。

 僕は何にでもなれる。世界中、どこにでも行ける。

 ねぇ、瑞穂、あの酒蔵コンサートから、僕はずっと考えていた。

 僕に何ができるのか。

 みんなに助けてもらうばかりで、僕にできることなんか何もないって思いながら、それでも何かできないかって。一生懸命考えていた。

 そしたら、いつのまにか、心が空を飛んでいた。

 今なら僕は自由だ。

 今なら僕は、みんなの心に向かって飛べる。

 いつでも、歌を届けることができる。

 早紀ちゃんのママ。東灘区民オペラ合唱団のおじいさん、おばあさん。幼稚園の先生、幼稚園の友達。小杉さん、大屋さん、小池さん。岡崎さん、早紀ちゃん、おじいちゃん、おばあちゃん、パパ、ママ、瑞穂。

 みんなの心に向かって、ありがとうの歌を歌ってあげられる。

 みんな、みんな、ありがとう。

 みんなちゃんと元気でご飯を食べて、元気で大きな声で歌を歌って、毎日笑って暮らしてね。

 

 美晴。私は叫んだ。

 行っちゃいけない、日本に、神戸に戻ってくるんだ。

 そのまま鳥になっちゃいけない、そんなに楽しそうに、天の高みへ飛び去って行っちゃいけない。

 ジタバタと、美晴と同じ高みへ飛ぼうと暴れるのに、美晴は勝手にどんどん、太陽の光の中に溶けて行く。

 

 美晴。

 お姉ちゃんは、美晴と一緒にやりたいことが、まだまだいっぱいあるんだぞ。

 美晴だって、まだやってないことがいっぱいあるじゃないか。

 今年の桜は家族4人で見ようっていったじゃないか。

 幼稚園の卒園証書だってもらってないじゃないか。美晴のランドセルだって買ってあげたじゃないか。

 大人になったら、パパのコーヒーを、牛乳混ぜないで一緒に飲もうって言ったじゃないか。

 いっぱい、いっぱい、一緒に遊べるって、お前が生まれた日から、弟ができて、私はものすごく、ものすごく嬉しかったんだぞ。

 美晴は楽しそうに笑っている。

 もう私の声も聞こえないのか。

 

 そうじゃないよ、瑞穂。

 僕はもっと大きなことをやるために生まれたんだ。

 だからもう、行かなきゃいけないんだ。

 こんなところで、ぐずぐずしているわけにはいかないんだよ。

 

 瑞穂。

 僕らは、オペラの子供だ。

 普通の人間が一生かけても歌いきれない歌を、僕は空の高みから歌うだろう。

 瑞穂にも、神戸の人たちにも、僕の歌は届くだろう。

 僕が歌い続ける、永遠の光のアリアだ。

 

 美晴の姿が空の高みに消えていく。

 遠くで、器械が甲高いアラーム音を鳴らしている。

 美晴のあほんだら。私は声を限りに叫んだ。

 美晴のぼけなす、帰って来い。

 

大地さんの看護日誌 最後の2ページ

 

2月28日(日)

 美晴の魂は、まだミラノから戻ってくる様子がない。

 足の爪を切ってあげる。

 手のひらの中にすっぽり納まるほどの小さな足だ。

 アルコールで拭いてあげると、ぼろぼろ垢が出る。ついでに、全身を簡単に拭いてあげる。

 ママの帰国予定日は3月4日。ママが戻ってくる前に、一度でもいいから、風呂に入れてあげたい。

 血圧が少し低くなっている。熱はなし。

 

3月1日(月)

 昼に体交した時にウンチのにおいがして、オムツをみたら、直径2センチもない小さな固いウンチが出ていた。

 2週間ぶりくらいの排便。

 モニターの画面上でしか見えなかった命の証が見えた気がした。

 小さなビー玉くらいのウンチが、宝石のように嬉しい。

 酸素レベルが上がらない、とのことで、酸素マスクをつける。

 美晴の顔がどんどん見えなくなっていく。

 瞳孔の反応も鈍いとのことだが、瑞穂が学校から帰ってきて、隣の部屋でピアノを弾き始めた途端、少しまぶたが動いた気がした。

 気のせいだろうか。

 

3月2日(火)

 おじいちゃんが、たまには外をぶらついて来い、というので、久しぶりに街に出る。

 近所のコンビニのディスプレーを見て、明日がひな祭りの日だ、と気づく。

 瑞穂に、雛人形を飾ってやるのをすっかり忘れていた。時間がない。

 瑞穂が気が付かなかったはずはないけれど、言い出せなかったのだろう。かわいそうなことをした。

 コンビニで、小さな雛人形のマスコットを買って、ひなあられを買って家に戻る。

 公園の子供たちの笑い声を聞くのが辛い。

 血圧値低下。ママは明後日帰ってくる。頑張れ美晴。

 

 (このページの残り余白。次のページから)

 

 今日は3月8日。

 数日、ただ呆然としていた。

 でも、この記録はきちんと仕上げなければいけないと思う。

 美晴が旅立っていった瞬間のことまで、書ききらなければ。

 正直、細かいことはよく覚えていない。

 ごめんな、美晴。パパは、美晴のことをきちんと記録する係だったのに、一番大事な瞬間のことをちゃんと思い出せない。

 本当に何の役にも立たないパパを許してください。

 

 モニターのアラーム音で目が覚めたのと、おばあちゃんが部屋に飛び込んでくるのとが同時だったから、多分、アラームが鳴り出してからも、しばらく目が覚めなかったんだと思う。

 あの時ちゃんと目が覚めていたら、とか、悔やむことは山のようにある。

 おばあちゃんは、後悔するな、という。

 後悔したって、時間は逆戻りしない。

 時計を見ると、夜の12時近かった。

 心電図モニターが甲高い音をひっきりなしに立てていて、画面上で血圧と脈拍の数字がみるみる低下していく。

 小池さんも飛び込んでくる。

 手を握れ、とおばあちゃんが叫ぶ。手をさすれ、声をかけろ。

 美晴、美晴、と耳元で大声で叫ぶ。

 小池さんが手でバッグを押して酸素を送り込んでいるけれど、数字はどんどん乱れるばかりだ。

 おじいちゃんが飛び込んできた瞬間に電話が鳴る。

 何か予感があって、おじいちゃんに、電話に出てくれと叫ぶ。

 戻って来い、美晴、戻って来い。

 「ママや」とおじいちゃんが受話器を持ってくる。

 「鳩が」と、受話器の向こうでママが言っている。「今、窓の外で、鳩が。」

 「歌え」とおばあちゃんが叫ぶ。「なんでもいい、景気のええ歌を歌うんや。」

 電話口に向かって、なんでもいいから歌え、と叫び、受話器を美晴の耳に押し付ける。

 受話器から、ママの歌声が聞こえてくる。

 「ホフマン物語」の、オランピアの歌。

 気が付くと、部屋の入り口に瑞穂がパジャマ姿で立っている。

 美晴に触れ、と叫ぶ。

 みんなして、小さな美晴の体を必死になって触った。

 触りながら、美晴の名前を何度も呼ぶ。

 受話器から聞こえるママの歌声が涙で途切れ途切れになる。

 ちゃんと歌え、と受話器に向かって叫ぶ。美晴を呼び戻すんだ、ちゃんと歌え。

 「ミラノの空に」と瑞穂が泣きながら言う。「行ってしまう。美晴が。行くな、美晴。帰って来い。」

 小さな手が冷たくなる。小さな足も冷たくなる。

 いくらさすっても、どんどん命が逃げていく。

 3月3日(水)午前0時30分。美晴は逝った。

 ママは電話口で歌い続けていた。

 

美晴と握手

 

 美晴のお葬式は、おじいちゃんが色々と仕切ってくれた。

 帰国したばかりのママも大地さんも、憔悴しきったおばあちゃんも、世俗の世界で繰り広げられていることを理解したり、処理できる状況じゃなかった。

 私自身は、といえば、結構冷静だったと思う。割と細かいことをよく覚えている。

 いいお天気で、ものすごく空気が凍てついていたこと。

 受付に、美晴の幼稚園のお友達の列と、ママと大地さんのオペラ業界の参列者の列と、おばあちゃんの医療業界の列があって、それぞれの列に並ぶ人たちの色合いが全然違っていて感心したこと。

 喪服の岡崎さんがいつもにも増して綺麗だったこと。

 式場に流れていたママのCDの歌声。

 小さな美晴の棺。

 体にしみこんでいくようなお線香のにおい。

 早紀ちゃんが側に来て、「瑞穂、泣いてないな」とぼろぼろ涙をこぼしながら声をかけてくれたこと。

 それに微笑んでうなずいたこと。

 

 終始しめやかにおだやかに、というお葬式じゃなくて、事件もあった。

 一番のトラブルは、突然カメラを持って押しかけてきた雑誌の記者だった。

 「榊原詠子、スカラ座衝撃デビューの裏に、最愛の息子との死別」とかなんとか、そういう下品なデカイ文字のタイトルをそのまま顔に貼り付けたような、脂ぎったオッサン。

 おじいちゃんが追い返そうとしたけれど、ママは、

 「私が会います」

 と言って、インタビューに応じた。

 なんで、とみんなが言ったのだけど、ママが、

 「少しでも沢山の人に、美晴のことを知ってほしい」

 と言うので、みんな引き下がった。

 記事自体はそれなりに好意的な記事だったらしいけど、私は読んでいない。

 あのオッサンが書いたのだ、と思うだけで不愉快だから。

 

 棺の中の美晴の顔を覗き込んだ時も、私は泣かなかった。

 これは抜け殻だ。

 美晴の魂は光になって、遠く天の高みで歌を歌っている。

 そう思っても、美晴の抜け殻は、優しい静かな微笑を浮かべていて、それが嬉しかったのを覚えている。

 体につながっていた沢山の管が全部取れたことが、本当に嬉しかったのを覚えている。

 

 小さな棺の中に、美晴の幼稚園のお友達が、沢山の手紙やおもちゃや、自分が大切にしていたものを入れてくれた。

 目を真っ赤に腫らした幼稚園の先生が、一足先に作ってくれた卒園証書を読んでくれて、それも棺に入れた。

 美晴の右手には、ずっと離さなかった大屋さんの指揮棒がある。

 これもそのまま、棺に入れた。

 美晴の小さな体が花と贈り物に埋まって、小さな笑顔だけが覗いている。

 

 フルーツフラワーパークで撮った笑顔の写真を引き伸ばした遺影。

 大地さんが持って、火葬場に行く。

 美晴の魂は先に天に行っているから、体も煙にして天に返すのだ。

 なんだか、がらん、とした細長い部屋に招きいれられると、一方の壁に、エレベーターみたいな扉がいくつも並んでいる。

 一番端の扉の前で、最後のお別れをした。

 みんな泣いていたけど、私は泣かなかった。

 名前も知らない親戚のおじいちゃんが、「子供は低い温度で焼くんや、骨がちゃんと残るようにな」と、大きな声で言っているのを聞いて、ふざけんなよ、と無茶苦茶腹が立ったのを覚えている。

 こう思い出してみると、悲しい、という気持ちよりも、腹を立てていることの方が多かった気がする。

 理由はよく分からない。

 ママや大地さんが呆然としているのも、なんとなくイライラした。

 その一方で、おじいちゃんがてきぱきといろんなトラブルを捌いているのも、なんとなく不愉快だった。

 ただ、じっと静かに、天から聞こえてくる美晴の歌声に耳を傾けていたい、と思った。

 だから、何より嬉しかったのは、ただ黙って、私の側に立っていてくれている岡崎さんだった。

 岡崎さんが時々、そっと私の肩に手をおいてくれる。

 そのぬくもりが、何より嬉しかった。

 

 エレベーターみたいな扉から、大きな細長い鉄板みたいなのが出てきて、その上に、小さな骨が散らばっているのを見ても、私は涙を流さなかった。

 こんなもんか、と思った。

 ママとおばあちゃんは泣き崩れて、もう立っていられない状態で、大地さんとおじいちゃんと私の3人で、フライドチキンの骨みたいに小さな細い骨たちを、骨壷に納めた。

 玄関先で、タクシーから降りた時、岡崎さんは私に向かって、何か言葉を探しているみたいに、ちょっと視線を宙に泳がせた。

 でも、結局言葉は見つからなくて、ただ小さく微笑んで、じゃあね、と私に手を振った。

 私も微笑んで、じゃあね、と手を振った。

 斜めになった日差しがあたって、岡崎さんの白い手が、光の中で輝いた。

 あ、光になった美晴が岡崎さんと握手している、と思った。

 気が付けば、私が振り返している手のひらも、日差しの中で真っ白に輝いて見える。

 手のひらを日にかざして、美晴の光をつかまえようとした。

 美晴が身をよじって逃げるように、指のすきまから光がこぼれる。

 自分の産毛の上に光の粒が留まって、いたずらっ子のように、くすくす笑っているように見える。

 こら、逃げるな美晴。私は小さくつぶやいた。

 

 自分の頬が濡れているのに気が付いて、びっくりした。

 涙がとめどなく流れて、去っていく岡崎さんの背中がぼやけた。

 光が涙の中で広がる。

 美晴に会いたいよ。

 あの小さな手を握ってあげたいよ。

 やわらかいほっぺを突っついて、くすぐったがって笑う声を、聞きたいよ。

 大きな声で調子っぱずれに歌うオペラの歌が聞きたいよ。

 ママがいなくてさびしい時には、一緒の布団で、抱き合って眠りたいよ。

 美晴。美晴。美晴。美晴。美晴。

 

 おじいちゃんが、「どうした?」と出てきて、私はおじいちゃんの方に振り返ると、大きなお腹に取りすがって声を上げて泣き出した。

 おじいちゃんはいつものように、「泣くな」とは言わなかった。

 ただ、私の頭をぎゅっと抱きしめて、じっとしていた。

 大きなお腹がひくひくしていて、ああ、おじいちゃんも泣いている、と思った。

 男親は泣いてばっかりで、役に立たん、なんて、おばあちゃんは言ったけど、おじいちゃんは泣きながらでも、立派に葬式を出してくれたぞ。

 よかったな、美晴。そう心でつぶやいた。

 

 美晴のお葬式はこうして終わった。

 今から7年前の、3月のことだ。


終曲~「私の名はミミ」~

 

東京のマンションにて

 

はい。みんなわたしのことをミミと呼ぶの。

けれど、本当の名前はルチア

私のお話は簡単。

私は、刺繍をして暮らしています。

穏やかに、幸せに、

ユリやバラを作るのが、私の心の慰め。

優しい魔力を持っている、

愛や青春について話してくれる、

夢や空想について話してくれる・・・

詩というものが好き。お分かりかしら? 

(プッチーニ作曲「ラ・ボエーム」から、ミミのアリア「私の名はミミ」)

 

 そろそろ、今の私の話をしようと思う。

 まぁ色々あって、私は今、東京のマンションに「ほぼ」一人で暮らしている。

 「ラ・ボエーム」の若者たちが住んでいた屋根裏部屋みたいに、東京の街が見下ろせる部屋。

 でも、ミミのように、お針子をして暮らしているわけじゃなくって、もう少し優雅な暮らしです。

 多摩にある音大のピアノ科の二年生。

 プロのコレペティトゥアになる日を夢見て、日々ピアノレッスンの日々。

 一人暮らしの女子大生、ということで、ついに彼氏ができるかも、なんて期待もあったけど、小杉先生のところでのピアノレッスン、先生のアシスタントのバイト、新人演奏会の稽古、日々の学業と課題、と、スケジュールはほとんど真っ黒。

 なかなか胸ときめく出会いが訪れない。

 このマンションにはロドルフォが住んでいる気配もない。というわけで、彼氏いない歴も日々延びるばかり。

 

 課題曲のおさらいが終わると、色んなオペラのオケ譜を眺める。

 ぼんやり眺めながら、頭の中に鳴る色んな楽器の響きに耳を澄ませていると、時間はあっという間に過ぎていく。

 トランペットの笑い声、クラリネットの泣き声、フルートの鼻歌。

 コントラバスのうなり声、ティンパニーの咆哮。ビオラの気取った裏打ち、ファーストバイオリンのソシアルダンス、チェロの壁際の独り言・・・

 好き勝手な音の響きが、押し合いへしあいしながら、一つの和音の中で自己主張している。

 こんな多彩な音を、ピアノと私の10本の指だけで、どうやって再現してやればいいのか。

 あの酒蔵コンサートの時の小杉先生のピアノみたいに弾きたい。

 ピアノという楽器の持っている音色の全てを、この指で引き出してあげたい。

 

 「雨のように弾いてみて、とか、風のように弾いてみて、とか言われて、分かりました、と言えないとね。」小杉先生は言う。

 「イメージを語るのはたやすいのよ。問題はそのイメージを、ピアノという楽器でどう表現するか。それには技術がないとだめ。打鍵の強さ、ペダルの深さ、指の角度・・・それで変わるピアノの音色に耳を澄ませて、その変化を再現していく。実験を繰り返す科学者のようなもの。」

 悩んで、実際にピアノに向かって試して、なんてやっていると、あっという間に一人の時間は過ぎていく。

 オペラや歌曲の伴奏者には必ず求められる、語学の知識も厄介だ。イタリア語を中心に、フランス語、ドイツ語、ロシア語、英語。

 小杉先生の頭の中にはラテン語を含めたヨーロッパのほとんどの言語が、音声付の電子辞書のような形で完璧に揃っている。あの境地に達するための勉強に費やす時間も含めたら、ロドルフォを探している時間なんぞ1秒もない。

 

 甘い出会いを阻んでいるもう一つの要因は、時々嵐のようにやってきて、嵐のように去っていく同居人。

 言うまでもなく、ママである。

 そもそも、このマンションは、ママの東京での活動拠点としておじいちゃんが購入したもので、私の大学からは相当距離がある。

 大学に合格した後も、東日本大震災の大混乱もあり、おじいちゃんは最後まで、私が東京で一人暮らしを始めることに難色を示していた。

 でも、おじいちゃんは結局、

 「神戸がしんどい時に助けてくれた東京から、私らが逃げるわけにはいかん。瑞穂のことやったら大丈夫や、たまに私が予告なしに抜き打ち検査しに行って、男連れ込んでたらその場で瑞穂をダンボールに梱包して、神戸に着払いで送り返したる」

 というママのセリフに、しぶしぶ、私を東京に送り出すことに納得してくれた。

 そのセリフ通り、ママは本当に予告なしにやってくる。

 東京でのオペラ公演スケジュールだけを把握しておけば、大体予測はつくと思っていたのだけど、甘かった。

 今週はフィレンツェで歌っているはずだ、と思って、友達とちょっと夜遊びして――残念ですが、女友達――、帰ってきてみたら、ダイニングのテーブルに座ってこっちを睨み付けていて泡を食った。

 大体、最近のママのスケジュールはグローバルスケールなので、私ごときでは把握できない。

 ママも自己管理は諦めて、マネージャーさんを雇った。

 君塚さん、という、小柄で可愛い女性だが、この君塚さんも、ママに代わって時々予告なしに、私の部屋のダイニングでカップラーメンをすすっていたりする。

 こんな状態で誰が男なんぞ連れ込めるか。

 

 大地さんは、今ヴェネチアにいる。

 美晴が光になった半年くらい後、フェニーチェ歌劇場に戻った。

 自分を育ててくれた歌劇場に恩返ししたい、というのが建前。

 ちょうどその時期、ママがイタリアの歌劇場でのソリスト契約を決めたので、ママのそばにいたい、というのが本音。

 ジョルジョとジュゼッピーナの魂のそばにいてあげたい、という思いも、きっとあったと思う。

 ということで、二人は、中学生になったばっかりの娘を神戸のジジババに押し付けて、手に手を取って水の都ヴェネチアに旅立ち、そのまま彼の地に活動の拠点を定めてしまった。

 ちなみに、大地さんは、イタリアに逃亡する際、離婚届にハンコを押して家に残してきていたのだが、詠子さんがそんなものに判を押すはずもなく、二人の戸籍は、きれいに夫婦のままである。

 どこまでもはた迷惑な夫婦だ。

 

 というわけで、私が自分の進路を決めていくのに、大地さんも詠子さんも、全くあてにできなかった。

 進路相談や、何を勉強したらいいか、といったことは、神戸で習っていたピアノ教室の先生や、早紀ちゃんのママや、小杉先生に直接電話で相談したりして決めていった。

 小杉先生のレッスンを受けるためには、やっぱり東京の音大に行くしかない、と、東京行きも自分で決めた。

 そうやって私は自分の夢に向かって着々と進んでいるのに、その着実さが心配だ、とママは言う。

 瑞穂はなんだかぼーっとしているように見えて、意外とそつのない所があるから、きっと大人の階段も抜かりなく上っていくのだろう、と訳の分からないことを言う。

 

 ということで、我々家族はいま一家離散状態である。

 でも、相変わらず、私たちは日本一の家族を自認している。

 何といっても、私たちの間には、詠子さんの歌があるし、空からは美晴の光がさんさんと降り注いでいる。歌のない生活はないし、光のない生活もない。

 だから私たちは、いつでもつながっている。

 世界のどこにいても、私たち家族は一つだ。

 

夢はカーネギーホール

 

 とは言っても、美晴を亡くしたショックから、私たち3人がそんなに簡単に立ち直ったわけじゃない。

 私は、小学校卒業だの中学入学だの、次々にやってくる現実世界でのイベントに対応しないといけなかったから、世界が、美晴の死という出来事だけで出来上がっているわけではないことを、割と早い時期に思い知らされた。

 でも、大地さんとママはそういうわけにはいかなかった。

 ほとんど2ヶ月近く、2人はずっと、神戸の家の2階に引きこもっていた。

 美晴の遺品の整理だ、というのは言い訳で、美晴の思い出と、美晴の不在と、自責と後悔の泥沼の中に、どっぷり首まで浸かっていたのだ。

 このまま2人して、美晴の後を追ってしまうのかもしれない、と私は真剣に思った。

 そうなると私は一人だ。

 でも、私にはどうしても、美晴の残された断片を必死になって拾い集めている2人に、同調する気にはなれなかった。それが、美晴が望んだことだとは思えなかった。

 美晴は私に言ったんだ。

 ちゃんと元気でご飯を食べて、元気で大きな声で歌を歌って、毎日笑って暮らしてね。

 でも、どうやったらママと大地さんが、一杯ご飯を食べて一杯歌って一杯笑ってくれるようになるのか。

 美晴、知恵を貸してくれよ、と、夜、何度も祈ったけど、夢に出てくる美晴はけらけら笑っているばっかりで、なかなか具体的な知恵を出してはくれなかった。

 

 2人を引きこもり状態から引っ張り出してくれたのは、岡崎さんだった。

 美晴の49日に来てくれた岡崎さんは、ママと大地さんに、

 「美晴くんのコンサートの企画があるんですが、協力してくださいませんか?」と言った。

 美晴くんの指揮姿のビデオを見て、感動してくれた人たちがすごく沢山いてはるんです。それと、あのコンサートに参加できへんかった区民オペラ合唱団の方々が、私たちも、美晴くんの指揮で歌いたいって。

 「でもどうやって?」と詠子さんが尋ねると、岡崎さんは、「舞台上のスクリーンに、美晴くんの指揮の映像を映して、それを見ながら歌うっていうのはどやろか、って」と言った。

 「ホリゾントに映しちゃうと、合唱団が客席に背中を向けないといけないから」と、大地さんが言った。「指揮者の位置にモニターを置いて、合唱団の方に向けるといいですよね。それと、ホリゾントのスクリーンにプロジェクターから映写してやれば、客席にも美晴の指揮の映像が見えるし・・・」

 大地さんが舞台のセッティングの話をし始めた。いい傾向だ、と思ったとき、詠子さんが口を開いた。

 「私にも歌えって言うんですか?」もう泣いている。「動いてる美晴の映像見て、私に歌えるわけないやないですか。イベントやるんやったらご自由になさってください。私は舞台には立ちませんから。」

 大地さんも下を向いた。ダメだ。また二人とも、自分の中に逃げ込んでいく。

 「美晴くんやったら、ママ、歌って!って、叫んでますよ。」岡崎さんが言った。

 ママと大地さんが、顔を上げた。

 「ママ、歌ってって。ママの歌、大好きって。榊原さん。美晴くんの夢はなんでしたか?」

 「指揮者になること。」ママは泣き声で言った。先生に怒られた小学生みたいだ。

 「この演奏会が評判になったら、同じようなチャリティーコンサートが続けて開かれるかもしれません。日本中で、いいえ、ひょっとしたら世界中で、美晴くんの指揮にあわせて、沢山の人たちが歌を歌うことになるかもしれへん。榊原詠子がその舞台に立てば、お客様もいっぱい呼べる。榊原さん。あなたには、美晴くんを世界的な指揮者にしてあげられる力があるんですよ。そんな力を神様から授かったのに、あなたは、このまま美晴くんを、たった一回しか指揮できへんかった指揮者にしてしまうおつもりなんですか?」

 

 私はぽかんと口を開けて、岡崎さんの演説を聞いていた。なんてかっこいいんだ。

 下を向いて黙っていた詠子さんが、しばらくして、ぼそっと呟いた。

 

 「夢はカーネギーホールやな」

 

 顔をあげた。笑顔だった。

 詠子さんと大地さんの心の扉が、開いた。

 

「はるのしずく」

 

 神戸の街に、No.3ギャラリーは、もうない。

 そのあたりの事情も含めて、岡崎さんがくれた手紙の文面を、ここに写しておく。

 1本の酒瓶と一緒に送られてきた手紙だ。

 

前略 瑞穂さま

 

 今年の年末年始は神戸に帰ってくる、との手紙、嬉しく読みました。

 久しぶりに瑞穂ちゃんに会えるのがとっても楽しみ。

 きっと素敵な女性になったんでしょうね。

 

 来年の美晴くんコンサートの日程が、ほぼ決まりました。

 一番大変なのは、秋の横浜でのイベントで、大屋一樹さんの来日にあわせた舞台です。

 大屋さんご自身がピアノ伴奏してくださる、ということで、これまでのイベントの規模とは桁違いのスケールになります。

 御厨さんも私も今から覚悟を決めています。

 詠子さんからも、先日、楽しみにしている、というメールをもらいました。相変わらずお元気そうね。

 

 本題に戻りましょう。瑞穂ちゃんへの、2つのご報告です。

 1つめは、ごめんなさいの報告。2つめは、うれしい報告です。

 1つめの報告。

 この秋、御厨さんと、入籍しました。

 御厨さんもバツイチなので、特に式などは挙げず、私の家族と、御厨さんのお母さんと、子供達だけの内輪で、小さなお食事会をして、お披露目を済ませました。

 瑞穂ちゃんにどう言えばいいか、すごく迷いました。

 瑞穂ちゃんが東京に発つ時、私に向かって、ずっと好きだった、と、頬を真っ赤に染めて言ってくれた時、私は本当に嬉しかった。

 私も瑞穂ちゃんが、ずっと好きでした。

 私が男の子だったら、絶対、瑞穂ちゃんを恋人にしていた、と思います。

 でも、私は女で、瑞穂ちゃんみたいな天使のような子供に愛される資格のある人間ではないのです。

 でも、瑞穂ちゃんが私を愛してくれて、美晴くんが、私に大きな目標をくれました。

 二人のおかげで、やっと私も、誰かを愛することができる人間になれた、そんな気がしています。

 

 御厨さんも、白血病にかかった娘さんの闘病生活の中で、奥さんと治療方針をめぐって対立したあげくに離婚、娘さんも失って、ずたずたに傷ついた人です。

 なんだか、傷ついたもの同士が、お互いをなめあっているような、辛気臭い夫婦ですけど、御厨さんの2人の息子たちが可愛くて、そして私たち夫婦には、美晴くんコンサートを世界規模に広げていく、という共通の夢があって、それが2人の間の絆になっています。

 

 御厨さんは、美晴くんが指揮した舞台のビデオ撮影の話が来た時、それほど乗り気じゃなかったそうです。

 小児がんの家族を援助する会に入会したのは、自分が癒されるためであって、何か自分がやらなければならない義務を負わされることになるとは思っていなかったのだそうです。

 でも、他の人がいないし、家も近いから、と、事務局に無理やり引きずり出されたようなものだったそうです。

 でも、あのコンサートは、御厨さんの人生を根本からひっくり返してしまいました。

 美晴くんの指揮棒に合わせて、瑞穂ちゃんのピアノが流れ出し、合唱団が声をそろえて歌った時、御厨さんは、人間ってすごいんだ、って思ったんだそうです。

 人間ってすごい。こんなにすごいことができる。

 病気とか、寿命とか、いろんな神様が決めたルールの中で、こんなにすごいゲームができるんだって。

 御厨さんはラガーマンだったから、そんな言い方をしていました。

 

 でもね、御厨さんと私が結婚するきっかけになったのは、美晴くんのコンサートだけではないんです。

 今まで一度も、瑞穂ちゃんに話したことはなかったのだけど、私は、昔、子供を死産したことがあるんです。

 その時、私はまだ大学生でした。

 相手は、ショーウィンドウのディスプレイのアルバイトで知り合った人で、私はその年齢なりに子供で、その年齢なりに真剣でした。

 結婚はしない、でも子どもは産むと決めて、6カ月目に、激痛と大量の出血と共にこの世に出てきた子供は、女の子でした。

 私も生死の境をさまよい、なんとか意識が戻った時には、娘はすでに息絶えており、私も、二度と子供の産めない体になっていました。

 私の流産、震災、そして廃業と、あの年、我が家では悪いことが重なりました。

 私は実家に戻ってきて、震災のチャリティーバザーで偶然出会った、小さなフランス人形を部屋に飾りました。

 娘と同じ名前を付けて、毎朝、彼女に挨拶する。

 その挨拶をする時には、どんなにしんどい時でも、つらい時でも、笑顔でいよう。

 私はそう決めました。

 この人形のガラスの目が見ているところでは、いつも笑顔でいよう。

 この目は、天国の娘の目だ。

 娘には、いつも笑顔の母親でいよう。

 

 瑞穂ちゃんは、あの時、新大阪の駅のプラットホームで、どもりながら、私の笑顔が好きだ、と言ってくれました。

 どうやったら、そんな風に素敵に笑えるのか、って聞いてくれました。

 でもね、瑞穂ちゃん、あなたの笑顔もとっても素敵です。

 たぶん、自分にとって本当に大事なものをなくしてしまった人の笑顔は、普通の人の笑顔よりも輝くんだと思います。

 瑞穂ちゃんに、岡崎さんの笑顔が好きだ、と言ってもらえた時、私は本当に嬉しかった。

 娘が、私の笑顔を磨いてくれたんだと思って、本当に、泣きたいくらいうれしかった。

 

 私の娘の名前は、ほんの半日くらいしか、この世で呼吸することができなかった娘の名前は、みずほ、と言いました。

 瑞歩、と書きます。瑞穂ちゃんとは一文字違い。

 この世で一度も歩くことができなかった娘に、せめて名前だけでも、この世に歩みを進めてほしいと付けた名です。

 

 瑞穂ちゃんの名前を初めて聞いた時、私は本当に驚きました。

 なくしてしまった私の子供が、こんなに素敵な女の子になって戻ってきた。

 こんな奇跡が世の中にはあるんだと。

 

 御厨さんが、初めて私の部屋にやってきた時、もう一つの奇跡がありました。

 御厨さんは、美晴くんコンサートの打ち合わせでやってきて、私の部屋に頭をかがめ、身を縮めるようにして入ってきました。

 知っての通り、体の大きな人ですからね。

 そして、鏡台の側にちょこん、と座っている、みずほ人形を見て、そのまま固まってしまいました。

 

 「この人形」とだけ言って、あの人は、言葉を失って、私の方を振り向きました。いかつい顔がゆがんで、もう泣き顔になっていました。「どうしてここに。」

 

 御厨さんの亡くなった娘さんが、一番大事にしていた人形が、みずほ人形と瓜二つのフランス人形だったそうです。

 その人形は娘さんの棺に入れられて、娘さんと一緒に天に旅立っていったのだそうです。

 

 その話を聞いた時、私は思った。

 この人になら、私の心の傷のことを話すことができる。

 そして、神様が時々しでかす、ちょっとしたいたずらの数々について、一緒に憤慨したり、一緒に感動したりすることができる。

 そして、思いをつなぐことができる。

 失ったものを取り戻すのだ、と言う強い思いを。

 失ったものは戻ってくる。

 姿形は変わっても、必ず戻ってくる。

 それを願う人の思いさえ強ければ。

 世の中はそういう奇跡に満ちている。

 そう、私たちが生きているこの一瞬一瞬が、奇跡の連続なのだから。

 

 御厨さんには、中学生2年生と小学校5年生の二人の男の子がいて、二度と母親にはなれないと思っていた私が、一気に二人の子持ちになりました。

 二人ともとてもいい子たちです。

 二人とも、姉をなくし、そして母親を失っているので、失うことには慣れていても、何か新しいものを得ることに慣れていないらしく、私と話をする時はまだちょっとぎこちないです。

 でも、ぎくしゃくし、ぶつかったり転んだりしながら、いつのまにか家族っぽくなっていけばいいかな、とのんびり考えています。

 

 以上が、一番目の報告です。

 瑞穂ちゃんをお嫁さんにできなくて、ごめんなさい。

 私もちょっと悲しいです。

 でも、私にとって、瑞穂ちゃんは私の永遠の恋人で、私の、帰ってきてくれた娘です。

 ずっとずっと素敵な笑顔でいてくださいね。

 

 2番目の報告です。

 No.3ギャラリーを酒蔵に戻して、初めて仕込んだ日本酒の新酒が出来上がりました。

 今日お送りしたのが、そのお酒です。

 名前を、「はるのしずく」とつけました。

 これは、美晴くんがくれたお酒です。私も父も、そう信じています。

 

 宮水が涸れて、酒造りを断念してからも、父はずっと、いつか宮水が帰ってくるかもしれない、と思い続けていました。

 毎朝、顔を洗って、井戸端に行って、ポンプの電源を入れて、蛇口をひねる。

 水は出てこない。

 電源を切る。

 それが父の、朝の日課でした。

 

 あの日、美晴くんが天に召された日の朝、いつものように蛇口をひねると、かすかに手ごたえがあったのだそうです。

 蛇口から、小さな小さな一滴が、少し濁った、でも確かな一しずくが垂れて、その後、一つ、また一つ、と続き、細い細い糸のような流れが、静かに蛇口から落ち始めた、と。

 

 美晴くんの訃報を聞いた時、私も父も、はっきりと信じました。

 これは美晴くんのしずくだ。

 この宮水を使って、酒を作ろう。

 そしてそれを、美晴くんの墓前に供える。

 それが、父の目標になりました。

 

 酒を造るのに十分なまでに宮水の水量が回復し、No.3ギャラリーを元の三番蔵に戻し、ばらばらになっていた蔵人さんたちを呼び集め、再び酒の仕込みができるようになるまで、7年もかかりました。

 父も私もあきらめなかった。

 これが、美晴くんが私たちにくれた、夢の贈り物だと信じたからです。

 

 そのお酒が、やっと出来上がりました。

 瑞穂ちゃんももうすぐ20才ですね。

 誕生日が来たら、是非、味見してみてください。

 もしお酒が苦手なら、蓋を開けて、その香りだけでも楽しんでみてください。

 美晴くんの夢の香りがします。

 あなたたちが過ごした、神戸の香りもします。

 今はもうない、あのNo.3ギャラリーの香りもするかもしれません。

 

 これで、今日の報告は終わりです。

 No.3ギャラリーで、瑞穂ちゃんのママの歌声を聴くことはもうないけれど、三番蔵には、いま、蔵人さんたちの歌う櫂入れ歌や、麹のささやく小さな歌声が満ちています。

 神戸に帰ってきたら、きっと遊びに来てくださいね。 草々  御厨 泉

 

そして再び、No.3ギャラリー

 

前略 御厨 泉 様

 

 お元気ですか。

 この手紙を、岩手県の大船渡市というところで書いています。

 私の隣には早紀ちゃんがいて、私が何か書こうとするたびに突っ込んでくるので、ちゃんと最後まで書けるか、なんだか自信がありません。うるさいっての。

 なんで二人で大船渡にいるのか、とか含めて、大事な報告が2つあるのだけど、えっと、どこから説明したものやら。

 

 報告の前に、とりあえず、早紀ちゃんは相変わらずです。

 元気です、という意味です。

 相変わらず、私の首根っこをつかんで色んなところに引きずりまわしています。私より頭一つ小さいくせに、私よりよっぽどパワフルです。

 そしてその勢いで、私は、この三陸の港町まで引きずってこられました。

 

 早紀ちゃんは、結局、私の父(あ、大地さんのことです)と同じ大学の同じ学部に入りました。芸術学科の中でも、舞台表現の専攻。

 父は舞台制作を勉強したけど、早紀ちゃんは舞台美術をやりたい、ということで、大学に通うだけじゃなく、都内の色んな舞台制作のプロダクションでバイトしたり、アグレッシブに活動してます。

 脚立姿も、岡崎さん(すみません、やっぱりこの名前でいいですか?)と同じくらい、板についてきました。

 

 去年の夏、早紀ちゃんが手伝っている劇団が、東北で震災ボランティア活動をやる、というので、早紀ちゃんもついてきたのだそうです。

 あ、ここからが、1番目の報告になります。

 大船渡市の市民文化会館で、お芝居を何回か上演した後、空いた時間で、市内をぶらぶらしていた時に、盛町、という商店街の中で、古い酒蔵を見つけたそうです。

 大船渡近辺、気仙地方というそうだけど、そこの地酒を昔作っていた、土壁作りの古い酒蔵。

 

 そこのオーナーさんと意気投合して、早紀ちゃんが、大学の仲間や、大船渡の人たちと一緒に、半年がかりで作り上げた建物の写真を、同封しました。

 ね、岡崎さんのNo.3ギャラリーそっくりでしょう?

 

 蔵の構造自体がかなり違うし、もともとの土壁の雰囲気を残したい、というオーナーさんと早紀ちゃんの意向もあって、屋内の雰囲気とか、かなり違うけど、コンクリートの打ちっぱなしに、天井にワイヤーを張り巡らせて、ハロゲンライトを点在させる、という作りは、そっくり、神戸のNo.3ギャラリーを踏襲したそうです。

 この酒蔵も、第三号蔵、と呼ばれていたんですって。

 だから、名前もそのままいただきました。No.3ギャラリー。

 

 大船渡も、あの震災で、たくさんの人たちが被災しました。

 港に近い市街地は壊滅状態。

 でも、内陸の盛町は1メートルくらいの浸水でおさまり、第三号蔵も、建物が倒壊するような大きな被害は免れたのだそうです。

 でも、倉庫として使われていた第三号蔵の中にあった様々な機材は、全て使い物にならなくなり、蔵そのものの取り壊しも検討されていたのだそうです。

 大船渡含め、この近辺の震災の爪痕はひどいです。

 みんな、何かを失くした人ばかり。

 酒蔵のオーナーさんに、早紀ちゃんが、岡崎さんのNo.3ギャラリーの話をした時、オーナーさんがおっしゃったんですって。

 この酒蔵を壊したら、また一つ、我々は思い出を失くしてしまう。

 もう何かを失いたくない。

 この酒蔵に、笑顔で人が集まる時間を、みんなの歌声を、取り戻したい。

 

 早紀ちゃんは、岡崎さんがNo.3ギャラリーを閉めてしまった時、すごくさびしかったそうです。

 早紀ちゃんは、あの空間が大好きだったから。

 いつか、自分のNo.3ギャラリーを作る。それが、早紀ちゃんの夢だったのだそうです。

 その夢がこんなに早くかなうなんて、と、早紀ちゃんは、ちょっと泣きそうになりながら、新しいNo.3.ギャラリーを案内してくれました。

 酒蔵のオーナさんも、色んな企画を準備して、この場所を新しい笑顔の場所にするんだ、と張り切っているそうです。

 

 岡崎さんに、一言言わなきゃ、と思ったけど、完成してから、びっくりさせたい、と、早紀ちゃんは言ってました。

 なので、この手紙で、岡崎さんに報告してほしい、と早紀ちゃんは言いました。

 みんなのNo.3ギャラリーが、戻ってきたよって。

 もう一つの、私の、大事な報告と一緒に。

 

 ここから、もう一つの報告です。

 彼氏ができました。

 あー、書いただけで耳が熱い。ぎゃー。

 

 20歳を目の前にして、やっと、恋人いない歴に区切りがつきました。

 あー、恥ずかしい。でも、岡崎さんにはやっぱり、報告しなきゃ、と。

 

 大学の、ピアノ科の同級生です。

 ピアノ科で入学したけど、今、指揮科に移るために猛勉強中です。

 ちょっと笑顔がいいです。岡崎さんほどじゃないけど。

 

 私が今、大船渡にいるのは、新生No.3ギャラリーのこけら落としの演奏会で、彼との連弾コンサートをやるためです。

 その他にも、地元の合唱団の伴奏ステージなんかもあって、合唱団の先生のご厚意で、彼も、2曲ほど、指揮をさせてもらうことになりました。

 早紀ちゃんが、色々と企画を整えてくれました。

 私が彼の指揮で伴奏していると、脇から早紀ちゃんが、らぶらぶ~、とかいろいろ茶化してくるので、あっちいけって感じです。

 

 彼は同級生だったから、入学当時から知ってたし、向こうはかなり前から、私になんとか声をかけられないか、ずっとチャンスを狙ってたらしいです。

 でも、学内で顔を合わせたときはそんなそぶりは全く見せなかったので、結構むっつりすけべなんだと思います。気を付けねば。

 

 きっかけは、美晴でした。

 春先の、風の強い日の朝のことでした。

 学校の近くの駅から、学校に向かって、てくてく歩いていました。

 東京の道を歩く時って、自分の周りに見えない壁を立てないといけないんだけど、なんだか、そんな壁を立てるのがもったいないような、真っ青な空でした。

 信号待ちをしていた時に、空を見上げました。

 鳥の群れが一群、塊になって空を旋回していました。

 きもちいいなー、と、ぼんやり思いました。

 

 ちょっと不自然なくらい、私の背後に近いところに、誰かの気配がしました。

 男の人だな、と思いました。

 信号が青に変わった瞬間、その人は足早に、私を追い越していきました。

 その人の首筋あたりに、私の頭があって、すれ違いざま、私の頭の上で、その人が、ひー、と掠れた音を立てて、息を吐き出すのが聞こえた気がしました。

 足早に横断歩道を渡っていく黒い背中が、すぐ角を曲がって、視界から消えました。

 

 私はそのまま、立ちすくんでいました。

 胸に抱えていた楽譜の束から、コピー譜のファイルが一冊、ばさっと足元に落ちました。

 すぐそばにいた鳩の一群が、その音に驚いたのか、一斉に飛び立ちました。

 私の周りに無数の羽音が飛び過ぎて、その中の一羽の真っ白な翼が、一瞬、光の塊のように輝くのが見えました。

 

 我に返って、あわててしゃがみこんで、散らばった楽譜をかき集めていたら、指の長い大きな手が、すっと伸びて、コピー譜を一枚、拾い上げてくれました。

 きれいな手だな、と思いました。ピアノと仲よくなれそうな、いい手だな、と。

 

 顔をあげたら、彼でした。

 楽譜を手にした彼が、私の目をまっすぐに見ながら、

 「これって、『ナブッコ』だね?」と言いました。

 「『金色の翼』」だよね?伴奏するの?」

 

行け、我が想いよ、金色の翼に乗って

行け、斜面に、丘に憩いつつ

温かく、甘い祖国のそよ風が香る場所

ヨルダンの河岸に挨拶をしておくれ

 

 耳の奥で、くすくす美晴が笑う声がしました。

 私は、やられた、と思いました。美晴め。

 あのへんな声を立てる黒い影がいなかったら、この人には出会えなかった。

 私が驚いてファイルを落とさなければ。鳩が飛ばなければ。

 そして、その楽譜が、「金色の翼」じゃなかったなら。

 全てお膳立てされてるじゃないか。

 

 そうだよ、僕だよ。

 美晴がそう言っている気がしました。

 僕はいつでも、瑞穂のそばにいるよ。

 これからもちょくちょく、いたずらするからね。

 あの黒い影だって、今じゃ僕の思うとおりに動いてくれるんだ。

 瑞穂はぼんやりしているから、この世界の素晴らしさを、未来への扉を、すぐ見逃してしまうんだ。

 僕がそばにいて、ちょっと肩を叩いてあげないと、気付かないでそのまますたすた歩いて行ってしまうんだ。

 どれだけこの世界が、光と夢と希望と、そして奇跡に満ちているか。

 僕はいつでも瑞穂のそばにいて、瑞穂に見せてあげてるんだから。

 

 分かったよ。私は彼に向かって微笑みながら、降参しました。

 彼は不思議そうに私を見つめ返していました。

 気が付くと、私の頬は濡れていました。

 

 この人に、美晴の話をしたい。そう思いました。

 いいよね、美晴?

 真っ青な空。美しく晴れ上がった空の高みの美晴に向かって、私は心の中で叫びました。

 この人に、美晴の話をしたいよ。

 この世界を作り上げている奇跡の物語を。

 そしてその奇跡の結晶である音楽の物語、オペラの物語を。

 私たち、オペラの子供たちの物語を。

 美晴の笑う声が聞こえた気がしました。

 その声が、空の高みから私に降り注ぐのを、私は感じました。

 美晴が飛んでいる姿を見ました。

 天の高みを、金色の翼に乗って、どこまでも、どこまでも駆け上がっていく、美晴の姿を。

 

【みてみんメンテナンス中のため画像は表示されません】

【みてみんメンテナンス中のため画像は表示されません】


(了)

No.3ギャラリーは、岩手県大船渡市に実在しています。最後に掲載したのはこのNo.3ギャラリーの写真。このギャラリーとの出会いが、この物語が生まれる大きなきっかけになりました。No.3ギャラリーは、震災後も大船渡市の文化の発信地として活躍しています。

この物語はここで一旦完結。次回は、番外編となる、瑞穂の実の父親が登場する物語を掲載して、連載を終えようと思っています。あと一回、お付き合いいただければ幸いです。

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