第三幕<ヴェルディ作曲「ナブッコ」より「金色の翼に乗って」>前半
美晴の夢を実現させるための準備を進める大地さんと瑞穂。大地さんは、自分に巣食った黒い闇を語り始める。
第三幕~ヴェルディ作曲「ナブッコ」より「金色の翼に乗って」~
ヨーゼフの幸せ
「ヨーゼフは幸せだったのかな?」と、大地さんは呟いた。
その時、私たちは、区民センターのホールの案内図だの、早紀ちゃんのママが指導しているオペラ合唱団の稽古スケジュールだのの資料を広げていた。
ここの段差は車いすで越えられるか、とか、合わせ稽古の日はどうするか、とか、そういう細かい確認事項をリストアップするためだ。
私たちの計画は、早紀ちゃんのママが指導しているオペラ合唱団に協力してもらって、この2月に予定されている合唱団のコンサートの中に、美晴が指揮する曲を一曲だけ入れてもらう、という内容だった。
神戸に帰ってきた大地さんが、なんとか美晴の新しい夢を実現するために、各方面に電話をかけまくり、色んな人にかけあって、だんだん形になってきたプランだ。
私たちの側には、美晴のベッドがある。
今、美晴はすやすや眠っている。
今度、美晴が目を覚ました時に、美晴の何が失われているかは分からない。
神様と悪魔の取引の結果、美晴が勝ち取った聴覚は、今でも鋭敏なままだったけど、美晴の発語はどんどん不明瞭になっていて、さすがの私も次第に聞き取れなくなっている。
大地さんは、ボタンを押すとあいうえおを人工音声で出してくれるボードをネットで見つけてきて、発注中だ。
まだかなり自由に動いている美晴の右腕で、意思疎通を確保しようという工夫。
大地さんは、美晴の日常生活になるべく支障がないように、毎日のように小さな工夫を思いついては実行していた。
「ヨーゼフは幸せだったのかな?」
大地さんの声に、私が顔をあげると、大地さんは、美晴のベッドの脇に飾ってあるクリスマスツリーを見つめていた。
は?と問い返すと、大地さんは、ちょっと照れたような顔をして、「クリスマスになるといつも思うんだよ」と言った。
「ヨーゼフは生まれてきたイエスの神々しさや、マリアの美しさにぼおっとなったと思うんだ。この二人を必ず守りぬいてみせるって思ったと思うんだ。でも、イエスは十字架にかけられてしまった。彼は結局、最愛の家族を守りきることができなかった。」
これは大地さん自身の話だ。私は気がついた。
イタリアから帰ってきて初めて、大地さんが、自分自身のことを語り始めた。
「どうしてイタリアに行っちゃったの?」私は思わず言っていた。言ってから、しまった、と思った。
これを大地さんに聞いちゃいけない、というのがお約束だったはずなのに。
大地さんは私の方を見た。小さく微笑んで、CDプレーヤーのリモコンを取り上げた。ボタンを何度か押す。
ぎりぎりに追い詰められた崖っぷちで、絞り出すような旋律が流れてくる。プッチーニ作曲「トスカ」から、トスカのアリア、「歌に生き、恋に生き」。
わたしは歌に生き、恋に生き
人様に悪い事など決してしませんでした!
貧しい人たちを知れば、
そっと手を差し伸べ みなお助けしました
いつでも心からの信仰を込めて祈り
ご聖像の壇にのぼり
いつでも心からの信仰こめて
祭壇に花を捧げました。
それを この苦しみのときに
なぜ なぜ 主よ
どうしてわたしにこのような報いをお与えになるのですか
「もう一人の俺が」大地さんは口を開いた。「地獄に落ちた。」
もう一人の大地さんのこと
彼とは、フェニーチェ歌劇場で会った。
ジョルジョって言う。
彼は舞台演出助手、俺は劇場の裏方スタッフ。
一緒に、舞台の裏の暗がりから、舞台を見ていた。光り輝く舞台と、歌い手たちを。
最初に一緒に仕事した演目は、モーツァルト「コシ・ファン・トゥッテ」。
詠子さんは、デスピーナをやった。キュートないたずら好きの女中さん。
フェニーチェみたいな有名な劇場でも、長期公演になると、劇場と専属契約している若手歌手が中心の、いわゆるBキャスト公演と、有名な人気歌手をそろえた、Aキャスト公演を交互にやって、スケジュールを埋めていく。
詠子さんはまだ、Bキャスト公演で頑張ってた頃だった。
駆け出しの詠子さんのデスピーナ。
そりゃもう、無茶苦茶可愛かったぞ。
俺が下手側の舞台袖から、ほとんど仕事そっちのけで、目にお星さまキラキラ浮かべて、うっとり詠子さんを眺めていたら、おんなじ目をして、上手側の舞台袖から、舞台上をうっとり見てる男がいた。
それがジョルジョだった。
ジョルジョの視線の先には、フィオデルリージを歌ってるソプラノがいた。
ジュゼッピーナっていうソプラノだ。彼女も本当にいいソプラノだった。
お願い、愛するあなた、私を許して
恋する心の この過ちを
この蔭に、この木立の間に
ずっと隠しておきますから。ああ、神様、きっと!
真実の愛と、虚構の愛の間で身もだえするフィオデルリージ。
虚構が真実を凌駕し、真実の愛が、粉々に砕けて壊れていく。
ジョルジョはボロボロ泣いていた。
フィオデルリージが、下手袖に退場する。ジュゼッピーナが、俺の脇をすりぬけていく。
その背中を追いかける彼の眼と、目が合った。
そこで多分、お互いに分かった。ここに同じ人種がいるって。
人気上昇中、売出し中のソプラノ歌手に思い焦がれる舞台の裏方同士。
いや、多分、それだけじゃない。
舞台裏から見る光の輝きに、舞台袖から見つめる舞台の儚さに、魅入られたもの同士。
その日の舞台が終わったら、通用口にジョルジョがいた。俺の方を見て、にやっと笑った。俺も笑った。
そのまま、一緒にバールに行って、飲み交わした。
その日の舞台の話。ジュゼッピーナの調子がどうだったか、詠子さんの調子はどうだったか。
二人の声の特徴、魅力、二人に合う役。自分が一緒に仕事をしてみたい演出家、指揮者。
詠子さんとジュゼッピーナを歌わせてみたい劇場、日本の現場、イタリアの現場、好きな演出家、好きな指揮者・・・
「ゼフィレッリの舞台は、豪奢な夢だ。」今も覚えているジョルジョのセリフ。
本物と見まがうほどにリアルで、目がくらむほどに豪華な舞台であっても、それはあくまで作り物の舞台装置に過ぎない。公演が終われば全て壊され、舞台上には何もなくなる。
まっさらな平場に戻る。観客も、演者も、そこに集う誰もがそれを知っている。
いずれ破壊されてしまう儚い夢。
それなのに、ため息が出るほどに豪奢な夢。
だからこそ、人は感動する。胸躍らせる。
破壊されるからこそ美しい。
一瞬で消えてしまうからこそ、美しい。
シンプルな舞台装置で、演者の演技だけで勝負しようっていう最近の舞台演出はあんまり好きになれないね。俺たちは観客に夢を届けるのが仕事だ。
アパートの隣の部屋で起こった痴話げんかを見せるみたいな舞台は好きじゃない。
俺の深いところが、同じ音色で共鳴する。そんな気がした。
人偏に夢、と書いて、儚い、と読む。
人が作り上げた夢を、聴衆に届ける仕事。それが俺たちの仕事だ。
歌い手は、夢の中で舞い踊る蝶だ。歌い手そのものが、儚い夢の一部だ。
バールで語り合って語り合って、何時間語り合っても、話が尽きなかった。
もう一人の自分と出会えた。
お互いそう思ったと思う。
詠子さんとジュゼッピーナのタイプが全然違った、というのも幸いしたのかもしれない。
同じタイプだとライバル関係になってしまう。ファン同士の会話も喧嘩ごしになる。
詠子さんとジュゼッピーナだと、そういうことにはならなかった。
詠子さんは知っての通り、結構肉体派、というか、身体のコントロールから役に入っていこうとするけど、ジュゼッピーナは明らかに、気持ちで役にのめり込んでいくタイプ。
得意な役もちょっと違ったんじゃないかな。
詠子さんの一番の当たり役は、ドニゼッティ「愛の妙薬」のアディーナだと思う。
ああいう、育ちの良さと知性に、コケットな感じが加わった役、というのをやらせたら無敵だ。
ジュゼッピーナの当たり役は、トスカだった。
色んな意味で、彼女はトスカだったと思う。
歌に生き、恋に生き、そして、自ら破滅していく女。
小池さんがいてくれてラッキー
美晴の検温の時間になって、小池さんがやってきた。
小池さんは、おばあちゃんの病院の最古参の看護婦さんだ。小池さんは、週の半分くらいを泊り込みで勤務してくれている。
美晴を自宅で看病する、とおばあちゃんが言い出した時、自分からそう申し出てくれた。
小池さんがいなかったら、さすがのおばあちゃんでも、美晴を看病しながら、病院の診察を続ける、なんてことは不可能だったと思う。
小池さんは、ぐっすり眠っている美晴を起こさないよう、検温、血圧、脈、と手際よく調べていく。
血圧が少し高いね、とつぶやく。点滴の袋を取り替える。
相変わらずおしっこやうんこの出が悪いらしくて、大地さんとその話をしばらくしている。
小池さんは、美晴がきっちり食べ物を咀嚼できていることを誉めていた。
固いものは難しいけど、ある程度やわらかいものならちゃんと飲み込むことができる。
この分なら、栄養チューブは、しばらくいらんね、と言ってくれた。
東京に行く前の様子やと、年内には栄養チューブかな、って覚悟してたんやけどね。東京に行ってから、一生懸命体力をつけようって、自分で頑張ってるみたい。ちゃんと食べへんかったら、体力つかへんぞって。
指揮者には体力が必要だからね、と私が言う。そうだね、と、小池さんも微笑む。
美晴がね、と、大地さんが小池さんに言う。
僕は本当にラッキーだったって言うんだよ。
ラッキー?小池さんが聞き返す。
僕と同じ病気になる子供は沢山いるんでしょって。でも、僕みたいに、おうちが病院で、おうちでこうやって、病院に入院してるみたいに、看護婦さんに点滴してもらったりできる子供なんかめったにいないんでしょって。
おばあちゃんがお医者さんでラッキー。
小池さんがいてくれてラッキー。
ほんまにそうよ。小池さんは微笑みながら答える。
おばあちゃんの病院に来る子供とか、親とか見てるとね。色んな事情があって、子供の面倒を全然見られへん親もおるからねぇ。
美晴がね、小池さんが心配やって言うてたよ、と私は言った。
私が?小池さんは言う。
小池さん、毎日僕のそばにきてくれて、大丈夫かなぁって。おばあちゃんの病院の仕事もあって、そっちの子供たちの面倒も見んとあかんのにって。
小池さんは、「そう、美晴くん、そんなこと言うてくれるの」と言いながら、美晴の寝顔を覗き込んだ。
目をいっぱいに見開きながら、小池さんは微笑んでいた。
「最近、美晴が時々、夜目を覚ます。」小池さんが出て行くと、大地さんは口を開いた。「影が見えるっていうんだ。」
「影?」私は聞いた。
「足元に、影が見えるって。美晴のつま先を触るんだって。ぬるっとした、冷たい手をしてるんだって。それで怖くて目を覚ます。」
影なんかいないよ、って言ってあげたい。
でも、俺は知ってる。影が実在することを。
人が心をこめて、思いをこめて作り上げた美しいものを、一瞬で叩き潰してしまおうと黒い爪を研いでいる。
人の弱い心につけ込むザミエルのように。
アントニアに歌えと命令したミラクルのように。
そして、トスカを自分のものにしようとしたスカルピアのように。
トスカの舞台で
丸椅子事件で、俺が詠子さんと付き合うようになって、ジョルジョは無茶苦茶悔しがった。
数日、口をきいてもらえなかったくらいだ。
折角お互いの分身に出会えた、と思っていたのに、ひょっとしたらそのまま、絶縁状態になってしまったかもしれない。
でも、幸い、劇場が、次の公演を「トスカ」に決めた。
タイトルロールに抜擢されたのは、ジュゼッピーナだった。
ジュゼッピーナも舞い上がっていたけど、ジョルジョの興奮状態は尋常じゃなかった。
一方的に休戦宣言をして、ほとんど俺を引きずるようにして、いつものバールに連れ込んだ。
「トスカは特別なんだ。イタリア出身のソプラノ歌手にとって、本当に特別な役なんだ。」何杯目かの祝杯の後で、彼は言った。「歌姫が、歌姫として舞台に立てる。自分を投影せざるを得ない。マリア・カラスがのめり込んだ役。自分の生き様、人生を問われる役。まさにジュゼッピーナの当たり役。」
「詠子さんには向かないな」と俺は言った。
「彼女だって歌えるだろうさ」と、ジョルジョは言った。「でも、ジュゼッピーナの方が間違いなくいい。」
なんだか上から目線だな、と思ったけど、反論のしようがない。ジョルジョの上機嫌に水を差すのも野暮だ。それに、俺は一つ、ちょっとしたアイデアを持っていた。「一つ提案なんだが、丸椅子事件を再現する気はないかい?」
「どういうこと?」ジョルジョが尋ねた。
「『トスカ』の千秋楽にさ。」俺は言った。「ジュゼッピーナに、君の想いが届くように。」
俺のアイデアに、ジョルジョは興奮し、その後尻込みし、絶対無理だと首を振り、でもやってみようか、と前のめりになり、結局何が何だかわけが分からなくなって泣き出した。
イタリア人ってのはただでさえ感情の振れ幅が大きいのに、ちょっと刺激が強すぎたかもしれない。
俺は、失敗した、と思った。
俺の計画だと、千秋楽だけのいたずらのつもりだったんだが、多分ジョルジョは我慢できない。千秋楽まで、まるで仕事が手に着かないだろう。
しょうがない。多少予算オーバーだが、
「初日からやろう」と俺は言った。「で、千秋楽で、君のアイデアだった、とばらす。」
その「トスカ」の舞台は、今でも劇場の語り草になっている。
ジュゼッピーナのパフォーマンスも素晴らしかった。でも、語り草になったのは、舞台裏のいたずらの方だ。
「トスカ」の終盤、スカルピアの裏切りによって最愛の恋人、カバラドッシを殺されたトスカは、絶望の末、城壁から身を投げて自ら命を断つ。
舞台後方、巨大な階段がしつらえてあって、トスカはそこを駆け上がる。そして城壁の最上段で、
「スカルピア、神のみ前に!」
と絶叫し、城壁から飛び降りる。もちろん、城壁の裏には大きなクッションがあって、そこに向かって飛び降りるんだ。
初日の幕切れ、ジュゼッピーナは渾身の一声を放って、城壁裏のクッションに向かって飛び降りた。その彼女を、むせるようなバラの香りが包み込んだ。
何事?と彼女は周りを見回す。そして、自分を受け止めたクッションの上にまかれた、無数のバラの花びらに気が付く。それは大きなクッションを埋め尽くし、彼女の身体が沈み込むほどの量だ。
「何これ?」とジュゼッピーナは呟く。演出のはずはない。観客に見えない舞台裏で、こんな凝ったことをやる演出があるわけがない。
舞台の表では、感激した聴衆のブラヴィーと拍手が渦巻いている。クッションの傍の舞台スタッフが、彼女を助け起こしながら、にやにや言う。「誰かさんのプレゼントだそうですよ。」
「カーテンコールが始まるぞ!」俺がシラっと叫び、ジュゼッピーナは混乱したまま、緞帳の裏に駆け戻ってくる。髪に絡みついたバラの花弁が、ふくよかな香りをあたりにまき散らす。緞帳が上がり、バラの香りに包まれたジュゼッピーナが、客席に歩み出す。最高レベルのパフォーマンスをやりきった高揚感と、バラの祝福への驚きに、その頬は真っ赤に火照っている。
そして、地の底から湧きあがるようなブラヴィーと拍手の嵐。
舞台袖から、ジョルジョが、涙を流しながらその姿を見ている。
あれは、俺たちにとって、本当に、一番幸せな瞬間だった。
炎と血と
「ジョルジョは、ジュゼッピーナと結ばれたの?」私は我慢できなくなって聞いた。
「ああ」と、大地さんはにっこり頷いた。「初日で仕掛け人がばれてね。おしゃべりの舞台スタッフがバラしちゃって。」
初日から千秋楽まで、ジュゼッピーナの舞台で毎日バラを撒こう、と思ってたんだけど、それだけの量のバラを調達して、花びらだけにして、クッションの上に敷き詰める、なんて作業を二人だけでできるわけがない。
当たり前だけど、何人かの舞台スタッフにサポートをお願いした。
そして秘密は、関わる人が増えるほど漏れやすくなる。
というか、実際、舞台スタッフのみんながジョルジョを応援していたから。
ジュゼッピーナもみんなに愛されていた。
ヨーロッパの劇場は、それ自体一つの大家族みたいなもんだ。研修生から入って、合唱の一員からたたき上げたジュゼッピーナや詠子さんみたいなハコ(劇場)付きの歌手は、みんなの娘みたいなものだった。
使い走りで舞台裏を駆けずり回ってた演出助手や舞台裏スタッフも、オーケストラも衣装部も道具係も、みんな親子や兄弟のような絆で結ばれている。
子供の世話をしたくてうずうずしているマンマやパパが、いっぱいいるみたいな場所。
その中のおしゃべりなマンマの一人が、ジュゼッピーナにすぐ耳打ちしたってわけ。
俺は助かったけどね。バラの調達費用が初日分だけで済んだから。
ジュゼッピーナがジョルジョの愛を受け入れてくれるか、というのが最大の関門だったんだけど、これはびっくりするほどあっさり突破されてしまった。
仕掛け人はジョルジョだよ、と、マンマの一人が耳打ちした途端、ジュゼッピーナは楽屋から、あられもない恰好のまま飛び出して、舞台上で仕込みの最中だったジョルジョを押し倒す勢いで抱きついた。
そのまま熱烈なキス。
見てるこっちが赤面するくらい、情熱的な場面だった。
「さすがイタリア人」と、私が言うと、大地さんは、「瑞穂だって、半分はイタリア人のくせに」と笑う。
でもその笑顔は、すぐに翳ってしまう。
「みんな、喜んでくれた。みんな、幸せだった。あの時間がずっと続けばいいのに、とみんな思っていた。」
「続かなかったの?」私は言った。
「俺と詠子さんが日本に帰ってしばらくして、フェニーチェが焼けた。」大地さんは言った。
残ったのは外壁だけだった。160年間積み上げてきた全てが灰になった。
随分後になって、昔の同僚から、フェニーチェが焼けた日のジョルジョのことを聞いた。
燃え盛る炎の中、あの美しい劇場が、焼けていく。
その姿を、ジョルジョは身じろぎもしないで見つめていたそうだ。
「あいつは微笑んでいた」と、同僚は言った。「涙を流しながら、でも微笑んでいた。何かに酔っているみたいだった。でもやつだけじゃなかった。その場にいた誰もが、炎に包まれるフェニーチェを、何かに取りつかれたように見つめていた。あの光景は、それほど美しかった。」
160年間続いた美しい夢の舞台が、紅蓮の炎の中で消えていく。
全てが破壊されていく。滅び去っていく。
何もかもを呑み込んでいく真っ赤な炎。真っ黒な煙。醜く焼け焦げていく金色の夢。
その時、ジョルジョの背後に、悪魔が立ったのだと思う。
どうだ、美しいだろう。
美しいものが最もその美を輝かせる瞬間を、今こそお前は理解しただろう。
その美が、壊れるときだ。破滅する時だ。
だからこそ神は、人の血の色を、炎と同じ赤い色に染めたのだ。
壊れる時ほど、美は輝く。
全てを焼き尽くす炎ほど、美しいものはない。
死に向かう命が流す真っ赤な血潮ほど、美しいものはないのだ。
トスカへの加虐の喜びに震えるスカルピアのように、ジョルジョの身体の血は沸騰したのだと思う。
お前の涙が、熱くたぎる溶岩のように胸を焼き
そのまなざしが、私への憎しみをあらわにして、
私の欲望を掻き立てる、お前は私のものだ!
劇場の再建の目途は立たなかった。カンパニーは休止状態になって、劇場スタッフは散り散りになり、全てが無になった。
混乱と絶望の中で、ジュゼッピーナとジョルジョも、別々の道を歩むことにしたんだろう。細かいことはよく知らない。ジョルジョから短い手紙が来て、「ジュゼッピーナが去った」とあった。それだけだ。
しばらく、二人からは何の連絡もなかった。
ネットで、ジュゼッピーナがヨーロッパの他の歌劇場で、何かの役をもらったニュースがちらっと報道されたけど、それも数年前から途絶えていた。
二人がどんな道をたどっていたのか、想像することしかできない。
そして、今となっては、幸せな物語を想像することは難しい。
去年の秋、突然、手紙が来た。ジョルジョから。
フェニーチェが復活したと。
その名の通り、不死鳥のごとくよみがえったと。
また一緒に、仕事をしないかって。ジュゼッピーナが、「トスカ」を歌うんだと。
断る理由はなかった。俺はすぐにヴェネチア行きを決めた。
あの幸福な一瞬が、また戻ってくる、そう信じていた。
CDプレーヤーから、カヴァラドッシのアリアが流れてくる。
芸術の神秘よ
種々の美の調和よ。
この美しい女性を描いてはいても
僕が愛するのはトスカ、君だけだ。
よみがえった金色の夢
フェニーチェ歌劇場は、それ自体が、ヴェネチアの金色の夢だ。
金と、ヴェネチアンブルーを基調にした華やかな内装。
演者の汗や熱い息まで感じ取れる、客席と舞台の距離の近さ。
小さな宝石箱の中で、音楽という宝石がキラキラと輝く。ヨーロッパでもっとも美しいと讃えられる歌劇場。
劇場は1792年に創建され、1836年に火災で全焼。しかし翌年1837年には再建。160年間、イタリアを代表する歌劇場の一つであり続けた。
そして再びの火の洗礼。徹底的な破壊。
それが、またよみがえる。再建前の内装をほぼ完ぺきに復元して。
まさにフェニーチェ(不死鳥)。
それを支えているのは、ヴェネチア市民のオペラにかける誇りと、情熱だ。
ゴンドラに乗って、運河に面した搬入口が近づいてくるのを見ると、もう涙が止まらなくなった。
また再びここに来れた。この場所が、再びよみがえった。
ジョルジョは、搬入口の脇に立っていた。
俺とほとんど年齢が変わらないはずなのに、えらく老け込んでいた。一瞬見違えたくらいだ。
真っ黒い影のように見えた。
握手をした手が、かさかさに乾いていた。
笑顔を浮かべて、変な笑い方をした。掠れた、ひー、というような笑い声。
劇場の復活に興奮して、その時は気づかなかったけど、彼の笑顔の中の目は笑っていなかった。
目の奥に、ひどく荒んだ光があった。
俺は気づかなかった。この数年間、彼も苦労したんだな、くらいにしか思わなかった。
気づくべきだったのに。
気づける人間は俺しかいなかったのに。
スタッフの顔合わせ、劇場からの公演の概要説明、本公演までの練習スケジュール、舞台裏の準備線表など・・・
色んな情報を集めるうちに、いくつか違和感を感じた。
新劇場のこけら落とし公演のいくつかの演目がある。ビゼーの「真珠採り」、ヴェルディの「アッティラ」「椿姫」、そして、プッチーニ「トスカ」。
でも、「トスカ」のキャストに、ジュゼッピーナの名前がない。Aキャストにも、Bキャストにも。
ジョルジョは「真珠採り」と「トスカ」の舞台監督にエントリーされていた。俺はなんだか安心した。それなりに実績を積んでないと、そんなポジションにはつけない。
しばらく音信不通だった間、ジョルジョはそれなりにしっかり仕事をしてきたのだと。
でも、スタッフの配置を聞いた時、また違和感があった。俺のポジションがよく分からない。
舞台監督補佐、というポジションをもらったんだが、何をやればいいんだ?
「補佐が必要なくらい偉くなったの?」と言ってみた。
「Si」とジョルジョは言った。「舞台監督が気難しくて、君以外には務まらない。」そして、ひー、と掠れた笑い声。
「ジュゼッピーナの名前がないな。」恐る恐る聞いてみた。
「急な話でね。」彼は言った。「印刷が間に合ってない。」
そして、また、荒んだ笑顔。
違和感が消えないまま、舞台の準備は着々と進んでいった。
ジョルジョはほとんど現場に出てこず、舞台監督としての仕事のほとんどを俺に押し付けてきた。補佐、というのはこういうことだったのか、とブツブツ文句を言いながら、俺がほとんど、現場を仕切った。劇場の再開と共に、戻ってきた昔の仲間もいて、仕事は無茶苦茶楽しかった。
とはいえ、イタリア流だから、色んな所がいい加減。怒鳴り声を交わし、冗談を言い合って笑って肩をたたきあっているうちに、なんとなく辻褄が合ってくる。日本人的な感覚で向き合うと気が狂いそうな現場なんで、ジキルとハイドみたいに、半分日本人、半分イタリア人になってコトを進めていかないといけない。ある部分は臨機応変に、ある部分は堅実に。
今から思えば、何を考えているのか、ジョルジョをもっとちゃんと問い詰めればよかった、と思う。
自分の感じている違和感について。現場をほったらかして何に夢中になっているのか。
ジュゼッピーナはどうして、どの練習にも顔を出さないのか。本当に、彼女はトスカを歌うのか。
そもそも彼女は今、どこにいるのか。
ちゃんと聞けば、ジョルジョは答えてくれただろうか。
よみがえった金色の夢の中で、人生最後の、バラのいたずらを仕込んでいるんだって。
「人生最後の、バラのいたずら?」私は言った。
「そうだよ。」大地さんは言った。悲しそうに微笑んだ。
「あいつは、俺を証人にしたかったんだ。俺に看取ってほしかったんだ。自分たちの夢の末路を。ジュゼッピーナと、ジョルジョの、最期の姿を。」
トスカたち
トスカ、というのは、ちょっと不思議な演目だ。
その謎が一番凝縮しているのは、トスカがスカルピアを刺し殺すシーンだ。
あの有名な、「歌に生き、恋に生き」を歌った後、トスカは、自分の身体を求めてくるスカルピアを刺し殺す。
そのあと、トスカは、息絶えたスカルピアの骸の周りに、燭台を並べる。一本、また一本と。
まるでたった一人で、彼の葬儀を執行しているように。
トスカはカバラドッシを心から愛している。
なのに、自分を辱め、恋人を抹殺しようとするスカルピアとの間に不思議な絆が見える。
ゼフィレッリは明確に言っている。
「トスカはスカルピアにどうしようもなく惹かれてしまうのだ」と。
男の肉欲をぎらつかせ、自分を破滅させようと迫ってくるもの。その強烈な悪の匂い。破壊の欲求。危険な男の脂ぎった体臭。
善良で誠実な恋人からは、決して感じ取れないオスのオーラ。
頭より体で世界を感じ取るトスカには、それが強烈な魅力となって襲ってくるのだと。
マリア・カラスは、その破滅の魅力に自ら溺れてしまった。
スカルピアが現実世界に現れたような、大富豪オナシスとの堕落しきった愛欲の日々。
オナシスは彼女を、装飾品のように、道具のように、奴隷のように、翻弄し、利用し、そしてゴミのように捨てた。
そしてマリアの歌姫としての人生も、ゴミのように踏みにじられた。
20世紀のオペラの歴史を語る時、避けることができない悲劇の一つだ。
20世紀のトスカ。
ジュゼッピーナは確かに、マリア・カラス的な危うさをはらんだソプラノだった。持って生まれた恵まれた声帯と音楽に対する鋭敏な感性。
だけど、それを支える肉体へのケア、という点では、かなりだらしない。むしろソプラノ歌手としてのプライドやその場の欲求を優先するタイプ。
だから、ジュゼッピーナが、過酷な運命に耐え切れずに、自らトスカのように、マリア・カラスのように破滅していったのは、理解できなくもない。
でも、ジョルジョは、ただのオペラオタクだった。
俺の半身。俺の分身。
舞台上で一夜限りと咲き誇るバラを愛する、普通の男だったはずなのに。
なぜ、ジョルジョがスカルピアになってしまったのか。なぜ悪魔に魅入られたのか。
そして、悪魔は、俺自身にも取りついて、俺の一番大事なものを壊しにかかったんだ。
滅びの声
「トスカ」の公演日程の中に、ジュゼッピーナの名前があって、ほっとすると同時に、かなり落ち込んだ。
Bキャストの最終公演日。Aキャストの千秋楽の2日前。たった一日だけの出演。
キャストの都合がつかなくて無理やり押し込んだことが歴然。
それはそのまま、ジュゼッピーナが既に、一線の歌手ではなくなっていることを示していた。
俺も含めて、そのキャスト表を見て、ジョルジョが、落ちぶれたジュゼッピーナに用意してあげた舞台、と理解した。
数年前、ジュゼッピーナの舞台を見たスタッフがいた。
地方都市の小さな歌劇場で、エレクトーン伴奏で「フィガロ」の伯爵夫人を歌ったのだけど、声の衰えは隠しようがなかったそうだ。
「時々キラキラ輝くフレーズがある。」そいつが言った。「でも長続きしないんだ。恐ろしく不安定な態勢で、平均台を必死に渡っていく感じ。聞いている方がハラハラして正視できない。小さなハコだったから、お客さんは喜んでたけどね。」
本人が一番つらい。高い高いところに上り詰めた記憶が、自分をさいなむ。
またもう一度昇れるはずなのに、と思うのに、身体が言うことを聞かない。
一瞬、身体の色んな部品ががっちりいい場所にはまって、一瞬、昔の輝きが戻った気がしても、それはすぐに失われてしまう。
堕ちたDIVAのための、最後の花道。それをジョルジョが用意してあげたのだろう、と、みんな納得した。
そして、みんなが、ジュゼッピーナを温かく受け入れようと準備していた。たくさんのマンマたち、パパたちが。俺も含めて。
誰も知らなかったのだけど、ジュゼッピーナの状況は実はもっと悪かった。声帯はボロボロ、最後の頼みの綱と手術までしたらしいけど、状況は改善せず。医者からは見放され、実質、歌手人生は終わっていた。
歌以外に生きる術を知らなかったジュゼッピーナが、もう歌えないと宣告された後、どんな日々を送って、どんな絶望を抱いて、ジョルジョのアパルトメントの扉を叩いたのか、誰も知らない。
彼の部屋からは、ここ数日、ずっと音楽が流れていたのだそうだ。
「トスカ」はもちろんのこと、その他にも。「オテロ」「椿姫」「セヴィリア」「フィガロ」「コシ・ファン・トゥッテ」「ドン・ジョバンニ」・・・
二人がこの世を去ってしまった今となっては、彼の部屋の中で、二人がどんな時間を過ごしていたのか、知る由もない。
だから、これは俺の想像だ。
ジョルジョがジュゼッピーナを見ている。音楽を流しながら、彼女を見ている。
ジュゼッピーナは演技をする。声はない。トスカを演じる。デズデモナを演じる。ロッジーナを、ヴィオレッタを演じる。
声のないパントマイム。出したくても出せない歌を、唇だけで形づくりながら、でもジュゼッピーナの演技は次第に熱がこもる。
見つめるジョルジョの目に、彼女の立っている舞台が見え始める。彼女を照らすスポットライトが見える。客席の万雷の拍手が聞こえる。そして聞こえないはずの声までが、CDからではなく、彼女の全身からほとばしっているように見える。
そして突然、全てが壊れる。
舞台は崩れ落ち、光は砕け、劇場は炎に包まれる。炎の中で、ジュゼッピーナが歌い続けているのが見える。ジュゼッピーナは炎に包まれる。美しい髪が、つややかな肌が、炎に焼かれ、真っ黒な醜い焼け焦げた姿に変貌していく。歌は消えない。全てが破滅していく。何もかもが失われていく・・・
どうだ美しいだろう。ジョルジョの耳元で、ささやき声がする。掠れた、ひー、という甲高い呼吸音とともに、彼にささやく。これがお前の愛の全てだ。お前の愛したものが滅んでいく姿だ。どうだ。これ以上美しいものがこの世にあると思うか?
そしてその日が来た。ジュゼッピーナがトスカを演じる日が。
歌以外の最後の声
大地さんはしばらく黙っていた。
「ジュゼッピーナは、トスカを歌えたの?」私は耐え切れなくなって言った。
「歌ったよ。」大地さんは言った。「俺が経験した、生涯最高のトスカだった。誰も絶対にあれは超えられない。あんなトスカを見ることは、もう二度とないだろう。もう二度と。」
当日朝、ジュゼッピーナは、ジョルジョに付き添われて劇場に入ったらしい。
「らしい」というのは、俺はもう舞台裏に入っていたから、その場にいなかった、というのもそうだけど、二人が本当に人目を避けるように、静かに、いつのまにか劇場に入っていた、というのもある。
誰も、二人が劇場に入ったことに気付かなかった。
「トスカ、ハコ入りしました」というインカムからの声を聞いて、俺は楽屋に飛んで行った。楽屋口に立っていたジョルジョが、誇らしげな笑顔で扉をあけると、ジュゼッピーナが中にいた。鏡越しに、俺に向かって微笑んだ。
それはもう、鳥肌が立つくらい綺麗だったよ。
「本番まで、声を出すな、と言ってある。」喋らないジュゼッピーナに代わって、ジョルジョが言った。
「声を温存しないと、最後までもたない。」
ジュゼッピーナは、本当に一言もしゃべらなかった。身振りと、どうしても何かを伝えたいときは、筆談。楽屋の中だけじゃなく、直前リハーサルでも、全く声を出さない。でも、共演者全員が、合唱もオーケストラまでが、それを当然のことのように受け入れた。
ジュゼッピーナの周りに目に見えないオーラがあって、それが劇場全体の空気を変化させているみたいだった。一日だけ、スケジュールの穴を埋めるためにあてがわれた代役ソプラノじゃない。その公演の全てを支配できる、完璧に舞台を自分のものにした、タイトルロール、プリマドンナ。
リハーサルでの彼女は、完璧だった。演出の細部にわたるまで、完全に理解していた。共演者の方が気圧されるほどの存在感。声がないのに、まるで声が聞こえるような。
あんなリハーサルも、多分二度と経験できない。全員が、ジュゼッピーナがこの舞台に自分の全てを賭けていることを、腹の底から了解するためのリハーサル。これがまさに、彼女の最期のオペラ舞台になるのだと。
本番の客席に、ジュゼッピーナを覚えていた客がどれくらい来てくれたか、それは知らない。
Bキャスト、しかも一線から退いた歌い手の公演、ということで、当然だが客席には空席もちらほら見えた。
でも、あの場に立ち会えた聴衆は、恐らく生涯忘れられないトスカを見たんだ。
第一幕、トスカは、舞台裏から、カヴァラドッシュに向かって、「マリオ!」と呼びかける。
それが第一声。
舞台袖の操作卓の脇に、ジュゼッピーナが立った。俺のすぐそば。
ジュゼッピーナが手を差し伸べた。
俺はそれを握った。
ジュゼッピーナが握り返した。驚くほど激しい強さで。
そして、手を握ったまま、彼女の胸郭が広がるのが見えた。
第一声。
マリオ!
唖然とした。
声は衰えている。間違いなく衰えている。
なのに、この輝きはなんだ。
カヴァラドッシュが壁画を描いている教会に駆けこむトスカ。
嫉妬深いトスカは、入口に鍵をかけたカヴァラドッシュを責め、壁画の女が別の女に似ていることを責め、少女のようにやきもちを焼きながら、聖母マリアへ敬虔な祈りをささげる。
万華鏡のようにくるくると変化する、トスカという女の魅力の詰まった場面だ。
そんな口のきき方はないでしょう?
あの森の、私たちのささやかな隠れ家にいきましょうよ。
私たちだけの秘密の巣、
花々は咲きほこり、広がる野原に胸は躍る。
トスカは愛で燃え上がっているの!
ジュゼッピーナのトスカは、溌剌とした人気絶頂の歌い手ではなかった。
むしろ、少し衰え始めた、少し年かさのトスカ。
衰えた声、音程や音量の不安定さを、ジュゼッピーナは逆手にとっていた。
カヴァラドッシュに対する態度も、まるで姉さん女房のよう。
でも、それが、トスカの魅力を増していた。
トスカはどこかで、自分に自信がない。自分が既に衰え始めていること、自分の絶頂期が過ぎていることを知っている。
だからこそ、カヴァラドッシュの誠実を問い続ける。自分を支えてくれるもの。自分の唯一頼りにできる、信頼できる恋人。
そしてだからこそ、自分をひたすら求めるスカルピアの熱情に、どうしようもなく惹かれていく。
こんな自分を、ここまで愛してくれる男。
ともに滅ぼうとする男。
そのあからさまで野獣のような欲望が、涸れ始めた彼女の中の女性に火をつける。
今のお前こそ欲しい、
これまで見たことのないような、このお前こそ!
お前の涙が、熱くたぎる溶岩のように胸を焼き
そのまなざしが、私への憎しみをあらわにして、
私の欲望を掻き立てる、お前は私のものだ!
「触らないで、悪魔!」と叫びながら、トスカはスカルピアの罠の中に落ちていく。窮地に落ちた歌姫を冷然と見下ろすスカルピア。その前で、神の与えた苦悩を切々と歌うトスカのアリアが始まる。「歌に生き、恋に生き」。
宝石をお供えして
マリア様のマントを飾りたて
天の星々の輝きに、私の歌を捧げてきました
すると彼らは輝きを増し、美しい微笑を返してきてくれたのです
なのに、今、この苦しみの時、
なぜ、主よ、なぜ、
なぜこんな報いを、私にお与えになるのですか?
ジュゼッピーナとジョルジョと、詠子さんと俺と、四人で行ったサルーテ聖堂のことを思い出しながら、俺はボロボロ泣いていた。
客席がブラボーの嵐で荒れ狂うのを聞きながら、モニター画面が見えるように何度も何度も涙をぬぐった。
俺だけじゃなかった。
舞台裏のみんなが、ジュゼッピーナを見守ってきたみんなが、泣いていた。
みんな分かっていた。歌の中にある不安の影を。必死に支えているジュゼッピーナの身体全体が、悲鳴を上げているのを。
あと数時間だけ、この声をもたせれば、後のことは知らない。
その刹那にかけているジュゼッピーナの想いを、みんなが、共有していた。
二幕が終わって、ジュゼッピーナが楽屋に駆けこむ前に、一瞬、操作卓の傍に立ち止った。
俺の肩に、ジュゼッピーナが手を置いた。その手を握りしめた。
「Gracie, Kazuki.」
ジュゼッピーナが言った。そして微笑んだ。
ジョルジョが、そばに影のように立った。「Silencio, Giuzeppinna.(喋るな、ジュゼッピーナ)」
そして、二人は、楽屋に向かって去って行った。
「ありがとう、和樹。」
その日聞いた、ジュゼッピーナの、歌以外の唯一の声。
そしてこれが、俺に向かって、ジュゼッピーナが発した、歌以外の最後の声になった。
神の御前に
トスカ、第三幕。
休憩を経ても、聴衆の興奮は冷めていなかった。あのソプラノは誰だ、という声、ジュゼッピーナと答える声。でも名前なんか何の意味も持たない。目の前に繰り広げられているこの舞台の、この緊張感はなんだ。あの歌い手の異常なまでの集中力はなんだ。この劇場全体を包み込んでいる、この神がかったオーラはなんだ。
第三幕の冒頭、カヴァラドッシュの有名なアリアがある。公演全体の出来を左右する、巨大なアリア、「星は光りぬ」。
カヴァラドッシュ役のテノール歌手にもジュゼッピーナの魔法がかかっていた。この舞台を何が何でも最高のクオリティに仕上げねばならない、一瞬たりとも手を抜いてはならない、という使命感のようなものを、劇場の誰もが共有していた。
星々は光り輝く・・・
大地はふくよかな香りに充ち
庭園の扉が音をたて、
砂地をさらさらとなぜるような彼女の足音が続き、
香り立つ彼女の身体が
俺の腕の中に飛び込んでくる・・・
ああ、甘いくちづけ!ああ、優しく切ない抱擁・・・
おののきながら、俺は、
その美しい肉体を、ヴェールから解き放つのだ・・・
あのテノールは、この夜の「星は光りぬ」以上の歌をしばらく歌えないだろう。
その記憶は彼を苦しめるかもしれない。それほどの歌だった。それほどの緊張感だった。
劇場全体がブラボーの声に揺れる中、俺の背後に、人の気配がした。
「Devo andare(行かなきゃ)」
ジョルジョの声がした。温かいものが、俺の背中に押し付けられた。操作卓を見ながら、インカムに指示を出す一瞬の間、それはずっと、俺の背中にあった。
振り返ると、ジョルジョの黒い背中が遠ざかっていくのが見えた。舞台の裏手に。
ジョルジョが、俺の背中に、自分の頭をずっと押し付けていたのだ、と、気が付いた。
何か違和感が残った。
その時も、俺は気づくべきだったのに。
三幕がフィナーレに向かっていく。
スカルピアが命じたカヴァラドッシュの銃殺刑は、トスカの身体を投げ出した交渉によって、弾を込められていない空砲で行われるはずだった。
そしてスカルピアを殺し、必要な通行証も手に入れ、トスカとカヴァラドッシュは、自由の天地へと旅立てるはずだった。
しかし、スカルピアがトスカに仕掛けた卑劣な罠は、彼女の想像を超えていた。
トスカに体を要求しながら、スカルピアは、カヴァラドッシュを実弾で本当に銃殺するよう命じていたのだ。
そんなこととは夢にも思わず、カヴァラドッシュと愛の二重唱を歌うトスカ。
新たな希望の勝どきの声を
魂は天井で震え
情熱は炎となる
そしてハーモニーの中にとび立ち
私たちの魂は
愛の頂点を極める!
操作卓の前の全員が、固唾をのんで二重唱を聞いていた。
ジュゼッピーナの声が尽きかけている。必死に支えている横隔膜がもう限界にきている。
音程が崩れる。音型をたどるテンポが乱れる。もう少しだ。ジュゼッピーナ、もう少し、もう少しで舞台は終わる。なんとか最後の一声まで、もたせてくれ。
幸福な未来を確信したトスカの目の前で、銃口が火を噴く。倒れたカヴァラドッシュに駆け寄るトスカ。しかし恋人は動かない。
おお、マリオ・・・死んでいる!・・・
こんな・・・こんな終わり方って・・・
ジュゼッピーナの、トスカの最後の叫び。
明らかに声がない。もう支え切れていない。
声を絞り出し、絶望にかられたトスカは、舞台奥の大階段に向かう。
ジュゼッピーナが振り返った、その時だった。
俺は突然、全てを理解した。
銃で撃たれたように、全身に衝撃があった。
今まで微妙に感じてきた違和感の全てが、一つのまとまった形になった。
だめだ。それはだめだ。ジョルジョ。ジュゼッピーナ。
俺はインカムをむしり取って、舞台裏に走った。舞台上で、トスカが階段を上る。
スポットがあたっているのは上手。なのに、ジュゼッピーナが一直線に向かっているのは、下手だ。
違う、そっちじゃない。
そっちには、お前を受け止めてくれるクッションはない。
スカルピア、神の御前に!
トスカが自らの命を断つ前に叫ぶのは、愛するカヴァラドッシュの名前ではない。
自分を陥れた男、悪魔のような卑劣漢、スカルピアの名だ。
自分の全てを奪った男への、憎しみに充ちたトスカの最後の叫び。
でもその憎しみの声の中には、スカルピアへの渇望がなかったか。
カトリックの禁ずる、自殺、という手段で自分の命を断った、信仰心厚いトスカ。
天国に行く権利を自ら放棄した彼女の中には、自分の幸せを滅茶苦茶にしたスカルピアと共に、地獄に落ちようという思いがなかったか。
スカルピアとともに、地獄に落ちる。そして地獄で彼に復讐する。
地獄の業火に焼かれながら、お互いの体をナイフで引き裂き続けるトスカとスカルピア。
その凄惨な情景の中で、二人は笑っている。声を上げて笑っている。
ジュゼッピーナは、城壁のセットの上から、舞台裏に身を投げた。
そこは、クッションが用意されている上手ではなかった。
下手側のむき出しの舞台の平場の上に、ジュゼッピーナは頭から落ちてきた。
ぐしゃり、という音がした。
俺は間に合わなかった。
首がヘンな形に折れ曲がったジュゼッピーナの身体のそばに、ジョルジョがかがみこんだ。
手に、バラの花束を持っていた。
ジョルジョは、花束をジュゼッピーナの胸の上に置いた。
そして、ナイフをポケットから出した。
そのナイフで、ジュゼッピーナの首元を裂いた。
鮮血が、ジョルジョの顔を染めた。
誰かの悲鳴がした。
俺は動けなかった。何もできなかった。
ジュゼッピーナは生きていたのに。
城壁から落ちたばかりの時は、まだ生きていたのに。
ジョルジョがとどめを刺さなければ、救えたかもしれないのに。
ジョルジョが立ち上がった。
俺に向かって微笑んだ。唇から、しわがれた、ひー、という声が漏れた。
「綺麗だろ?」ジョルジョが言った。壊れたロボットのような抑揚のない声。「壊しちゃった。壊れちゃった。壊れる時が一番綺麗だろ、和樹、綺麗だろ?」
ひー、と一声。
そして、ナイフを自分の首に突き立てた。
また俺は間に合わなかった。
差し伸べた手と、俺の顔に、生暖かい血が飛び散った。
そのままジョルジョは、棒のように倒れた。
地鳴りのように、喝采とブラボーが続いていた。
誰もカーテンコールに出ようとしなかった。
悪魔の声を聞く
また、大地さんは口を閉じた。
もう今日は話は聞けないかも、と思った。
辛い、凄絶な記憶を、絞り出すように語る大地さんは、人生で持てる声の全てをトスカの舞台にぶつけたジュゼッピーナのように、ギリギリに見えた。
その時、美晴が何か言った。「わあ」と聞こえた。パパ、と言ったのだ。
大地さんは立ち上がって、美晴のベッドのそばに行った。
「起きた?」私が聞くと、大地さんは戻ってきて、微笑んだ。「寝言だ。」
「夢の中で、俺の話を聞いてるのかもしれないな。」大地さんは言って、顔を上げた。
「舞台の仕事に戻れるまでは、ずいぶん時間がかかった。」大地さんはまた話し始めた。
警察の事情聴取だなんだと、イタリア国内で足止めされて帰国が遅れたのもあったけど、気持ちの整理がつかなかった方が大きい。なんで俺は気づかなかったのだろうと。
簡単な話だ。一度でもいいから、ジョルジョの家に行けばよかった。そこで繰り広げられている二人の生活を見れば、何かしら察することができたはずなのに。
二人の最期の瞬間、俺の身体に触れたジョルジョの血の感触、沸騰しそうな客席と舞台、対照的に恐ろしく冷え切った舞台裏。そこに転がっている二人の身体・・・あの瞬間の記憶。二人を救えなかった後悔。色んなものが頭の中をぐるぐる回って眠れない。日本に戻ってからも、1か月、仕事を休んだ。
詠子さんには、イタリアで何があったかちゃんと話した。詠子さんは一緒に泣いてくれた。でも、伝えられた気がしない。自分の中の嵐を十二分に吐き出し切れた気がしない。
いや、そんなことは多分不可能なんだと思う。今でも、あの瞬間の全てが俺の身体の中に詰まっている。決して消えることはない。こうやって瑞穂に話しても、美晴が聞いてくれても、俺の中のあのおぞましい記憶の全てを、吐き出せたとは思えない。
日本に戻って最初の仕事は、詠子さんがデズデモナをやった、「オテロ」だった。新宿文化センターの大ホール。
慣れたハコだし、市民オペラの二日間公演だったから、復帰にはちょうどいいと思った。舞台監督じゃなく、舞台スタッフの一人として参加した。
本番前に、トイレに行った。大事なことなんだよ。本番中にもよおしちゃったら大変だからね。
個室に入って用を足していたら、外に、人の気配がした。誰か出演者の一人か、舞台スタッフの誰かだと思った。
そいつが、小便をしながら、ヘンにしわがれた声で、ひー、と笑った。調子の外れた木管楽器のような声。
冷や汗がどっと出た。慌てて個室から飛び出して、トイレの扉を開けた。
舞台袖に向かう廊下の方に、黒い背中が見えた気がした。背中はそのまま、舞台の裏に消えて行った。
「5分押しです!」と叫びながら、スタッフが廊下を走って行った。
その日の詠子さんのデズデモナは最高だった。オテロのテノールも悪くなくて、詠子さんのパフォーマンスに最後まで食らいついていってやろう、という気合がみなぎっていた。イアーゴは売出し中の若いバリトンだったんだけど、このオペラの準主役ともいえるこの悪役を精一杯演じていた。
いいプロダクションだった。こういう市民オペラの舞台は、若い伸び盛りの歌い手ががんばっていることが多いから、全体の雰囲気が若々しくて明るい。市民オペラを支えている合唱団はお年寄りが多いんだけど、彼らにとっては年に一度の晴れ舞台だから、演技にも熱が入る。
誰一人手を抜かない熱演が続く。詠子さんのようなベテラン歌手も、それに応じてパフォーマンスが上がる。相乗効果だ。
俺の復帰舞台として、詠子さんが推薦してくれたのが分かる気がした。その気遣いが嬉しかった。
終幕の冒頭。オペラの山場だ。デズデモナの寝室。
この場面はずっとピアノかピアニッシモで歌われていて、不安な緊張感が、どんどん高まっていく。
デズデモナの祈りが純粋であればあるほど、その次に控えるオテロのどす黒い嫉妬が、そしてそれに引き裂かれてしまうデズデモナの澄んだ心が、胸に迫る。
聖母マリアにささげられる祈りの声の後ろで、低弦が不安げな和音を鳴らす。
罪ある者たちのために、罪なき者たちのために祈ってくださいませ
また弱くして虐げられた者のためにも、力ある者のためにも・・・
不幸なるもののためにも、あなた様のお憐れみをお示しください。
邪悪な運命の下にある者のためにも・・・
柔らかな、澄み切った高音のロングトーンの後、優しい弦の響きの中で、アーメン、とデズデモナが呟く。
後奏の弦の静かな和音の中で、マリア像がゆっくり上にハケ、天蓋が下りてくる・・・
客席は水を打ったように沈黙し、誰も身じろぎもしない。
指揮者の指揮棒すら、目では追えないほどのかすかな拍を刻む。
俺はマリア像を引揚げる綱の綱元だった。
舞台上の空気がずっしりと重くなるような、濃密なゼリーになったような、ものすごい緊張感の中で、綱を両手でしっかり握りしめた。このタイミング。
その時、俺の背後、耳元で、はっきりと声がした。
ひー。
熱い臭い息が頬にかかった。ひー。壊しちゃうぞ。ほーら、壊れちゃうぞー。
ぎょっとして、ふりむいた瞬間、目の前に、血まみれのジョルジョの笑い顔が見えた。
和樹、綺麗だろおお?
綱を握る手が緩みかけた。
上にハケるはずのマリア像が、一瞬下に下がった。
マリア像の下には、まだ跪いているデズデモナがいる。詠子さんがいる。
我に返った。軍手をしていない方の左手で、右手から逃げかけた綱をつかんだ。
一瞬下がったマリア像は、そのまますっと上にハケた。
天蓋が下りてくる。お客様は気づいていない。
素人目には、上にあがるマリア像が、ちょっとはずみで一瞬下がったように見えた、と思う。
でも、スタッフは気付いた。
「大丈夫?」インカムから、照明の寺中さんがささやいた。「大地ちゃん、奥さん殺すとこだよぉ」
その通りだ。
インカムから漏れる他のスタッフの笑い声を聞きながら、俺は呆然としていた。
下手をすれば、詠子さんの上に、吊りものを落とすところだった。マリア像は2・30キロはある。そんなものが落ちてきたら、詠子さんは死ぬ。
脳天を割られて、血にまみれて・・・あの時のジュゼッピーナのように、血しぶきを上げて・・・
左手に、生暖かい感触があって、叫び声を上げそうになった。
左手のてのひらの皮がむけていた。痛みは感じなかった。
俺の背後にいたものの体臭が、まだそのあたりの空気を汚しているような気がした。
キノコ雲
ジョルジョの声だったの?私は言う。
そんな気もした。でもよく分からない。大地さんは言う。おそろしくリアルな声だった。俺の後ろに闇の圧力を感じた。
ジョルジョの霊、というよりも、もっと邪悪なもの。あの声には明確な意思があった。破壊への欲求があった。
破壊の中にこそ美があるのだと。
何もかもを壊そうとする、コールタールのようなべっとりした悪意。
ほーら、壊しちゃうぞー。ひゃー。
壊すことがどうして楽しいの?私は聞く。私には分からない。
美しく調和のとれた世界の上から巨大な吊り物を落として、全てを壊してしまうことが、どうして美につながるのか。
大地さんは、哀しそうに微笑みながら、「原爆の落ちた時のこと知ってる?」と言った。
私は首を横に振った。
「広島に原爆が落ちた時、湧き上がった巨大なキノコ雲を見た人の話だ。」大地さんは言った。
「この世のものとは思えないほど、美しいものだったそうだ。」
その下で、数十万人の無辜の人々を虐殺し続けながら、キノコ雲は美しく輝いていた。
同じような話を、東京大空襲でも聞いたことがある。
上空からB29がばらまく無数の焼夷弾の光が、夢のように美しく見えたそうだ。
人を殺戮するための炎が、光が、命を、希望を焼き尽くしていく業火が、何よりも美しく見える。
フェニーチェを焼き尽くした炎のように。
ジュゼッピーナからほとばしった赤い血潮のように。
人間の中にある暗い衝動。ジョルジョが取りつかれた悪魔の衝動。
美しいものが滅びていく姿を見たい、と。その断末魔の姿にこそ、真の美があるのだと。
たぶん、「オテロ」のイアーゴにも、「魔弾」のカスパールにも、そして、「トスカ」のスカルピアにも取りついた衝動。
無抵抗の獣たちを撃ち殺すハンターたちの得意げな顔。平和な街の上を飛ぶ爆撃機のパイロットたちが浮かべる微笑。
人間の中にはそういう衝動があるんだよ。にこにこ笑いながら、きれいな蝶々の羽をむしる子供の頃から、心の中に埋め込まれた破壊への欲求。
あの声には、そういう飢餓感がグロテスクなぐらいに詰まっていた。
それで、イタリアに逃げたの?私は聞く。声から逃げるために?
大地さんは、さびしそうに微笑んだ。
声はそれから、しょっちゅう聞こえるようになった。
詠子さんの舞台だけじゃない。他のオペラの舞台でも。
一級のパフォーマンスに、劇場全体が一つになる瞬間に、耳元で笑い声が響く。
ひー、、きー、という感じの甲高い声だ。
壊れちゃうぞー、と声がする。壊しちゃうぞー。壊しちゃった方がきれいだぞー。今壊しちゃうのが最高だぞー。
声は必ず、あの場面のフラッシュバックを伴っている。
ジュゼッピーナの頭が砕ける音。ジョルジョの笑い声。そして、血しぶき。
大事なところで何度かミスをした。
マリア像と一緒で、お客様には気づかれずに済むような、小さなミスだ。明かりのキューを忘れたり、幕の指示が出なかったり。スタッフがフォローしてくれたけど、俺の自信はズタズタだった。
仕事を少し休んでいたある日の夜だ。
詠子さんが、いつものように、子供部屋で、「想いよ、金色の翼に乗って」を美晴に歌ってあげていた。
行け、我が想いよ、金色の翼に乗って
行け、斜面に、丘に憩いつつ
温かく、甘い祖国のそよ風が香る場所
ヨルダンの河岸に挨拶をしておくれ
そして破壊されたシオンの塔にも…
子供部屋の入口に立って、詠子さんが小さな声で歌うヴェルディを聴いていた。
まくら元の小さなスタンドの、オレンジ色の明かりの中に、3人の笑顔が浮かんでいる。
美晴が、笑顔のままうとうとしている。
それはもうすっかり、聖母子像のように清らかな、夢のように美しい光景だった。
胸が熱くなって、なんだか泣きそうになる。
その瞬間に、声がした。
ひー、と笑い声がした。
壊しちゃえ、壊しちゃえ、それが一番綺麗なのに、なんで壊さないんだぁ。
そして血しぶきのフラッシュバック。
夢を見るようになった。
舞台の裏方をやっている。
夢の中での舞台は、そのつど変わっている。「フィガロの結婚」、「セヴィリアの理髪師」、「椿姫」・・・でも結末は全て一緒だ。
俺の手の中に綱がある。綱はバトンの方に伸びていて、吊り物を支えている。
綱を離すと、吊り物が落ちる。
吊り物の下にいるのは、詠子さんだ。
轟音とともに詠子さんがつぶれる。
舞台上が血で、真っ赤に染まる。俺の一番大事なものが、世界でいちばん美しいものが、ただの肉塊と血しぶきになって舞台上に散乱する。
悲鳴と怒号、無秩序と混乱・・・
振り返ると、血にまみれたジョルジョが笑っている。
ひー、綺麗だろお、ひー。
怖い。怖くてたまらない。
夢ならいい。でも、本当に、現実に、俺は自分の愛するものたち、世界で一番美しいと思っている者たちを、壊そうとするんじゃないか。
詠子さんを。
瑞穂を。美晴を。
PTSD、というのだそうだ。心的外傷後ストレス障害。
大きな天災や、虐待や、大事故などの悲惨な記憶が、人の心をむしばむ。
確かにあれは、恐ろしい経験だった。
心が病むのも仕方ない、と、頭で分かっていても、克服できない。
吊り物の下で、瑞穂と美晴がつぶれる夢を見た時、来るところまで来た、と思った。
この家族の側にいるのが怖い。逃げたい。どこか遠く、俺の大切な、世界で一番守りたいものから遠くへ。
そうじゃないと俺は本当に、この美しい人々を壊してしまうかもしれない。
それでも、俺は実際には躊躇してた。当たり前だ。
今まで築いた生活の基盤がある。
何もかも突然振り捨てて逃げ出すわけにもいかない。
しばらく海外に行くのはどうだろう、と思って、詠子さんにも誰にも内緒で、知り合いの演出家のつてをたどって、イタリアの地方劇場の仕事を紹介してもらった。
結局俺には舞台しかない。でも、舞台の裏方は怖い。事務仕事でも、掃除夫でも、とにかく舞台の本番からはなるべく遠い仕事を、とお願いしたら、道具や衣装の在庫管理の仕事を紹介してもらえた。
でもどう詠子さんに話そう。瑞穂に、美晴に。
分かってもらえるだろうか。分かってもらえる自信がない。その前に、みんなとちゃんと話ができる自信がない。
みんなの顔をまともに見ることさえ辛い。
桜の季節になっていた。
あの日は、瑞穂が言い出して、3人で、近所の河原に花見に行った。
3人分の弁当を作って、美晴を俺の自転車に乗せて、瑞穂は自分の自転車で。
風は冷たかったけど、日差しは穏やかで、絶好の花見日和だった。詠子さんはレッスンの予定があって来られず、花見に行くんだ、と言ったら、うらめしそうな顔をした。
今度の休みには、4人で一緒に行こう、と美晴が言った。それまで桜がもつといいね。
8分咲きの桜の下で、シートを広げて、3人で弁当を食べた。
平和だった。
どうしてこのままでいられないんだろう、と思った。
あの悪魔の笑い声をどうにかやりすごして、うまくやっていくことはできないんだろうか。
見上げれば視界いっぱいが、明るい日差しと泡のような桜にきらめいて見える。
美晴と瑞穂が、降ってくる花びらを追いかけている。
イタリアの話は、やっぱり断ろうか。そう考えた。
瑞穂が、ちょっと離れたところで、桜の枝に手を伸ばしていた。
ふくらみかけた桜のつぼみを、手のひらに包んで、一心に見つめていた。
その側に美晴がいる。
瑞穂の真似をして、枝の先のつぼみを小さな手のひらで包んで、真面目くさった顔で見つめている。
自然に微笑みが浮かんでくる。
なんてきれいな姉弟だろう。
俺が、こんな美しい子供たちの父親だなんて、信じられない。
ひー、と背中から声がした。
巨大なマリア像が、瑞穂と美晴の上から落ちてくる。
ぐしゃり、と音がして、全てがつぶれる。
美しい桜の雲が、鮮血で真っ赤に染まる。
マリア像と思ったのは血まみれのジュゼッピーナだ。
壊れちゃったよぉ、壊しちゃったよぉ。
俺の手が血まみれになっている。桜の雲はいつしか燃え盛る紅蓮の炎になり、瑞穂と美晴を焼いている。二人の悲鳴が聞こえる。俺の目の前で、二人の身体が松明のように燃え上がる。
ひー、壊れるよ、壊れちまうよ、綺麗だろお?
背中が温かくなって、そこからすうっと何かが流れ込んできた気がした。
全身の凍てついた血がほっと温かくなって、見ると、美晴が、俺の背中にしがみついていた。
気が付くと、俺はうずくまっていたらしい。
俺の正面にきた美晴が、俺の顔を見上げた。
透き通った眼をしていた。何もかも分かっているよ、とでも言いたげに。
そして、微笑んだ。
「寒くなってきたから、そろそろ帰ろう。」美晴が言った。
俺も微笑み返した。涙がこみ上げてきた。
美晴、瑞穂、詠子さん。さようなら。
俺はもう、一刻たりとも、君たちの側にはいられない。
その日のうちに、簡単に荷物をまとめて、俺は家を出た。
瑞穂と美晴が子供部屋で遊んでいる声がした。
扉を閉める瞬間、美晴の、「パパ?」という声が聞こえた気がした。
でも振り返らなかった。
遠くへ、遠くへ。自分にそう言い聞かせながら、走り出した。
結局、家族4人で花見には行けなかった。
鳩再び
「イタリアの歌劇場での仕事はしんどかった」大地さんの話は続く。
舞台裏の仕事は慣れていても、数字の管理、というのはちょっと門外漢だったからね。
でも、俺には良かったかもしれない。
頭の中を、仕事のことでいっぱいにすることができた。
もう二度と会えない詠子さんや、瑞穂や、美晴のことを、仕事をしている間は思い出さずにすんだ。覚えないといけないことはいっぱいあったから。
それでも、やっぱり、みんなのことを思い出した。
毎晩夢に見た。
夢の中で、詠子さんが輝かしい声で歌っている。瑞穂がピアノを弾いている。美晴はそばで笑っている。
そして夢の最期は必ず悪夢で終わる。血と炎がみんなを包む。
ジョルジョは笑い続ける。ひー、壊せ壊せ、ひー。
毎晩、悪夢にうなされて目を覚まし、そして泣いた。
女々しいとは思ったけど、涙は勝手に出た。
でも、これは夢だけのことだ。これだけ距離を保っていれば、俺がみんなを本当に傷つけることはない。
俺さえ帰らなければ、あの三人を傷つけるものは何もない。そう思い込んでいた。
俺のせいで、詠子さんが壊れている、なんて思いもしなかったし、美晴の病気のことなんて、想像もしなかった。
だから、瑞穂の手紙が届いた時、本当にショックだった。すぐにでも飛んで帰りたかった。
その一方で、手紙を読んだ途端、頭に鳴り響いた声があった。
俺のせいだ。
俺に取りついたどす黒いものが、美晴の頭の中に巣食って、腫瘍になったんだ。
俺のせいだ。
俺に取り付いた悪魔が、形を変えて、一番弱い美晴に襲い掛かってきたんだ。
絶対に帰るわけにいかない、と思いつめた。
今から思えば、ただの妄想だと思うし、ただ怖かっただけだと思う。でも、その時はそう思い込んでいた。
帰れば、俺の背中の悪魔が、みんなを傷つけようと暴れ始める。
夢が現実になってしまう。
ひー、壊しちゃうぞ、綺麗だろお?
毎日届く瑞穂の手紙は、欠かさず読んだ。なめるように読んだ。
読めば帰りたくなる。でも帰れない。
毎晩苦しくて、ベッドの上でのた打ち回った。なんでだ、なんでだと叫び続けた。
あんまり辛くて、仕事が休みの日に教会に行った。別にクリスチャンじゃないんだが、少しは気が休まるか、と思った。
教会の静かなお堂の中で、気持ちを落ち着けた。
自分をいじめたい気分になって、教会の尖塔に上がる長いらせん階段を上った。
相当高い尖塔だから、階段も並じゃない。最後の方は、がくがく震える膝を手で押さえながら上った。
それでも、美晴の苦しみに比べれば、なんてことないと思った。
階段の果てに、小さな出口が開いていて、その先はもう空だった。
下を見下ろせば、どこまでも、赤い小さな屋根が連なる街の光景が広がっている。
街の上に浮かんでいるような開放感。
思わず深呼吸する。
自虐的な気分も、焼け付くような飢餓感も、一瞬、空に溶けるような気がした。
さっと風が吹いて、突然、下界から、激しい羽音が聞こえてきた。
と思ったら、目の前を、鳩の一群が、つぶてのように舞い上がっていった。
その瞬間だった。
俺の目の前に、白い鳩がふわりと舞い降りてきた。
思わず伸ばした左手の指に、鳩がふっと留まった。
光の塊が手に止まったように見えた。
俺の方に、表情のない丸い目を向けた。
ぽっぽーと鳴くその鳩の鳴き声のままに、俺に向かって鳩がしゃべった。
確かに、人の言葉をしゃべったんだ。
「ボクタチハ コウベニ イマス アイタイデス ぱぱエ」
気が付くと、鳩の姿は消えていた。
隣に立っていたイタリア人が、何か俺に話しかけている。
お前は鳩に好かれたみたいだな、とかなんとか言いながら、陽気に笑っている。
行かないと。俺は思った。
神戸だ。神戸に行かないと。
美晴が呼んでいる。
瑞穂が呼んでいる。
俺が悪魔を抱えていようがなんだろうが、そんなこと、知ったことか。
俺の愛する人たちが、全身全霊で、俺の帰りを祈っている。
俺を、必要としてくれている。
その声が、俺に届いたんだ。
悪魔の敗北
気が付けば、外はもうすっかり暗い。そろそろ夕食の時間だ。
今夜の夕食のテーブルに、ママはいない。
年末年始というのはオペラ歌手の家族にとっては過酷な季節だ。クリスマスコンサート、各地で開催される第九のコンサート、ニューイヤーコンサート、とステージが目白押し。
ママはそれでも、今年は相当仕事を間引いたのだけど、どうしても義理があって抜けられない舞台というのはある。
12月24日のイブにはそういう舞台がぶつかってしまって、神戸には帰れない、とママは悲しそうに言った。その代わり、25日は盛大にクリスマスのお祝いをしよう。
私たちには沢山の計画がある。クリスマスのお祝い。年始、ママが出演するニューイヤーコンサートのTV中継を見る。1月の美晴の誕生日のお祝い。1月の末には、ママはNo.3ギャラリーで、初めてのソロ・リサイタルを開く予定。もちろん、みんなでそれを聞きに行く。そして、2月には美晴の指揮者デビューの舞台。3月には、去年行けなかった、家族4人そろってのお花見。4月は、美晴の小学校の入学式と、私の中学校の入学式。
新しい年のカレンダーに、次々と書き込まれる新しいイベント。
美晴のために、私たち家族ができることを一つ一つ、ガラスでできた積み木のように積み重ねていく。
日本に帰ってきても、背中に悪魔を感じることはあった。大地さんは話し続ける。
塾帰りに、私を迎えに来てくれた夜のことでしょ?私は言う。
気が付いた?大地さんが言う。
私はうなずく。信じるよ。あいつはいたよ。声も聞こえた。確かに、あいつはいたよ。
そうか。大地さんは言う。本当にいたんだな。
今でもいるの?私は聞く。
大地さんは私を見て、うなずく。あいつは消えない。でも俺は負けない。詠子さんのおかげだ。詠子さんが、あいつをたたきのめしてくれた。あの、「ホフマン物語」で。
あのアントニアの場面の時だ。
真っ赤なバラに埋まった舞台の上で、アントニアが狂ったように歌う。俺の後ろで、あいつが、ミラクルと一緒に歌っている声が聞こえた。
歌え、歌え、壊れるまで歌え、その最高の瞬間で、お前を無茶苦茶にしてやる。血まみれにしてやる。ぐしゃぐしゃにしてやる。そのために俺は、この男と一緒に帰ってきたんだ。なんて綺麗なんだあ。ひー。
悪魔が高笑いをしながら俺の後ろで叫んでいるのが聞こえた。
その悪魔の高笑いが、詠子さんの歌声ときれいにハモった。
詠子さんの声が、悪魔の声を踏み台にして、そのはるか高みへと駆け上がっていくのが聞こえた。
俺の背後で、あいつが呆然としているのが分かった。
悪魔が、ミラクル博士が、詠子さんを滅ぼそうとすればするほど、アントニアはそのミラクル博士の歌声を自分のパワーにして、さらに輝きを増していく。
舞台は邪悪な血の色に染まり、自分の体を真っ赤に染めながら、アントニアはその炎の中で不死鳥のようにさらに羽ばたいていく。
詠子さんの叫び声が、頭の中に高らかに響き渡った。
「榊原詠子をなめるんじゃないよ!」
俺は日本に帰ってから、詠子さんに少しだけ、俺に取りついた悪魔の話をしたんだ。
その時にも、詠子さんは言った。
あたしをなめるんじゃないよ。
あたしの上から吊り物が落ちてきて、あたしの脳天を叩き割ったとしても、あたしは歌い続けてやる。 血まみれになって、舞台の上を這いずってでも、幕が下りるその瞬間まで、あたしは歌い続けてやる。
ジュゼッピーナみたいに、あきらめない。誰かにとどめを刺されたりしない。悪魔にだって、神様にだって、誰にもあたしの歌をとめることなんかできやしない。たとえ美晴が天に召されたとしても、天の美晴に向かって私は歌い続ける。
誰も、私の歌を止めることなんか、できやしないんだ。
絶叫とともに、アントニアが舞台に崩れ落ちる。
アントニアは悪魔の手の届かない高みへと、神の手に乗ってゆっくりと運ばれていく。
まさに悪魔が求めていたように、榊原詠子は舞台の上で一度死ぬ。
そして幕が上がれば再び、ジュリエッタになって蘇り、奔放な生命力溢れる歌を歌い始める。
「ホフマン物語」は、永遠に続くプリマの系譜に対する讃歌だ。
ミューズの祝福とともにこの世に放たれたプリマたちが、音楽の栄光を、神の栄光を歌い継いでいく。
オランピアが壊れ、アントニアが死に、そしてジュリエッタが去っても、ステラを中心にしたプリマの円環は絶えることなく永遠に続いていく。
例え榊原詠子が舞台の上で滅びたとしても、第二の榊原詠子が、第三の榊原詠子が、別の舞台の上で燦然と輝き続けるだろう。不死鳥のごとくよみがえったフェニーチェ劇場のように。
悪魔に勝利はない。永遠にない。
我々はホフマンと共に、ミューズの栄光を語り続ける。
数々のプリマを通して、天空から舞台にもたらされるミューズの栄光を。金色の夢を。
俺の後ろで、あいつはぶつぶつ文句を言いながら、あの瞬間、はっきりと自分の敗北を認めた。
その時、俺は信じた。
俺の中の悪魔を追い出すことはできない。
でも、押さえ込むことはできる。
破壊の欲求を、次の金色の夢へと、つなぐことができる。
榊原詠子をなめるな。私が言う。
大地さんは声を立てて笑った。
そうだ。榊原詠子をなめるな。
詠子さんは、偉大な魔法使いだ。悪魔さえひれ伏す、音楽の、光の魔法使いだ。
ご飯ができたで!と、1階からおじいちゃんが呼ぶ声がする。
私たち3人の分は、お盆に乗せて美晴の部屋に運ぶのだ。
食事のにおいに、美晴が目を覚ます。
その時、美晴の何が失われているかは分からない。でもそれは、どの人間だって一緒だ。
私たちは、少しずつ死に向かって歩いていく。そして生きている間、自分の歌を歌い続ける。誰にもそれをとめることなんか、できやしない。
大地さんと私は顔を見合わせて、にやっとした。
大地さんの看護日誌から その2
12月23日(火・祝)
朝から瑞穂が猛然とピアノを弾いている。「想いよ、金色の翼に乗って」の伴奏譜を必死になってさらっている。
昨日、早紀ちゃんのママから、合唱団で美晴が指揮する「金色の翼に乗って」の伴奏の依頼があったせい。2ヶ月しかない、と青くなっている。
美晴はピアノの音が聞こえてくると機嫌がいい。瑞穂が音を間違えるとくつくつ笑っている。
少し微熱が続いているのが心配。37.5度くらいだから、しばらく様子をみよう、とおばあちゃんの診立て。
夜、おじいちゃんおばあちゃんと一緒に一足早いクリスマスパーティ。
ケーキを飲み込みやすいように、いつものコーヒー牛乳に溶かしてあげる。おいしい、と笑顔。
ここまで機嫌はよかったのだけど、抱っこして2階に連れて行く途中で、おしっこの管がよじれたか、痛い、と泣き出す。そこからずっと不機嫌。
寝る時の枕と首の位置関係が気に入らないらしく、ヒーヒー言う。
興奮すると美晴の言葉もさらに不明瞭になるし、瑞穂もいらいらするし、こちらも苛立ってかなり声を荒げてしまった。
美晴が寝てから、瑞穂ともども、おばあちゃんに怒られ慰められる。
美晴だって、自分で首の位置を変えられるのなら、何も言わない。
我々に手伝ってもらわなければ自分の体を動かすこともままならない。
一番つらいのは美晴なのに。
まだまだ修行が足りない。
12月25日(木)
ママが午後から来るというので、久しぶりに朝からお風呂に入る。
湯船でプカプカするのが気持ちよかったらしく、何やらふがふがハミングしていた。
午後、ママが来て、一気に騒々しくなる。
今夜はおじいちゃんおばあちゃん抜きでの家族4人のクリスマスパーティ。
ママがクリスマスソングを歌った後で、ちょっと申し訳なさそうな顔で、ケーキの箱を二つ出してきた。
一つはクリスマスケーキで、もう一つは、瑞穂のバースデーケーキだ。
瑞穂の誕生日は11月29日なのだけど、「本当の誕生日は、ばたばたしてて、全然お祝いして上げられなかったからさ」と、美晴も入れて、3人で瑞穂に、ごめんなさいと、おめでとうを言った。
全然知らせていなかったから、瑞穂は照れくさそうな顔をして、それでも嬉しそうにプレゼントを受け取った。
ママからは、しずくの形をした金属性のブローチで、ママが、「岡崎さんに頼んで、作ってもらった」と言うと、瑞穂は首筋のあたりまで真っ赤になった。岡崎さんって、誰だ。
パパからは、ピンクのお財布。ちょっと大人っぽすぎるか、と思ったけど、嬉しそう。
美晴からは、手書きのカード。
「おたんじょうびおめでとう みずほへ みはる」と書いてあって、脇に、笑顔の瑞穂の顔の絵が描いてある。
目が見えないで書いたカードだから、普通の人には誰の顔かもわからないだろうけど、我々には分かる。立派なカードだ。
みんなでわいわい過ごしていたら、宅急便が来て、美晴あてだ、という。
差出人を見たら、大屋一樹と書いてあって泡を食う。全然聞いてなかった。
クリスマス飾りのついた細長い包みを開けると、立派な箱に、指揮棒が入っている。
メッセージカードに、
「りっぱなしきしゃになってください。ぼくの、ちいさなおでしさんへ おおやかずき」
と書いてある。
美晴の右手で触らせて、持たせてあげた。美晴は感激で声も出ない。
ママはお礼状を書かないと、と笑顔で言いながら、涙をこぼした。
12月27日(土)
明日は病院の大掃除なので、今日は家の方を大掃除。これを機に、美晴の部屋を2階から1階に移動することにした。
初夏から神戸に来ていて、美晴にはそれなりに思い出のできた部屋だったけど、階段の上り下りの負担が大きすぎる。
瑞穂やママにも手伝ってもらって、一切合財移動。天気がよかったので、美晴は縁側で日向ぼっこをしながら待っていてもらった。
午後のうちに終了。子供の荷物は、本当に少ない。
12月29日(月)
朝から少し熱が高い。38度1分から2分。
週末、ママと一緒に過ごして興奮したせいか、とも思うが、喉がちょっと腫れているとのことで、風邪との診立て。抗生物質と解熱剤の処方。
点滴には睡眠薬も入れているので、影に怯えて起きることは減ったけれど、昼寝が長くなって日中もぼおっとしていることが多い。
その分不快感は軽減されているのだろうけど、もう少ししゃきっとしていてほしい気持ちもあり。
12月31日(水) 大晦日。
熱は下がってきたが、安全を見てお風呂は避ける。今年は色々あったけど、美晴のおかげで、どれだけ元気をもらえたか分からない。
年が明けたらすぐに美晴の誕生日だ。盛大に祝ってあげたいと思う。
美晴は最近、大屋さんにもらった指揮棒をずっと右手に持って、指揮の練習をしている。
瑞穂がそれに合わせ、美晴のベッドの脇にキーボードを持ち込んで、伴奏の練習をする。
時々瑞穂が間違えて、美晴に怒られている。二人とも、頑張れ。
胡桃材のアップライトピアノ
神戸のおばあちゃんの家のリビングには、胡桃材のアップライトピアノがある。
よくある黒いアップライトピアノより、ちょっと子供っぽい感じもしないでもないけど、柔らかい色合いが私は好きだ。
蓋を開き、赤いビロード布をどけると、黒白鍵盤が行儀よく並んでいる。
鍵盤たちが多少くたびれた感じがするのは、若き日の榊原詠子さんが、相当この子たちをいじめた名残だろう。
神戸に来てから、ほとんどピアノをいじることはなかった。時間がなかった、ということはない。そこまで心の余裕がなかった。気持ちに余裕がないのを言い訳にして、ピアノに向かってこなかった。
だから、例の美晴の指揮者デビューの演奏会の話で、早紀ちゃんの家に行ったとき、いきなり早紀ちゃんママから、
「瑞穂ちゃんに伴奏をお願いしたいんよ」
と言われたときには、冗談だと思った。
第一、私は早紀ちゃんの前でピアノを弾いたことなんかないはずだ。なんで早紀ちゃんのママが、私がピアノを弾くことを知ってるんだ。
「詠子さんと相談したんよ。」早紀ちゃんのママはニコニコしながら言った。やっぱり詠子さんか。
「美晴くんとの合わせの時間はなかなか取れへんし、ぶっつけ本番で歌えるほど器用な合唱団やないしね。うちみたいな、おじいちゃんおばあちゃん合唱団のレベルでは、ピアノの伴奏に合わせるしかないんよ。そうなると、ピアノ伴奏者が、きっちり、美晴くんの癖とか、好みを理解してへんとダメでしょ。美晴くんと合唱団の間に立って、橋渡しをしてもらわんと。そういう話をしたら、詠子さんが、それやったら瑞穂が適任やって。」
そりゃ確かに美晴との橋渡しはできるかもしれないが、と私はパニック状態になって言った。私はまだ、せいぜいソナチネ集をさらっているくらいの腕前で、人の伴奏をするなんて経験はなくって、「金色の翼」の伴奏なんてムチャ難しいし・・・
「詠子さんが言うにはね、瑞穂ちゃんには伴奏者の才能があるって。」早紀ちゃんのママの笑顔は変わらない。「人の声の色合いや、呼吸を読むのが上手やって。一回、歌の伴奏をちゃんとやらせてみたかったんやって。」
私の才能や将来に対する思い込みの激しいママの勝手なコメントは置いといて、と私は必死に抵抗を続けた。私は極端な上がり症で、以前のピアノ発表会でも入場の途中でドレスの裾をふんずけて転んで鍵盤におでこから突っ込んでお客さんの失笑を買って、それ以来一度も人前で演奏したことはないので、そんな大役は到底・・・
「腕のええ伴奏者の方がリスクは低い、という話はしたんよ。指揮も伴奏も子供に任せるっていうのはリスクが高すぎるんと違うかって。そやけどね、詠子さんが美晴くんに聞いたら、美晴くんが大喜びなんやて。瑞穂と一緒にやりたいって。」
早紀ちゃんママ。私は情けない顔のまま黙ってしまった。それは最終兵器でしょう。それを言われたら、断れるわけおまへんがな。
私は深呼吸して、ピアノ椅子に腰掛ける。
新年明けましておめでとう、と呟く。
今年のピアノの弾き初め。今日は元旦。
だけど、家の中には誰もいない。
全員で、こども病院の救急窓口に行っている。私だけが、留守番で残っている。
年が明けて、ニューイヤーコンサートで東京にいるママを除いた家族全員がそろって、「明けましておめでとう」を言い合った。
朝のお雑煮を食べている途中だった。
美晴の状態が急変した。
白目を剥いて、えびのように体がそり返った。
美晴が座っていた車椅子が横倒しになりそうな勢いで、全身が激しく跳ねた。
けいれん発作だ。
華やいだ元旦の食卓は滅茶苦茶になった。
救急車が呼ばれ、大人たちはみんな、病院に向かった。
いつも来てくれている家政婦さんも、お年始でいない。
病院関係の年始のお客様が来たら困る、と、私が、留守番役になった。
私から言い出した。
あんな美晴を見たくない。
側にいてあげたい、とは思ったけど、あんなに苦しんでいる美晴を見たくない。
「ホフマン物語」から年末まで、確かに病勢はゆっくり進んでいたけど、あんなにひどい発作はなかったのに。
神様、あんたは、美晴からどれだけのものを奪うつもりなんだ。
2月の演奏会に向けて、夢の指揮者デビューに向けて、美晴に、何を残してくれるつもりなんだ。
「金色の翼」の前奏の和音を奏でた。
行け、我が想いよ、金色の翼に乗って。
楽譜が涙でぼやけて見えない。なめるなよ、と呟いた。
詠子さんを、大地さんを、私を、美晴をなめるなよ。
美晴は絶対に負けない。あの子の夢をかなえてみせる。
私たちをなめるな。私たちは、日本一の家族だ。
腹をくくる
けいれん発作で病院にかつぎこまれてから、美晴はそのまま、こども病院に入院することになった。
大地さんは例によって、美晴の病室に泊り込み、ママも、神戸にいる間は、大地さんと交代で病室に泊り込む。
美晴の鼻には、とうとう栄養チューブが挿入された。上からは栄養チューブ、下からはおしっこの管。腕には点滴。
美晴は全身、管だらけだ。
それでも美晴は笑顔を見せた。
もう声も出ないのに、お見舞いに行った私に、大地さんの五十音のボードを押して、
「みずほ、ぴあの、がんばれ」
と言った。
大屋さんからもらった指揮棒を右手で握りしめ、コルクのところでボードのボタンを押しながら。
美晴は決してあきらめていない。
私たちもあきらめるわけにはいかない。
ママと、早紀ちゃんのママが話し合って、2月の演奏会、というのは厳しいかもしれないので、1月末の、ママの酒蔵コンサートを、美晴の舞台にすることになった。
合唱団の団員さんの中で、スケジュールの都合のつく人にだけ来てもらう。
規模は小さくなるけれど、逆にかなり融通がきく。
4人で、No.3ギャラリーに行った。
早紀ちゃんのママ、ママ、早紀ちゃん、私、の4人だ。
私たちの計画を聞いて、岡崎さんはすぐ、「じゃあ、現場のレイアウトを確かめてみてください」と言った。
合唱団員さんにどう並んでもらうか、美晴の指揮する位置をどこにするか。
その場合、ピアノの位置から美晴の右手が見えるかどうか、などの事前のチェック。
それによって、参加できる合唱団員の数や、蔵の中に並べる客席用の椅子のレイアウトも変わってくる。
「しばらく演奏会イベントが続くんです」と、岡崎さんは言った。「そやから、今、ギャラリーはがらんどうです。いつもやったら、色んな展示物が並んでて、事前チェックも難しいんですけどね。美晴くんはラッキーです。きっと、演奏会は成功しますよ。」
美晴はラッキー。
以前、美晴が言っていたセリフだ。
でも、私は大丈夫だろうか。2月中旬の本番予定だったのに2週間も早まってしまった。
まだどうしても指が回らない部分がいくつかあるっていうのに。
美晴がラッキーな分、私にアンラッキーが取り付いてたら、どうしよう。
「お願いがあるんです」と、ブルっている私を尻目に、岡崎さんが言う。「美晴くんの指揮姿を、ビデオに撮らせてもらえんでしょうか?」
友人に、美晴くんの話をしたんです、と、岡崎さんは話を続けた。その友人が、小児がんの子供たちと家族を援助するボランティア団体のメンバーなんです。団体がサポートしている子供たちや家族に、美晴くんの姿を見せたいっていうんです。病気になっても負けへんで、夢を実現していく美晴くんの姿を、みんなに見せてあげたいって。2月の演奏会の時に、お願いするつもりやったんですが。
「美晴をビデオに撮るってことは、私のピアノ伴奏も、ビデオになるの?」私は言った。
「何を首でも吊りそうな顔しとんの」と、早紀ちゃんがあきれて言う。「ええ加減、腹くくりや。」
「この子はねぇ、根性なしなんよ。」ママが言う。「別に、技術的には十分弾けるんよ。人前で演奏することを想像しただけで、もうびびってしまうんよ。」
「帰るわ。」私は言った。ママと早紀ちゃんを敵に回して、勝てるわけがない。「帰って、ピアノの練習する。」
あと2週間と少し。腹をくくらねば。
フェニーチェ歌劇場が復活を遂げたのは実際には2004年ですが、この物語では、他の出来事との整合性を取るため、2003年の出来事として描いています。「オテロ」の舞台にした新宿文化センターは、私の所属しているガレリア座が、何度かオペラを上演した懐かしい舞台。舞台裏をよく知っているこのホールを、物語に取り込んでみました。