第二幕<オッフェンバック作曲「ホフマン物語」>後半
大地さんが戻ってきた。しかし美晴の中の悪魔は美晴の小さな体をじわじわと蝕んでいく。
何もない舞台
運動会の日の夕方、私たち子供は子供部屋に追いやられて、大人たちは、大地さんを囲んで、長い話し合いをしていた。
私と美晴で手持ち無沙汰になりそうなところに、ちょうどいいタイミングで、早紀ちゃんが遊びに来てくれた。
学校と塾の宿題を一緒にやろう、というのは口実で、美晴の運動会の様子を聞きに来てくれたのだ。
「パパが帰ってきたんやで!」美晴は目を輝かせて報告した。
「パパと一緒に、おさるとウッキッキに出たんや!」
おさるとウッキッキと言うのはこういう競技で、と私が説明する。早紀ちゃんもけらけら笑いながら聞いていた。
「やったな、瑞穂。」
美晴の報告と、私の説明が一段落した時、早紀ちゃんは私に言った。
美晴のために、大地さんを日本に呼び戻す計画の最大の協力者は、早紀ちゃんと早紀ちゃんママだった。
私が何もかも打ち明けて協力をお願いしてから、早紀ちゃんママは本当に必死になって、大地さんの行方を捜してくれたのだ。
早紀ちゃんの言葉は、ずしん、と私のみぞおちに効いた。じわっと涙が出そうになった。
「泣くな、瑞穂。」早紀ちゃんは言った。
「あんたはすごい。美晴もすごい。あんたら家族は、日本一の家族や。」
そうや。美晴はニコニコしながら言う。僕らは日本一の家族や。
「私も頑張ろうと思うんや。」早紀ちゃんは言った。「私、舞台美術家になる。」
私はポカン、と口を開けたけど、次の瞬間、ものすごく納得した。
舞台装置を作っている早紀ちゃん、というのが、あっという間にイメージできた。
父親が画家で、母親がオペラ歌手で、娘は舞台美術家。なんて分かりやすいんだ。
ほんまのことを言うと、昔から、舞台美術には結構興味があったんや、と、早紀ちゃんは言った。
ママが出てたオペラの舞台見たり、舞台写真とか見るのも好きやったけどな。一番好きやったんは、何もない舞台なんや。
何もない舞台?美晴が尋ねる。
そうや。オペラが終わると、舞台方のスタッフが寄ってたかって、きれいな舞台装置を、あっという間にバラバラにばらして、がらん、とした板場に戻してしまう。なんか、でっかい黒い手が舞台上の美しい夢をもみくちゃにして、ぽい、とどこかに捨ててしまうみたいな感じや。
でもな、そうやって、空っぽの、何にもなくなってしまった舞台の空間が好きなんや。
何もない舞台を客席から見ながら、目をつぶって、色んなものを置いてみる。色んな色に染めてみる。
自分だけの、頭の中にだけある舞台装置や。こればっかりは、誰にも壊される心配もない。
自分の頭の中で自分で壊して、また一から作り直すのも簡単や。
面白そうやなぁ。私が言う。
そら面白いけどな。と、早紀ちゃんは苦笑いする。結局は夢や。舞台装置家なんかで食っていけるわけがないのは、オペラ歌手だけでは食っていけてないママを見れば分かる。
岡崎さんの所で展示の手伝いしてるのも無茶苦茶楽しかったし、やっぱり、自分の舞台装置を舞台に作り上げてみたい、とは思ったけど、思うたびに、そんな夢みたいなこと、ってあきらめてた。
そやけどな、あんたら家族を見てて分かったんや。
実現なんかできそうにない遠い夢でも、一つ一つ細かいステップに分解してしまえば、一歩一歩前進していける。
一つの夢が、大きな黒い手に叩き潰されてしまっても、またもう一度夢をくみ上げていけばいい。
一つ一つ、目の前にある目標をクリアしていくこと。それで、きっと夢はかなう。
「夢はかなう。それを思う人間の気持ちさえ強ければ。」
早紀ちゃんは、自分の手のひらを見つめながら、呟くように言った。
「それで、まず、早紀ちゃんは何をするの?」私は聞いた。
「まずは」早紀ちゃんは言った。「宿題。」
「早紀ちゃん、晩御飯食べていくか!」外からおばあちゃんの声がした。
「その前に腹ごしらえや。」早紀ちゃんは言って、にっと笑った。
街灯の光の向こう側
大地さんは、神戸のおばあちゃんの家に間借りをすることになった。
長い大人の話が終わった後、まずママがやってきて、私と美晴に、大地さんが私たちのそばにいてくれることを告げた。
飛び跳ねて喜ぶ私たちに、ママは、いくつかの約束をさせた。
1つめ。大地さんに、何故いなくなったのかを聞かないこと。
2つめ。大地さんに、ママとよりを戻すのか、と聞かないこと。
大地さんとよりを戻さないのか、と、ママの方に聞くことは禁止されていなかったけど、私も美晴も聞かなかった。
大人には大人の世界がある。
それに、大地さんが戻ってきて、ママが心底喜んでいるのは、誰が見ても明らかだった。
側に大地さんがいてくれることの安心感、というだけじゃなくて、やっぱり、好きな人が戻ってきてくれたことが、嬉しくて嬉しくてしょうがない、という感じがした。
大地さんは、少し痩せたかな、というくらいで、そんなに面変わりしたようには見えなかったし、私や美晴に見せる笑顔は、昔のままの優しい大地さんだった。
でも時々、何かの拍子に大地さんを見上げると、ぞっとするほど荒んだ顔をしていることがあった。
何かを考えている、というのではない。
ただぼうっとしているだけなんだけど、何かを永遠に失ってしまったような。
もっと言えば、失わせてしまったものへの怒りとか、憎悪とか、そんなどす黒い感情まで垣間見える、遠い目線。
こんなことを思い出す。
塾帰り、秋の日が落ちるのが早くて、暗くなった街を急いで帰っていった時のことだ。
榊原小児科の近くまで来ると、杖を突いて歩いてくる、美晴が見えた。
美晴の姿は街灯の明りの中で輝いて見える。
大地さんが、美晴の後ろで、少しぼんやりした笑顔で、私の方を眺めている。
美晴が手を振った。
私はちょっと足早になって、急に立ち止まった。
美晴の後ろ、大地さんの背後に、大きな影がぬうっと立っているように見えた。
影の中は闇だった。
闇がすうっと広がって、大地さんをその背後から包み込むように見えた。
ひー、という変な声が聞こえた。
息が漏れた壊れた笛のような。
大地さんが、私の表情に気づいた。
ゆっくり振りかえろうとする。
ぞっとして、思わず駆け寄って、美晴を抱きしめた。
影が消えた。街灯の光の中から、奥にすうっと後退して、見えなくなった。
気がつくと、美晴の後ろで、大地さんがうずくまっていた。
「大丈夫?」と私が言うと、大地さんはうずくまったまま手を振って、
「先に帰ってて」と言った。しぼり出すような声だった。
私が思わず足を踏み出すと、
「近づくな!」と、とがった声で言った。「先に帰ってろ。大丈夫だから。」
私が立ちすくんでいると、美晴がよちよちと、大地さんに近づいていった。
美晴は、大地さんの背中にしがみついた。
美晴の体温が、大地さんの身体に、すうっとしみこんでいくのが見える気がした。
「晩御飯までには帰ってきてね。」美晴がささやくのが聞こえた。
私と美晴は、そのまま手をつないで先に家に帰った。
途中で振り返ると、大地さんが立って、微動だにせずにこちらを見ているのが見えた。
街灯の明かりを背にして、顔の表情は見えなかった。
肩だけが小刻みに震えているように見えた。
砂時計の砂
美晴が自分で歩けるようになって、大地さんも帰ってきて、また平穏な日々が戻ってきた、と、私は思っていた。
ママも、おじいちゃんも、そう思っていたと思う。
でも、おばあちゃんは分かっていた。
美晴の頭の奥に巣食った悪魔は、そんなに簡単に引き下がるような軟弱なやつじゃない。
放射線治療で、「腫瘍が壊れた」とおばあちゃんは言ったけど、実際のところは、腫瘍部分が相当小さくなって、成長が一時的に止まった、というだけのことだった。
腫瘍が再び成長を開始すれば、一瞬止まっていた砂時計の砂は再び落ち始める。
おばあちゃんは毎日毎日祈るような気持ちで、美晴の様子を窺っていた。
そしてきっと、大地さんも、自分に平穏な日々が訪れることはない、と思いつめていたのだと思う。
運動会が終わって、美晴は、また幼稚園に行くようになったのだけど、おばあちゃんは、
「大地さんがずっと付き添っているように」
と注文をつけた。
何か不測の事態に備えて、家族が必ず付き添っていた方がいい。そして、大地さんは今のところ無職のプー太郎なんだから、
「あんたの仕事は美晴のそばにおることや」
と、ぴしゃり、とおばあちゃんに言われて、断れるはずもなかった。
美晴は、教室の後ろで、いかにも手持ち無沙汰、という感じで、ぼおっと突っ立っている大地さんがおかしい、と、夕食の席でけらけら笑いながら報告してくれた。
大地さんが照れくさそうに、
「だってやることないんだもん」
と言うと、美晴は、「パパ、一緒にお歌歌ってたよ」と言った。
大地さんはもう一度、
「だって他にやることないんだもん」と、子供のように唇をとがらせて言った。
これはリハビリだ、と私は思った。
美晴と、大地さんの両方の。
子供たちの笑い声を全身に浴びながら、二人の病気が少しずつ癒されていけばいい。
美晴の頭の病気と、大地さんの心の病気。
でも、それはやっぱり夢だった。
10月の末、美晴が幼稚園に行くようになって、2週間と経っていない日のことだった。
私が学校から帰ろうとすると、校門のところにおじいちゃんが立っていた。
その顔を一目見るだけで、悪いことがあったのだ、と分かった。
「すぐ行くぞ」とおじいちゃんは言った。
「美晴は?」私は言った。
「倒れた」と、おじいちゃんが言った。「大地さんが一緒や。ばあちゃんは後から来る。」
病院の小児科病棟の廊下に、大地さんが立っていた。
私とおじいちゃんを見る目が真っ赤に染まっていた。
「お昼ご飯を吐いた。」大地さんはしわがれた声で言った。
「頭が割れるように痛いって、病院に連れて行ってくれって言った。」大地さんの声が大きくなった。
「でも泣かないんだ。頭が痛くて、食べ物も吐いて、それでも泣かないんだ。じっと我慢して、俺が子供みたいに泣いてるのを見て、俺の手を握ってくれた。俺が子供みたいだったのに。美晴の方が子供なのに。」
大地さんは自分の手を見つめた。その中にあった美晴の手のひらのぬくもりを握り締めるように、握りこぶしを作ると、血を吐くような声で言った。「俺のせいだ。俺が・・・帰ってきたから。俺が・・・」
派手に、バシン、という音がして、おじいちゃんが大地さんの横っ面をはたいた。
「だれのせいでもない。」おじいちゃんが低い声で言った。
「だれも悪くない。二度と言うな。」
大地さんはおじいちゃんを見た。
その血走った目の中に、ぽっと光がともったように思ったら、それは見る見る丸く盛り上がって、大地さんはぼろぼろ涙をこぼし始めた。
おじいちゃんは大地さんをがっしり抱きしめた。
二人はそのまま、声を上げて泣き出した。
男でも泣くんだ。大人の男の人が、こんなに大声を出して泣くんだ。
私は呆然として、抱き合ってただひたすらおいおい泣いている二人を見ていた。
病室の中から、そっと看護婦さんが顔を出した。「瑞穂ちゃん?」
「私です。」私は言った。
「美晴ちゃんが、瑞穂ちゃんに会いたいって。」看護婦さんが言った。
私は病室に入った。美晴は、ベッドの上で天井を見ていた。
また強い斜視が出ていて、美晴が私の方を見たのかどうか、一瞬分からなかったけど、美晴ははっきり微笑んだ。
「瑞穂、パパ泣いてる?」美晴は言った。
「泣いてる。」私は言った。
「パパに、泣かないでって言って。」美晴は言った。「パパのせいじゃないよって。ごめんねって。」
「美晴のせいでもないよ。」私は言った。
美晴は微笑んで、「だるくて眠い」とつぶやくと、そのまま眠りに落ちた。
私の仕事。とても辛い仕事
美晴が幼稚園で倒れて1週間後、美晴は神戸の家に帰ってきた。美晴には、
「おばあちゃんの病院もあるから、家でみんなで一緒に病気を治そう」
と説明して、美晴も喜んで退院を承知した。
でも、おばあちゃんは、私たちに向かって、全然別のことを、静かに言った。
「秒読みが始まった。」
ママも大地さんも私もおじいちゃんも、ただ、おばあちゃんを見つめていた。
「定時の投薬とかの面倒は、私と病院のスタッフで見る。大地さん、あんたはずっと、美晴のそばに付き添ってられるか?」
大地さんはうなずいた。ママは東京で仕事があり、私も学校がある。
おじいちゃんでは、何かあったときの体力に不安がある。大地さんが美晴の面倒を見るしかない。
「あんたがいてくれて、ほんまによかった。ありがとう。」おばあちゃんは言った。「大地さん、看護日誌をつけてくれるか。」
「看護日誌?」大地さんが言った。
「その日の美晴の様子とか、投薬の状況とかを書きとめておくんや。美晴の記録や。一日一日、大事に書いてやっておくれ。」
ママが、声にならない声を上げて、手で口を覆った。
おばあちゃんはママの方に向き直った。
「あんたの仕事は、12月の舞台を最高のものにすることや。そうして、神戸に帰ってくる時には、美晴に、最高の思い出をいっぱいあげることや。」
「なんで」とママが言った。「なんで美晴が。」それだけ言って、ママは両手で顔を覆った。
「泣いとる暇があったら、考えろ。」おばあちゃんはしかりつけるように言った。そんなことを言いながら、おばあちゃんの両目から、ぼろぼろ涙がこぼれはじめた。
「12月の舞台を最高のプレゼントにするために、今日何をやるか。」おばあちゃんはぼろぼろ泣きながら続けた。「舞台が終わったら、次の目標をどうするか。その目標のために、今日何をやるか。髄液検査って知ってるか?」
「髄液検査?」おじいちゃんが聞いた。
「脳の中の髄液という液体を採取して、いろんな検査をする。髄液を取るには、ものすごい太い注射を、背中に刺す。それも1箇所やない。2箇所、3箇所と注射する。大人でも泣き喚くくらい、つらい注射や。美晴は最初の放射線治療の前に、その注射をした。」
「美晴は泣いたの?」ママが泣き声で言った。
「泣いた泣いた。」おばあちゃんは言った。「大声で、痛い、痛いと泣いた。でもな、注射が終わった後、私に言うた。おばあちゃん、僕、泣いてしもた。みんなが僕を治そうと頑張ってくれてるのに、僕、痛いって泣いてしもた。僕はもう二度と泣かへん。泣くくらいやったら笑う。笑えばみんなが幸せになるって、おじいちゃんも、瑞穂も言ってたって。」
おばあちゃんは、流れる涙をぬぐおうともしないで、言葉を続けた。「美晴は苦しくても笑おうとしてる。私らも笑おう。な、瑞穂。美晴の前で、笑い続けてあげること。瑞穂の仕事は、それや。」
それはものすごくつらい仕事だ、と私は思った。
みんな泣いているのに。
笑い方なんか、どうがんばったって思い出せそうにないのに。
そうして、11月、美晴は家に帰ってきた。
大地さんの看護日誌から その1
11月1日(土)
美晴帰宅。頭痛は軽くなった様子。
病室から、病院の玄関までは車いすに乗ったが、家について、車から自分の部屋までは、杖をついて自分で歩いた。
でもそれだけで疲れた様子。部屋のベッドに入ってからは、夕食までぐっすり眠る。
とにかく疲れやすくなっている。すぐ我慢をしてしまうので、我慢をするな、痛かったら痛いと言うように、と言い聞かせた。
夕食には、ママも間に合って、家族全員で食卓を囲んだ。
美晴は、好物の鳥の唐揚とコーンスープをたいらげた。食欲は戻っているらしいが、時々ろれつが回らなくなる。瑞穂のことを、「みいお」と時々言う。
お風呂に美晴と入る。美晴は、瑞穂やママと一緒に入りたいと言う。
わがままを言うんじゃない、といさめていたら、ママがすっぽんぽんでドーンと入ってきて、2人してギャーと喚いてしまう。さすがに瑞穂は恥ずかしがって入ってこない。
21時就寝。とにかくよく眠る。
美晴のベッドの脇に布団を敷いて眠る。夜時々寝顔を眺める。どうしても信じられない。
11月10日(月)
朝食に、フレンチトーストを作ったら、瑞穂も美晴も、手を叩いて喜んでくれた。
美晴は、ナイフとフォークがうまく使えないので、小さく切ってあげる。
ゆっくりゆっくり食べなさい、と言い聞かせる。時間はたっぷりあるからね、という。
自分にはあるけど、この子にはないのに。
根気よくフレンチトーストの切れはしを口に運ぶ様子を見ていて、首が凝ってしまった。
夕方、瑞穂が学校であった笑い話を話して聞かせる。早紀ちゃんという友達が、同級生の男の子をしかり飛ばした話。
美晴と一緒に笑ってしまった。
瑞穂は人を笑わせるのが上手だ。
11月13日(木)
11時ごろ、けいれん発作が起きる。
すぐ隣の病院から看護婦さんが来てくれるまでの時間が、永遠のような気がした。
正視できない。
看護婦さんとおばあちゃんが、酸素吸入とかやっている脇で、ただ、なんでこの子が、と繰り返す。
けいれんが治まって、意識が戻ると、左手が動かないと言う。
なんでこの子はこんなに透き通った目で、自分の体のことを周りに伝えられるのか。辛くないのか、と聞くこともできない。
11月18日(火)
ママが帰ってくる日。
今日のママはいろいろあって興奮している。まず、東京公演の初日の車いす席を確保した、とのこと。 12月5日、金曜日。
新幹線の予約とか、いろいろの手配をおじいちゃんに頼む。
主催者側が相当便宜を図ってくれている。
本番指揮者はベルギーの大屋一樹先生。
ちょうど昨日、初めての合わせ稽古があったそうで、それもママの興奮の原因の一つらしい。
「大屋先生が指揮をするとね、指揮棒からさあっと光が広がるみたいに見えるんだ」と、熱く語っている。
夕食の食卓を囲むが、軽い嚥下障害が出ているので、美晴だけ、柔らかめのメニューになっている。
赤ん坊に戻ったみたいだね、と美晴が笑う。
11月22日(土)
美晴が、大屋先生に手紙を書くと言い出す。
先日のママの話が相当気になったらしい。
大きな画用紙にクレヨンで、絵と文字を書いた。歌っているママの絵と、指揮をしている大屋さんの絵。
大屋さんの指揮棒から、雷のような光がほとばしっているように見える。「ホフマンものがたりを みにいきます。がんばってください」と書いてある。
来週帰ってくるママに託すことにする。
昼食のパンをのどに詰めて咳きこむ。いよいよ流動食を中心にしないとだめ。
11月27日(木)
尿の出が悪いので、尿道に管を入れることになった。
さすがの美晴も、相当めげたらしく、一日中不機嫌。むすっとしている。
それでも泣かない。
言葉はますます分かりにくくなってきた。私より瑞穂の方が、よほど美晴の言葉をきちんと聞きとっている。音感の差だろうか。
12月1日(月)
ついに12月。
「ホフマン物語」初日まであと5日。
この1か月で病勢も進んだが、でも美晴はまだしっかり持ちこたえている。
東京行きの準備も整えた。あと5日、何事もないことを。
美晴の涙
12月4日と5日は学校のある日だったけど、私は学校を休んだ。
神戸に留守番で残ったのはおじいちゃんだけで、おばあちゃんと、看護婦長の小池さん、私と大地さん、それに美晴の5人で東京に向かう。団体様だ。
美晴はもう車いすでしか動けなくなっていて、大地さんが車いすを押した。
今となっては、大地さんが、一番車いすを押すのが上手だ。
JRの住吉駅から、新大阪に向かう。
電車の中で、車椅子とその家族の一行は場所も取るし目立つし、周囲から相当じろじろ見られたけど、こちらはそれどころじゃない。
特におばあちゃんは、空いている席があっても座りもせず、美晴の側にずっと立って、体中を目にして、美晴の様子を見つめていた。
大地さんは時々、美晴の口元を拭いてあげたり、――この頃には、よだれが垂れるようになっていた――その手を握ったりしている。
帰国したばかりの頃の荒んだ表情はすっかり影をひそめていて、とても優しい顔になった気がする。
美晴が何か言うと、ちょっと聞き取れないらしくて、私の方を見る。
私が美晴の顔にかがみこんで、声を聞き取る。そして、みんなに伝える。
確かに発音ははっきりしないけど、声のトーンとかで、美晴が言いたいことは大体分かった。
新幹線に乗って席に腰を据えた時に、大地さんが、「瑞穂」と呼んだ。
美晴のそばに行くと、美晴が待ち構えたように、私に向かって手のひらをひらひらさせた。
首が動かせなくなってきているので、車椅子の背もたれに頭を預けたままだし、顔の表情もあまり動かなくなっているので、表情から何か読み取るのは難しい。
声だけが頼りなのだけど、その声はすごく不安そうだった。
「みいらいこれらい」と美晴が言った。私はぞっとした。
「耳が聞こえないの?」
「いこえらい。」美晴が言う。
どういうことだよ。なんでだよ。叫びそうになった。
なんで神様は、美晴に「ホフマン物語」を聞かせてくれないんだよ。
耳が聞こえないんじゃ、ママの歌を聞けないんじゃ、いったい何のために、こんなに美晴は頑張ってきたんだよ。
こんなにみんな頑張ってきたんだよ。
私が美晴の言葉を伝えると、おばあちゃんも大地さんも青ざめた。
おばあちゃんが言った。
「一時的なもんかもしれん。とにかく、東京まで連れて行こう。」
新幹線が東京に着くまで、美晴は少し眠った。東京に着いて、目を覚ました美晴に、私は話しかけた。
「聞こえる?」
美晴は、私の方をしばらく見つめて、そしてぼそっと言った。
「あんにおいごげだい。」
なんにもきこえない、と美晴は言った。
その両目から、ぼろぼろ涙が流れ始めた。
美晴が闘病生活に入って、私に見せた、初めての涙だった。
パレスホテルのシャンデリア
パレスホテルに、つなぎの部屋を取ってあって、ホテルに着くと、すぐ大地さんがママの携帯に、無事に到着した、とメールした。
美晴の耳のことはメールに書かなかった。
本番は上野の東京文化会館だから、パレスホテルからタクシーに乗ることになる。
美晴は、パレスホテルの玄関に入ると、ぱっと明るい顔になった。
いつもおばあちゃんたちが東京に来るとき、家族で食事をしたホテルだ、と分かったらしい。楽しい思い出の詰まったホテルだ。
玄関に入ったところのきらきらのシャンデリアを見上げて、「はれるおてうだ」と言った。パレスホテルだ、と言ったのだ。
その声が明るくて、私はニコニコうなずきながら、心の中で神さまに向かって罵詈雑言を浴びせていた。
ふざけんじゃねぇ、なんで美晴が。
ママは前日リハーサルで帰りが遅くなるけど、私は起きて待つことにした。
もしもママが帰ってきた時に美晴が起きていて、何か言ったら、ママに通訳してあげないといけないし、何より、私もママに会いたかった。
美晴も同じらしくて、ママが帰るまで眠らない、とちょっとぐずったのだけど、眠らないとダメだ、と身振りで伝えると、あきらめたように眠った。
そもそも東京への大旅行で疲れ果てているのだから、眠るのもすごく早かった。
ママは、夜の11時過ぎに帰ってきた。
部屋にそっと入ってきたママは、すやすや眠っている美晴の寝顔を覗きこんでから、隣の小池さんとおばあちゃんの部屋に行った。
戻ってきたママは、目を赤くしていた。
「全然聞こえないの?」ママが言った。
「音が鳴ってるのは分かるんだけど、ぼわんぼわん、っていう感じになっちゃう、って言ってる。」私は言った。「全体にエコーがかかりすぎてるみたいな感じらしいよ。」
「一時的なものかもしれない。」大地さんが床の方を見ながら言った。「なんともいえない。とにかく明日は、美晴を連れて行く。」
「頑張るよ。」ママは言った。
「頑張れ」と、大地さんが言った。
「まあ?」と、美晴の声がした。ママ?と言ったのだ。
3人して、美晴のベッドを覗き込むと、美晴は起きていた。
まだ半分眠っているような顔だ。
「まあ、おおりうあ」という。私の出番だ。「ママ、子守歌って言ってる。」
「子守歌?」ママが言う。
「いんいおおつああ」と美晴が言う。「金色の翼って。」
「高いぞ。」ママは言う。「私の子守歌は、金の取れる歌だからね。」
「でも」と大地さんは言いかけた。美晴は耳が聞こえない。
ママは大地さんの方を見て、微笑んだ。
そして、美晴の上にかがみこみ、美晴の動かない目の上に、自分の顔が来るようにした。
低い透き通った声で歌いだした。
行け、我が想いよ、金色の翼に乗って
行け、斜面に、丘に憩いつつ
温かく、甘い祖国のそよ風が香る場所
ヨルダンの河岸に挨拶をしておくれ
そして破壊されたシオンの塔にも…
おお、美しく、そして失われた我が故郷!
おお、懐かしく、そして辛い思い出!
美晴は、ママが歌い終わる前に、静かに寝息を立てていた。
朝、美晴が目が覚めたら、奇跡が起こりますように。美晴の耳が、もう一度ママの歌声を聞くことができますように。
神様のクソったれ、それくらいのお祈り、聞き届けてくれてもいいだろうがよ。
私はそればっかりを考えながら眠った。
美晴と大地さんは同じ部屋で、ママと私が同じ部屋。
小池さんとおばあちゃんが、美晴の部屋の隣で、何が起こってもいいように、控えてくれている。
態勢は万全で、美晴の様子も安定していたから、後は、耳の問題だけが解決してさえくれれば。みんなそう考えていた。
翌朝、奇跡は起こった。
残酷な奇跡が。
ミューズとコッペリウスの取引
その夜、美晴が見た夢の話を、翌朝、美晴は私に教えてくれた。
回らない舌で、一生懸命話してくれた。
こんな夢だ。
ママの金色の翼の歌が遠くに聞こえた。もうママの歌声が聞こえないと思うと、美晴はすごく悲しくなって、お願いです、神様、何とかしてくださいと、一生懸命祈った。
祈りながら眠ってしまうと、美晴の周りにしずくの形をした銀色の輪がいっぱい出てきて、しゃらん、しゃらん、と鳴っていた。
しずくの輪っかの向こうから真っ白い光が射してきて、そっちを見ると、女の人が立っていた。
早紀ちゃんのパパの絵に出てきた、裸の女の人に似ている気もした。
白い服を着ていて、ママが見せてくれた、「ホフマン物語」の衣装ファイルにあった、芸術の女神ミューズみたいにも見えた。
その人のそばに、黒い服を着た大きな人が立っていた。
黒い服には一面に、目玉が張り付いている。
一目で、「ホフマン物語」の、コッペリウスだと分かった。
オランピアの目を作って、オランピアを壊してしまう悪い人。
服に張り付いた目玉が全部生きていて、そろって、ぎょろっと美晴の方を見る。
むちゃくちゃ怖い。
女の人が、「耳が聞こえないの?」と、美晴に聞いてきた。
美晴はうなずいた。
女の人が、「耳が聞こえるようになりたいの?」と重ねて聞いてくる。
美晴は思いっきりうなずいた。
女の人は、そばに立っているコッペリウスに何か言った。
コッペリウスが何か言い返した。
喧嘩しているみたいだった。
一通り、言い争いが終わったら、女の人は、美晴の頭に手を置いて、こう言った。
「美晴くん、耳が聞こえるようにしてあげるけど、代わりになるものをもらわないといけないの。そういう決まりなの。美晴くんの目が欲しいって、あのおじさんが言うの。そしたら、耳が聞こえるようにしてあげるって。」
美晴は考えた。
目を取られたら、いろんなものが見えなくなる。ママの顔や、パパの顔や、瑞穂の顔や、幼稚園のお友達の顔。
きれいな空や、緑の山。
早紀ちゃんのお父さんの絵。
全部見えなくなる。
そう考えたら、美晴は悲しくて、また泣きそうになったけど、でも、美晴はうなずいた。
ママの「ホフマン物語」を聞くのが一番大事なんだ。そのために東京まで、新幹線に乗ってきたんだから。
美晴がうなずくと、コッペリウスは、ひー、みたいな甲高い声を上げて笑うと、目玉つきの黒いマントを翻して、美晴の顔の方に手を伸ばしてきた。
手のひらの真ん中にまで、目玉がついていて、その目玉がぎょろっと美晴の方を見た。
美晴は怖くて目をつぶった。
それきり、何も見えなくなった。
美晴の夢の話はここまでだ。
翌朝、私は早くに目が覚めた。
自分の部屋を飛び出して、美晴の部屋に飛んでいった。
チャイムを鳴らすと、大地さんが寝ぼけ眼で扉を開けてくれた。
そのそばをすり抜けて、美晴のベッドに、「美晴!」と声をかけた。
美晴も、もう起きていて、にこにこしながら、「いこえうよ」と言った。
きこえるよと言ったのだ。
「みうお、あんかいっていえ。」(瑞穂、なんか言ってみて)
「聞こえるの?」私は聞いた。飛び上がるほど嬉しかった。
大地さんが、私のそばにかけよってくる。笑顔だ。「私の声、聞こえる?」
美晴はうなずいて、「めあいえないけろね」と言った。私は凍りついた。
「なんだって?」大地さんが笑顔のまま言った。
「目は見えないって?」私は言った。
大地さんの笑顔が固まる音が聞こえた気がした。
美晴はうなずいた。「いえない。れも、しょうあないの。」(見えない。でも、しょうがないの。)そして、にっこり微笑んだ。
私はその場にへたりこんだ。そして大声で泣きだした。
私は町の何でも屋
私の泣き声に、慌てて部屋に飛び込んできたママが、大地さんに美晴の失明を聞かされて、半狂乱になる前に、美晴はきっぱり、
「えわあねいないお」(目は関係ないよ)と言った。
首で頭を支えること、動いているものを目で追いかけること自体が、今の美晴にはすごくつらいことで、長時間のオペラを鑑賞するには、それがもともと大きな心配事のひとつだった。
だから、美晴は、ただ耳だけで、音楽に集中する方が、よほど疲れない、と言い切った。
私は、美晴の言葉を通訳するうちに、自分の気持ちがだんだん落ち着いてくるのに気がついた。私の弟はすごい。
ママは、私が通訳した美晴の言葉を聞くと、腹をくくったように、
「分かった。耳の穴かっぽじって、しっかりママの歌を聴いてるんだぞ!」と言った。
「まあこそ、おろはるるあよ」と美晴が言った。「なんだって?」とママが私に聞く。
「ママこそ、音はずすなよって」と私が言うと、ママは私の頭をはたいた。なんでだ。
何が起ころうが、出演者は当日朝、9時に本番会場に入っていなければならない。プリマドンナが遅刻するわけにはいかない。
ママはものすごい形相で荷物をまとめて、パレスホテルを飛び出していった。
こちらはこちらで忙しい。
パレスホテルから、東京文化会館への移動の段取りの確認。介護タクシーの手配。
おばあちゃんと小池さんは、美晴が少しでも楽に観劇できるように、事前に色々と考えて点滴液を選んできてくれていた。
そもそも、普通の幼稚園児にもつらいオペラの全幕上演を、普通じゃない美晴が耐えられるものか、それが一番の心配事だ。
オペラ歌手の子供とはいえ、まだ小さい美晴には、全幕上演を見た経験自体あまりないのだ。
最悪でも、1幕の最後まで我慢できれば、ママのオランピアの歌は聞ける。
もし無理なら、1幕のあとの休憩でホテルに戻ることも考えておく必要がある。
そうなると、帰りの介護タクシーの心配もしないといけない。
時間はどんどん過ぎていく。
大体、舞台の本番当日、というのは、あっという間に時間が過ぎてしまうものだ。
夜6時30分開場、7時開演。
早めの夕食を食べ、余裕を見て、パレスホテルを5時に出る。
ホテルの玄関先に来てくれた介護タクシーに、美晴と、おばあちゃんと小池さん、別のタクシーに私と大地さんが分乗して、上野に向かう。
会場側には、ママと大地さんが手を回して、開場前、一般客よりも一足先に客席に入れるように段取ってくれていた。
上野の公園口の信号の所で降りると、4人がかりで、車椅子を下ろす。
点滴びんを下げて5人固まりになって移動する。歩道のわずかな段差や、アスファルトの段差のたびに大きく車椅子が揺れ、そのたびに、美晴に、
「大丈夫?」と声をかける。
美晴は大丈夫、と笑ってみせる。
真っ暗闇の中を進んでいるのに、美晴はちゃんと、笑顔を見せてくれる。
会場に入ると、待ち構えていた受付スタッフのお姉さんたちが先導してくれて、開場前の、誰もいない客席に入る。
車椅子席に、美晴の車椅子を据え、その両脇に、私と大地さんが、パイプ椅子を用意してもらって座った。
おばあちゃんと小池さんは、車椅子席のすぐ目の前の席に座る。
大地さんが、美晴の毛布を整えながら、
「瑞穂、ママに、無事着いたと言ってきて」と言う。
駆け出そうとすると、「すぐ戻って来いよ!」と声がかかる。
ロッシーニの「セヴィリアの理髪師」で、フィガロが歌う「私は町の何でも屋」を思い出す。フィガロフィガロフィガロフィガロと町中から彼を呼ぶ声。フィーガーロー!
地下に降りて、ママの楽屋に駆け込むと、メイク中のママの脇に、知らないおじさんが立っていた。
おじさんというには随分童顔の人だ。
ママは、淡い薄紫の舞台衣装を着ている。
ドレス、とも見えるけれど、部屋着のようにも、あるいはもっと艶やかな衣装にも見える、不思議な風合いの布と、深いドレープ。
美晴が着いた、と報告すると、脇に立っていたおじさんが、「美晴くん、大丈夫だった?」と声をかけてくれた。ママが、「大屋さんよ」と言う。「指揮者の。」
大屋さんは、私に向かってにっこり微笑んで、「君が、瑞穂さん?」と聞いてきた。
「美晴くんに、伝えてくれる?手紙ありがとうって。ママもがんばるけど、僕もがんばる。今日の出演者のみんなが、美晴くんのために、最高の演奏をするからねって。」
私は、伝える、と言った。開場5分前。フィガロは急いで客席に戻らないと。
オッフェンバック作曲「ホフマン物語」プロローグから第一幕まで
激しいトゥッティの荘厳な和音。
羽が翻るような軽やかなフルートの音と、妖精の合唱と共に、舞台上に、芸術の女神、ミューズが舞い降りる。
ミューズは、詩人ホフマンを自分の下僕にするために、いつもそばにいて彼を見守ろう、と、ホフマンの友人、ニクラウスに変身する。
豪奢な女神の衣装の下から、一瞬にしてズボン役の凛々しい青年が現れると、「ホフマン物語」の長いプロローグが始まる。
「ホフマン物語」は3幕構成だが、その前後に、かなり長いプロローグとエピローグが置かれている。
全体は5部構成と言ってもいい。
プロローグとエピローグは同じ場面。
ルーテル酒場、という、学生たちがたむろする酒場だ。
おりしも、ルーテル酒場の近くの歌劇場では、歌姫ステラが、歌劇「ドン・ジョバンニ」で聴衆を魅了している所。
その上演の最中に、劇場を抜け出してきたホフマンの恋敵、悪役リンドルフが、ルーテル酒場に姿を現す。
ステラがホフマンにあてて書いた恋文を盗み取り、ステラを奪い取ってやる、と歌うリンドルフ。
リンドルフ役はイギリス出身の大柄なバリトン歌手で、口を曲げて歌うときの目がものすごく怖い。
このリンドルフ役のバリトンは、ママのステラ同様、全幕の悪役を一人で演じる。
ホフマン・ニクラウス・ステラ・リンドルフ、という4人が、物語全編の軸になるのだ。
「ドン・ジョバンニ」が幕間の休憩に入り、酒場になだれ込んできた学生たちは、ステラをたたえて飲み交わす。
そこに、詩人ホフマンが、ニクラウスを伴って現れる。
ホフマンは既に悪酔いしている。
理想の美女ステラの中に、自分が今まで恋した女性たちの幻影を見たのだ。
恋に絶望しているホフマンは、ステラがなんだっていうんだ、とばかり、学生たちの求めに応じ、滑稽な戯れ歌、「クラインザックの歌」を歌いだす。
しかし、ステラへの思いは彼を捉えて離さない。戯れ歌の途中で、ホフマンはステラの美しい幻影を見る。
榊原詠子の最初の登場シーンだ。
ホフマンが舞台の前景で歌う背後で、ニクラウスが立ち上がり、まるで天から差し招くように手を差し伸べると、舞台の上、何もない空間に、ステラの姿が浮かび上がった。
ホフマンの歌の高まりに合わせてゆっくりと両手を広げる。
自分の母親だと分かっているのに、私は思わずため息をついた。
隣で大地さんが、同じようにため息をついているのが聞こえる。
榊原詠子は、もうそこにはいなくて、そこに見えるのは、19世紀のヨーロッパに突如舞い降りた稀代の歌姫、ステラだ。
その輝く髪が落とす影、ああ、気高い首筋に揺れる。
澄み切ったそのまなざしは僕を照らす優しい木漏れ日
そして静かに手を取れば、微笑むあなたの唇にもれる、愛の歌よ!
こだまするその歌声、忘れはしない
鳴り響いている、今も胸に!
美晴には見ることができない、それでも、ホフマンが絶唱とも言える美しいアリアで、ステラの美しさをたたえるのを、美晴は微笑みながら聞いている。
学生たちにうながされ、ホフマンは、自分の愛した3人の女性の物語を語り始める。
最初の女性、それは自動人形オランピア。
静かに暗溶していく酒場の場面の後景で、ステラの立っていた場所から、ステラと同じ衣装を着た3人の女性が舞台の奥の空中へと歩み出す。
一人の女性が3人に分裂したようにさぁっと舞台の三方に散る。
そのうちの一人、真ん中にいる女性が振り返る。カタカタと、人形のような身振り。
自動人形オランピアになりきった榊原詠子だ。
そして静かに舞台は暗転し、プロローグは終わる。
プロローグが終わって、短い幕間の間、私と大地さんはすかさず、美晴に様子を聞いた。どう?疲れてない?
「じぇんじぇん」と美晴は言った。これは大地さんにも分かる。「えあうかえないあら、かえっれらるだお。」
「目が疲れないから、かえって楽だよ」と、大地さんに私は伝える。
大地さんは美晴の顔をじっと見つめて、
「美晴、すげえな」
とつぶやいた。
第一幕の開幕。
プロローグと打って変わって、若々しく、希望に満ちたホフマンが、学問を究めようと訪ねるのは、物理学者、スパランツァーニの研究室だ。
雑多な作りかけの機械や部品が所狭しと置かれた怪しげな場所。
低音の弦が奏でる悪役のテーマ曲と共に現れるコッペリウスは、自動人形オランピアの目をスパランツァーニに提供した科学者。
全身を包む黒いマントには無数の目玉が光り、両手を客席に広げると、美晴の夢の通り、手のひらにも目玉の絵が描かれている。
コッペリウスのくれた魔法の眼鏡を通して、ホフマンは、美しい少女、オランピアを見る。
眼鏡ごしに見えるオランピアは、妖艶なしぐさでホフマンを誘う。
けれどその正体は自動人形で、眼鏡をはずすと、人形のカタカタとした仕草に戻る。
命の宿っていない機械を、生きているように見せる、魔法の眼鏡なのだ。
ホフマンが眼鏡をかけたりはずしたりするのにあわせ、詠子さんの動きが、人形ぶりと艶かしい少女の仕草にくるくると切り替わる。
オランピアのアリアが始まる。
詠子さんは気合十分だったけど、でも全身からは全然そんな力みは感じられなかった。
大屋さんの指揮棒に合わせて、まるで何事もないように、透き通った高音が会場中に響く。
小鳥がさえずるようなダジリタに、思わず微笑んでしまうのに、息ができない。
聴衆の全てが、ほとんど呼吸困難に陥りそうなくらいまで緊張した瞬間、オランピアのゼンマイが切れて、カタン、と動かなくなる。あわててねじを巻きなおすスパランツァーニ。
すると、ピョコン、とオランピアが起き上がる。会場中がくすくす笑い、張り詰めた空気がふっと緩む。
最後の超高音のダジリタ。
超高音なのに、柔らかいベルベットのような響きで、ママはハイEを客席に向かってポン、と放った。
その音の響きが会場の隅々にまだ跳ね返っている上に、輝かしい最後の超高音のロングトーンが響き渡り、会場全体にさぁっと虹色の光の波が走ったように見えた。
一瞬、聴衆全員が、ただ茫然自失する時間があって、拍手とブラボーの声が地響きのように沸きあがった。
私は美晴に、
「やったよ、ママは歌いきったよ。オランピアをカンペキに歌ったよ」
と言った。美晴は、
「まあいいあうだよ」と言った。まだ一幕だよ、と言ったのだ。
この贅沢者、と私は思ったけど、美晴はものすごく得意そうな笑顔だった。
そうだよ、これでこそ榊原詠子さんだよ。私は叫びだしたくなった。
あれは私のママなんだぞ。世界一の、私たちのママなんだ。
たぶん、美晴も同じように叫びたかったんだと思う。
オランピアはホフマンとワルツを踊るのだが、コッペリウスの策略にあって制御不能になり、最後には壊れてしまう。
コッペリウスの振るうハンマーで一瞬にしてバラバラに壊れるオランピア。
愛した女が自動人形だった、という残酷な現実に呆然とするホフマン。
合唱の嘲笑の中で、第一幕の幕が下りる。
ここで、20分間の休憩。
幕間にて
休憩に入って、大地さんが美晴に、「大丈夫か?」と聞くと、美晴はうなずいた。「第二幕も見るか?」と重ねて聞くと、美晴は、
「あったいあー」と言う。「当ったり前」と。
実際、美晴は、神戸の自分の部屋に寝ている時よりも元気そうに見えた。久しぶりにママの歌を聞いて興奮しているらしい。
おばあちゃんと小池さんが、血圧を測ったりしているわきで、私と大地さんが、1幕の舞台で起こったことを美晴に色々と説明していると、
「マルちゃん」と声がした。
振り向くと、小柄な長い髪の女性が立っている。
「伊上さん。」大地さんが口ごもった。「わざわざすみません。」
「どなた?」おばあちゃんが言う。
「伊上咲子先生。」大地さんが紹介する。「今回の舞台の、演出家。」
伊上さんは、にこやかに挨拶する。チャーミングな笑顔の人。
「あんたこんなところで何してんの。」一通りの挨拶が終わると、伊上さんは大地さんに言った。大地さんがもごもご言っていると、
「さっさと舞台に戻ってきなさい。みんな待ってるんだから」と、ぴしゃりと言う。
「でも」と大地さんはやっと言った。「俺もう、綱も持てないし。」
「たかだか2・3回綱元ミスったからって何さ。」伊上さんはほとんど叱りつけるような口調になった。でも、目はとっても優しい。「あんたの息子に元気もらって、さっさと戻っておいで。」
そう言い放つと、別人のような優しい顔を、私に向けた。「瑞穂ちゃん?」
「そうです。」私は言って、ちょっと背伸びしたセリフを言う。「いつも母がお世話になっています。」
「こちらこそ。」伊上さんが言う。「今回の舞台はね、みんなママから元気もらったの。で、ママは美晴くんから元気をもらってる。だからね、今回の舞台は、美晴くんの元気で出来上がった舞台なんだよ。」
美晴が照れくさそうに微笑む。伊上さんは、「後半も楽しんでね」と言って、そのまま去っていった。
大地さんはその背中を見送っていた。そうして、舞台の方を眺めた。
開演のチャイムが鳴るまで、大地さんは、じっと舞台を見つめていた。
オッフェンバック作曲「ホフマン物語」第二幕
休憩が終わると、第二幕、アントニアの幕が始まる。
「ホフマン物語」全編の中でも、最も音楽的に充実した幕だ。
伊上さんの演出は、この幕の開幕前に、元の台本にない小さなシーンを付け加えていた。
幕が上がると、上手の小さな区画に照明があたる。
そこには姿見の鏡があり、こまごましたメイク道具や衣装が下げられている。
ニクラウスが、壊れたオランピアの残骸を抱えてやってくると、その鏡の裏に放り込み、裏から、うやうやしく手を取って、ステラを導き出す。
オランピア役を演じていたステラが、自分の楽屋に戻ってきた、という設定。
ステラは、姿見の鏡の前で、少しメイクや髪飾りをいじり、舞台の中央に向かって歩みだす。
上手の区画とニクラウスが闇の中に消える。
舞台中央には車椅子が置かれていて、ステラがそこに崩れ落ちるように座り込むと、第二幕の序奏が始まった。
ふっと顔を上げるステラ。その一瞬で、ステラはアントニアに変貌する。
小鳩は飛び去った
思い出せばかえってつらい
あのまなざし、優しい声が、あの方の姿が
深く胸に
バイオリン職人、クレスペルの一人娘、アントニアの物語の開幕だ。
壁にかけられた沢山のバイオリンに囲まれて、アントニアが歌うのは、自分のもとを去って行った小鳥の歌。
飛び去っていった鳥に託して歌われるのは、病気によって失われてしまった自分の夢、閉ざされた未来。
でも、そんな軽い鼻歌でさえ、アントニアの病んだ体を傷めつける。
同じように、歌に身を捧げ、歌に病んで、命を落としたアントニアの母。
父親クレスペルは、娘が母と同じ運命をたどる予感に怯えながら、アントニアに歌を禁じる。
一幕のコケットな自動人形から、病弱な儚い美少女へ。
演出上の意図で、ステラも、オランピアも、アントニアも、薄紫のコスモスのような色合いの、同じ衣装を着ている。
髪型やアクセサリーと、衣装のベルトの位置やドレープを変えて、微妙な性格の違いを表現しているのだけど、同じ衣装だから、どう見ても同じステラに見える。
同じ人物が、まるで性格の違う3人の女性を演じ分けている、芝居の中の芝居を見ているような。
下僕フランツの滑稽なクプレの後、ホフマンが現れる。
久しぶりの再会の喜びに震える、アントニアとホフマンの美しい二重唱。
ホフマンを演じるのは、アメリカ出身のテノール歌手で、眼鏡がよく似合う面長のおじさんなのだけど、彼に寄り添う詠子さんは、まさに10代の少女のように可憐に見える。ソプラノ歌手は人の生血を吸って生きているというけど本当かもしれない。
アントニアが人の気配に退場し、ホフマンが物陰に隠れると、駆け込んできたクレスペルの前に、悪役のテーマと共にミラクル博士が現われる。
真っ黒な衣装。
ミラクル博士は、往診だ、と言うが、アントニアの部屋には行こうとしない。
手で合図を出すと、空の車椅子が、ゆっくりと下手から現われ、誰も乗っていないのに、中央でくるり、と正面を向く。
空の車椅子の側に膝をつくと、脈を取る仕草をするミラクル博士。その何もない空間に、アントニアが座っているかのように。
ミラクル博士が悪魔であることがはっきり示される、おどろおどろしい場面だ。
ミラクル:
脈が不規則なうえに早い
よくありませんな。さあ、歌って!
幻のアントニアの幻の脈を取るミラクル博士の歌が、脈の速さに合わせるようにアッチェルランドする。
その不安な音楽の高鳴りの頂点で、舞台の外から、幻のアントニアの歌声が、まるで悲鳴のように響き渡る。
途端に、誰も座っていない車椅子の上に、真っ赤な色彩がぶわっと噴出すように見えた。
血か、と思えば、それは真っ赤なバラの花で、何もなかったはずの車椅子の上に、次から次へとバラの花が湧き出すように生えてくるのだ。
ミラクル:
もし彼女の命を助けたかったら
この薬を飲めばよいのだ。毎朝!
クレスペル:
黙れ!娘を殺すつもりか!騙されないぞ!
ホフマン:
アントニア!君を待ち受ける死神から
助け出したい、何としても!
恐怖に震えるクレスペルとホフマン、そして、高笑いするミラクル博士の三重唱。
大地さんは身を乗り出していた。
大地さんの視線を追うと、その先にはミラクル博士がいた。
アントニアの歌をたたえながら、彼女を地獄に連れて行こうとする悪魔。
ミラクルの手からアントニアを救うため、ホフマンはアントニアに歌を禁じる。
自分の歌の理解者だったホフマンの変心に、傷つくアントニア。
その魂の隙に、ミラクル博士が忍び寄る。
愛に生き、家庭に入り、歌を捨てることで失われる、歌手としての成功、芸術の世界での栄光を語るミラクル。
アントニアはその声の誘惑に負けまいと、自分の母親に祈りを捧げるが、ミラクルはかえって、歌姫だった母の亡霊を呼び出し、歌に生きるのは母の望みでもあるはずだと、アントニアに歌を強いる。
アントニアの抑圧された歌への欲求が一気に弾け、破滅と歓喜と陶酔に満ちた三重唱が始まる。
ミラクル:
お母様?もしお前が歌をやめたら
誰よりも嘆くのはあの母だ!
分からないか?聞くのだ!
母の声:
アントニア!
アントニア:
ああ、お母様、お母様!
母の亡霊は、舞台の奈落から出現し、アントニアの名前を呼びながら、どこまでもどこまでもせりあがっていく。
その黒いスカートのすそが舞台を覆うばかりに広がっていくと、その端が大きく宙に浮き上がり、まるで蜘蛛の巣のようにアントニアの背後を覆い尽くす。
蜘蛛の巣に囚われた美しい蝶のようにもがき苦しみながら、自分を突き動かす音楽の力に酔いしれるアントニア。
詠子さんの歌声は、死の苦しみを超越したエクスタシーに震える。
アントニア:
もうだめ、苦しくて歌えない
体が熱くて息もできない!
ミラクル:
素晴らしいその歌声が告げているのだ
聞こえないか?彼女の声が!
母の声:
愛しい娘よ、昔のように歌うのよ!
アントニア:
ああ、お母様の声、私を呼ぶ!
大地さんの目は、アントニアの姿に釘付けになっている。
大地さんの背後にある闇が濃い。
大地さんが、胸を押さえて喘ぐ。
大地さんの後ろから、闇の塊がのしかかるようにして、舞台の方に伸びあがるように見える。大地さんが苦痛の表情を浮かべる。
壁にかけられていた無数のバイオリンから、次々と赤いバラが湧き出し始める。
床の上にも、いつのまにかじゅうたんのように赤いバラが増殖し、舞台上は真っ赤な色彩に染まる。
アントニアは音楽の糸に引き裂かれるように両腕を伸ばす。
アントニア:
もうだめ、目がくらむ
何ももう分からない
ああ、わが命の歌よ
届け、空まで、ああ!
ミラクル博士の高笑いの声の上、激しいオーケストラの後奏の上を、アントニアの最後の絶叫のロングトーンが、果てしなく続くかと思われるほどに鳴り響き、それがやっと途絶えたか、と思うと、アントニアの姿が、赤いバラの海のなかに崩れ落ちた。
駆けつけたホフマンの腕の中で、アントニアは、二人で歌った愛の二重唱の美しいメロディーを口ずさみながら、静かに息絶える。
そのアントニアの姿が、ホフマンの腕の中からふっと浮き上がり、舞台の奥へと静かに消え、ゆっくりと幕が下りる。
客席は微動だにしない。動けない。
永遠とも思える静寂の中で、誰かが激しく拍手を始める。
とたんに客席全体が爆発する。怒号のようなブラボーと拍手と足踏み。
引き割りカーテンの間から、詠子さんが現われると、客席は絶頂に達した。
「まらいまうだよ」(まだ二幕だよ)と美晴が言った。
その顔に疲労感はまるでない。
音楽にきれいに洗われたように、頬がバラ色に染まって、つやつやと光っている。
大地さんを振り返ると、椅子に体を二つ折りにするようにして、自分の手のひらをじっと見つめていた。
その背後に、あの闇はもう見えない。
その目には、何かしら確信のようなものがある。
振り向いた大地さんは、ぐっと老け込んだように見えた。
「大丈夫?」私は聞いた。
「大丈夫。」大地さんは言った。弱々しいけれど、どこかしら、芯を感じる熱い声。「ママはすごいな。」
私はうなずいた。うなずくしかない。
今日のママのパフォーマンスは、今まで見たママのどの舞台よりもすごかった。確かにママは今日、一つの階段を上がったのだ。
「まなまな」(まだまだ)と、美晴が言う。「さいおまえいからきゃ。」(最後まで聞かなきゃ。)
ほんとに欲が深いなぁ、と、私は笑った。
笑える。
なんだ、私はまだ、笑い方を覚えているじゃないか。
オッフェンバック作曲「ホフマン物語」第三幕、エピローグ、そして、カーテンコール
第三幕の幕前にも、ステラの楽屋の場面が挿入されている。
アントニアの幕が終わってぐったりとしているステラ。その手を取って、ニクラウスが舞台の中央へとステラを導くと、そこにあるのはゴンドラだ。
ゴンドラに乗り込む二人。
青い海の底のようなゆらゆらとした照明が舞台全体に広がると、そこは水の都ヴェネチア。
ゴンドラはゆっくりと進み、回り舞台が回っていくと、舞台の奥から、高級娼婦ジュリエッタの館が現れる。
ゴンドラの上のステラが、アントニアの幕にはきれいに束ねていた髪をほどき、さっと広げる。
客席に向き直った榊原詠子、いや、ステラは、もうすっかり娼婦のようなけだるさで、肉感的な微笑を浮かべている。
暗い照明の中で蠢いているのは絡み合う男女の肉の影。その肉が波のようにさざめく中、ホフマン物語の中でも最も有名な曲、「舟歌の二重唱」が流れ出す。
美しい夕べよ、おお恋の夜よ
波間に漂う船のごとく
時は流れて二度と帰らず
二人の恋も一夜の夢
ママの声は、本来のドラマティコの響きにさらに妖しい艶かしさを加え、ニクラウスのメゾの柔らかな響きに蠢惑的に絡み合う。
これが、オランピアと、そしてアントニアと同じ女性の声とは思えない響きの豊かさ。
美しい夕べよ、おお、恋の夜よ
甘き口づけに酔いしれよう
優しい夜、甘き夢の翼に抱かれて、ああ!
妖艶な二重唱の響きが、合唱の和音の中に沈んでいくと、ホフマンが現われ、享楽的なクプレを歌う。
僕はそんな歌は興味ないな!
ため息つき、愛を誓う、それが何になる?
いや!酒を飲み大騒ぎして、
愉快な歌を!
ホフマンは、第一幕・第二幕の溌剌さを失い、自堕落で退廃した空気を身にまとっている。
そんな彼を、ジュリエッタを争う恋敵として見ているのは、亡霊のような顔をしたシュレミールだ。
三幕の悪役、ダペルトゥットの登場。彼はジュリエッタを手先に使い、ジュリエッタの魅力に取り付かれた男の影=魂を次々と奪っている。
そのジュリエッタに報酬として与えるダイアモンドを讃える、ダペルトゥットの「ダイヤモンドの歌」。
おびきよせろ、輝くダイヤよ!
女の心、俺の意のままに
雲雀も美人も、光るエサには弱いもの
哀れ女は心奪われ、
その魂を売り渡すのだ!
美晴の様子を覗き込むと、美晴は目を閉じていた。
さすがに疲れたのかな、と、右手を握ると、思いがけず強い力で握り返してくる。
美晴の中には命の火が燃えている。その火の勢いは決して衰えていない。
ダペルトゥットに煽られ、必ずホフマンを陥落させてみせる、と誓うジュリエッタは、ホフマンを誘惑し、二人は炎のような愛の二重唱を歌う。男と女の本能をただぶつけ合うような荒々しい二重唱。
私の手を握っている美晴の手に力がこもる。
ママは、世界的なテノール歌手を相手に、一歩も引いていない。
ジュリエッタ:
あなたの魂を、その姿と共に
ここに残すの!ホフマン、お願い!
ホフマン:
愚かな願い、それが僕を
甘い恐怖で充たすのだ
ジュリエッタ、欲しいの?本当に?
欲しいなら、あげよう!
二重唱の後奏で、二人は強く抱擁する。
その傍らに、巨大な鏡が置いてある。
鏡には客席の聴衆の姿まで映っていて、舞台と現実が渾然となった不思議な感覚がある。
その鏡に映った二人の姿。
後奏のうちに、そこに映ったホフマンの姿が、霧のように消えていく。
そこには勝ち誇ったように立つジュリエッタの姿と、それを呆然と見つめている我々聴衆の姿があるだけだ。
影を失ってしまったことに驚愕するホフマンを脅かすように、一枚、また一枚と姿見の鏡が床からせりあがってくる。
全部で5枚立ち並ぶどの鏡にも、ホフマンの姿はなく、ホフマンに向かって昂然と歩み寄るジュリエッタと、客席が映りこんでいるだけ。
シュレミールが現われ、ジュリエッタをめぐってホフマンに決闘を申し込む。
シュレミールも鏡に映っていない。
ニクラウスの姿も、ジュリエッタの姿も、他の登場人物の姿も、全て鏡に映るのに、ホフマンとシュレミールだけが映らない。
逃げよう、とホフマンを誘うニクラウスの声に抗して、ホフマンが立ち尽くす一瞬に、5枚の鏡がするすると宙に浮かび、一瞬で薄い巨大な黒い布に変わり、舞台の上にゆったりと波のように広がる。
ホフマンの憔悴しきったソロが始まる。
そのソロに、ダペルトゥットの声が重なり、ジュリエッタの声が重なり、さらに合唱が重なり、声の厚みと音の厚みがどんどんと増しながら、舟歌のメロディーが壮大なアンサンブルになって舞台上を覆いつくす。
ホフマン:
深く傷つけられた僕の心はまだ迷っている
呪わしい恋が僕を激しくさいなむ
ダペルトゥット:
ああホフマン、君の恋は虚しく朽ちるのか
君の心の傷は死んでも治らない
ジュリエッタ:
愛しいホフマン、あなたが大好き
でも、愛しているからと言って
このダイヤをキス一つで
くれるなら拒まないわ
合唱:
恋に落ちた人よ!
彼女のために心を奪われて
彼の心を鎮めることなど
誰にだってできない、ああ!
音の巨大な波。
その波にあわせ、舞台上の布が波打ち、照明の光が波打つ。
客席全体が、会場全体が、海の底に静かに沈んでいくような。
音の波が収まり、ダペルトゥットに手渡された剣で、自暴自棄となって戦うホフマンとシュレミール。
シュレミールを倒し、そのポケットから、ジュリエッタの秘密の小部屋の鍵を奪ったホフマンは、部屋に駆け込むが、そこはもぬけの殻だ。
何もかも失ったホフマンをあざ笑うように、船に乗ってダペルトゥットと共に去っていくジュリエッタ。
やさしい舟歌のさざなみのようなハミングと共に、第三幕は終わる。
舞台のセンターにくず折れているホフマンをそのままに、舞台上の装置が、静かに回転していく。
エピローグ。
舞台上はいつのまにか、プロローグと同じルーテル酒場になっている。
ホフマンを囲む学生たち、リンドルフ、ニクラウスの姿も、この3つの物語がこの同じ舞台で繰り広げられていたとは信じられないくらい、プロローグの時そのままだ。
3人の女性とは、理想の女性ステラの3つの姿に過ぎないと、ニクラウスが指摘する。
真実を突かれて自棄になったホフマンが、再び酒を讃える享楽の歌を歌うと、学生たちがそれに和し、酔いつぶれたホフマンを残して酒場の外へと繰り出していく。
ニクラウスは、そんなホフマンを見つめて、再び一瞬にして、芸術の女神、ミューズの姿に変身する。
ミューズは舞台袖からステラを招き入れ、ホフマンと引き合わせる。
すっかり酔いつぶれたホフマンに幻滅するステラの手を取るのは、リンドルフだ。
リンドルフとステラが去った後、ミューズの声にホフマンはふらふらと立ち上がる。
その目の前に、真っ白い光の柱が立つ。
星よ輝け、照らせ、わが行く手を
とこしえに続く一筋の道を
今あふれ出す新たな命、瞳に、頬に、唇に
ミューズよ、力を!
芸術に身を捧げることを誓い、絶唱するホフマン。
ミューズの姿は光の柱の中、宙に浮き上がり、広げた両手から炎のように光がほとばしる。
舞台が光に満ちる。
光、光、光の洪水の中で、確信に充ちて立ち尽くすホフマンの姿だけを舞台に残して、オッフェンバック作曲「ホフマン物語」の幕が閉じた。
狂乱のような拍手とスタンディングオベーションの中で、私は美晴に、
「がんばったね、ママもがんばった。美晴もがんばった」
と何度も何度も言っていた。美晴は、
「いんなあんあったよ」(みんながんばったよ)と言ってにっこりした。その目から涙が流れている。 私も泣いている。
見上げれば、大地さんも笑顔のまま涙を流している。
悲しい涙じゃない。音楽がくれた涙だ。
何度も幕が開き、何度もコールが繰り返される。出演者が一列になり、指揮者と演出家もその列に加わる。
幕が下りた後も、オペラカーテンの間からソリストが現われるたびに、大きな拍手が起こる。
ママは出てくるたびに、こっちに向かって手を振った。
「ママだよ」と私が言うと、美晴は一生懸命、動く方の右手を舞台に向かって振りかえした。
何度目かのコールの後、指揮者の大屋さんが、大きな花束を持って、カーテンの間から出てきた。
大屋さんはそのまま、舞台脇の階段から客席に下りてきた。
聴衆がどよめいた。指揮者がカーテンコールで客席に下りるなんて、聞いたことがない。
大屋さんはまっすぐ、私たちの方に向かって歩いてきた。
そして、車椅子の美晴の前に立った。
「大屋さんだよ」と美晴に耳打ちする。「わざわざ、美晴のところまで来てくれたよ。」美晴はうなずいて、にっこり笑った。
スポットライトが、美晴と大屋さんを照らした。客席が一瞬しん、とする。
「君の舞台だ。」大屋さんは美晴に言った。「成功おめでとう。」
そして、花束を、そっと、美晴のひざの上において、美晴の右手を握り締めた。
我々の周りから、静かに拍手が起こり、さざなみのように拍手は広がり、客席全体が美晴に向かって拍手を送り始めた。
大屋さんはもう一度力強く美晴の手を握ると、立ち上がって、客席に向かって、美晴を指し示した。
拍手はまた大きくなった。
「すごいな、美晴。」私は言った。「みんなが、美晴にありがとうって言ってる。」
「あいあとおっていっで」(ありがとうって言って)と美晴は言った。「おおあさんい、あいあおうって。いんあに、あいあおうって。おく、いきしゃいあうって。」
大屋さんに、ありがとうって、みんなに、ありがとうって、と、その声の前半は聞き取れたけど、最後の一言の意味が一瞬分からず、私は聞き返した。「何になるって?」
「おく、いきしゃいあう。」美晴は力強く言った。
「僕、指揮者になる。」
私はその場に倒れそうになった。
美晴の、次の夢への挑戦開始宣言だった。
指揮者の大屋さんのモデルが誰かはたぶんすぐお分かりかもしれませんが、演出家の伊上さんにもモデルがいます。パレスホテルは改装されて、ここに描かれたシャンデリアはもうなくなってしまいました。