第一幕 <ウェーバー作曲「魔弾の射手」> 後半
瑞穂と美晴の前に現れたのは、早紀ちゃんと岡崎さん。新たな出会いを通して、二人の心の傷は、ゆっくりと癒されていく。
早紀ちゃん、決然と登場す
おじいちゃんの物語を聞いてから、私はとにかく、いつも笑顔でいることを自分の目標にした。簡単なようで難しい。
おばあちゃんに指摘される前から、私は、普通にぼやっとしている顔が、なんだか怒ったような顔になる、という自覚があった。これではいけない。
笑顔を研究するために、私はよくお笑い番組を見るようになった。関西にいるとTVでお笑い番組には事欠かない。
おじいちゃんと二人でお笑い番組を見ていると、自然に、普通にニコニコ顔になる。普通にゲラゲラ笑い顔になる。
そのときの笑顔を覚えておく。
私はいつもお笑い番組を見ながら、自分の顔を手鏡で確かめるようになった。
今の笑顔は引きつってないだろうか。
ママが戻ってきたとき、ママの心の中のもやもやを整理してくれる薬になるだろうか。
神戸の小学校に通い始めた頃の私は、まだリハビリ途中で、精神的に恐ろしく不安定だったと思う。
転校生として教壇で紹介されている怯えた目をした私を見て、早紀ちゃんが最初に感じた印象は、「最低」の一言だったそうだ。
見るからに欧州人とのハーフ顔で、ヘンに目立つ顔立ちに、なんだか試作工程で破棄された不良品みたいな半端な笑いを貼り付けて、おどおどとクラス全員の奇異の視線にさらされている転校生。
この子はヤバイ。恰好のターゲットだ。
そう思った早紀ちゃんがやったことは、まずクラスのみんなに、
「この子は私が面倒見るから」
と宣言することだった。
誰にも有無も言わせない、決然とした意思表明で、担任の先生も呆然としてうなずくしかなかった。
私は、といえば、面倒を見てくれる、という早紀ちゃんに、貼り付いた笑顔を浮かべながらただ寄りかかっていくだけだった。
ほんとに最低だ。
転校してきた初日から、早紀ちゃんは、私を家まで送って行ってくれた。
私が自分の家を、「榊原小児科」というと、早紀ちゃんは、「げ!」と声を上げて、「あのオニババ先生のとこの子か?」と聞き返してきた。私はうなずくわけにもいかず、不良品の笑顔を浮かべて黙っていた。
早紀ちゃんは、そんな私を眺めると、小さくため息をついて、「行くで!」と、先に立ってスタスタ歩き出した。
そのきっぱりとした言葉が頼もしくて、私はちょっと泣きそうになったのを覚えている。
本当のことを言うと、早紀ちゃんの家は、おばあちゃんの病院からは結構離れていて、私を送ってから帰るのはかなりの遠回りだったのだけど、それから小学校を卒業するまでずっと、早紀ちゃんは、私を朝玄関に迎えに来てくれて、帰りは一緒に帰ってくれた。
なんでそんなに親切にしてくれたのか、少したってから聞いたら、早紀ちゃんはちょっと照れたような顔をして、
「あんたが危なっかしゅうて、見てられへんかっただけや」とつぶやいた。
本当のことは、中学生になってから、早紀ちゃんのお母さんから聞いた。
早紀ちゃんが4年生の時、クラスでいじめがあって、いじめられた子が登校拒否になって、そのまま転校してしまったのだそうだ。
「お人形さんみたいな可愛らしい子やったんやけど、可愛いから余計に、いじめの対象になってしもたんよね。」
早紀ちゃんとその子は、幼稚園からの幼馴染だったのだけど、
「早紀はね、その子をかばってあげられへんかったの。イジメをやめさせることもできずに、ただ黙って見とるしかなかった。」
あの時、「やめろ」の一言が言えていたら。
早紀ちゃんはずっと、その思いを抱えていたのだと思う、と早紀ちゃんのママは言った。
その言葉を口に出せなかった早紀ちゃんは、それだけで、イジメに加担していたのと同じだったのだ、と。
早紀ちゃんはそれから、自分に誓ったのだ。こんな思いは二度としない。してたまるか。
早紀ちゃんのお母さんが、関西エリアを中心に活動しているオペラ歌手だ、ということを聞いて、私達は一気に仲良くなった。
神戸のおじいちゃんとおばあちゃん、そして早紀ちゃんが、ボロボロの私の周りを防壁で包んで、ゆっくりゆっくり、私の心を外の世界に開いてくれた。
早紀ちゃんに会ってなかったら、私はどうなってただろう、と思うとぞっとする。
200号の絵
私がそうやって、びくびく怯えながら外界との付き合い方を学んでいる一方で、美晴には、まるで屈託がなかったように見えた。
美晴はすぐに新しい幼稚園に慣れたし、オニババ先生の所にきた患者さんの子供たちとケラケラ遊んでいた。
その笑顔を見る限り、美晴の中で、ママに捨てられた一週間は、それほど大きな傷を残していないように思えた。実際のところは、そうだったらいいな、と私が思っていただけだったのだけど。
小学校が早引けになった6月のある日、早紀ちゃんは、「うちにおいでよ」と、私を誘ってくれた。
美晴の幼稚園の終業時間と、私たちの下校時間が重なり、美晴もつれていこう、という話になった。私と早紀ちゃんで、美晴を幼稚園に迎えに行き、そのまま早紀ちゃんの家に遊びに行く。
早紀ちゃんの家は芸術一家だ。ママは歌い手さんで、パパは画家。でも、二人とも、私のママほど浮世離れしていない。
パパは自分でも絵を描く傍らで、美術教室を開いており、その美術教室が、そのままママの音楽教室を兼ねていた。
1階に、ピアノ2台と沢山のキャンバスの置かれた広い教室と、奥にパパのアトリエがあり、2階が家族の住居になっている。
私達が遊びに行った日、早紀ちゃんのママは、自分が指導している合唱団の練習で外出していて、パパがアトリエで絵の制作中だった。
早紀ちゃんは私達二人を、2階の住居に続く階段の方ではなく、1階の玄関先にいざない、そのままアトリエの方に駆け込んでいってしまった。
「はよ、こっちおいで。」
玄関先で私と美晴がもじもじしていると、早紀ちゃんがアトリエの入り口から私達を呼んだ。
その時の早紀ちゃんは、今から思い出すと、ちょっと吹き出したくなるくらい、得意げな顔をしていた。
「お邪魔します」
と、おずおずアトリエに足を踏み入れた私がまず気がついたのは、目の前にそびえるしっかりした銀色の脚立の足だった。
なんでアトリエに脚立が、と思って顔をあげた私の視界いっぱいに、壁画と見まがうような巨大な絵が飛び込んできて、私は固まってしまった。
見ると、美晴もぽかんと口を開けて、その壁一面の絵を見上げている。
後で、「200号」というサイズだ、と早紀ちゃんが教えてくれたけど、縦は2メートル近く、横は3メートル近くある。
早紀ちゃんのパパは、脚立のてっぺんに腰掛けて、絵の上の方に描かれた白いハトに、絵の具を重ねている所だった。なんだか脚立と一体になっているような、地に足着いた安定感。
大きさに圧倒された後、絵の細部が次第に目に入ってきた。
中央には裸の女の人が立っていて、その頭と肩に、1羽ずつ白いハトが止まっている。
ハトは画面の右下から左上に向かって何羽か群れて飛んでいて、左上の一羽が、今、早紀ちゃんのパパが絵の具を塗っているハトだ。
そのハトたちと、女の人の背景には、大きな赤い屋根の教会のような建物があって、その後ろに同じような赤い屋根が連なっている。西洋の町並みを、上空高くから見下ろしている感じだ。見ているこちらの体まで軽くなるような浮遊感と不思議な高揚感。
もっと不思議なのは、その女性の右上に、花束を持って浮かんでいる、羽根の生えたフランス人形だった。
私の中で遠慮のない好奇心がむくむく湧きあがってきて、思わず、
「これ、何の絵ですか?」と聞いていた。
脚立と一体になった早紀ちゃんのパパは、ちょっと絵筆を止めて、まじまじと私の顔を見た。そうやって見ると、早紀ちゃんのパパは、早紀ちゃんにものすごくよく似ていた。
その早紀ちゃんと同じ顔のひげのおじさんが、にっこり微笑みを浮かべて、言った。
「これはね、受胎告知の絵や。」
じゅたいこくち、と私は口の中で繰り返した。聖書のお話で聞いたことがある。マリアの懐胎を、天使ガブリエルが告げに来る場面のことだ。
とすると、この中央の女の人がマリアで、このフランス人形が天使か、とちょっと納得した時、美晴が突然、口を開いた。
「これ、ママ」
と、真ん中の女の人を指差して言った。
「ママに似とるか?」と、早紀ちゃんのパパが言った。
私は、全然似てないと思ったけど、私が口を開く前に美晴が言った。
「これ、ママ。おなかの中に、美晴がいる。このハトが、ママと、美晴を守ってる。」
早紀ちゃんのパパはちょっと感心したような顔をして、美晴を見た。
「この天使さまは、瑞穂ちゃんだね」と、美晴が言う。
私が天使さまなの?フランス人形なの?と、私はちょっと笑った。
その時、美晴が続けて言った言葉に、私はぎょっとした。
「天使さまも、ママも、すごく幸せで、すごくわくわくしてる。でも、ちょっと困ってるんだよね。ママはきっとね、美晴がお腹にできて、とっても嬉しいんだけど、でも、とっても困ってるんだよ。だからこんな困った顔をして、下を向いてるんだよ。でもね、きっとすぐ笑ってくれるんだ。天使さまも、ママも、この後、すぐ笑ってくれるよ。このハトさんが守ってくれてるから。」
早紀ちゃんのパパは、透き通った視線で、じっと美晴を見つめていた。
私は、美晴になんて言えばいいのか、頭の中がこんがらがって、ただ突っ立っていた。
早紀ちゃんが、「2階にジュースあるで!」と呼んでくれた時、急に私は気がついた。
「そうか、美晴も笑顔にならないとダメだ。」
ママが帰ってくる時、美晴も笑顔になってなきゃダメだ。そうじゃないと、ママの心の中の色んな気持ちが、きちんと整理されないじゃないか。
どろどろ、もやもやの、どす黒いままになっちゃうじゃないか。
美晴がお腹にできて、ママが困ってしまった、なんて、そんな風に美晴が自分を責めてるようじゃダメだ。
ママがいなくなったあの5日間、ずっと私のそばにいて、一緒に眠ってくれた美晴。
私は急に、美晴のことが愛おしくてたまらなくなって、隣に立っている美晴を思いっきり抱きしめた。
早紀ちゃんが2階から降りてきて、
「あんたら、何やっとるん?」
と、声をかけてくれるまで、私はずっと美晴を抱きしめていた。
そして美晴は、ニコニコしながら、絵の中のハトを見つめていた。
早紀ちゃんのパパは、そんな私たち二人を、脚立の上から黙って見つめていた。
光の音
早紀ちゃんは、その日も、当然のように私達を家まで送ってくれた。
美晴と私は手をつないで、2歩ほど先をスタスタ行く早紀ちゃんの背中の後を、とぼとぼついていった。
私の頭の中では、早紀ちゃんのパパの絵と、美晴の言葉が、ぐるぐる回っていた。
ふと我に返ると、早紀ちゃんが振り返って、私の顔をしげしげと眺めていた。
早紀ちゃんは、お父さんから何かを聞いていたらしく、私が慌てて作った出来損ないの笑顔を、下から覗きこむように見つめて、また黙ってスタスタ歩きだした。
と、立ち止まって空を見上げて、
「一雨来そうやな」と、呟いた。
気がつくと、周りが急に暗くなっていた。
時間はそんなに遅くないはずなのに、と空を見上げて、梅雨空の黒い雲が、のっそりと空を覆っているのに気がついた。
「ちょっと遠回りやけど、こっちから行くか」と、早紀ちゃんは、ちょうど目の前にあった商店街のアーケードの方に足を向けた。
ゲートをくぐり抜けたとたん、アーケードの天井をパラパラと雨粒が叩き始めた。
早紀ちゃんは、2つめくらいの路地の入口を覗き込んで、「このへんで曲がるとたぶん近いと思う」とつぶやいた。
アーケードの外は結構本降りになってきていて、早紀ちゃんは、
「そこの店がママの生徒さんの家やから、傘借りてきたる。ちょっと待ってて」と駆け出していった。
美晴の小さな手を握って、二人っきりで路地の入口に立っていた。
雨はやまない。
アーケードの屋根の端から、太い水の流れが勢いよく落ちてくる。
傘をさしたおばさんが1人、私たち二人のそばをすり抜けて、路地に向かって歩き出した。黒い大きなカバンが、私の肩にあたって、私はちょっとよろけた。
おばさんが、ひー、と息が漏れるような笑い声を立てて、あっという間に姿を消した。
突然、心臓が跳ね上がった。息が詰まった。
パクパク口を開けたり閉めたりしながら、隣の美晴の肩にしがみついた。美晴も私にしがみついてきた。
真っ暗な部屋のベッドで、美晴を抱きしめて眠ろうとしている自分が見えた。その背後にのしかかっている黒い闇が見えた。
闇が生温かな息を私の耳元に吹きかける。ひー、と甲高い笑い声がする。
アーケードの屋根をたたく雨の音が、東京駅のコンコースを埋め尽くした雑踏の音のように迫ってくる。
ざっざっざっざっざっ。
賑やかな商店街の真ん中で、世界の全てが私と美晴に向かって崩れ落ちてくる。がくがくする膝で、近くの電信柱によろよろ歩いて、しがみついて、目を閉じた。
深呼吸しようとあえぐ。呼吸がすごく激しくなって、これはお祖母ちゃんが言っていた、「過呼吸」というやつだ、と分かったのだけど、頭で分かっていても浅い激しい呼吸が止まらない。
すうっと血の気が引いていって、気が遠くなる。
押しつぶされる。助けて。
ひー。ざっざっざっざっ。
押しつぶされてしまう・・・・
その時、しゃらん、という音がした。雨粒の落ちる音の向こうに、しゃらん、と。
しゃらん、しゃらん、しゃらん、しゃらん、しゃらん、しゃらん、しゃらん、しゃらん。
金属製の澄み切った八つの下降音。
光の粒が弾けるような。弾けながら真っ白な階段をしなやかに降りてくるような。
しゃらん、しゃらん、しゃらん、しゃらん、しゃらん、しゃらん、しゃらん、しゃらん。
オクタヴィアンの登場の音だ、と思った。
リヒャルト・シュトラウスのオペラ「ばらの騎士」。
メゾソプラノが演じる美少年オクタヴィアンが、銀のばらを持って、美少女ゾフィーのもとに訪れる。 ゆったりとした木管の上品なメロディーの上に、軽やかに響く鈴の音が清らかな和音を奏でる。
足元に落ちていた視線がふっと空に飛んで、遠く未来に通じる光の道が見えるような音。
ゾフィーとオクタヴィアンはお互いを一目見て、恋に落ちるのだ。
しゃらん、しゃらん、しゃらん、しゃらん、しゃらん、しゃらん、しゃらん、しゃらん。
美晴が、握りしめていた私の手を、すっと離した。音のする方向を眺めている。
路地の先、立ち並ぶ商店や民家の間から、また、しゃらん、と音がする。
美晴が駆けだした。路地を子犬のように走って行った美晴の背中が、突然、何もないところで、ずでん、と転んだ。
あんまり見事な転びっぷりで、私は思わず噴き出してしまった。とたんに、息が戻った。
「ちょっと、何しとるん?」
と、3本の傘を持った早紀ちゃんが、美晴を助け起こしている私の側に駆け寄ってきた。
雨は少し弱まって、美晴に差し掛けた傘を叩く音も、さっきほど敵意に満ちていない。
服の胸のあたりを汚した美晴は、まだきょろきょろとあたりを見回している。
その時また、しゃらん、と音がして、今度は早紀ちゃんも気がついた。
音は、路地の並びの塀の向こうから聞こえてくる。そっと覗き込むと、そこは広い駐車スペースで、軽トラックが一台停まっていた。
でも、私たちの目を引いたのは、トラックの後ろ、塀にそって、所狭しと積み上げられている、瓶入りの木箱だった。大量の一升瓶。
「酒屋さんやね」と、早紀ちゃんが言った。
「何の音やろ?」と私が言った。
「中途半端な関西弁やな」と早紀ちゃんが言った。「別に鍵かかってるわけやない。ちょっと覗きにいこ。」
音は、駐車スペースのそばにある、白い壁の建物から聞こえてくる。しゃらん。
さっきのようにオクタヴィアンの旋律を奏でているのではなくて、しゃらん、しゃらん、と無秩序に鳴っている。風とか水とか光に近い音。
白い壁には、斜めにジグザグに色の違う白い漆喰が塗ってあって、その下に大きな亀裂が一筋入っていたらしい、と分かる。
でも、風格のある立派な建物だ。
「酒蔵や」早紀ちゃんが言った。
「酒蔵?」私が繰り返した。
「あんたなぁ、この土地に住むんやったら、酒蔵ぐらい知っとき。」早紀ちゃんがぴしゃり、と言った。「日本酒を造る場所や。」
しゃらん。日本酒を造る場所から聞こえてくるにしては、かなり浮世離れした音だ。
私たち3人は、重たそうな分厚い扉から、そっとその酒蔵の中を覗き込んだ。
ばらの騎士、脚立の上から登場す
その時のことを、後で岡崎さんに聞いたら、
「座敷わらしかと思たよ」
と笑っていた。そりゃそうだろう。
古い酒蔵の中で、脚立に上って作業をしていたら、扉の所に、小さな頭が3つ、だんごのように縦に並んで、こっちを見ているのに気がついたのだ。
「そやけどね、脚立の上におるときは、いろんな出来事に対して受容力が高いんよ。とにかく、何があっても、慌てたら転げ落ちてしまうからね。まずやることは、手に持っている道具を安全な所に置くこと。足元を確かめながら降りて行くこと。話はそれから。」
確かに、その時、岡崎さんがやったことも、その通りのことだった。
岡崎さんは、手に持っていたペンチを腰に差すと、脚立を一段一段、しっかりと踏みしめながら降りてきた。
脚立は、酒蔵の天井に届きそうな大きなものだ。早紀ちゃんのお父さんといい、この日私が会った人は、脚立の上で作業している人ばっかりだ。
でも、私はその時、そんな感想を持ったわけじゃなかった。
岡崎さんよりも何よりも、その酒蔵の空間を埋め尽くしていた、白々と輝く無数の輪に目を奪われていたからだ。
酒蔵の天井には太いワイヤーがクモの巣のように張り巡らされていて、そこにピアノ線のような細い糸で、大小さまざまな銀色の金属の輪がぶらさげられている。
大きな輪の直径は私の背丈くらいあり、その輪がぶつかりあって、しゃらん、と乾いた音が響く。
大きな輪からは低い、小さな輪からは高い音が鳴り響いて、時々きれいに和音が響く。
鼓膜を通して体中の血管が波打つような。
でも、決してうるさい感じがしない。
そして、その輪が取り囲んでいる中央には、大人の両腕で抱えられるくらいの大きな銀色のバラのオブジェがつりさげられていた。やっぱり、「ばらの騎士」だ、と私は思った。
岡崎さんに後で確かめたのだけど、岡崎さんは「ばらの騎士」というオペラのことは知らなかったし、金属音を鳴らす輪に囲まれた銀色のバラのオブジェ、というコンセプトも、偶然思いついたものだったのだそうだ。
私たちを救ってくれたオクタヴィアンの登場の旋律も、あの時吹いた風が輪を鳴らして、偶然鳴ったものだったんだろう、と岡崎さんは言った。
でも、輪は二度、あの8つの音を鳴らした。
しゃらん、しゃらん、しゃらん、しゃらん、しゃらん、しゃらん、しゃらん、しゃらん。
風が、あの旋律を、二度も、偶然鳴らすものだろうか。
神様は時々、こういういたずらをする。今の私はよく知っているけど。
「ああ、あんた、笠原先生とこの娘さんやね」と、岡崎さん――という名前を私は知らなかったのだけど――は早紀ちゃんの方を見て言った。「今度の作品展、よろしく、て、ゆうといてね。」
「作品展?」早紀ちゃんは言った。
「あれ、お父さんから聞いてない?」と、岡崎さんはにっこりした。
岡崎さんの声の後ろに、しゃらん、と金属の触れあう音が響くのだけど、私の耳には、岡崎さんの声も、そんな透き通った響きに聞こえた。
見上げると、岡崎さんは私の方にも笑顔を向けてくれた。
腰には工具をいっぱいぶら下げていて、薄汚れたTシャツにジーパン姿なのに、その笑顔がすごく美人なのに私はびっくりした。
「ここで、来月、お父さんの生徒さんの作品の展覧会やるんよ。今月は私のを展示するんやけどね。」
「ここ、画廊?」早紀ちゃんが言った。「画廊」という単語がすぐ出てくるところは、さすが画家の娘だ。
「画廊にもなるし、こういう立体作品の展示もできるし・・・」岡崎さんは酒蔵の中を見回しながらにっこりした。よく笑う人だ。
「まぁ何でもできる場所よ。演奏会とかもやるし。来月には、笠原先生の奥さんにも、歌ってもらおうかって話しとるんよ。」
「すごいなぁ」と早紀ちゃんは言った。私もすごいと思ったのだけど、早紀ちゃんがすごいと思ったのは別のことだった。「この酒蔵、震災でも壊れへんかったの?」
その時、岡崎さんの笑顔がちょっと曇った気がしたのだけど、岡崎さんはすぐ明るい笑顔になった。
「そうなんよ。このあたりの酒蔵は結構つぶれてしもたけど、うちの蔵はなんとか持ちこたえたんよ。壁にひび入ったりしたけどな。」
「えー、そしたら」と早紀ちゃんは言った。「なんでこんな場所にしてしもたん?お酒造ったらええやんか。」
岡崎さんは、今度ははっきりとさびしげな笑顔になった。「宮水が涸れてしもてな。」
「えー?」早紀ちゃんの声が大きくなった。
「それで、ここでの酒造りは廃業や。それで、こしきやら何やら道具全部出して、床にコンクリ入れて・・・」と言いながら、岡崎さんは蔵の中を見回した。
岡崎さんが蔵の中を見回した時の表情を見て、この人はこの場所が好きだったんだな、と私は思った。 きっと、子供のころから大好きな場所だったんだろう。
蔵の中の温度は外よりずっと低くて、ちょっと肌寒いくらいなのに、濃密な湿気のせいか、空間が体を心地よく包み込んでくれるような、なんだか優しい感じがする。
しゃらん、という輪の奏でる音色が、蔵の中の柔らかな空気の中に浸み通っていく。
岡崎さんは、私たちを蔵の入口まで連れていってくれた。
よく見てみると、私たちがいた酒蔵の脇にも同じような酒蔵が立っていた。そちらの方の壁にはひびも見えない。
「もともとはね、3つの酒蔵があったんよ。一番古い酒蔵は潰れて、2番目と3番目が残ったん。」
「2番目もフリースペースなん?」早紀ちゃんが聞く。
「2番目はね、まだ酒作るための道具がいっぱいしまってあるの。私の父親がね。水が戻ってきた時に、いつでも酒造りを再開できるようにって。」そういって、岡崎さんは、また少しさびしげな笑顔になった。
私の胸が、きゅん、と鳴った。
胸って本当に、きゅん、と鳴るんだ、と妙なことに驚いた。
「また遊びに来ていいですか?」思わず私は言っていた。
言ってしまってから、顔がかっと火照るのが分かった。オクタヴィアンに魅せられたゾフィーのよう。
この人の笑顔がいい。こんな風に笑いたい。違う。この人の笑顔をずっと見ていたい。ちょっと待て。頭が混乱する。
岡崎さんも、ちょっと驚いたような顔になった。でも、すぐに笑顔になった。脚立の上にいつもいる人の、受容力の高さ。
「もちろんいいよ。遊びにおいで。No.3ギャラリーに。」
「No.3ギャラリー?」私は言った。
「ここの名前。」岡崎さんは言った。「三番蔵、っていう名前やったんよ。酒蔵やった頃は。そやから、No.3ギャラリー。」
「美晴くん、帰るで!」早紀ちゃんが言った。
酒蔵、いや、No.3ギャラリーの中をのぞくと、美晴が、しゃらん、しゃらん、と鳴り続ける金属の輪の連なりを見上げていた。
美晴の小さな影が、無数の金属の輪の中に歪んで映りこんでゆらゆら揺れている。
しゃらん、という音の群れの中に美晴がすうっと吸い込まれていって、ぱん、とはじけて無数の音の粒になるような、そんな幻がふっと浮かんだ。
岡崎さんの笑顔
それから、私と早紀ちゃんは、学校帰りにNo.3ギャラリーに入り浸るようになった。
週に二回ほど、学校の近くの学習塾に通っていたのだけど――早紀ちゃんに誘われたのだ――それ以外の日はほとんどNo.3ギャラリーで過ごしていたと思う。
早紀ちゃんと一緒に、学校から帰って、私はランドセルを置く。
幼稚園から帰って待っていた美晴と一緒に、No.3ギャラリーに向かう。早紀ちゃんはランドセルを背負ったままだ。
3人して、ギャラリーの入口で「こんにちは!」と声をかけると、岡崎さんが明るい声で、「いらっしゃい!」と答えてくれる。
実をいえば、No.3ギャラリーに夢中になったのは、私よりも早紀ちゃんだった。
私は岡崎さんという人に惹かれたのだけど、早紀ちゃんはむしろ、No.3ギャラリーの空間そのものに夢中になっていた。
ただ遊びに来ている、というだけでは申し訳ない、と、私たちは、岡崎さんの作業を手伝う、と宣言したのだけど、犬ころとあまり大差ない美晴と、決定的に不器用な私は、ほとんどものの役には立たず、早紀ちゃんが一番岡崎さんの助けになっていた。
6月の末頃には、早紀ちゃんは高い脚立の上で、岡崎さんの作品にあてる照明コードの長さ調整をしたりするまでになっていた。
「やっぱりお父さんの血筋かねぇ」と、岡崎さんは感心して、お猿のように身軽に脚立の上で作業している早紀ちゃんを見ていた。
早紀ちゃんは照れたように笑っていたけど、今から思えば、早紀ちゃんが将来の夢をはぐくんだのは、間違いなくこのNo.3ギャラリーという空間だったと思う。
私は、といえば、ものの役には立たず、ただ岡崎さんのそばにいて、彼女の声に、うっとりと耳を傾けていた。
私は、自分の気持ちを、はっきり、恋だ、と理解していた。小学6年生にして初めて自覚した、初恋だった。
今でもあの時の岡崎さんの笑顔を思い浮かべると、ちょっと胸がときめく。
岡崎さんの笑顔は本当に豊かで、ただ明るいだけじゃなく、時折寂しげだったり、普通の男の子よりもよっぽど凛々しかったりする。
もう多少なり性の知識があった私は、自分はレズなんだろうか、と結構真剣に悩んだ。
それでも、岡崎さんの笑顔を見ると、そんな悩みなんかどうでもよくなって、ただこの人のそばにいたい、と思った。
レズだとか変態だとか言うやつはほっとけ。私はこの人が好きだ。この人のそばにいたい。この人の笑顔のそばにいたい。この人みたいに笑いたい。
岡崎さんにとって、私たち3人はどういう存在だったのか、よく分からない。
岡崎さんはNo.3ギャラリーという場所を愛していたから、酒蔵に住み着いた猫くらいの感じで、私たち3人をかわいがってくれたのかもしれない。
「灘五郷、っていうんよ」と岡崎さんは教えてくれた。
「六甲山の裾野には、全部で5つ、日本酒を作る集落がある。今津郷、魚崎郷、御影郷、西郷、下灘郷。この辺は、御影郷。」
六甲山から吹き下ろす六甲おろしの寒風と、山に降り注いだ雨水が地層のフィルターで清められ、湧き出した地下水が、日本酒造りには不可欠なのだ、と岡崎さんは教えてくれた。
「震災で、御影郷に残ってた古い酒蔵のほとんどは潰れてしもた。うちの酒蔵は、昭和に入ってから建てられた酒蔵やったから、建物自体はなんとか持ちこたえたけど、まぁ、割れるべきもんは全部割れたなぁ。」
震災の物的被害もひどかったけれど、酒造りをあきらめざるを得なかったのは、「宮水」と呼ばれる、日本酒の仕込むための地下水が枯れてしまったためだった、と、岡崎さんは説明してくれた。
「うちの宮水は独特の香りがしてなぁ。それが、うちの酒の売りやったんや。震災で、その地層がずれたんかなぁ。」
何もかもが失われてしまった。
蔵人、と呼ばれる酒造りの職人たちも散り散りになり、岡崎さんも、通っていた美術大学を中退して、家に戻ってきた。
以前からの仕事のつてで、日本酒の問屋の仕事を始めたけれど、岡崎さんのお父さんは、いまだに酒造りの夢が捨てられない。
いつか宮水が再び湧き出す日のために、二番蔵にある、米を蒸すための大釜や、大きな桶だのなんだのの道具を、いつでも使えるように手入れしているそうだ。
震災からもう8年もたつのに、ずっと。
「いつまでも、人のおらん、空っぽの蔵の中で、道具磨いてる父親見とったら、どんどんその背中が小さくなっていくみたいでなぁ。このままではあかん、思たなぁ。なんとかこの蔵が、昔みたいに人が沢山集まる場所にならんかなぁ、と思うてな。三番蔵にあった道具を二番蔵に移して、ここをこういうスペースにしたんや。」
美術大学で建築学を勉強した岡崎さんは、お父さんの夢がいつか実現する日のことも考えて、もとの酒蔵の姿をなるべく残した形でこのスペースを作り上げた。
コンクリートの打ちっぱなしと、天井に張り巡らせたワイヤーにハロゲンライトをセットした、シンプルだけど、色んな事に使えるフリースペース。
「出来上がったここ見ても、両親はピンとこんかったみたいやけどな。美大ちゅうのはけったいなことを教えるんやなぁ、くらいの感想しかゆうてくれんかった」と言いながら、岡崎さんはまぶしい笑顔でにっこり笑った。
それでも、No.3ギャラリーのオープン記念の日、高校時代の同級生のつてで来てくれたバイオリニストの演奏会が開かれ、集まった人たちに日本酒が振舞われた時、岡崎さんは、やっぱりここを作ってよかった、と思ったのだそうだ。
「日本酒ゆうのはな、昔から、お祭りとか、お祝いとか、そういう特別の時に飲むもんや。人の心を明るくするもんや。音楽もそうやろ?演奏会の後で、みんなが楽しそうにお酒飲んで笑っとってな。私の父親もな、蔵人たちの櫂入れ歌が聞こえるようや、と呟いた。」
「櫂入れ歌?」と私は聞いた。
「麹と宮水と蒸した米を、桶に入れてな。大きな櫂で、男衆がかきまぜるんや。歌に合わせて調子を取ってな。威勢のいいもんやで。」
岡崎さんはそう言って、また少しさびしそうな笑顔になった。
しゃらん、しゃらん、と、金属のオブジェが音をたてる。
岡崎さんのさびしげな笑顔を見ていると、豊饒な和音に聞こえたはずのこの音が、すべてを刺し貫く様な、硬質な音に聞こえてくる。
乾ききった、何物も受け付けないような、厳しい音に聞こえてくる。
岡崎さんの心の中には、こんなにさびしい、こんなに厳しい音が響いているんだろうか。
すっかり水が枯れてしまった乾いた大地に鳴り響く錫杖のような響きで、失われてしまったものへの鎮魂の音楽をひたすら奏でているんだろうか。
それなのにどうしてこの人は、こんなに素敵に笑えるんだろう。
どうしてこの厳しい音が、あんなに華やかな、あんなに豊かな「ばらの騎士」のメロディーを奏でたんだろう。
「ちょっと、瑞穂、岡崎さんにばっかりくっついてへんで、こっち手伝ってや!」
早紀ちゃんがガラガラ声で叫んで、私は、真っ赤になって立ち上がった。
榊原詠子、兵庫県に凱旋す
早紀ちゃんは、私たちが何かしら特別な事情で、恐らくは、母親に関係することで、慌ただしく神戸にやってきたことだけは察していた。
早紀ちゃんもオペラ歌手の娘だから、榊原詠子出演の「魔弾の射手」の全国公演の情報も知っていて、早紀ちゃんの中では、
「全国公演で母親が忙しいので、一時的に実家に預けられた姉弟」
という形で、私達二人を規定していたようだ。
私達がかもし出している、何となく危うい感じ、というのも、母親から引き離されている寂しさからくるもの、ということで納得していたらしい。
だから早紀ちゃんは、単純に、私たち二人を慰めてあげよう、くらいの考えで、あの日、あの記事を持ってきてくれたんだと思う。
でも、私たちの寂しさは、早紀ちゃんが想像したものとは全然質が違っていた。
求めても求めても、母親が私たちを、自分の世界から遮断してしまっているということ。
それは、「引き離されている寂しさ」というレベルのものではない。
それでも、神戸に来て1ヶ月以上経って、私の中では既に、ママ以外のことが随分大きくなっていた。
早紀ちゃんとの学校生活。岡崎さんのこと。
1日24時間、ずっとママのことを考え続けていた時期はもう過去のことになって、ママのことを考えて胸の中がきゅうっと痛くなる回数は随分減っていた。
少なくとも、私はそうだった。
その日、私はいつものように、美晴と手をつないでNo.3ギャラリーに行った。
No.3ギャラリーの空間を、銀のばらと、それを囲む銀の輪で埋め尽くす、という岡崎さんの作品は完成していて、7月前半の一般公開の直前だった。
岡崎さんは、いつもの作業服のような汚い格好じゃなくて、こざっぱりした涼しげなワンピースを着て、No.3ギャラリーのホームページに掲載するための写真を撮っていた。
私はそんな女性らしい岡崎さんを見ても、やっぱりときめいてしまって、やっぱり私はレズの変態なんだ、という自覚を新たにして、人知れず落ち込んでいた。
とはいえ、他の女の人にときめいたりはしないし・・・と悩んでいると、早紀ちゃんが、
「あんたのお母さんが載ってたで」
と、私の目の前にぬっと新聞を差し出した。
私の視界いっぱいに、満面の笑顔を浮かべた詠子さんの写真が飛び込んできて、私は気を失いそうになった。
それは地方新聞の芸能欄で、ママの写真の脇には、「オペラ歌手、榊原詠子さん、『魔弾の射手』で故郷に凱旋」という文字が躍っていた。
「何の記事?」岡崎さんが覗きに来た。私は慌てて、その記事を背中に隠した。
私の横から食い入るように記事を覗き込んでいた美晴が、泣き声をあげて、新聞をとろうとする。
「この子らのお母さん、オペラ歌手なんや。」早紀ちゃんが言った。「むっちゃ売れっ子のオペラ歌手なんやで。」
「へぇ」と岡崎さんは心底びっくりした笑顔になった。「すごいねぇ。」
そうです。私の母親はすごいんです。
すごすぎて、私達のことをすっかり忘れ去って、いまやドイツの深い黒い森の中の村で、恋人マックスのことばっかり考えてます。
私があきらめて新聞を出すと、美晴が、ネコじゃらしにじゃれるネコみたいに、新聞にくっついてくる。岡崎さんも笑顔のまま、その記事を覗き込んだ。
写真のママの笑顔は完璧だったけど、私と美晴には、それが、昔のママの笑顔とは別物だ、ということがすぐ分かった。
陶器の人形のような作りものの笑顔。
「きれいな人やねぇ。」岡崎さんは言った。「瑞穂ちゃんは、お母さんに似たんやねぇ。」
顔にさあっと血が上った。
「西宮の文化センターで、特別追加公演やるんやね。」早紀ちゃんは言った。「私も行ったことあるわ。新しいきれいなホールやで。」
「どこにあるの?」私は尋ねた。
「西宮北口の駅前や。」早紀ちゃんは言った。「阪急の。」
「行く!」美晴が叫んだ。「僕行く!」
早紀ちゃんと岡崎さんは、思わず美晴の方を振り向いた。美晴はもう泣き顔になっていて、その涙が私の胸を突いた。
行く、と叫んでみても、行けるわけがない。
ママの舞台を見に行っても、ママは決して、私たちのそばには戻ってこない。
心に築き上げてしまった硬い硬いガラスの壁を、ママ自身が自分で壊さない限り、ママの目の前に私たち二人が立ったとしても、ママの瞳には何も映りはしないだろう。
ぎゃんぎゃん泣き始めた美晴を抱きしめて、私は、今日はもう帰る、と二人に告げた。
お手伝いできなくてごめん、と言うと、岡崎さんは、本当に優しい笑顔で、
「気にせんで、気をつけてお帰り」
と言ってくれた。
二人とも、何も聞かずに、私たちを見送ってくれた。
立っている二人の後ろから、しゃらん、と、涼しげな音が追いかけてきて、わんわんわん、と小さな残響が、空に向かって舞い上がっていった。
鳩を、放つ
その日一日、美晴はずいぶん荒れていたのだけど、翌日にはけろっと幼稚園に行き、帰りには何事もなかったように、私と一緒にNo.3ギャラリーに行った。
岡崎さんも早紀ちゃんも、ちょっとほっとした顔をしながら、この姉弟の前で母親の話はタブーだ、ということは理解してくれたらしく、榊原詠子の名前は二人の口からは出なかった。
みんな、美晴が狂ったように泣いたことは忘れた。
私は、といえば、No.3ギャラリーの岡崎泉作品展の案内状送付作業のお手伝いで、岡崎さんのそばにいられる、という幸福をひたすらむさぼっていた。
岡崎さんは、今回の作品に、「しずく」というタイトルをつけていた。そういわれてみれば、金属の輪、とみえた物体は、上部がとがったしずくの形をしている。
「朝露のしずく?」と私は聞いた。
「ばらの花びらに宿った朝露のしずく。この酒蔵で作られたお酒のしずく。みんなが流した涙のしずく。過ぎ去った時間のしずく。」岡崎さんは歌うように言う。
「音のしずく。」私が言う。「光のしずく。」
「思い出のしずく。」岡崎さんはつぶやいて、にっこり微笑む。至福の時間だ。
数日後の夕方のことだった。No.3ギャラリーをお暇しようとすると、珍しく私についてこないで家にいたはずの美晴が、門のところに一人で立っていた。私は相当驚いた。
「ここまで、一人で来たの?」私は聞いた。
一つ、こくん、とうなずいてから、美晴は言った。「ちょっと、来て。」
美晴はそのまま先に立って歩いていく。
美晴って、ヘンな歩き方をするなぁ、と、その時ちらっと思った。
ちょっと右に斜めに歩く。時々塀にぶつかりそうになると、左に修正する。
何だか頼りない足取りで、美晴は、町を南北に走る住吉川の河川敷の道に降り、今度は左に少し斜めになって歩いていった。
「どこまで行くの?」
と背中に尋ねても、答えがない。
そのうちに、街を東西に走る幹線道路の橋の下に着いた。
その橋の下に、ダンボール箱が置いてある。
スーパーの買い物かごぐらいのダンボールだ。浮浪者の家にしては小さすぎる。
「見て」と、美晴が言った。
箱の中を覗き込むと、そこに、白い鳩がいた。丸い無表情な目で、私達を見上げている。
「どうしたの、この鳩?」私は言った。
「飛んできた。」美晴が言った。「昨日。幼稚園の帰りに、あっちから」と、海の方向を指差した。
「美晴がつかまえたの?」私は言った。
「鳩が飛んできて、僕の手にとまった。」美晴が言った。
そんなばかな、と思ったけど、鳩は確かに、ダンボールの中にいる。「で?」と尋ねた。「うちに持って帰って飼うの?」
美晴は首を横に振った。「ママのところに行ってもらう。」
「は?」私は言った。「何それ?」
「伝書鳩になってもらう。」美晴が言う。
そりゃ無理だよ、伝書鳩というのは、自分の家に帰ろうとするんだよ。この鳩は、ママのところから飛んできたわけじゃないんだよ。
私は、そういう理屈を並べようか、と一瞬思った。でも思いとどまった。
そうか。美晴は美晴なりに、なんとかして、兵庫県に意気揚々と凱旋してくるママに、自分のことを知らせようと考え続けていたんだ。
オペラ会場にも行けない。
おじいちゃんやおばあちゃんにも相談できない。手紙も書けない。
遠く離れた人に、自分の思いを伝える他の方法は何かないのだろうか。
そうやって考えていたときに、突然天啓のように、自分の手に白い鳩が飛び込んできた。
どこかで聞いた伝書鳩のお話と、この偶然が、美晴の小さな頭で一緒になってしまったとしても不思議じゃない。
そしてその考えを、おとぎ話だと笑い飛ばすことなんて、私にはできない。
「明日で、ママのオペラ公演が終わっちゃう。」美晴は言った。「手紙は書いた。瑞穂、鳩の足に、手紙を結んでくれない?」
「どうして私が?」私は言った。
「僕、うまく結べないんだ。」美晴は言った。
この子も不器用だけど、私も相当不器用だし、そもそも、鳩の足に手紙を結びつける、なんて初体験だ。
大体、私も一応、レズの変態とはいえ、れっきとした女の子で、女の子というのは爬虫類が苦手なもので、鳥の足、というのは、鳥の体の中でももっとも爬虫類に似た部位だ。
私は正直、丁重にお断りしようと思ったのだけど、美晴の目を見たら何も言えなくなった。
美晴は、「手紙」とやらを大事そうに取り出した。小さな折り紙を丸めたものだ。
「読んでもいい?」と私が言うと、美晴はこくん、とうなずいた。丸めた紙を広げると、
「ぼくたちは こうべにいます。あいたいです。ママへ」
と、美晴の精一杯の小さな字で書かれている。
私は紙をもう一度丸めて、覚悟を決めた。
・・・その後、数十分の苦闘――私も苦労したけど、鳩の方はもっと災難だったろう――の後、手紙を不器用に足に巻きつけられた鳩は、美晴の手の中で、きょとん、とした顔で私達を見上げていた。
「ママは、にしのみやきたぐち、という所で歌ってるから。」美晴は鳩に言い聞かせていた。
私は黙って、美晴と鳩を見つめていた。
「いけっ!」と美晴は叫ぶと、鳩を空にむかって思いっきり投げ上げた。
鳩は海の方に向かって飛び立った、と思うと、突然気が変わったかのように、夕陽とは反対の方向に向かって方向転換し、まっしぐらに空をかけていった。
夕焼け空の中にその姿が消えてしまうまで、30秒とかからなかったと思う。
「瑞穂、あっちって、にしのみやきたぐちの方?」美晴が聞いた。
「そうだよ」と私は言った。
鳩が海に向かってまっすぐ飛んでいったとしても、私は美晴にそう答えていたと思う。
それでも、鳩が途中で方角を変えて、本当に西宮北口のある東に向かって飛んでいったことに、私はちょっと厳かな気持ちになっていた。
本当にあの鳩が、美晴の想いを、ママまで伝えてくれれば、と、私は思った。
「魔弾の射手」フィナーレ
ウェーバー作曲「魔弾の射手」というオペラは、こんなお話だ。
舞台となるドイツの黒い森深くにある村は、今、伝統の射撃大会を前に沸き立っている。
猟師の中でも射撃の腕は一番、と目されている青年マックスは、この射撃大会に優勝すれば、愛するアガーテとの結婚が約束されている。
ところが、最近のマックスの撃つ弾は、ことごとく的を外してばかり。
悩むマックスに、仲間のカスパールがささやく。「森の奥、狼谷に住む悪魔ザミエルに魂を売れば、決して的を外さない弾『魔弾』が手に入る」と。
マックスを嫉妬するカスパールの真意は、マックスを地獄に落とすことだったのだが、マックスはアガーテへの愛から、その「魔弾」を手にすることを決意する。
カスパールはマックスを狼谷にいざない、ザミエルの率いる地獄の軍団を呼び出し、7つの魔弾を手に入れる。
「魔弾」は6発までは撃ち手の思うがままに、決して的をはずさない。しかしその最後の一発は、悪魔ザミエルの思い通りになる。
撃ち手の心臓を射抜くことも、撃ち手の愛する者を射抜くことも、ザミエルの心次第だ。
射撃大会の当日、ザミエルの死の手は、すでにアガーテを捉えて、7発目の魔弾のいけにえに定めている。
勇壮な「狩人の合唱」がホルンの勇ましい響きとともに鳴り響く。この曲が終われば、「魔弾の射手」のフィナーレは間近だ。
魔弾の力を得て、全ての的を射抜き続けるマックス。
魔弾の最後の1発を銃にこめたマックスは、枝にとまった白い鳩を撃とうとするが、そこにアガーテが現れる。
マックスが引き金を引こうとした瞬間、白い鳩は空に飛び立つ・・・
「『狩人の合唱』が始まった時、私は舞台の袖にいたのよ」と、ママは私に話してくれた。
もともと、詠子さんはイタリアオペラかフランスオペラを得意とする人で、ドイツオペラに挑むのは珍しかったのだけど、我々姉弟を含めた全ての浮世のしがらみを切り捨てたママのパフォーマンスは、まさに無敵だった。
千秋楽のこの日の客席は満員御礼。
でも、ママの頭の中には、自分の立ち位置と横隔膜のコントロールとドイツ語の歌詞の処理のことしかなかったそうだ。
「その瞬間まで、私はガラスの部屋の中にいた。部屋の中から外は見えるのだけど、全てに実感がないのよ。瑞穂と美晴のことも、ちゃんと見えていた。しょっちゅう思い出した。思い出すのだけど、会いたいと思わない。不思議なくらい、『二人は神戸にいるんだから、私がいなくても大丈夫、楽しくやってる』と思い込んでる。全部ガラスの向こうのことで、実体がない。実感がない。」
袖に立って出番を待っている時も、頭の中に私たちのことがよぎることは一瞬たりともなかったらしい。
その時、ふと、舞台袖のスタッフの一人が、
「おかしいな、一羽多いな・・・」
とつぶやいたのが耳に入った。
「耳には入ったけど、別に、それが意味あることだとは思わなかった」と、ママは美晴の頭をくしゃくしゃなでながら言った。
この最終幕のフィナーレには、本物の白い鳩が使われた。マックスが撃とうと狙う鳩だ。
そのために、舞台用にトレーニングされた鳩が用意された。といっても、生きた動物を使う以上、トラブルが起こるリスクは0じゃないから、かなり冒険的な演出だろう。
下手から上手に向かって本物の白い鳩が飛び、マックスがその鳩に向かって引き金をひくと同時に、上手から駆け込んだアガーテがばったり倒れる。
だが、魔弾は、純潔なアガーテの魂を奪うことができず、かえって、マックスの破滅を見届けようとその場に居合わせたカスパールの、邪悪な心を撃ち抜く。
「あそこに白い鳩が見えるだろう?撃て!」と領主オットカールが叫ぶと、ママが、「撃たないで、その鳩は私よ!」と叫び、舞台に飛び出す。
同時に、下手から鳩が飛び立つ。何度も繰り返された段取りだ。
鳩はママの頭上を飛び去り、上手袖で待機している鳩のトレーナーさんの手に止まるはずだった。
ところが、その千秋楽の日、鳩はまっすぐ、駆け込んできたママの胸元に向かって飛んできた。
スポットライトを浴びた白い光の固まりが、ママめがけて一直線に飛び、舞台上の出演者全員、舞台袖のスタッフ全員、指揮者も含めたオケピット全体が凍りついた。
ママは思わず、手で胸をかばった。
その右手に、鳩はふわり、と舞い降りた。
そして、丸い目をまっすぐママに向けて、
「鳩がいつも、くるっぽーくるっぽーって言ってるでしょ?あのぽっぽーっていう音のままに、人間の言葉を喋ったの。『ボクタチハ コウベニイマス。アイタイデス。ままエ。』」
それは本当に一瞬のことで、鳩はすっとママの手から飛び立ち、上手袖に向かって飛び去って行った。
マックスの銃弾の音が鳴り響き、ママはその場に倒れた。
その瞬間、ママの周りのガラスの壁が、一瞬で砕け散った。
「私は歌った。『Wo bin ich? War’s Traum nur, dass ich sank?(ここは?夢見てるの?)』」
アガーテの死を覚悟した暗い衝撃的な音楽から、その生を確かめた喜びへと音楽は一転し、さらに、魔弾に胸を貫かれたカスパールの断末魔の歌、そして、マックスの懺悔と、隠者による救いの音楽へとめまぐるしく展開していく。
その音楽の中で、『O Max, Ich lebe noch! 』(おお、マックス、私はまだ生きている!)と歌いながら、ママの頭の中で、私たち二人のことがぐんぐん大きくなり始めた。
マックス
ああ、お許しは無用です・・・
僕はそそのかされ、見失ったのです、人の行くべき道を。
今日撃ったあの弾は、悪魔から授かったもの!
オットカール(怒りに震え)
すぐにここを立ち去れ!二度と顔を見せるな!
穢れなき乙女は、いや、いや、お前にはやれぬ!
「マックスの懺悔は私の懺悔だった。オットカールの怒りは私への怒りだった。そして隠者の許しは私への許しだった。私が瑞穂と美晴にしたこと、この数カ月の私自身が、舞台上で、責められ、裁かれていた。」
マックスは魔弾の誘惑に負けた自分の罪を告白し、領主オットカールの怒りを買うが、森に住む聖者=隠者が、その怒りをなだめる。
隠者
変わらぬ誠実を誓いし心も、
愛するが故の過ちに落ちる!
そんな危険な賭けで、なぜ愛を試す?
たとえ一人迷い、道を外れても、
誰が裁くのか?愛ゆえの弱さを?
無為な賭けは今日限り・・・
さあ、立って、罪人よ・・・
その評判に免じて、猶予の一年を!
誓いを守れたなら、
与えよう、アガーテを!
神の示した公正な裁きに、全員が感謝し、「魔弾の射手」は幕を下ろす。
全員の合唱
さあ、天を讃えようぞ!
全て人はとこしえに、
天にまします主の手に!
清き心守るものに、神の愛は注がれる!
さあ、いざ讃えて歌えよ!
いざ讃えて歌えよ!
その合唱のさなか、上手袖から白い鳩の群れが一斉に飛び立った。
「鳩は全部で10羽用意されていた。」ママは言った。
「なのに、その日、撃たれる1羽を下手側にスタンバイさせた後、上手に残っていたのは10羽の鳩だった。だからスタッフが、『一羽多い』とつぶやいたのよ。」
しかし、下手に舞い戻ってきた鳩を、終演後にいくら数えなおしても、鳩は10羽しかいなかった。
榊原詠子がアガーテをつとめた「魔弾の射手」は、この兵庫公演で千秋楽を迎えた。
詠子さんの周りを囲っていたガラスの壁を砕いたのは、確かに美晴の鳩だったのだ。
真っ赤な弾丸女
「魔弾の射手」のフィナーレと共に、ママはガラスの部屋から脱出したわけだけど、だからといってママが、千秋楽の夜に神戸のジジババの家にすぐ飛んでくる、というわけにはいかなかった。
ママはそれを、「プリマなんだから、打ち上げに欠席するわけにもいかないし、後援会の皆さんにもご挨拶しないといけないし・・・」なんて色々と言い訳を並べていたけど、私には分かる。ママは怖かったんだ。
ガラスの壁が砕け、全てが見えるようになって、ママは私達に会いに行かねば、と思ったのだけど、そういう思い以外の色んなことまで一緒くたに見えるようになってしまった。
ジジババの怒り。私達の悲しみ。寂しさ。
そんな私達に、一体どんな顔をして会えばいい。
色々と逡巡した結果、ママは、千秋楽の翌日の早朝、阪急電車の始発電車に飛び乗って、私達の町までとにかくやってきてしまった。
事前にジジババに電話を入れる勇気もなく、かといって私達に会いたい気持ちを抑えることもできず、とりあえず電車に飛び乗ったわけだ。
この時期のママは、オナシスに振られた頃のマリア・カラス並みにバランスが崩れていたから、なかなか常識的な行動を取ってくれない。
私の小学校はもう夏休みに入っていて、私は早紀ちゃんと一緒に、ラジオ体操の会場から帰る途中だった。
帰り道、まだ早朝だというのに、日差しがどんどん強くなり、早紀ちゃんが、「川の流れのそばの方が、なんぼか涼しい」と言い出して、土手から河川敷に降りて、二人で並んで歩いていた。
ふと、上流にかかっている橋を見上げたら、真っ赤な色彩が橋の右手からすごい勢いで飛び込んできた。
それが真っ赤なワンピースを着た女性である、ということにまず気がついて、彼女が全力疾走している、ということに次に気がついて、それからやっと、それがママである、ということに気がついた。
なんで、とか考える前に、「ママ!」と叫んでいた。
真っ赤な弾丸女は、橋の真ん中で何かにぶつかったように立ち止まった。
あたりを見回している。
もう一度、「ママ!」と叫ぶと、ママはやっと、橋の下の川のそばにいる私達に気がついた。
そしてそのまま、欄干に向かって突進してきた。
ママに再会した感激よりも何よりも、とにかく、危ない、と思った。橋の欄干から飛び降りそうな勢いだ。
私は慌てて、橋の脇の階段を駆け上がった。
夏場の神戸の街中を全力疾走してきたママは、汗だくで橋の途中に仁王立ちになっている。
長い髪が顔中に絡み付いている。
その中で目だけがギラギラ私を見ている。
その目から、大粒の涙がぼろぼろこぼれ始めた。
私は笑顔になろうと思った。
ママが帰ってきた。
何があったのか知らないけど、私達のママに戻って帰ってきてくれた。
悪魔の魔法が解けたんだ。
今ママは泣いているけど、私が泣き顔になっちゃだめだ。悪魔に傷つけられたママの心を癒せるのは、私達子供の笑顔だけだ。
おじいちゃんにそう約束したんだ。
でも、どうにもならなかった。
自分の顔が、折り紙を丸めるみたいにくしゃくしゃにゆがむのが分かった。
ママは駆け寄ってきて、私を抱きしめた。
私はママの胸の中で完全に決壊して、それはもう途方もない大声で泣き始めた。
夏の日差しが照りつけるコンクリートの橋の上で、汗まみれのママに抱きしめられて、私は息もできないくらいに苦しかった。
でも私はそのまま抱きしめられていた。
暑苦しいママの匂いに包まれて、ずっと、ぎゃんぎゃん泣き続けていたいと思った。
夜の女王のアリア
私とママは手をつないで、榊原小児科の母屋の玄関をくぐった。
ママは榊原小児科が近づいてくると、ちょっと及び腰になっていて、私が、「美晴に会いたくないの?」とその手をひきずるように連れてきた。
私が玄関をくぐって、すぐに、「美晴、ママだよ!」と叫ぶと、美晴より先に、おじいちゃんが出てきた。
おじいちゃんは、ママを見るなり、そこに仁王立ちになった。
なんとなく遠慮がちに、私達二人の後ろをついてきた早紀ちゃんが、ぐびっと唾を呑み込む音が聞こえた。
「高野山の不動さんかと思たなぁ」
と、その時のおじいちゃんの顔について、後で早紀ちゃんは私にしみじみ言った。
ママも震え上がったけど、何とか踏みとどまって、
「ただいま帰りました」と言った。
おじいちゃんはモノも言わずに、はだしで土間におりてくると、拳骨で思いっきりママの頭をぶん殴った。
ママの頭が、ゴン、という鈍い音を立てて、ママはその場にしゃがみこんでしまった。私は慌てておじいちゃんに、「やめて!」と叫んだのだけど、おじいちゃんは不動さんの顔のままで、
「顔は殴らん。商売道具やからな」
と言い放つと、奥の間にずんずん入っていってしまった。
ママはそのまま頭を抱えて土間にしゃがみこんでいた。「ママ大丈夫?」と私が聞くと、
「痛い」
と当り前のことを言った。そりゃ痛いだろう。
玄関に固まっている早紀ちゃんに、送ってきてくれてありがとう、と言ったら、早紀ちゃんは凍りついた笑顔のままで、そのまま後ずさりして、脱兎の如く駈け出して行った。
あらら、とその姿を見送っていたら、今度は小さな毬のように、土間に美晴が飛び降りてきて、ママに抱きついた。当然のように裸足だ。今日、ママに会いに来る人は誰もかれもが靴をきちんと履く、ということを忘れてしまう。
私とママが橋の上で演じていた愁嘆場が、今度は美晴とママの間で、家の土間で始まると、次におばあちゃんが病院からやってきた。
おばあちゃんは土間にちゃんと靴を履いて降りてきたのだけど、おじいちゃんのように手が出るわけでも、美晴のように泣き出すわけでもなかった。
代わりにおばあちゃんは、まさに速射砲のように喚き散らしながらやってきた。体全体に口が百個くらいあって一度に百の違うことを同時にしゃべっているみたいに喚く喚く。
今まで何をやっていた、この子たちがどんな思いだったと思っているんだ、母親としての自覚はどうした、私はお前をこんな無責任な子供に育てた覚えはない、ソプラノ歌手なんかやめてしまえ、このどあほ、ぼけ、かす、この子らに土下座してあやまらんか、以下エンドレス。
美晴は土間でぎゃーぎゃー泣いており、ママはひたすら、すみませんすみませんと謝っている。
その二人を前にして、ヒステリーの小型犬のように喚いているおばあちゃんを見ているうちに、私の頭の中に、モーツァルトの「魔笛」のあの有名なアリアが鳴り始めて、私はなんだかおかしくなってきた。
吹き出しそうな顔をしている私をみて、おばあちゃんが、
「何がおかしいのこの子は!」
と同じ調子で喚いてきて、私は思わず、
「おばあちゃん、夜の女王みたいや・・・」
とつぶやいた。
3人はポカン、とした顔で私を見て、次に3人とも噴き出してしまった。
なんだか4人してケラケラ笑い出して、笑いだしたらまた涙が出てきて止まらなくなって、なんだかぐちゃぐちゃになりながら、4人でとにかく家に上がった。
私と美晴の夏休みも始まって、ママも帰ってきて、神戸のジジババもいて、この夏休みは最高の夏休みになるはずだった。
でも、悪魔は、決して私たち家族をあきらめたわけじゃなかった。大地さんを奪い、そして今度はママも奪おうとして失敗した奴は、今度は美晴にその黒い爪を伸ばしてきたのだ。
この章で登場した「魔弾の射手」の訳詞は、私が所属しているオペラ制作集団「ガレリア座」の上演台本からの引用となります。したがって、すべての訳詞はオペラの楽曲に合わせて歌うことができます。是非原曲と合わせて読んでみてください。