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序曲<「行け、我が想いよ、金色の翼に乗って」> 第一幕<ウェーバー作曲「魔弾の射手」> 前半

2004年、まだ震災の記憶が新しい神戸の街と、2013年、東日本震災の爪痕が生々しい大船渡の街を、オペラというキーワードでつなぐ物語。少し長いお話になりますが、最後までお付き合いいただければ幸いです。

序曲~「行け、我が想いよ、金色の翼に乗って」~

 

 行け、我が想いよ、金色の翼に乗って

 行け、斜面に、丘に憩いつつ

 温かく、甘い祖国のそよ風が香る場所

 ヨルダンの河岸に挨拶をしておくれ

 そして破壊されたシオンの塔にも…

 おお、美しく、そして失われた我が故郷!

 おお、懐かしく、そして辛い思い出!

 預言者の金色の竪琴よ

 何故黙する、柳の木に掛けられたまま?

 胸の記憶に再び火を点けておくれ

 過ぎ去った時を語っておくれ!

 あるいはエルサレムの運命と同じ

 辛い嘆きの如く響く悲劇を語れ

 あるいは主が美しい楽音を奏で

 苦痛に耐える勇気を我々に与えるように!

     ヴェルディ作曲「ナブッコ」より

 

 二十歳になった今でも、私の中に、ずっと鳴り響いている音楽。

 詠子さんの歌。「魔弾の射手」。「ホフマン物語」。

 岡崎さんの笑顔と、「ばらの騎士」。

 大地さんの中で、永遠に消えない、「トスカ」。

 そして、美晴の歌。あの時の「金色の翼」。

 

 2004年から2005年。

 小学校六年生になったばかりの私の中で、ずっと流れていた音楽。

 神戸で過ごした、あの日々の中で、いつも近くにあった音楽。

 今、巨大な力に、全てが破壊し尽くされた東北の町で、

 唯一の希望のように磨き上げられたピアノの前に

 座っている私の中でも、

 ずっと鳴り響いている音楽。

 気が付くと口ずさんでいる、私の中の通奏低音。

 

 これは、そんな音楽についての、ちょっと長い物語。

 

挿絵(By みてみん)

笠松 宏有「アンジェラス」(2004年)

 

第一幕~ウェーバー作曲「魔弾の射手」~

 

言葉の花束

 

 2004年の春、詠子さんには、私と美晴が見えなくなった。

 なので、私たち二人は、神戸のおばあちゃんの家に行くことになった。

 派遣家政婦の植田さんが、二人分の荷造りをし、東京駅まで送ってくれた。派遣会社のサービスの範囲は完全に越えているのだけど、植田さんは、私が幼稚園児の頃からの馴染みの家政婦さんだったから、放っておけるわけがない、と気張ってくれたのだと思う。

 東京駅に向かう中央線の快速電車の中で、植田さんは怒っていた。もちろん、詠子さんにだ。

 口には出さなかったけど、植田さんの周囲にめらめらと燃えている怒りのオーラは、はっきり私たちに伝わってきた。

 植田さんと私で美晴をはさみ、3人並んで座っていたのだけど、美晴は時々、私の腕をつついて、席を替わって欲しそうにした。でも、私は気づかない振りをしていた。

 隣に座るといたたまれなくなるほど、植田さんの横顔は怖くて、美晴の反対側に座った若いサラリーマンが、なんとも居心地悪そうに身を縮め、こちらをちらちら窺っている。

 席を替わってあげる代わりに、私は、美晴の小さな手を、ずっと握り締めてあげていた。

 いつもなら、電車に乗るのをすごく喜ぶ美晴が、じっと黙って、自分の膝小僧を見つめている。

 美晴の心の中の叫び声が聞こえる気がした。

 ママに会いたいよ。パパに会いたいよ。ママの歌声が聞きたいよ。パパの大きな背中で眠りたいよ。以下エンドレス。

 私は、といえば、そんな美晴に何か優しい言葉をかけてあげるには、疲れすぎていた。ここ1週間ぴんと張り詰め続けた緊張が解けた反動で、私の心は浜辺のクラゲのようにふにゃふにゃになっていて、何かを感じたり、考えたりできる機能をほぼ失っていた。

 植田さんは怒っており、私は疲れており、美晴は叫んでいる。

 でも、三人とも、一言も声を立てなかった。

 ただ押し黙って、電車の床の下で鳴る、規則正しい硬いリズムを数えていた。

 

 神戸のおじいちゃんが、東京駅まで迎えに来てくれる手はずになっていて、私たちは、東海道新幹線の改札口の脇の階段に、やっぱり黙ったまま、並んで腰をかけた。

 「あと30分くらいあるね」植田さんがやっと口を開いた。「喫茶店にでも入ろうか。」

 私も美晴も、首を横に振った。お腹も空いていなければ、喉も渇いていない。そういう欲求自体が、ひどく薄れている。

 東京駅のコンコースは人ごみでごった返していた。日本のあらゆる場所から人が集まり、東京のあらゆる場所へと散っていく。そのまるで無秩序な人々の足並みが、不思議と一つにまとまって、ざっざっざっという一定のリズムを刻んでいるような気がした。

 ざっざっざっざっざっ。

 私たち3人に向かって押し寄せてくる。私たち家族を引き裂いて、大事なものを全部奪っていった悪意のように。コンコースの真ん中に固まっている人ごみの中から、甲高い笑い声が聞こえた。ひー、と、息が漏れるような、耳障りな声。

 ひー、ざっざっざっざっざ、ひー。

 絶え間ない低弦の不協和音の上に、調子っぱずれなピッコロが重なるみたいな。耳を覆いたくなる。植田さんの怒りのオーラも、この群集が奏でる悪意の音楽の前では、まるで無力だ。

私たちは、このまま悪意の渦に呑まれて、宇宙の果てまで流されてしまう、そんな気がした。

 

 「スミレだ」と、突然、美晴が言った。

 見ると、私たちから少し離れたところで、同じように階段に座っている女の人がいた。真っ白なすっきりしたワンピースを着ていて、その足元に、スミレの鉢植えが見える。紫の花が、小さな蝶の群れのように揺れている。女の人はうっすらと微笑を浮かべて、駅のコンコースを行きかう人々を、見るともなく見つめていた。

 植田さんが、呟くように、「スミレみたいな春の花のことをね」と言った。

 「スプリング・エフェメラルっていうんだよ。」

 春のはかない命、とか、春の妖精、っていう意味。

 冬の寒い時期を、雪や土の中でじっと我慢する。春が来ると、溶けた雪の間から顔を出して、花を咲かせる。

 そして、夏が来る前に、種を作るために枯れてしまう。

 そんな、一生懸命な、はかない花。

 植田さんはそう言うと、花の名前を次々と並べ始めた。イチリンソウ、ニリンソウ、フクジュソウ、エゾエンゴサク、ムラサキケマン・・・

 「変な名前」と、美晴が笑った。植田さんも笑った。

 なんだか久しぶりに、人の笑い声を聞いた気がした。

 キケマン、というのもあるんだよ、と言われて、美晴が、「ちゃんと聞けマン!」なんて呟いている。私も思わず笑った。

 植田さんが、春の花の名前を並べていく。

 カタクリ、ショウジョウバカマ、キンポウゲ・・・

 その名前を聞いて、美晴が幼い駄洒落を言う。「固い栗」「賞状もらったバカ」「キンポコチンポコ」・・・

 私は吹き出してしまう。植田さんも美晴も笑っている。でも、気がつくと、植田さんの頬は涙に濡れていた。

 植田さんは、私たちに、見送りの花束をくれようとしているんだ。私は突然気が付いた。

 本当の花束は時間がなくて渡せない。でも言葉の花束なら渡せる。

 ユキワリソウ、アケボノスミレ、ヒナスミレ・・・言葉の花々が、私たちの周りにどんどん花開いていく。

 私たちが笑うたびに、ざっざっざっという音が遠ざかる。言葉の花園の向こうに退いていく。

 「ここにおったか」と、神戸のおじいちゃんが声をかけてくれるまで、私たちは、植田さんが並べる花の名前と、美晴の駄洒落で、くすくす笑いながら過ごした。

 今でも、植田さんと過ごしたあの一時を、ぽっこりと温かい気持ちで思い出すことができる。

 あれから、植田さんには会えていない。

 もし会えたら、あの時くれた言葉の花束に、心からありがとうを言おうと思う。

 春のはかない命。

 種を残して、枯れてしまう小さな可憐な花。

 植田さんは無意識に、私たちが、美晴が向かう先の未来が見えていたのかもしれない。

 

 神戸に向かう新幹線の中、すやすやと寝息を立ててしまった美晴の傍らで、私はMDを聞いていた。

 ウェーバー作曲のオペラ「魔弾の射手」から、ヒロインのアガーテのアリア、「聖き歌よ、静かに静かに」。

 

 こんな澄み切った月の夜なのに、

 山の向こうには嵐の気配・・・

 不吉な黒い雲が立ち込め・・・

 

 歌うのは、榊原詠子。

 若くして、オペラの本場イタリアの大舞台で認められ、今も一線で活躍する人気ソプラノ歌手。

 若々しい声と天性の美貌と、舞台上の圧倒的な存在感で、日本から世界へと羽ばたく期待の歌姫。

 そして私のママ。美晴のママ。

 榊原詠子、すなわちママが、私たちを捨てた日、ママの机の上で、私はこのMDを見つけた。

 ママが、自分の稽古の様子を録音したMD。

 詠子さんは今、この「魔弾の射手」の地方公演の準備で忙しい。東京の稽古場で、ヒロインの村娘アガーテになりきって歌っている。その瞳には、私も、美晴も映ってはいない。

 

 やっとやっと!いらしてくださった!

 私なら、ここにいるわ!

 ・・・見えないのかしら?

 ああ!今日こそ帽子に花がついてるはず!

 きっと、ついてるはず!幸せの印よ!

 

 右耳のイヤホンがそっと外されて、見ると、おじいちゃんが、私の顔を覗きこんでいた。

 おじいちゃんの大きな手のひらが、私の頭の上に乗せられる。

 「泣くな」

 と、腹に響く、太い声で、おじいちゃんは言った。

 気が付けば、私はママの歌声を聴きながら、ポロポロ涙をこぼしていた。まだ私は泣けるんだ、と、ちょっと驚いた。

 昨日の夜、神戸のおばあちゃんからかかってきた電話で、張り詰めていた精神が大決壊を起こし、涙で風呂が沸かせるほどに大泣きしたっていうのに。

 私は、「もう泣かない」と、つぶやいた。

 左耳片方にだけ残ったイヤホンから、詠子さんの歌声が、頭の中に流れ込んでくる。

 

 天よ、受けたまえ!感謝のこの涙!

 神に身をまかせ、ひたすら祈るわ!

 甘い風を投げ、我をさしまねく、

 ああ、狂おしい面影に、

 今、胸の高鳴り、あなたに告げる喜び、告げる喜び、

 はるかなあなたに!

 

 こうして、私たちは、神戸へやってきた。

 美晴のパパ、大地さんが姿を消して、2か月もたっていない、5月の末のことだ。

 

大地さんと詠子さんの話

 

 ママはいつも大地さんのことを、「うちのマルちゃん」と呼んでいた。大地さんは、大地和樹、という名前だから、名前とはまるで関係がない。

 大地さんは、舞台監督、という仕事をしている。

 音楽に詳しく、イタリア語と英語に堪能なこともあって、国外オペラ劇場の来日公演や、外国人キャスト中心のミュージカル舞台などで仕事をすることも多い。

 ママに言わせると、「業界では知る人ぞ知る」やり手なのだそうだ。

 というと、華やかそうに聞こえるけど、舞台監督、というのは、実際はかなり地味な仕事だ。

 舞台がスムーズに進行するように、色んな段取りを管理する。タイムスケジュールを作り、舞台図面を吟味し、舞台装置や照明の仕込みを監督し・・・

 本番が始まれば、芝居の進行に合わせ、秒単位で幕を上げる合図を出し、舞台上の各所に控えているスタッフに、様々なきっかけ(キュー)を出し、出演者が登場する場所とタイミングを指示し・・・

 目と手と足がいくつあっても足りない。

 時間が勝負の舞台転換では、自ら舞台装置をくみ上げたり、吊りものを引き上げる綱を操作したり(綱元、と言う)、予期せぬトラブルに備えて、いつも、なぐり(トンカチのことを舞台用語でこう言う)とガムテープを腰からぶら下げてうろうろしている。

 着ているのはペンキだのなんだので薄汚れたスタジャン。足には雪駄。

 演出家や照明さんや音響さんや、ワガママなソプラノ歌手なんかが文句を言ってくるのを、ニコニコといなすのも、大事なお仕事。

 

 若き日の詠子さんが、イタリアはヴェネチアにあるフェニーチェ歌劇場と専属契約を結び、当地でプリマとして人気上昇中だった頃、大地さんも同じ劇場で、舞台スタッフとして修業中の身だった。

 日本人、ということで、当然、二人は互いを認識はしていた。

 大地さんに至っては、昔から詠子さんの大ファンだったから、同じ劇場で働くことが決まった時は、もう天にも昇る心地だったのだそうだ。

 でも、その頃、詠子さんは、一人目のイタリア人の夫、つまり、私の父親と、殴る蹴るひっかく喚くの大乱闘のあげくに離婚したばかりで、国籍を問わず、全男性お断り状態の真っただ中だった。

 舞台袖の暗がりに控えている大地さんが、うっとりママを見つめていたとしても、スポットライトの中のママが、それに気づく可能性は、残念ながらほぼゼロだった。

 そのゼロの可能性の壁が壊れた運命の公演は、ビゼー作曲「カルメン」。

 ママはミカエラの役。

 魔性の女カルメンのために身を滅ぼしていくドン・ホセを、一途に愛する可憐な少女の役だ。

 ママは、まさしくミカエラそのもののような、夢見るお嬢さんの状態で、「マルちゃん」との出会い(というか、詠子さんが大地さんを認識した瞬間)を私に話してくれたから、私はまるでその場にいたみたいに、そのときの情景を思い浮かべることができる。

 「カルメン」の本番直前。

 ミカエラが、連隊にいるドン・ホセを訪ねてくる場面で、ミカエラが座る丸椅子が壊れてしまった。

 兵隊達が、遊んでいる子供達を追い払う、という芝居を稽古していて、兵隊役の合唱団の一人が、足を引っ掛けて壊してしまったのだ。丸椅子の腰掛けるところが真っ二つ。

 演出家と舞台美術家がかなりこだわって選んだ、可愛い彫り物入りの丸椅子。

 替えはきかない。どうしよう、と、全員が青くなっている所に、大地さんがいつの間にかすっと立っていて、

 「本番までに直しておきますから」

 と、何事もなかったように言った。

 その言い方が無茶苦茶かっこよかったんだって。

 

 実際、大地さんは、舞台裏にあった角材を組み合わせて、丸椅子の割れたところの裏面に、上手に補強を入れて、本番前までに完璧に椅子を直してしまった。

 補強用の角材に、汚し(ペンキとかをスプレーして使い古した家具に見せること)まで入れてある念の入れよう。

 ママが腰掛けてもびくともしないんだけど、それでも心配になったママが、大地さんに、

 「大丈夫かな?」

 と聞いたら、大地さんはにこりともしないで、

 「さっき、スニガさんに座ってもらって大丈夫だったから、絶対大丈夫」と言った。

 ドン・ホセの上司であるスニガ役のバス歌手は、とんでもない巨体のおじさんだったから、ママは思わず吹き出しちゃったんだけど、大地さんは不思議そうな笑顔で、

 「何かおかしいですか?」と聞いてきた。

 ママによれば、「その笑顔にやられた」のだそうだ。

 終演後に、お礼に、とママから食事に誘い、その場で、大地さんが恥ずかしそうに、高校生時代からずっとママのファンだったことを告白。それこそ、ママが芸大生時代のオペラデビュー舞台から魅入られて、ママが出た舞台はほとんど全部そらで言えた、というから、熱狂的な追っかけだったんだね。

 ママは一気に天まで舞い上がり、そのまま交際が始まった。

 

 神戸で震災があった翌年、二人は日本に帰国して、そのまま結婚を決めた。

 当時、私は5歳。

 ある日、ママと手をつないで稽古場の近くのレストランに行ったら、顔なじみの大地さんが、能面のような強張った顔で待っていた。

 で、私が大地さんの前に座るなり、ママが、

 「私、この人と結婚するから」

 と言い放った。

 私は、「そう」と軽くうなずいた。大地さんはぽかんと口を開けて、私の方を見ていた。

 大地さんは、よくその時のことを思い出して、

 「あの『そう』、には参ったなぁ」

 と私に言った。当の私はあんまりよく覚えていないのだけど。

 大地さんとママが付き合っているのは知っていたし、稽古場の顔なじみだったから、別に不思議に思わなかった、というのもあるけど、子供心に、この人なら、と納得する部分があったのだ、と思う。

 

 ソプラノ歌手、というと、世間の皆様は、普段の生活から、バラや毛皮やシャンパンに囲まれた豪奢な日々を想像するようなのだけど、実態はかなり違う。

 歌手、というのは、体を使う職業だから、一種のアスリートだと思った方がいい。

 オペラを全曲歌いきるのは、マラソンを走りきるのと同じようなものだ、とママもよく言う。一瞬だけ素晴らしい声が出ても仕方がない。オペラ全幕を最後まで歌いきるだけのスタミナと、声帯への十分なケアと、全身の筋肉のコントロール。

 そういう、一流のアスリートとしてのママのストイックな部分を、きっちり理解して支えてくれるような人が、ママの結婚相手にふさわしい。多分私はそう感じていたのだと思う。

 私の生物学上のパパを含め、長続きしなかったママのボーイフレンドたちを眺めるに、同じオペラ歌手というのはNG。

 家具職人、とか、いいかもしれない。

 伝統的な漆塗りの家具を、工房で黙々と作っているような人。

 大地さんからは、そういう職人さんの匂いがする。幼い私はそれを嗅ぎ取ったんじゃないかな、と思う。

 

 オペラ歌手と舞台監督、というカップルは結構珍しいから、知り合いに「なんで?」と聞かれるたび、ママは夢見る少女になって、丸椅子のエピソードをきかせることになった。

 そのうち、ママの周りの人たちはみんな、「詠子さんのマルちゃん」と、大地さんのことを呼ぶようになった。

 大地さんもその呼び名が気に入って、大地さんは「マルちゃん」になった。

 

職人さんの作るフレンチトースト

 

 結婚を決めてから、二人の収入には相当差があったんだけど、それでも大地さんは、よくある「主夫」の道は選ばなかった。ママもそれを許さなかった。

 ママに言わせれば、「日本のオペラ界にソプラノ歌手は掃いて捨てるほどいるけど、優秀な舞台監督は少ないのだから、一人でも欠けると大変な損失」なのだそうだ。

 といいながら、早起きと家事全般がそれほど得意ではないママは、朝食作りを含めたかなりの家事を、大地さんに依存していた。

 それで共働きやってたのだから、大地さんの方がかなり割を食っていた気がするけど、ママは、そこは、「溢れる愛で補っている」、と主張していた。

 そう言われて反論できる人もいないと思うけど。

 

 そんなわけで、ほぼ毎日、大地さんが眠い目をこすりながら作ってくれていた我が家の朝食の中で、美晴と私が特に好きだったのは、たっぷり卵の浸み込んだフレンチトーストとコーヒー牛乳だった。

 手際よく、溶き卵と牛乳にパンを浸して、さっとフライパンで焦げ目を作り、メープルシロップをまんべんなくかける。

 カリッと香ばしくて、甘くて柔らかい。

 私も真似をして作ってみるけど、どうしても大地さんが作るようにうまくカリッと焦げ目がつかない。

 職人さんの作るフレンチトーストだ。

 大地さんはコーヒーにもこだわりがあって、知り合いの店から購入している特別の豆を、毎朝手で挽いて、ペーパードリップのコーヒーを入れていた。

 ドリッパーの中で、お湯を注がれた豆が、キノコみたいにふわっと広がる。

 その様子を眺めながら、その香りを胸いっぱいに吸い込むのが好きだった。

 「小学生以下はダメ」と言われて、私も美晴も、そのままのコーヒーは飲ませてもらえなかったけど、大地さんはそのコーヒーに、とぽとぽ牛乳を注ぎ込んで、甘くないコーヒー牛乳を作ってくれた。

 あのコーヒー牛乳くらいおいしいコーヒー牛乳を、まだ私は飲んだことがない。

 

 大地さんは舞台の人だから、体格もがっしりしている。

 和室に寝転がっている大地さんの背中に、美晴が座って、私も腰かける。二人が座っても、大地さんの背中は広くて、全然余裕がある。

 私はそのまま、ちゃぶ台に宿題を広げる。

 大地さんは、次のオペラ舞台の演出メモやら、舞台図面なんかの書類を畳に広げて吟味している。

 美晴は大地さんの背中を枕に、そのまま寝てしまう。

 そうやって、大地さんをベンチにして、3人ぐちゃっと、ひと塊になっているところに、ママが稽古から帰ってきて、

 「瑞穂と美晴だけでずるい!」

 と叫んで、大地さんのお尻のあたりに、どどん、と腰をおろし、大地さんはよく、ギャーと喚いていた。 ソプラノ歌手は可憐なように見えるが、あの声を支えるお尻はかなりのヘビー級である。

 

 私が小学校4年生くらいになって、美晴の面倒をみられるようになると、育児から解放された大地さんが、ママの舞台の舞台監督や裏方を務める機会も増えた。

 私は稽古場の外のロビーあたりにいて、美晴と一緒に遊んでいる。美晴がいい感じに寝てくれると、そのままベビーカーを押して、稽古場の隅っこに陣取る。

 大地さんは、演出卓から、ママを見ている。

 ママを見つめる視線はやさしくて、でも厳しい。仕事をする大人の視線。

 大地さんの目には、明るい光に包まれた舞台と、その中央で輝くママの姿が見えているんだろうな、と私は思った。

 

ママの子守唄

 

 ママは仕事上夜遅く帰ることが多くて、中々美晴と一緒に遊んであげる時間がなかった。

 たまにママの帰りが早いと、美晴は、ママの言うことにいちいち逆らったり、ママのやることをわざと邪魔したりする。

 美晴としては、ママが大好きで、ママとじゃれたくてやっているんだけど、ママは時々、本気で子供みたいにムキになって怒る。それがおかしくて、美晴がまたいたずらをする。

 ママが本気で怒ったり泣いたりし始めるものだから、大地さんはよく、

 「ほら、美晴もママもいい加減にしなさい」

 と二人をたしなめていた。幼児と一緒くたにされるソプラノ歌手っていうのは如何なものなのだろうと思う。

 

 ママが早く帰ってきた日、さんざママをイラつかせたり、本気で怒らせたりした後でも、美晴は必ず、子守歌をねだった。ママは、

 「ママの歌は高いぞ。金の取れる歌だぞ」

 と言いながら、子供部屋の美晴のそばに座って、小さな細い声で、子守歌を歌ってくれた。

 ブラームスの子守歌、シューベルトの子守歌、そりゃあレパートリーは山ほどあったけど、なぜか、美晴が一番気に入ったのは、普通の子守歌ではなくって、ヴェルディの「ナブッコ」の有名な合唱曲、「想いよ、金色の翼に乗って」だった。

 大きく翼を広げた鳥の眼下に広がる光景のような、雄大で美しいメロディ。

 私もいっぺんで大好きになった。

 

 行け、我が想いよ、金色の翼に乗って

 行け、斜面に、丘に憩いつつ

 温かく、甘い祖国のそよ風が香る場所

 ヨルダンの河岸に挨拶をしておくれ・・・

 

 うとうとと夢の世界を漂う私と美晴を、ママの声が包み込む。子供部屋の入口で、そんな私たちを、大地さんが見つめている。

 私は自分の4人家族が大好きだったし、このまま4人で、ずっと幸せに暮らしていくんだ、と信じて疑わなかった。

 なのに、大地さんは突然、私達家族の前から姿を消した。

 桜がこれから満開を迎えようという、3月半ばのことだった。

 

荒地に立ち尽くす

 

 大地さんの失踪は本当に突然の出来事で、ママと私と美晴は、嵐の後、土石流に襲われてただの荒地になってしまった我が家の跡に、呆然と立ちすくんでいる、そんな状態だった。

 大地さんは、一方的に離婚届にハンコを押し、そのまま、私達3人を日本に残して、イタリアに去ってしまった、というのが表面的な事実だったのだけど、コトはそう簡単な文章で収まるものじゃなかった。

 特に、男を捨てることはあっても、捨てられたことなど一度もないママにとっては、まさに世界がひっくり返ったような衝撃だった。

 荒地にただ立ちすくんでいても、腹は減るわけだし、ママの両脇には、育ち盛りの娘と、まだ幼稚園に通っている小さな息子がいた。

 失意の榊原詠子は、貧しさの中で夫の帰りを待ち続けたプッチーニの「蝶々夫人」のごとく、我が子を養うために、家財も売り払って必死に働かねばならなかった・・・というほど、ドラマティックだったわけでもない。

 ママの実家は相当裕福だったから、実家からの有形無形の援助はそつなく続いていたし、ママの仕事は、私生活とは無縁に相変わらず安定しており、私達はさほど不自由なく暮らすことができた。

 ママは早速、家政婦派遣会社と定期契約を結んで、私と美晴が同じパンツを1週間はいたままでお尻がただれたりしないよう、きちんと環境を整えてくれた。

 でも、今から思えば、逆にそれがよくなかったような気がする。

 大地さんがいなくなって、ママの精神状態は、あきらかにバランスを欠いていた。

 どん、とママを受け止めてくれる背中も、温かく見つめてくれる視線もない。

 それなのに、仕事は順調。

 逆に、心の中に空いた穴を埋めるために、ママは仕事の量を増やしさえした。

 受け止める人もなくひたすら回転を続けて飛び続けるブーメランのようなママに、私と美晴は必死になってしがみついていたのだけど、ママというブーメランの回転もスピードも、制御不能なまでに速度を上げ続け、ある日、私と美晴は、とうとう、そこから振り飛ばされてしまうことになった。

 

空っぽの宇宙空間

 

 その日は、ママが、旅公演(全国を巡回して回る公演のこと)から東京に帰ってくるはずの日だった。

 大地さんが消えてしまってから、初めての旅公演。

 それまでも旅公演は何度もあったけど、大地さんが家にいてくれたから、私たち子供二人だけで家で夜を明かす、というのは、初めての経験だった。

 でも、ママが旅公演に行くことを、私は笑顔で承知した。

 大地さんがいなくなってから、ママの内側がシロアリに食われた柱みたいにボロボロになっているのが、私には手に取るように分かった。

 外見はさほど変わっちゃいないんだけど、単純に、異常にテンションが高い。

 会話していて、え?というようなささいなきっかけで、突然大泣きを始めたり、大笑いを始めて止まらなくなったりする。

 仕事に向ける情熱は凄まじくて、朝からテーブルに向かってヘッドホンかけたまま、そのまま顔を埋めんばかりの勢いで楽譜とにらめっこしている。学校から帰ると、朝と寸分たがわぬ同じ姿勢で固まっている。

声をかけてあげないと、何時間でもそのまま凍りついていたかもしれない。

 小学校六年生になって、多少大人の入口に立っていた私としては、ママがつらいときだからこそ、私がしっかり支えてあげないと、なんて思ってた。

 今から思えば、そんなことを思わなきゃよかった。もっとワガママでよかったのにって思う。

 でも、私は笑顔でママを旅公演に送り出し、ママは傷ついた心を、不自然なくらいの満面の笑顔で隠して、旅立っていった。

 ママも、少し東京から離れて、地方の空気を吸ってくると、気分転換になっていいだろう・・・なんて私は背伸びしたことを考えていたんだけど、ママの心の傷はそんなに簡単に癒されるような、浅いものじゃなかった。

 

 ママが帰ってくる予定だった日の夕方、ママからの電話の後、植田さんが困ったような顔で、「今晩、ママ帰れないんだって」と私に言った時、私はいきなり全てを悟った。

 ママは二度と帰ってこない。この家に戻ってくることはないって。

 私はそれでも、心配そうな植田さんに向かって、「大丈夫だよ、これまでと一緒だよ」と、笑って答えた。

 植田さんは、「明日の朝、いつもよりも早く来るからね」と言ってくれて、それはとっても嬉しかったけど、植田さんが手を振ってドアを閉めて、家の中がしん、とした時、私は一人でびゃーびゃー泣いた。

 ママに捨てられた、という確信があった。

 そのことで、ママを恨む気持ちにはなれなかった。

 ママの気持ちもすごくよく分かった。

 ママは、マルちゃんとの思い出がいっぱい詰まったこの家にいたくない。

 マルちゃんのことを思い出すもの全てに触れたくない。その中に、私と美晴も含まれてしまっている。

 その気持ちを隠して、ママはずっと私達のそばにいてくれた。でも、どうしても我慢できなくなったんだ。

 逃げるつもりもなくって、旅公演を引き受けて、そのまま家に帰れなくなってしまった。

 私たちに会いたいのに、帰りたいのに、帰れなくなってしまった。

 そんなママが可哀想で、捨てられた私達が可哀想で、びゃーびゃー泣きながら、ランドセルに学校の道具を入れて、目覚まし時計をかけて、ベッドにもぐりこんだ。

 眠れるわけがない、と思ったけど、意外とすとんと、眠ってしまった記憶がある。泣くってのは結構体力を使うから、泣き疲れてしまったんだろう。

 

 翌朝、目覚まし時計の音で目が覚めた。

 目が覚めたら、大地さんもママも先に出かけている、ということはそれまでもあって、私は一人で朝の支度をすることには慣れている。それでも、その朝は特別だった。

 となりのベッドですやすや眠っている美晴を起こし、顔を洗って、着替えて、植田さんが作っておいてくれた朝食を、電子レンジで温めて食べる。

 いつもの朝の段取りなのに、一つ一つのことがすごく重たい。

 空気が重たくって、なかなか体が動かない。

 植田さんは約束どおり、いつもより少し早めに、まだ私たちが朝食を食べている途中にきてくれた。

 私を小学校に送り出し、美晴を幼稚園まで送ってくれる。

 午後、美晴を迎えに行き、家で夕飯を作り、私が帰ってくるのを待っていてくれる。

 私が帰ってきたら、そこで、植田さんとはさよならだ。

 「ママから連絡がないねぇ」と心配顔の植田さんに、私は笑顔で答えた。

 「大丈夫だよ、きっと電話してくるから、心配しないで、植田さんは帰っていいよ。」

 ママが私達を捨てた、と思われたくなかった。

 翌日から私は、家政婦さんに嘘をついた。ママは帰ってきました。朝早く出て行きました。

 幸か不幸か、植田さんはしばらく都合がつかず、翌日から来た新顔の家政婦さんは、私の嘘を鵜呑みにした。

 別に疑う理由もない。雇い主の家庭の事情から一定の距離を保つことも、プロの家政婦さんに求められるルールだ。

 

 私も別に、毎日泣き暮らしていたわけじゃない。逆に、相当張り詰めて暮らしていた記憶がある。

 ママが私達を捨てた、ということを大人たちに悟られないように、というのが、私の第一命題だったから、学校でもかなり気を張っていた。

 なるべく普通に、とは思っていたけれど、今から思うと、逆に極端なくらいに明るく、何かというとゲラゲラ笑ってすごしていた記憶がある。なんだか、ママと同じ反応だね。さすが親子である。

 昼間、小学校に行ってる時とか、家政婦さんが家にいてくれるときは、ものすごく気を張っているからいいんだけど、美晴と二人っきりになってからがつらかった。

 家政婦さんが帰ってから、夕食までの時間、ひたすらピアノを弾いて過ごした。

 私がピアノを弾き、美晴がでたらめに歌う。

 美晴は美晴で、ママの不在にいつもと違う何かを感じ取っていたと思うのだけど、口には出さずに、知っているオペラアリアを大きな声で歌う。

 私はその伴奏を、私でも弾ける程度にてきとーにアレンジして弾く。

 色んなオペラの曲を、大きな声で一緒に歌った。「もう飛ぶまいぞこの蝶々」、「闘牛士の歌」、「女心の歌」・・・

 とにかく何かをしていないと、二人を押し包む沈黙にひねりつぶされてしまいそうな、そんな気がして、必死になって歌って、必死になって弾いた。

 考えてみれば、私のピアノ伴奏で歌ってくれた最初の歌い手は、美晴だった。

 

 二人きりの夕食を食べて、お風呂に入り、夜になってしまうと、後はもう最悪。

 毎晩毎晩、とにかく怖くてたまらない。

 マンションの部屋で美晴と二人で寝ていると、本当に何一つない空っぽの宇宙空間に漂っているような気分になる。

 自分の背後に、真っ黒い闇がのしかかってきて、耳元で、ひー、と甲高い声で笑うのが聞こえる気がする。

 テレビドラマとかで、しっかりものの子供が、親がいなくなっても一人で力強く生きていく、なんてお話を見たことがあるけど、私はそんなに強くない。

 どんなに忙しくても、何週間も家を空けていても、大地さんと詠子さんは私たち二人を無条件に愛してくれている。そういう確信が、私たちをずっと支えていたのに。

 その支えがなくなってしまった。永遠に失われてしまった。

 もう二度と、あの笑顔に会えない。大声で叫んでも、私たちの声は二人の心に届かない。

 跳ね上がるみたいに動悸が激しくなる。息がつまる。そんな自分の状態がまた怖くなる。

 このまま私が死んでしまえば、ママは帰ってきてくれるだろうか、なんて考え始めると、もうとまらない。ベッドの中で大声でわめきながらジタバタ暴れたくなる。意味もなく血が出るまで自分の腕に噛み付いたこともある。

 そんな状態になったとき、私はよく、美晴の小さなベッドにもぐりこんで、美晴を抱きしめて眠った。

 美晴がいてくれなかったら、たぶん私は壊れていたと思う。

 美晴の寝息を聞きながら、私がこの子を守ってあげないといけないんだって思った。

 その時はそんなことを思っていたけど、今から思えば、美晴が私を、壊れないように守ってくれていたんだなって、心底思う。

 

 それでもやっぱり眠れない夜には、枕元に小さなラジカセを置いて、小さな音で、ママの「魔弾の射手」の稽古のMDをかけながら眠った。

 ママの歌ももちろん大好きだけど、私は、このMDの伴奏が好きだった。

 稽古場の録音だから、当然ピアノ伴奏なのだけど、まるでオーケストラのような、豊かな音色の伴奏。

 こんな風にピアノを弾けたら、と、思いながら、美晴のぬくもりを抱きしめる。

 ママの歌声と、それをしっかり支えるピアノの確かな音色。

 自分たちの周りの闇が、孤独が、音楽の届かない距離まで足音を忍ばせて退いていくような、そんな安心感の中で、やっと私は眠ることができた。

 

 本当に幸いなことに、そんな日々はさほど長くは続かなかった。はっきり覚えていないけど、週末をはさんだ記憶がないから、多分せいぜい5日間くらいのものだったと思う。

 でも私にとっては、本当に永遠とも思えるような数日間だった。

 私の人生にとってのどん底の日々。

 ほとんど地獄のような孤独の日々。

 そこから私達を救うべく颯爽と登場したのが、神戸のおばあちゃんだった。 

 

神戸のおばあちゃん、颯爽と登場す

 

 おばあちゃんは神戸で、小児科医の女医さんとして開業している。

 おじいちゃんはその病院の事務局長、ということで、経理関係一切を取り仕切っている。

 多分ママのDNAには、職業女性の要素が受け継がれているんだね。

 

 神戸のおばあちゃんとおじいちゃんは、結構頻繁に、東京に出てきた。医学学会だ、なんだ、と言い訳をしていたけど、私たちに会うのが楽しみだったんだと思う。

 気を遣ってくれて、私達のマンションに寄ることはしなくて、東京駅前のパレスホテルにいつも泊まっていた。

 夜、パレスホテルに集まり、大地さんも一緒に、晩御飯をみんなで食べて、みんなでそのままホテルにお泊り。うまくママのスケジュールが合えば、ディナーからママも一緒。

 翌朝には日本橋のデパートに行って、おばあちゃんが、私の服や、美晴のおもちゃなんかを見繕ってくれる。楽しくないわけがない。

 

 神戸のおばあちゃんが電話をかけてきた日は、久しぶりに植田さんが来てくれた日だった。

 植田さんは、私が言った、「ママは帰ってきたよ」という嘘を、一瞬で見破った。

 さすがだと思うけど、「洗濯物が少なすぎる」と思ったんだそうだ。

 ママは自分の下着の洗濯は家政婦さんには任せない、なんていう繊細なひとじゃなかったから、ママの分の洗濯物があるはずなのに、それがない。

 家の中に、大人一人分の存在感がない。

 植田さんはそこで、どんなに遅くなっても、私が本当のことを白状するか、本当にママが帰ってくるか、どちらか白黒着くまで、今日はこの家を出るまい、と腹をくくったのだそうだ。

 

 11歳の私にはそんな植田さんの覚悟は見抜けず、植田さんが、一緒に夕飯を食べよう、と言ってくれた時には心底嬉しかった。

 一緒に夕食を食べている時、電話が鳴り、植田さんが出た。

 そのまま、受話器を持ってダイニングから出て行った植田さんが、小さな声で和室でお話している、と思ったら、ひどくまじめな顔で戻ってきた。私の目をしっかり見つめて言った。

 「神戸のおばあちゃんからの電話です。」

 私がうなずくと、植田さんは、ぴしゃり、と言った。

 「ちゃんと、本当のことをお話しするのよ。私はあっちの部屋に行ってるからね。」

 その一言で、すでに私の敗北は決定していたようなものだ。受話器から流れ出たおばあちゃんの声を聞いた瞬間、私は本気で電話口でぎゃーぎゃー泣いた。

 さすがの植田さんも隣の部屋から飛び出してくるほどの泣きっぷりで、おばあちゃんも仰天したそうだ。

 美晴もびっくりして私以上の声で泣き喚くし、とにかく一刻も早く、瑞穂と美晴のところにいかないと、と、おばあちゃんは真剣に、「今からタクシーで東京まで行く」とおじいちゃんに言ったらしい。

 いくらかかると思う、とおじいちゃんに止められ、植田さんも、今晩は泊まってあげるから、と言ってくれたおかげで、おばあちゃんもさすがに諦めたのだけど、翌日、おじいちゃんが風のように東京にやってきて、消防署のレスキュー隊よろしく、私と美晴を抱え込むようにして、神戸に運んでいってしまった。

 

 その頃のママは、というと、「本当に何にも覚えていない」のだそうだ。

 私達が神戸に引き取られるにあたって、おばあちゃん達と電話で話をして、厳しく怒られたり怒鳴られたりしたはずなんだけど、「何もかもぼんやり霧がかかったみたいで、なんだかよく分からない」とのこと。

 その頃全国公演中だった「魔弾の射手」のことは、恐ろしく鮮明に覚えているらしい。

 で、稽古が終わると、「今日は疲れた、移動するのもしんどい、近場に泊まろう」と、新宿のカプセルホテルに泊まっていたそうだ。

 別に、私達子供の顔を見たくない、とか、大地さんのことを思い出したくない、といった感情を自覚しているわけじゃなくて、とにかく足が我が家に向かない、という状態だったんだって。完全に神経症だね。

 例えばその時のママのやっていた公演が、「蝶々夫人」とか、ヴェルディの「仮面舞踏会」のアメリアとか、ベッリーニの「ノルマ」といった、子供を持つ母親の役だったとしたら、ママの頭の中に私達二人のことが入り込む瞬間があったんじゃないかな、と思ったりする。

 でも「魔弾の射手」のアガーテは、愛のために悪魔に魂を売った狩人マックスに、純粋な想いを捧げる乙女の役だ。

 残念ながら、子供の立ち入る隙はない。

 でも結局、この「魔弾の射手」の音楽が、私達家族を救ってくれることになるのだけど、その話はもう少し先にするとして、まずは、私が神戸で出会った人々の話をしようと思う。

 

神戸は海と山の街

 

 神戸のおばあちゃんの、小児科医、という仕事は、世間的に言えば、かなり高度で繊細な職業だと思うのだけど、おばあちゃんの性格はまるで逆だ。豪快、といえばいいけど、悪く言えばかなり適当。

 私と美晴が神戸に着いた時、おばあちゃんは白衣のままバタバタと玄関先にやってきて、「まぁ詠子のことやから、けろっと次の男見つけて、すぐ戻ってくるわな」と、私と美晴の心の傷に気が付いているのかいないのか、慰めているんだかいないのか、なんだかよく分からないコメントを残して、ゲラゲラ笑いながら、自分の職場である自宅の離れの病院にさっさと行ってしまった。

 私と美晴のお世話係は、おじいちゃんの役割、と最初から決まっていたみたいで、おじいちゃんも、それが当然のように、表情一つ変えず、私たちの神戸での生活の基礎を全て整えてくれた。学校や幼稚園への転入手続きから、精神的なケアまで。

 

 よく喋り、よく笑うおばあちゃんに比べて、おじいちゃんはそんなに笑わない。不機嫌そうなわけでもないし、いつもご機嫌なわけでもない。あんまり大きく表情が動かないし、そんなにたくさん喋るわけでもない。

 ありていに言うと、おばあちゃんの蔭でひっそりと目立たない、今一つ何を考えているのかよく分からない旦那様。

 でも、昔から、私には、そんなおじいちゃんの思いがよく見えた。おじいちゃんの短い一言のトーンとか、抑揚とか、そういうものに耳を傾ければ、私は、おじいちゃんの言いたいことや、その時のご機嫌が手に取るように分かった。

 そんな話をおばあちゃんにすると、おばあちゃんは笑いながら、

 「それはやっぱり瑞穂が、オペラ歌手の娘やからよ。人の声に敏感なんよ」と言う。

 「私なんか、もう50年も連れ添っとっても、おじいちゃんが何考えとんのか、さっぱり分からへんからねぇ。」そして、ゲラゲラ。

 

 学校の転校手続きなどに少し時間がかかっている間、おじいちゃんは、私達が住むことになる神戸の街を案内してくれた。

 神戸は海と山の町だと思う。

 六甲山が北に迫り、家や街をその山腹にしっかり抱きかかえている。街はそのまま瀬戸内海に向けて川沿いに下り、海がそれを受け止める。

 そびえる山並み、急な坂、流れ落ちる川の流れ、そして海。

 神戸で迷子になることはない、とおじいちゃんは断言した。

 「道に迷うたら、山か海を探す。山が北、海が南。次に鉄道を探す。北から、阪急、JR、阪神。鉄道沿いに歩いたら、必ず駅に着く。」

 神戸の言葉を身につけた方がええ、と、おじいちゃんは言った。おばあちゃんが、べらべらしゃべっとる。あんなけ、よう喋るもんは、そうおらん。身近な教科書や。

 どうして神戸の言葉を喋った方がいいの?と私が聞くと、おじいちゃんは、「言葉は大事やから」と言った。

 そして、私と美晴の方をじっとみつめながら、ゆっくり言った。

 「まず一生懸命聞く。自分が喋る前に。」

 

 私は、おばあちゃんがまくしたてる神戸弁や、街の人たちやお店の人たち、おばあちゃんの病院に来る患者さんの神戸弁に耳をすませた。

 神戸の言葉は、東京の言葉よりもフレーズが長くて、ゆったりしている。語尾がレガートに流れることが多くて、スタッカートが少ない。

 今でも、私は、神戸弁と東京弁の両方を喋ることができる。国内バイリンガルだ。

 あのおじいちゃんのアドバイスのおかげだ。

 人の言葉を大事にすること。

 まず、一生懸命、聞くこと。

 

 あまり長い話をしないおじいちゃんだけど、一度だけ、突然堰を切ったようにしゃべりだして止まらなくなったことがある。

 私が、明日から、神戸の小学校に行く、という日の夜のことだ。

 お茶の間でTVを見ていたら、おばあちゃんが、「瑞穂、何怖い顔しとるの?」と聞いてきた。

 私は、明日からの小学校生活のことを考えて、TVの喧騒も上の空だったから、多分無意識に怖い顔になっていたのだと思う。

 そばにいたおじいちゃんはぼそっと、「子どもは笑った方がええ」とつぶやいた。

 おじいちゃんの顔を見ると、おじいちゃんはじっと、私の顔を見つめて、口を開いた。

 その口から、とめどなく言葉が流れ出した。

 おばあちゃんが後で、「あんなにべらべら喋ったおじいちゃん初めて見た」と言っていたから、ひょっとしたら、おじいちゃんが生涯で語った一番長い物語かもしれない。

 言葉が相当省略されていたり、話が前後したり、辻褄が合わないところもいっぱいあったから、ここに書く通りにおじいちゃんが話してくれたわけではないけど、私の記憶に残っているのは、こんな物語だ。

 

おじいちゃんの一番長い物語

 

 子供は笑った方がええ。子供の笑顔ほど人を癒してくれるもんはない。

 子供の笑い声が響けば、色んな思いがきれいに洗われる。どろどろ、もやもやした思いや、不満や、後悔や、悲しみや、怒りや、人を傷つけようとする真っ黒い悪意や、そういうマイナスの思いをきれいにしてくれる。

 子供の明るい笑い声ほど、人間の心に効く薬はない。


 あの神戸の大地震の時、沢山の悲しいことや、ひどいことがあった。

 この病院一帯も、えらい被害にあった。

 この病院や母屋は、割と新しい建物やったから、壁にひびが入ったくらいで済んだけど、家の中の椅子やら棚やら、何もかもぐちゃぐちゃになった。周りの家で、跡形もなくぺしゃんこになった家もぎょうさんあった。

 揺れが収まった直後やった。

 とにかく二人して布団から飛び出して、ばあちゃんは病院で、散乱しとる薬やら医療器具のチェックをちゃっちゃと始めた。

 「これはおおごとや。けが人がようけ出る。すぐに助けられるようにせんと」ゆうてな。

 わしは何したらいいかわからん。

 とにかく、近所にけが人がおらんか、確かめようと母屋飛び出した。

 そしたら、隣の藤田さんの家が跡形もない。

 見えるのは瓦の屋根だけや。

 「助けてー」ちゅう声だけ聞こえる。

 声の方に走って、崩れた屋根の下を覗き込んでみれば、押しつぶされた狭い場所に、藤田さん家の3人家族が全員折りたたまれたようにして固まっとった。

 藤田さんのお父さんが、斜めに崩れてきた天井を必死になって背中で支えとる。

 その下、布団と人が、もみくちゃになっとる中で、お母さんと娘さんの奈津子さんが、もがいとる。

 見れば、奈津子さんの下半身の上に、でっかい本棚が倒れかかってきておって、身動きが取れん。お母さんが奈津子さんを何とか引き出そうと四苦八苦しとるが、女の力でどうにかなるもんやない。

 とにかくお母さんだけでも出て来い、と怒鳴って、わしが代わりにもぐりこんだ。

 そうこうしとるうちにも、屋根がぎしぎしきしむ音がする。瓦が何枚か落ちて割れる音がする。とにかく時間がない。

 奈津子さんを押さえこんどる本棚にとりついて、渾身の力で持ち上げた。

 本棚の上にのしかかっている屋根の重みで、体がバラバラになりそうやった。

 わしと、藤田さんのお父さんで、死に物狂いで重みに耐えた。

 藤田さんのお母さんが、痛みで朦朧としとる奈津子さんの腕を掴んで引きずり出した。

 わしも本棚を放して、這うようにしてその狭い場所から逃げ出した。

 あとはお父さんや、と振り返った。

 はよせい、と叫んだ。

 お父さんが、絞り出すように、もうあかん、と喚くのが聞こえた。

 「あとは」と言いかけるのが聞こえた。あとは頼む、と言いたかったんやと思う。

 藤田さんのお父さんは、最後まで言えんかった。お父さんが一人で支えてた屋根がどっと落ちてきて、お父さんのおった空間を押しつぶした。

 

 あの時、わしがもし残って、先にお父さんを逃がしておったら、死んだのはわしの方やったと思う。わしが、藤田さんのお父さんを見殺しにした。この思いは、わしが生きとる限り、一生続く。

 そやけど、奈津子さんは、もっと重いものを背負ったんやと思う。

 お父さんが自分の身代りになった、自分のせいで、お父さんは死んだ、という思いや。

 地震の後、藤田さんの家に何があったか、細かい話は知らん。一家の支えやったお父さんが死んで、いろいろ大変やったとは思うけど、あの頃の神戸では、似たような話は山のようにあったからな。

 あれはほんまの地獄やった。

 

 そやけどな、瑞穂。今年のことや。

 地震の後、神戸を離れて、久しく顔を見せんかった奈津子さんが、子供を抱いて、この家を訪ねてきてくれた。結婚して、子供ができた、と報告しに来てくれたんや。

 地震から、何があったか、奈津子さんも言わんし、わしも聞かんかった。

 男の子でな。

 亡くなったお父さんから一文字もらって、名前をつけました、と、奈津子さんが教えてくれた。

 奈津子さんも優しい笑顔やったけど、その赤ん坊の笑顔は、最高やったなあ。

 わしの腕の中で屈託なく笑っとるその子の笑顔を見とるだけで、わしの中にあった、もやもやどろどろした形のない、恐ろしげな形やった気持の全てが、すうっと透明な薄い布のように軽くなって、きれいにたたまれて、心の中の戸棚に、きちんとしまいこまれたような気がした。

 

 瑞穂。

 なくしたものは、必ず戻ってくる。

 もとの形はなくなってしまっても、全く別の形になっていたとしても、必ず戻ってくる。

 お母さんも、必ず、瑞穂と美晴のところに帰ってくる。

 そしたら、笑顔で迎えてあげるんや。

 自分の子供の笑顔ほど、人の心を癒してくれるもんはない。

 お母さんにその薬をあげられるんは、瑞穂と美晴、お前ら二人だけなんやからな。


序曲の末尾に掲載した「アンジェラス」という絵は、この物語を産んだ大きなきっかけになりました。笠松宏有画伯のその他の作品は、長崎県五島列島の奈留島にある「笠松宏有記念館」で見ることができます。

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