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短編

疲れる人間

 その日オレはとんでもなく疲れて帰宅した。バイト先に欠員が出て三時間残業をしたからだ。玄関を開けるといつもより靴が一つ多かった。小さい白いコンバースのスニーカーだった。あんまりに疲れていたので最初は何かのゴミにしか見えなかった。ギターを弾いて寝ようと思った。

 オレが靴を脱ぎカバンを放り投げると床に散らかされたくたびれた服の上にカバンは落ちた。その上に酷いにおいのする靴下を投げつけた。そういえばケイの奴が女を連れてくるとか言ってたな。


 ケイはオレと暮らしている。ベースを弾いていて、オレより後に楽器を始めたのにとてつもなくうまい。もうほとんど活動はしていないが、オレのバンドに籍を置いている。出会った頃はガリガリに痩せていて、その上に音楽をやっている奴特有の長髪が乗っかっているので、オレにはまるでモップのように見えた。今では抗鬱剤の副作用でブクブクに太ったのでただのデブにしか見えない。


 リビングに入ると椅子に小さい女が座っていて、その隣の床にケイが座っていた。こんばんわ、と女が言った。ブスだった。ケイがああかえってきたんかと言った。オレはこれでギターが弾けなくなったと思ってイラつきながらああだとかそういう声を口の端から漏れ出させて部屋に帰った。


 オレは前の晩ケイから女を連れてくるという話を聞いていて、オレは精液と愛液が混じりあったあの海みたいなにおいがどうもダメなので、オレが居る空間でそういう事をしてほしくなかった。だからケイにはラブホテルにでも行ってやってくれ、と言っていた。ケイはわかった、と言っていた。


 どういう事なんだよ、オレはとてつもなく疲れていた。ウォッカにオレンジジュースを混ぜてスクリュードライバーを作り立て続けに三杯飲んだ。フローリングの上に置かれたパソコンの電源を点けヘッドホンを頭から被り、音楽プレイヤーのアイコンをダブルクリックした。プレイリストが表示され、オレは大音量でローリングストーンズを聞いた。ヘッドフォンの隙間からケイと女の話し声が聞こえてくる。どうしようもない世間話という感じのもので、それはオレを更に疲れさせた。そこまで仲良くもないデブとブスがセックスをする前にやってみるつまらない世間話というものは本当に疲れさせる。それがギターを弾けなくて、三時間も残業して、更には一昨日に十年連れ添った犬が死んでいてそれを埋めていて、もっというと昨日にドラッグをやりすぎて繁華街でぶっ倒れ介抱泥棒にあい財布と買ったばかりの革ジャンがどこかに行っていた、そんな時そういうつまらない空間のつまらないペッティング以前のものを壁一枚隔てた向こうに感じるというのは病気にすらなってしまう。


 ああ、クソと思いオレはウオッカを瓶からそのまま三口か四口飲みローリングストーンズのブラウンシュガーのイントロが流れ始めていた音楽プレイヤーをカーソルで呼び止め、ジャンピング・ジャック・フラッシュに変えさせた。I was Born...ああ、オレは生まれた、暴風雨の時に……打ちつける雨にお袋は怯えて泣いた……そうさ、オレはジャンピング・ジャック・フラッシュ様だぜ。


 オレはドアを思い切り蹴り開けた。女がまだ椅子に座っていた。ケイは? とオレが聞くとシャワーに行った、と言っていた。どうしようもないなと思った。オレは女にオレの名前当ててくれよ、と言った。女はえーっ、わからない……えー……そればかり繰り返していた。なんてつまらない人間なんだ。ケイが風呂から上がってくると髪は濡れ光っていた。腹が出ていた。おいケイ、こいつとヤるの? とオレは聞いた。女は笑っていた。ケイは何言ってるんや、やらんよと苦笑いで言っていた。昨日はオレがコンドームだけは買っとけよと言ったら当たり前やんと言っていた。なんてつまらない空間なんだ。


 おい、カラオケ行くぞ。オレはそう言った。このつまらない空間でつまらない空気を感じそのまま眠ると本当に気が狂うかもしれないと思った。酒でも飲ませればつまらない人間も少しは面白くなる。オレは他人のセックスの音を横で聞いて興奮する趣味はないが、そのゴミのような空気のまま布団に入るよりはマシだと思った。女はいいけど、と言った。ケイはオレ風呂入ってんけど、と言った。どうでも良かった。うるせえ、行くぞ。金はオレが出すからさ、行くぞ。オレは瓶に半分ほど残ったウオッカを一気に飲んだ。その空き瓶を壁に投げると瓶は割れずヒビが入り床に落ちた。景気が悪いとオレが二人に言うと二人は苦笑いしていた。


 カラオケは電車で二駅の所にある。電車の中でもこのつまらないもやもやとした湯葉みたいな空気をなんとかしたくオレは女にいくらか話かけたが女はカントも村上龍もロックも知らなかった。村上春樹は知っていた。ケイがこの間こいつ、ノルウェイの森の下巻燃やしたんだよと言うとえっ、なんで燃やすん? と女は聞いてきた。燃やしたかったからだよ、とオレは言った。


 目的の駅に着くとオレは後ろを振り返らず降りたがどこに行けばカラオケ屋があるのかわからなかったし酔っている状態では見つけられる気もしなかった。後から追ってきたケイにおい、知ってる? と聞くと知らん、と言った。ともかく改札を出て駅の出口から出ると目の前にカラオケはあったのでケイとオレは手を叩いて笑ったが女は不審そうな目でオレ達を見ていた。


 何時間? オレはもう呂律が回っていなかったのでケイがチェックを済ませた。三時間、とオレは言った。女は携帯を弄っていた。ああ、どうしようもないな……


 302号室に入ると煙草の臭いが鼻についた。オレがケイに煙草ある? と聞くとケイはマールボロのボックスを机に放り投げた。あまり好みの煙草じゃなかったがオレは席に着き煙草の箱を掴み適当に一本取り出し口に咥え火を点けると女が咳払いをした。ケイはああごめんなあ煙草苦手やったなぁと言いながら同じように火を点けた。何、歌ってよ。オレ女の歌を聴くの好きなんだ。オレはそう女に言った。女に目線をやるといつのまにか携帯の充電器を取り出しどこかにあったコンセントにつきさして携帯を弄っていた。えー、歌えない、恥ずかしい。女はそう言った。ケイはおいリュウ、お前歌えよ、お前が誘ってんから、とオレに言い、オレも道理が通ってると思ったのでニルヴァーナのアバウト・ア・ガールを入れた。一曲目は5W1Tどの状況でもこれ、と決めているからだ。オレは歌う時ライブをやる時でもスタジオに居る時でも風呂で歌う時でもカラオケで歌う時でも目を瞑って歌う。オレが目を開け女に目をやると携帯を一心不乱に弄っていた。ケイに視線を移すと煙草を口の端に咥えながら次に入れる曲を探していた。


 ケイはよくわからない日本のバンドの曲を歌った。いつもはスラッシュ・メタルの大御所の曲だったり、Red Hot Chilipeppersの曲を歌えもしないラップで歌ったりしている。ケイはアメリカに居た事があり英語は滅茶苦茶にうまいのだけども、歌う事だけで言うならオレの方がうまい。でもオレはそのケイの歌が好きだったのだが、よくわからない日本のバンドが歌う歌は好きになれなかったし、その歌を歌うケイも好きになれなかった。


 オレは二曲目にボーカロイドの曲を歌った。何度か友達が歌っているのを聞いた事があって、まあ歌えると思った。キーが女のキーで、最初はそのまま歌おうと思ったがウオッカが喉に効いていたので一オクターヴ下げて歌った。オレ、これ歌った事ないんだけど、と前置きして歌った。女はでも歌えてる、すごいすごいと言った。その時も携帯を弄っていた。すごい、すごい、すごい、すごい、すごい……


 そしてしばらくケイとオレだけが歌っていた。ケイがいつも歌うThe Whoのなんとかとかいう曲を歌って、オレはWhoはキース・ムーンが居たという事以外よく知らないがケイが歌うその曲だけは知っていて、お、出た。というとケイは照れくさそうに笑った。


 あ、いいよ、酒頼もう。オレ奢るよ。何曲かその無益なキャッチボールが続いた後、何がいいのかはわからなかったがオレはそう言った。ケイはマジか? とオレに聞いた。ああええよオレが奢るよオレが誘ったんだし……オレがそういうとケイはマジかぁ、オレソルティドッグでええわと言った。女は携帯を弄って聞いていなかったので酒頼むけど要る? 折角だから飲もうよ、と言うと一瞬顔をあげてわー、ありがとうあたしカルーアミルク、と言った。どうしようもなかった。オレはスクリュードライバーを頼んだ。


 部屋に酒が運ばれてきた時オレはガンダムの歌を必死に追っていて店員がドアを開けた時に丁度Chorusの所だったので止まる事は出来なかった。間奏中にオレは一気に飲んだ。ケイはおっやるなぁと言って半分ほど飲んだ。歌い終わった後もう一杯頼もうと思ったが女の方を見るとまだ携帯を弄りながら1/3も飲んでいなかった。二杯目を頼む気分は一気に失せた。


 ようやっとケイはこれはどうしようもないしヤリたくないし楽しくないという事に気づいたようでオレが女に歌う事を薦めると一緒に薦めだした。なあポルノなら歌えるやろアゲハ蝶どう? と聞いていた。えー、ポルノ? うーん歌えるうん歌えるかもしれないそう言ったがまだ携帯を弄っていてケイが折角来てんし一曲ぐらい歌おうよ恥ずかしいならオレも一緒に歌うからさと言うとやっと女は携帯を降ろし顔をあげマイクどこ? と聞いた。あるよ、とオレが脇に置いていたマイクを渡すとありがとうと言って受け取った。ケイはデンモクを弄りポルノノアゲハチョウを入れた。


 イントロで臭いベースが流れオレはウワッと思ったがどこかでその曲を聴いた事があるらしく知っていた。そのベースが終わり画面に歌詞が表示され歌のタイミングに合わせて歌詞の色が変わっていく。流れたのはケイの声だけだった。いつもみたいにヘタクソだった。五小節目からオレも一緒に歌うとケイはマイクを置いた。オレがマイクを取り最後まで歌った。女はやっと携帯を置いていたが曲が終わるとまた携帯を手に持ち弄っていた。


 三時間が過ぎ、酒が大分回っていてどうでもいいと思いながらケイに金を渡し会計を済ませた。外に出ると終電はもう出ていたのでタクシーを止め最寄り駅の名前を言った。車の中ではオレもくだらない世間話をした。着きましたよ、と言われメーターを見ると5060円だった。10000円を出すと60円は結構ですと5000円札を返してきた。ああどうもと言いオレとケイと女はタクシーを降りまたくだらない世間話をしながら家に帰った。ノルウェイの森を燃やした事は間違っていなかったと思った。


 女は結局泊まって帰った。オレはぐっすり眠れたのでケイは何もしなかったんだろう。朝起きた時に海の臭いもしなかった。翌朝オレはケイ、仕事行ってくる、と言うとうん、うーんという声だけが返ってきた。酷く疲れた気分で仕事に向かった。


 オレは通勤中電車でなんでああいう人間は疲れるんだろうと考えた。答えは出ず、ふと周りを見渡すと昨日の女と同じように死んだ顔で携帯を弄ってる人間、女と男が山ほど居た。あ、そうか。エネルギーが出ていないからだ。死んでるんだ。人は皆エネルギーをスポンジから水が垂れ出るように少しずつ垂れ流しながら生きている。どんなに楽しそうにしている奴でもそれはそうで、本当は皆どこか自罰的で、同時に自己愛的なのだ。それで自分はこんなにしんどいのだから無条件で楽しませてくれる、エネルギーをくれる奴は居ないのだろうかと求めている。しかしそれで寄ってくるような人間というのは結局同じようにエネルギーを垂れ流しているような人間しか来ない。そういう人間には魅力がないし、生きている価値がないからだ。だからせめて同じレベルの人間同士で傷を舐めあう。その傷を舐めあう行為は人の肌に蛞蝓が這っているのを見ているような気分になり不快になる。


 自分だけが特別だと思うのをやめて少ないエネルギーを一瞬の閃光のように解放させた時、もし同じように解放させた人間と一緒に居るならば、そのエネルギーは即興的に組み合わさり、ものすごいものになる。結局そうする事でしか死だとか老いだとか退屈だとかからは逃れる事は出来ないのだが、ほとんどの人間はそれに気づいていないか、その同じように解放している人間が見つからないか、または解放させる勇気が出ず、SNSやソーシャルゲームや閉じられたコミュニティでの地位を上げる事にエネルギーを垂れ流している。答えは出たが、オレも垂れ流してる方だろうなと苦笑しオレは乗り換え駅で電車を降りた。


 その日もくたくたに疲れて帰宅するとケイがリビングに居た。女、帰ったの? と聞くとうんと答えた。いや、ブスだったな、ヤッたんか? とオレが聞くとヤッてないよと笑った後ほんまにな、まさかあんなんが来るとは思わんかった。でもオレな、明日はティーンの子と遊ぶから。ええねん、とケイは言った。オレはケイ、お前太ったよ。とケイの腹を平手で軽くはたき冗談めかして言った。ケイは笑っていた。オレはそのまま部屋に帰った。


 その日はテレビを点けた。適当にザッピングしているとドキュメンタリー番組がやっていて、チェロの演奏家を目指す少女が出ていた。一生懸命だった。世間一般で言われる一生懸命、命をかけてと言われる言葉が小便臭く聞こえるぐらいに一生懸命だった。疲れる人間というのは意志が顔に出ていないから醜い。その少女の顔が綺麗だった。少女がインタビューを受け答えている時、オレはブロン錠を山ほど飲んだ後ぼうっとゆったりした曲を聞きながらウィンドウズメディアプレイヤーに搭載されているヴィジュアルイコライザを眺めている時ふといつのまにかそこに有る事に気づく、脳の中にある張り詰めた二本の紐の先にあるフックがカチッと引っかかりそのまま張り詰めたようになる感覚、何もかもがどうでもよくなる圧倒的な安らぎと、それでもとにかく何かを嬉しがるように感じる興奮がある事に気づいた。エネルギーをもらうとこうなるんだ、麻薬と同じなんだな。アイドルやアニメに夢中になり雑誌を読み漁って異性の関心を引く行動を熱心になぞり同じ顔になる事を目指す連中の気持ちがわかったような気がした。皆これを味わいたいんだ。薬を飲むと同じ感覚を味わえるがその感覚は一人のもので、孤独だ。それは、寂しい。だから何か生きたものを介在した上でこれを味わいたがるんだ、とオレは思った。


 そうか、オレもそうしよう。オレもそうなれる女か男を見つけよう。オレは先にそれに気づいただけで、オレもそうだったんだな。オレはテレビの電源を切り、ギターの所まで這っていき、弦を一本つまんで弾いた。弦は錆びていて、鈍い音だった。手のひらを広げて、見ると、人差し指と親指の腹には錆の粉がついていたので、オレは酒を飲んだ。

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― 新着の感想 ―
[良い点]  ノルウェイの森を燃やすことによって、村上春樹という悪を浄化するのは健全な一人の人間として褒められるべきです。二度と読み返せないし、評価が覆ることも無い。一生ノルウェイの森を嫌いでいられる…
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