2.
暴食の狂王の決して速くはないが突進によって勢い付いたため噛みつきの鋭さが増している。フィレイナは左に向けて飛ぶことでかろうじてそれを回避。すぐに矢を三本まとめて放つが効果は薄い。強靭な尻尾がフィレイナの体を打つべく鞭のようにしなりながら迫る。
「……あ」
しかし鞭の如き尻尾の一撃がフィレイナの体を打つことはなかった。
衝撃はまるで幼子に抱きつかれたかのように優しく、それでいて温かかった。
「な……に!?」
傾く視界、その端で捉えたのはフィレイナを突き飛ばした一人の少年。出会った時からお節介で妙なやつでおかしなやつ――リアン・ディールだった。
リアンは一瞬薄く笑う。
直後、鞭はリアンの体を打ち付けた。
大きく飛ばされたリアン。地面が雪ではなく堅い岩場であれば文字通り血祭りになっていた。
「おいッ!!」
リアンは死んではいなかったようで、ゆっくりと体を起こそうとしている。
「よかった……」
安堵したのも束の間、暴食の狂王がフィレイナの方へ頭を向けた。
フィレイナはすぐに走りだす。暴食の狂王を中心に回るように走る。矢を放ちながら走るフィレイナだがこの後どうしたらいいのか全く分からなかった。
(やっぱり私たちに勝ち目は最初から無かった。すぐに逃げていれば――)
そこまで考えた時、頭の中で一つの言葉が流れた。
『お前の正義は何だ? 恐怖に怯え、罪のない人々を見殺しにする事がお前の正義か?』
「違う。私は私自身の正義を貫く!」
走る方向を変えた。
貪食の竜へ向けて走りだす。竜もまたフィレイナへ向けて鈍重な歩を進めた。
竜は悪顎の隙間から白い息を漏らし、フィレイナは得物の弓に三本の矢をつがえる。
互いの距離は縮まり、やがて零へ――
暴食の狂王は獰猛な悪顎でフィレイナに噛みつきを放つ。
しかしその悪顎がフィレイナの体を無残に引き裂くことはなかった。フィレイナは雪の上で前転し、竜の懐へ潜りこんだのだ。無言のままフィレイナは矢を放つ。三本の矢は静かにしかし正確に暴食の狂王の喉の裏という柔らかい部分に突き刺さった。
体の慣性のまま暴食の狂王の足の間を走り抜けた。
――グルォアアア!!――
咆哮を放つ獰猛な貪食の竜。フィレイナが振り返ると竜のたくましい脚による衝圧撃が眼前まで迫っていた。
咄嗟に後ろに飛ぶことで回避。しかし衝撃の余波からは逃げきれず、フィレイナも氷片と共に大きく飛ばされた。
目を開けると暴食の狂王はフィレイナへ向けて重い歩調のままじわじわと迫っていた。視界の半分は奪われていた。右目が開かなかった。氷破片で切ったのだろうか段々と額の右側がジンジンと痛みを発していた。
(ここで、死ぬ……のかな?)
なんだか理不尽で無慈悲で他愛のない死に方だと思った。
もっと強くなりたかった。
暴食の狂王は白い息を悪顎から漏らす。
まるで落ち着いて食事をするために深呼吸をするかのように。
私の愛する街を守れるくらいに。
暴食の狂王は赤い舌を歯の隙間からのぞかせる。
まるでご馳走の前で舌なめずりをするかのように。
これからもエウディアを……守っていきたかった。
暴食の狂王がその悪顎を開く。
まるで料理を食す時のように。
嫌だ。こんなところで死ぬ、のは!!
フィレイナは力の入らない左手で弓を構え、矢をつがえる。
暴食の狂王へ向けて放つべく弦を引き絞る右手を離した。
直後、何かが飛んだ。
フィレイナはまだ射っていないし、方向がそもそも違う。フィレイナから見て右の方。暴食の狂王から見て左の方向から赤く光る何かが飛来した。
それは十分な速度を持っているわけでも何かを貫く鋭さを持っているわけでもなかった。
赤い光の弾は暴食の狂王にピトリと張り付く。
瞬間、爆発。
突然の衝撃に暴食の狂王が倒れる。
フィレイナは赤の光弾が飛んできた方向を見た。そこには薄着で黒髪の少年。
リアン・ディールだ。
彼は剣先を暴食の狂王へ向けたまま頼りなく立っていた。
「フィレイナ。大丈夫か!?」
満身創痍のその様子を隠すことも出来ず少年は歩み寄ってくる。
それに対し、フィレイナは薄い笑みを返すことしか出来なかった。