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マトリョーシカを飲み込んで

作者: 広の広


 つまり、母の話によると、母は若い頃にマトリョーシカを飲み込んだらしい。

 そのせいで、何年かに一度脱皮をするのだそうだ。

 んなあほな。バカバカしさを通り越して呆れてしまう。

 でも僕はその話を信じるしかない。僕はもう、母の脱け殻を見てしまったのだから。

 朝起きて、僕がリビングに入ると、そこに人間の皮膚が一人分、丸ごと落ちていた。最初見た時、死体かと思った。

 少し近づいて見て、僕は吐いた。見るんじゃなかった。昨晩食べたカツ丼が液体になって母の脱け殻に染みた。

 僕がその場うずくまっていると、お風呂場から母が出てきた。シャワーを浴びていたらしい。

 母は床で嗚咽を繰り返している僕を見つけるとあっと声をあげた。

「ごめんねユウくん。気持ち悪いもの見せちゃって」

 母に背中をさすられると、少し気分が楽になって、僕はなんとか椅子に座ることができた。

 母は僕の吐いたものを片づけると、脱け殻をゴミ袋に詰めた。

 母が何の説明もなしに淡々と作業をするので、僕は怒って母を問い詰めた。

 そしてマトリョーシカの話を聞かされる。

 僕は初めふざけるなと激昂したが、母の顔があんまり真剣だったので、その話を信じるほかなかった。

「脱皮をすると、気持ち悪いけど、まるで若返ったみたいにお肌がつるつるになるのよ」

 そう言って照れたように笑う母の肌は確かにきれいだった。四十代とは思えないほどきめ細かい。顔も、シミどころか、目元の皺さえ消えている。

 なるほど。歳の割に、いやそれ以上に若さを保っていられたのは、どうやら脱皮のおかげらしい。大丈夫? と言って僕の手に重ねた母の手も、潤っていて、すべすべだった。

「もう大丈夫」

 僕はよろよろと立ち上がる。もう近くに母の脱け殻は見当たらない。どこかへ運び出したようだ。

「本当に大丈夫? なんなら、学校休んでもいいのよ?」

 母が心配そうに僕を見つめていたが、僕は首を横にふった。



「へえ、それで、今日はこんな時間にパンを食べているってわけね」

 一限目が終わって、その後の休憩時間に僕は菓子パンを食べていた。登校してもしばらくは気分が冴えなかったが、数学の授業で頭を使っているうちにだいぶ落ち着いた。気持ちが晴れると、今度は途端に空腹を感じた。

 今僕の隣の席には真沙美まさみが座っている。そこは本来他の男子生徒の席であったが、どうやら彼は現在席を外しているようだった。

 真沙美と僕は長い付き合いだ。小学生の頃からずっと同じ学校に通っている。家も近いので、昔はよく一緒に遊んでいた。

 真沙美は机に肘をついて僕に体を向けている。今しがた彼女に今朝の出来事を話したばかりだった。

「それにしても、まさかユウのお母さんもマトリョーシカを飲み込んでいたとはね」

「僕のお母さん、も?」

 真沙美の言葉に驚いて、僕は思わず訊き返す。

「ええ。私のお母さんも年に何回か脱皮しているわ。どうして脱皮をするのかって訊いたら、昔マトリョーシカを飲み込んだって。……あんた、口閉じなさいよ。汚いわね」

 真沙美に言われて僕は慌てて口を閉じる。驚きを通り越して、二の句を継ぐどころか、僕は相槌さえうてなかった。

「昔、流行ったらしいわよ」

 唖然とする僕に構わず、真沙美は続けて言った。

「……何が?」

「マトリョーシカの丸飲みよ。将来美人になれるって言われていたんですって。まあ、飲み込もうとした人はほとんど窒息死したらしいけど」

「そんなのふつう、信じないでしょ……」

 僕は椅子の背もたれにがくりと体を預けた。朝あの脱け殻を見た時から、どうにもここが現実だとは思えなかった。地に足がつかない感覚が僕の三半規管を揺らし続けている。いつ視界がぐにゃりと歪み始めてもおかしくない。

「でも、実際その噂の半分は当たっていたじゃない」

 真沙美は深くため息を吐く。

「半分? 半分って、どういうこと?」

「だから、将来美人になれるって意味はつまり、若返るってことだったのよ。もしかして、気づいてなかったの?」

「若返る?」

 僕は今朝の母の様子を思い出した。消えた顔の皺や、潤った手の皮膚。そういえば母は、脱皮をすると肌がつるつるになると言っていた。

「そうよ。……そういえば、ユウのお母さんって、もう身長は縮み始めているの?」

 真沙美が急に深刻な表情になって訊いてくる。

「え、何、脱皮をすると、背が縮むの?」

「ええ。一定の年齢まで若返ると背が縮み始めるわ。私のお母さん、女のくせに高校三年生まで身長が伸びてたらしいけど……、今は半年前より三センチ縮んでいるもの」

「ま、待って!」

 信じられないことを淡々と語る真沙美に、僕はたまらず叫び声をあげた。

「何よ。急に大きな声出して」「いや、だって……。あのさ、質問なんだけど、真沙美のお母さんって、今どれくらいまで若返ってるの?」

「正確なところはわからないけど、おそらく十八歳くらいでしょうね」

 僕は絶句した。十八歳。つまり、学年でいうなら僕らの一つ上だ。学校の制服を着て、悠々と町の中を歩いていても何の違和感もないだろう。

「そ、そんなに若返ってたんだ」

「ええ。凄いわよ。親の若い頃の姿を見るのって、凄く気味が悪いんだから」

 真沙美は眉をひそめて言う。

 確かにシミや皺が消える程度ならまだしも、僕らとほぼ同じ年齢まで若返るとなると話は別だろう。本人たちは喜んでいるかもしれないが、僕らからしてみれば不気味なこと極まりない。

「僕のお母さんはまだ背は縮み始めていない……と思うよ。今朝だって、せいぜい顔の皺が消えたくらいだったし」

「……そう。なら後半年か、長くて一年ってとこね」

 再び真沙美が大きなため息を吐いた。

「え、半年!? だって、今までは、脱皮は何年かに一度だって言ってたよ。いくら何でもそんなに急には……」

「そういえばまだ言ってなかったわね。脱皮は二種あるの。一つは周期が大きい脱皮。これは数年に一度起こって、マトリョーシカを飲み込んだ人を一気に若返えさせるの」

 真沙美は手に人差し指を立てて説明する。

 僕は真沙美の人差し指と顔を交互に見た。

 真沙美はさらに口を動かす。

「そして二つ目が小さい周期で起こる脱皮。これは若返りの変化は少ないけれど、数ヶ月に一度の頻度で起こるわ。ある程度まで大きな周期の脱皮を繰り返し後で、小さな周期の脱皮に移っていくの」

「ある程度って?」

 真沙美が人差し指の隣にさらに中指を立てたのを横目で見ながら、僕は真沙美に訊いた。

「私も推測でしかないけど、たぶん二十歳くらいまでだと思う。顔の皺が消えたって言ったでしょ? それがある程度目安になるわ。私のお母さんも、そのあたりから脱皮の頻度が信じられないくらいあがったのよ」 真沙美は本日三度目のため息を吐いた。あの脱皮が数ヶ月に一回の割合で起こり、しかも母親が自分の年齢相当まで若返っているのだ。精神的にかなりまいっているのだろう。



 学校帰り、電車に揺れながら、僕は母のことを考えた。

 マトリョーシカを飲み込んで若返りを繰り返す母。若返りについてはもう信じてしまうしかないが、だとしたら、一体母はどこまで若返るのだろう。真沙美の母親は現在十八歳ほどだというが、もしこれからも脱皮を繰り返し、若返り続けたとしたら……。

「ちょと、おっさんいい加減にしてよ!」

 突然、電車内に大きな声が響いた。

 声が聞こえてきた方に顔を向けると、車両の前方にあるドアの付近で二人組の女子高生がやけに眉毛の太い中年男性にからまれていた。

「オラ、こい! こいよ! ほら! 押してみろよ!」 

「いやー!」

「おっさんキメーんだよ! どっか行けよ!」

 悲鳴と怒鳴り声が飛び交う状況に、近くにいた乗客は迷惑そうな表情を浮かべながらも皆知らん顔をしていた。

 中年の男はしきりに「押せ! 押せよ!」と叫びながら自分の体を女子高生に寄せている。

 体を押せということだろうか。

 僕が不思議に思いながらその光景を見守っていると、突然僕の少し離れたところに座っていた一人の男子高校生が「やめろよ!」と声を張り上げて立ち上がった。

 途端に車内が静まり返り、そこにいた全ての乗客の目がその男子高校生に注がれる。

「そ、その子たちが困っているじゃないか!」

「ああ?」

 少し及び腰になりながらも、男子高校生は声を張った。

 僕は彼を観察した。背は高いが、手足が細く、どこか頼りなさげだった。今にも泣き出しそうな顔をしながらも、目には決意に満ちた力が宿っているのがうかがえる。

「じゃあテメェが俺を押せ!」

 怒鳴り声をあげながら中年男性がこちらに近づいてくる。

 怖じ気づくように男子高校生は一歩後退したが、それ以上体は動かないらしく、あっという間に中年男性が目の前まで迫っていた。

「い、意味がわからない!」

「いいから押せよ!」

 悲痛な叫び声に怒号が重なる。中年男性は男子高校生の胸ぐらをつかみあげ、力任せに近くのドアに押しつけた。離れたところで様子を見守っていた先ほどの女子高生がきゃっと小さな悲鳴をあげる。

「離せよ!」

「だったら押せ!」

「ち、ちくしょう!」

 やあ! と裏返った、少女のような声をあげて、男子高校生は中年男性を突き飛ばした。

 突き飛ばされた中年男性はバランスを崩し、背中から床に倒れ込む。

 しかし、すぐに立ち上がった。

 ……立ち上がった?

 違う。

 起き上がった。それも空中で。

 僕は自分の目を疑った。

 中年男性の背中は床に倒れなかった。床上三十センチほどの空中で一瞬停止し、それから元の体制に戻ったのだ。まるでだるまのように。

 乗客は皆あ然とした表情で固まっていた。中には近くの人と顔を見合わせている人もいる。中年男性を突き飛ばした男子高校生も口をぽかんと開けて棒立ちになっていた。

「へへ、兄ちゃん、押してくれてありがとな。おかげでスッキリしたぜ」

 さっきまでの剣幕とは打って変わって中年男性は笑顔で男子高校生にお礼を言うと、停止した電車のドアから外に降りて行った。

「なんだあれ……」

 静まり返った車内で、誰かがそう小さく呟く声が聞こえた。



「だるまのおっさんがいた!」

 家に帰るなり、僕は夕食の準備をしていた母に今さっき電車の中で見たことを話した。誰かに言わずにはいられなかった。あんな不思議な光景はそうそう見れるものではない。僕は興奮しきって、途中自分でも何を言っているのかよくわからなかったが、母に気を鎮められながらなんとか言い切った。

 僕は、母もそれを見た時の僕と同じように驚愕しきった表情を浮かべることを期待した。しかし母は僕の話に「へえ。そうなの」とのん気に頷くだけだった。

「驚かないの?」

 まな板の上で包丁を叩く母に僕は訊いた。ネギを切っているらしく、薄く重なった層を切るざくざくという音が聞こえてくる。

「ううん、驚いたわ。まさか、だるまを飲み込んでいる人がいたなんてね」

「え、だるまを!?」

 僕が驚いている側で、母はネギを刻みながらクスクスと笑う。今日の夕食は鍋らしい。母は切った野菜を次々とボウルに入れていた。

「なんでだるまを飲み込んでるってわかるの?」

「あら、だってユウくん、そのおじさんのこと、だるまみたいだったって言ったじゃない」

「いや、言ったけどさ。あれはなんて言うか、比喩だよ、比喩」

「でもお母さんは、その人はだるまを飲み込んでいると思うわ。なんとなくだけど、わかるの」

 そう言って母はまたクスクスと笑う。白菜を適当な大きさに切ってボウルに入れた。大根を輪切りにして、切ったものをまた何等分かに切り分ける。

 僕の話を聞いて愉快になったのか、母はそのうち包丁で野菜を切りながら鼻歌を歌い始めた。

「それにしても、だるまを飲み込んでいる人がいるなんてね。まだまだ日本も捨てたものじゃないわ」

 鼻歌に合わせるように包丁がまな板を叩く音が心地よく響く。

 僕は少し釈然としない気持ちだった。僕の話を聞いて、母は驚くどころか喜んでいる。同じような奇妙な境遇の人間がいたということが嬉しいのだろうか。よくわからなかったが、なんとなく、僕はそうでないような気がした。では、一体母は何に喜んでいるのだろう。

 僕が考え込んでいると、母が具材の載った皿やボウルをテーブルに運んできた。

「ほら、ユウくんも手伝って。冷蔵庫にお肉とゴマだれが入ってるから、それを持ってきてちょうだい。今夜は、しゃぶしゃぶよ」

 二人分の食器を並べて、母は上機嫌で僕に微笑みかける。

 鍋ではなかったらしい。

 僕は早足で冷蔵庫に向かった。

「いただきます」

 久しぶりに豪華な夕食だった。僕は熱々に煮えた豆腐を慎重に口の中に運ぶ。

「んんっ、うまい。さすが高い肉なだけあるわね」

 おいしそうに肉を頬張る母を見ていると、僕は少し不安になった。

 脱皮を繰り返す真沙美の母は高校生相当にまで若返ってしまった。それくらいまでならなんとか誤魔化すことはできるだろうが、それ以上若返ってしまったら、母は――僕らはどうなるのだろう。

 もし、母が働けなくなってしまったら……。貯金はそこそこあることは知っているが、それでも五歳、二歳までと若返られたら持たないだろう。僕も今からアルバイトを始めておいた方がいいのかもしれない。

 母は、この若返りがどれほどまで繰り返され続けるものなのか知っているのだろうか。真沙美から聞いた脱皮の種類のことも含めて、今のうちに母に伝えておいた方がいいだろう。

「ねえ、ちょっと質問なんだけど」

「何? ご飯のおかわりならまだ十分あるわよ」

「いやそうじゃなくて。あのさ、今朝の脱皮のことなんだけど……」

「あっ。ごめんねユウくん、まだちゃんと謝ってなかったね」

「ああうん。それはもういいんだけどさ」

「それでね、お母さん、あと一回だけ脱皮したら、もう止めようと思ってるの」

「……え?」

「だからあと一回だけ脱皮をさせて! だめ?」

 母は拝むように僕に両手を合わせて懇願した。

 母は無邪気とも思える顔で僕を見つめていたが、僕の頭は今日一番の混乱状態に陥っていた。

「え、何、どういうこと」

「やっぱだめかしら?」

「いや……。あのさ、訊きたいんだけど、脱皮って、止めることとかできんの?」

「できるけど、それがどうかしたの?」

 僕はめまいがした。

 マトリョーシカを飲み込んだせいで脱皮をしていると言った母。脱皮を繰り返して若返りを続ける真沙美の母。電車で見ただるまのおっさん。そして母は今度、脱皮を止めることができると言い放った。

 母はきょとんとした表情で僕の顔を見つめている。

「……どうやって止めるの?」

「どうって、こう、もう止めるぞ! って、感じで決意すれば止められると思うわよ。たぶん」

 僕はもう何がなんだかわからなかった。母のざっくばらんな説明にさえ、何も訊き返すことができない。

「だから、お願い、あと一回だけ!」

「……うん。まあ、僕は構わないけど」

 簡易コンロの青い炎を茫然と見つめながら、僕は小さく頷いた。

 もし母の言うことが事実なら、真沙美のお母さんは自分の意志で若返りを繰り返していることになる。脱皮が止まらないのではなくて、自分で止めようとしていないのだ。若返りを繰り返す真沙美のお母さんを真沙美はかなり気に病んでいたが、真沙美のお母さんは、真沙美に脱皮を止められることを隠して若返りを続けているのだろうか……。いずれにせよ、このことは真沙美に伝えておいた方がいいだろう。

「ねえ母さん、もう一つ訊きたいことがあるんだけど」

「何? 遠慮せずに何でも訊きなさい」

 母は鍋から火の通った豚肉を二つ箸でつまむと、それを取り皿に入れた。

「そもそもの話なんだけど、母さんはどうやってマトリョーシカを飲み込んだの? だってあれ、ふつうならどう考えても無理でしょ」

 今朝母からマトリョーシカの話を聞いた時から、僕にはどうしても人間がマトリョーシカを飲み込む光景が想像できなかった。

「ああ、ううんと、なんていうか……、こう、今までの自分の心の持ちようを変えて、ぐいっと飲んだわ」

「それって、気合いとか、そういう、精神論みたいなもの?」

 さっきの脱皮の止め方といい、なんだか母の話は、人間気持ち次第で何でもできる! というようなものばかりだ。

 僕は、そうは思わない。人間できることはできるが、できないことは、やっぱりどうやってでもできないのだ。素質とか、才能とか、いろいろなものが欠けていて、いくら頑張ってもちっとも成長できないこともある。

「少し、違うわ。……そうね、お母さんが若い頃、マトリョーシカ飲みの話が噂されていた時には、実はマトリョーシカの飲み方という話も一緒に出回っていたの」

「マトリョーシカの飲み方?」「そう。それがまた信じられないくらいバカバカしい方法でね、おまけにそれを毎日続けなきゃいけない期間も物凄く長かったから、マトリョーシカを飲み込もうとする人はたくさんいたけど、その方法を試す人なんていなかったわ」

 母は手に箸を持ったまま遠い目をしていた。当時のことを思い出しているのだろう。

「じゃあ母さんは、試したんだ」

「ええ。やったわ。……お母さん、学生の時は少し浮かれていたから」

 僕が小さな声で言うと、母は照れたように微笑んだ。

「だからね、つまり、お母さんが言いたいことは……、どんなにバカバカしい話でも、素直に聞いてやってみると、今まで信じていなかったことでもできるようになるってことなのよ」

 母の話はいまいちまとまっていなかったが、僕は母の目を見てそれを聞いていた。

 なんだか今は、とても大事な話をしている気がする。興味本位の質問が、まさかこんな話に移り変わるなんて思いもしなかった。

「素直に?」

「うん。そう。話を聞くことに限らないけど、自分が何かに対して素直でいることって、とても得をするわ。いろいろなことに興味が湧くし、学べる。できないこともできるようになる。それに、素直な人って、良くも悪くも人の心を惹きつけるのよ」

 照れ隠しで笑ってはいたが、そう言う母の口調は熱っぽかった。

「素直になるとね、とにかく努力ができるようになるわ。いくらでもひたむきに頑張れる。そして努力を重ねると力がつくの。力がある人は、自由に生きられる。脱皮をして若返るようにきれいなることも、それを途中で止めることも、何でもできるようになるわ」

「……何でも?」

「何でもよ。素直でひたむきな気持ちさえあれば、マトリョーシカを飲み込むことだってできるの。そして凄い力が手に入る。脱皮をしてシミや皺がなくなることだって、別に奇妙なことじゃないわ。だってそれが、積み重ねてきたものの当たり前の結果だもの」

 全て言い終えた後、母は「ささ、話はこれくらいにして食べましょ」と食事を再開した。

 僕も黙って箸を動かした。

 ダシの色に染まった大根をかじる。柔らかい歯ごたえの後に甘い味が口の中に広がった。

 僕は少し自分が悔しかった。

 母の話を聞いた後でも、僕の心の中には、どこかで母の話を否定している気持ちがあった。

 きっと今の僕では、マトリョーシカを飲み込むことはできないのだろう。



「……つまり、脱皮を止めるのは、お母さんの意志次第ってこと?」

 翌日、学校で僕は昨日母から聞いた話を真沙美に話した。

 真沙美は今日も空になった隣の席に座っている。昨日と同じように机に肘をついて、体をこちらに向けていた。

 僕の話を聞いた後、真沙美は「んんー」としばらく腕を組んで考え込んでいたが、やがてきっぱりと割り切るような口調でこう言った。

「そう。だったらいいわ。私、お母さんの好きにさせる」

「いいの? 真沙美が言えば、たぶん止めてくれると思うけど」

 真沙美があまりにもあっさり言うので、僕は訊き返した。

 長年付き合っているからこそわかるのだが、真沙美は結構悩んでいたはずだ。

 それなのに、どうしてそう簡単に諦められるのだろう。僕は不思議でならなかった。

「いいわ。私の予想だけど、お母さん、たぶんもう一度ピアニストになる夢を追いかけようとしてるのだと思う。昔何度も言っていたわ。夢を途中で諦めて、とても後悔してるって。だからやり直そうとしてるのよ。きっと」

 小さく息継ぎをして、真沙美は続ける。

「それに、お母さんの人生だもん。私がとよかく言える立場じゃないわ。私、頑張ってる人って好きだし、全然平気よ。むしろ全力で応援したくなるわ」

 お母さん、早く若返らないかしら、なんてことを言いながら、真沙美は明るく微笑んだ。

「まあ、真沙美がそれでいいならいいんだけど」

 僕はなんとなく、あのだるまのおっさんのことを思い出した。

 あの人は、どうやってだるまを飲み込んだのだろう。なぜだるまを飲み込もうと思ったのだろう。

 少し考えてみたが、僕にはさっぱりわからなかった。

「僕もいつか、何かを飲み込んでみたいなあ」

「そうね。私もいつか、お母さんみたいにマトリョーシカを飲み込んでみせるわ」

「……やっぱり若返りって魅力的なんだね」

 意気込む真沙美を尻目に僕はメロンパンをかじった。

 空腹時のメロンパンの味は最高だ。僕はこれがこの世のあらゆる菓子パンの頂点だと思っている。

「そういえばあんた、何で今日もパン食べてんのよ」

 僕の手の中のメロンパンを訝しげに見つめながら真沙美は訊く。

「いや、今朝もお母さん、脱皮してたから」

「ウソ、だって、昨日したばかりなんでしょ?」

 真沙美は目を丸くして僕に訊き返す。

 僕は口の中のメロンパンを飲み込んでから真沙美に言った。「なんか必死で念じてみたら脱皮できたって」

「……化け物ね」

 確かに、と小さく相槌をうって、僕はカレーパンの袋の封を開ける。パンのシメと言えばやはりこれだろう。

 母は今朝最後の脱皮をした。もうこれ以上若返ることはないだろう。

 若くなった母は、次に何を飲み込むのだろう。それとも、真沙美のお母さんのように自分の夢を追いかけ始めるのだろうか。

 何にせよ、母ならできる気がする。マトリョーシカの飲み込み方を知った人は、それくらい強いのだ。

 

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