あなたを、みつめて
弁当片手に電車に乗り込む。乗り込んだ後は覚えていない。揺れる電車の心地が気持ちよく、夢の中と現実を虚に反復する。
外の景色の田園景色は、単に映像として私の眼差しに映り込む。農村は私の都市と無関係だ。私な農村を尊敬する。
尊敬できるのはきっと知らないからだ。私はどこか脱出の癖がある。
ゾロゾロと降りてゆく群衆等と共に私も電車を降りる。初夏の風、生の風である。こういった心持ちで青空の下に佇むと、少なからず達観した心持ちでいてられる。
辺りに田園はなく、あるのはコンクリ畑とカカシたちだ。カカシ等は無尽蔵におり、これなら一人くらい死んでも悲しむこともあるまい。
現にここにいるカカシの中に、悲しそうなやつは一人もいなかった。大学に行く道を調べ、ちょろちょろ道なりに行ってゆくと沢山の人が私と同じ道を辿る。
道無限の如く感じられる。どこまでも続き私を阻む。あるいは私を進ませる。おちょくる様な広告とカカシ諸君の前衛的な色彩と音楽が、私をエリニュスの神経を逆撫でする。
「大学に着いたら、急いで煙草を買わねば。神経が死んでいる。」
そう思いながらゆらゆら深海の独者の如く足を漂わせる内に、存外早く大学には着いてしまった。頭が重い。
「おい、大丈夫か。お前」
「うん?大丈夫だよ、別に。なんとも。」
面倒である。
「まぁ、日数取らなきゃならんのはそうだけどな、しかしいくらなんでも早くないか。」
「いや、いいんだよ。大学は案外気晴らしになるからな。」
端咲は同学の者でよくつるむ仲である。しかしこう言うとき、知り合いに会うのは大変面倒になる。不愉快である。
「あ、来たんだ。大変だったわね。近松さん。」
またも来た。知り合い、しかも女である。
「ん、まぁね。」
「まぁ、お前も元気そうならよかったよ。」
「あぁ。」
しばらくこういった事柄が次から次へと知り合い達によって紡がれてゆく。教授まで行ってくるのだから辟易だ。
そいつ等の残念の顔を見るのは、本当に不愉快だ。講義は退屈ですぐに飽きる。飽きたら私はキルケゴールを読むのが好きだ。
キルケゴールほど天才的な人物はいない。少なくとも講義を聞くよりずっといい。しかし、最近はあまり感動できなくなってきた。少し休むべきだろうか。
昼飯時、端咲と飯を食う。端咲は学食を非常に美味そうに食う。これは一種の才能であろうと思う。
思うにこう言う人間が役者となるべきなのだ。感性に正直に多感となりうる人こそ、祝福された役者なのだ。私はと言うと、大抵の場合残して端咲にくれてやる。まったく犬の様な奴だ。
「なぁ、近くでサークル仲間達との飲みがあるんだが、一緒に来るか?」
「サークルのだろ?俺が来たってつまらんだろ。」
「いや、サークルつっても人数がいないからな。別にサークルの奴だけが来るんじゃないのさ。」
「へぇ、」
「女も来るぜ。どうする?」
私は了承した。別に死んだ奴の顔なんぞ立てなくともよかろう。
端咲は私と近松との関係を知らないそうだし、こいつが知らないのなら誰も知ることはなかろう。私は女に飢えていた。あるいは快楽に。
古ぼけた、しかし活気のある酒場で、それは行われた。サバトの如く祭り上げられるその痴態は、我々人間の尊厳をことごとく削ぎ落としてゆく。
女と酒を飲む。まさにディオニュソス的。バッカスの宴は日本でも行われる。男は女を、女は男を求めて、喰らい尽くす。そして喰らい尽くした後に気がつくのは、この世の無常だけである。
酔っ払いの女一人抱くのはあまり難しくもなかった。優しい言葉を唱えたら、やって来る。私は彼女に、甘い言葉を語りかける。
まるでキリストがサタンに耐える様に、私は彼女がキリストでないことを知っていた。無論サタンは全ての人間の敵であり、キリスト以外を堕落させる力を持っている。
私はサタンであった。まるで古代宗教の神々の様だ。愛おしく、美しい。赤く染まった顔は小さく身体はしんなりだ。動きは不規則で、夏場の今は、蛮人の様に露出を際立たせそこに佇む。
夜も更け、夏の夜風が心地いい感覚をもたらしている頃、私は彼女を介抱しながら共に歩む。
「大丈夫ですか。」
「えぇ、でも、ちょっと飲みすぎたかな。」
私は期待を胸にたっぷりと塗りたくり、いじらしい彼女を傍目にそっと笑みを微笑的にさせる。
広告のあれこれが夜のネオンの一部を彩り、ストラヴィンスキーの様な全く新しい都市の音楽が私のもとに訪れる。
快楽の看板、絵にもできない全く新しく、穢らわしい音楽たち、そんな中を現代人二人が闊歩するのは、大して珍しいことではない。
女が手を握ってきた。無言で。嫌な気がしない。私も少し強く握り返す。クラクラする夏の夜。風が吹かねばやっていけない。
湿気の多い蒸し暑さは、大変顕著な不愉快さを示してくる。全くいじらしい。
私は、彼女をホテルに連れ込んだ。私は彼女を抱く。彼女は私に抱かれる。素晴らしい。実に。何が?一体。忘れられる。
死を?そうだ死を。私は近松という女が死んだ時、別に悲しくはなかった。彼女を本気で愛してはいなかったのかもしれない。
今となってはわからないが、特別に涙も出なかった。しかし、妙なのは女を抱けなくなるということだ。
妙。つまり意味の喪失。私は一時狂いかけた。私に快楽が失われたとき、つまり、女が、死んだ時に、私はなんとも言えない苦痛を味わった。
この苦痛は血に染まる色彩と、永遠に繰り返す田園の様な音声を携えて私の人生に訪れてきた。
「何を考えているの。」
女は語りかける。母の様な声で。
あの頃、私は近松を特別愛してはいなかった。しかし、他の女を好きになれやしなかった。
他の女より、近松を抱く方が生きていられる心地がした。生きていくのは、とても難しい。近松を抱いた時、私は生きていられる思いがした。
「ねぇ、こっち見て。」
女が、まるで諭す様に語りかける。
近松は私のどこが好きかを、聞いてもいないのに言ってくる。サークルの夏のキャンプで、彼女と共に夜空を見た時。
「貴方は私がいないとだめね。」
「そうでもない。」
「生きられないわ。」
「君より金持ちだぜ。」
「それでもだめ。」
「君より賢い。」
「だめ。」
「何がだめ?」
「だって、死にたがりでしょ?」
近松はそう語り、満点の神々の下で、ただ静かに祈る様にすがりついた。近松は涙を浮かべた。
「どこにも行かないで。多分、最後には行っちゃうんだろうけど、それでも、私だけは連れてって。」
近松よ。お前は自分でそう言いながら、お前だけで旅立つというのか。虚無に。涅槃に。キリストに。涅槃に行けたのなら、君は幸せだろう。
しかし、もし、君が生を繰り返すのなら。私は君を憐んでしまうだろう。一体なぜ?私は君の涙に映る。涙は落ちてゆく。落ちて、野草に落ちて、ゆっくりと星空を映す。
星空は雄大なアイテールを我々人間に見せてくれる。存分に、つまり、タダで。近松は、私を置いて行った。
どこへ行ったのか。それがわかったのなら、私は着いて行ったのに、書き置きを残してくれもしない。
キリストは、書き置きを残した。あるいはその弟子達が、それを見習ってはくれなかったのか。目が繰り返される。
夏の夜空が滲んでいる。赤い空は田園を照らして、田園は真っ赤に染まり行く。
月は踊り、もはや収拾はつかない。アイテールは「もはや科学は死んだ。万有の引力を、私は捨てた。」この様に語る。
どうでも良いことだ。爆発的なモンタージュが世界に繰り返される。
どうも、そのモンタージュは常に近松が溺れ死ぬシーンしかないらしい。酒が、とにかく酒が飲みたい。
「ねぇ、キスして」
私は彼女にキスをした。酒の香りがした。どこか安心感すらある様な、そんな心地がした。ひどく酔っていた様で、私はほとんど記憶がなかった。
「ねぇ、次もまた会える?」
「うん、いいよ。」
「そう?うれしい。もう会ってくれないかと思ってた。」
「どうして。」
「だって、口聞いてくれないんだもん。」
「いやぁ。」
「ねぇ、連絡先教えて。」
「はぁ、そう言えば、君なんて名前?」
「詩乃よ。名前も知らないで一緒に寝たの?」
「いや、言ってみただけ。あぁ、そうそう、詩乃ね。」
「いい名前でしょ。」
「さぁ。でも、悪くはないと思う。」
詩乃は掛け布団をドタバタさせながら抱きついてくる。なんとなく近松が遠のいた気がする。
その後も何度かやった気がする。あまりはっきり覚えていない。大学生の性欲ときたら、たいしたもんだ。
虚虚と浮世と黄泉を彷徨うに、実にどのくらいが立ったのか。外はピーポーピーポー騒がしい。誰か死んだのか。私は少し、悲しくなった。私が目を開けると詩乃は起きていた。
「起きたの。」
「外がうるさいからね。」
「そう、私は最近ずっと眠れないの。不眠症でさ。今日は眠れるかと思ったけど。」
「ダメだった?」
詩乃は笑みを浮かべる。きっと優しい笑みだ。
「ねぇ、知ってる?ベルが鳴るのは、天使が羽をもらえたからなのよ。」
私は詩乃の顔に浮かべる涙に慄いた。いや、正確には、涙に映る近松の顔に。私は詩乃を抱きしめた。強く。強く。
詩乃からしたら私はなんということもないのだろう。単に抱いた抱かれたの関係に過ぎない。しかし、私は彼女の裏に近松を感じていた。愛おしく、いじらしく。
偏屈に。




