第8話
「ああ、いらっしゃい──あら」
いつものように広々としたLDKに入り、定位置になった椅子に座ろうとしたとき。美千花さんが目を丸くした。
「スカートが汚れてるわ」
「え?」
見下ろす。後ろよ、と言われて首をひねった。たしかに、スカートに一点、赤黒いシミがついている。
「あー……さっき急に生理来たから、それかも」
「大変。すぐ落とさないとシミになるわ。ちょっと来て」
ぱたぱたと美千花さんが廊下に消えていく。美千花さんにしては珍しい、慌てたような動作だった。
美千花さんの後を追う。洗面所に入った美千花さんは、タオルやドライヤーを取り出すと、ふわふわのバスタオルを僕に手渡した。
「スカートは脱いで、これを腰に巻いて」
「え? あ、うん……」
言われるがままにスカートを脱ぎ、タオルを腰に巻きつける。ペールグレーのバスタオルは、ふかふかであったかくて、柔軟剤のいい匂いがした。
美千花さんは僕からスカートを受け取ると、それを洗面台で洗いはじめた。石鹸で揉んで、水をかけて、タオルを当てて裏からとんとん叩いたり。やけに手際が良い。
僕は腰のバスタオルが落ちないよう、ふわふわの端っこを両手で握ったまま、ぼうっと美千花さんを見上げていた。
「別にいいよ。ちょっとのシミくらい」
「でも、落とせるなら落としたほうがいいわ」
それもそうなのかな。あんまり気にしたことなかったけど。
ぼんやりと首をひねっている僕をよそに、美千花さんは熱心にシミと格闘している。かすかにしかめられた眉、引き結ばれたくちびるから、困ったような声がした。
「どうしましょう。うち、ナプキンないのよ」
「大丈夫。僕、周期不安定だから、こういうのは慣れてるし」
というか、ナプキンなんてほとんど使ったことがない。もともと周期も量も安定しないせいで、ペーパーでじゅうぶん事足りるからだ。
「そう? ならよかったわ。……はい、これくらいかしらね」
最後にひとつ、ぱん、と布を張る音。美千花さんはスカートの水分を拭き取っていたタオルを、役目は終えたとばかりに洗濯カゴの上によけた。
「あとはドライヤーで乾かしたらおしまいね」
「そのまま履いてもいいのに」
「生理中の女の子が、下半身を冷やすものじゃありません」
「そういうもの?」
「そうよ」
リビングに向かう美千花さんを、僕は所在なく追いかける。ぴかぴかのフローリングに僕の足音がぺたぺたと響いて、美千花さんはソファに腰を下ろした。
僕も隣に座る。美千花さんの家のソファはスプリングが良く効いていて、座ってもちっとも大きな音が立たなかった。
ぶおお、という音が響きわたる。美千花さんは、ドライヤーの角度を巧みに調整して、僕のスカートを乾かしていた。本当に手際が良い。
そのとき、僕はふと美千花さんの袖が濡れていることに気付いた。いつも通りの黒だからわかりづらいが、袖口がぐっしょり湿っている。
そういえば、さっきスカートを洗うとき、美千花さんは腕まくりをしなかった。慌てていたせいかとも思ったが、なんとなく不自然な気がする。
(なんか、変な……嫌な感じがする)
不意にドライヤーの音が止まった。美千花さんが薄く微笑みかける。
「はい、おしまい。どうぞ」
「あ……うん」
僕は渡されたスカートをもぞもぞと履きながら、横目で美千花さんを観察した。黒くしめった袖はどことなく重たそうで、他の部分より色が濃い。
「美千花さん」
そっと呼びかけると、美千花さんはいつもと同じ仄暗い表情のまま、なにかしら、とささやいた。
意を決して、僕は言う。
「袖、まくってみてもらえる?」
「──っ……」
ひくっ、と美千花さんが喉を鳴らした。不自然に静止した指先のまま、美千花さんが困ったように微笑む。
「どうしたの、急に」
「だって、濡れてる」
「ああ。大丈夫よ。あとでちゃんと拭いておくわ」
「そうじゃなくて」
「さ、スカートもきれいになったことだし、お茶にしましょう。そうそう、今日はあなたの好きな──」
「美千花さん!」
どう考えてもごまかしとしか思えない言葉を浴びせられ、僕は耐えられず身を乗り出した。あまり音を立てないソファ、革かなにかの座面に手をついて、美千花さんに手を伸ばす。そして、細い腕を軽く握った瞬間──
「いッ……!」
それは小さな、だけど間違いなく悲鳴だった。
美千花さんが顔を歪めている。あからさまに〝痛み〟を訴えるその表情に、僕はああ、と静かな確信を抱いた。
「……袖、上げるよ」
「っ……」
顔を背ける美千花さんにささやきかけ、ゆっくりと、黒い袖をたくしあげる。
そこには、僕が予想した通りのものが散らばっていた。
──大量の痣と、引っかき傷。
血がにじむほど深い傷。すでにかさぶたになった長い傷跡。どす黒い赤色の、まだ新しい痣。他にも青く変色したもの、治りかけて黄色くなりはじめたもの。何種類もの傷と痣は、彼女の上に恒常的な暴力があることをはっきりと示していた。
(……やっぱり……)
ずっと感じていた違和感、うっすらと漂っていた嫌な予感。その正体はこれだったんだ。
僕は自分の口元が、ぎりぎりと引き結ばれるのを感じた。低く震える声が出る。
「これ……旦那さん?」
「……」
美千花さんは返事をしない。ただ諦めたように顔を背け、静かにうなだれている。
僕はきっ、と顔をあげると、ますます身を乗り出した。
「ねえ。こんなの駄目だよ。なんとか……なんとかしなきゃ」
「無理よ」
「なんで! 誰かに言うとか、戦う……のは無理でも、助けてもらうとか、家を出るとか……!」
「無理だわ」
「無理なことない! こんなこと、我慢しちゃだめだよ! 絶対にだめ」
僕がいくら言い募っても、美千花さんはただ首を左右に振るだけだ。苛立ちといたたまれなさがこみ上げて、僕はぎゅうっと拳を握りしめた。ひどい、と吐き捨てる。
「ひどいよ! こんな、自分は強いくせに、弱い女のひとに暴力を振るうなんて……最低だ! ありえない、クソみたいな、クズの──」
「そんなことを言うものじゃないわ」
「ッ──どうして庇うの⁉」
思わず叫んだ。憤りのあまり顔が熱い。
けれど美千花さんは黙って、ゆっくりと目を伏せて。ためらうように息を吸うと、ひどく静かにささやいた。
「……あのひとは、寂しいひとなの」
「ッ……!」
──どうしてだろう。
その瞬間、僕は自分の心臓の奥、魂というもののいちばん底が、震えるような感覚を覚えた。
(僕は──)
知っている、ような気がする。美千花さんが語る、とても静かな諦念。それとほとんど似たようなものを、僕も知っている。そんな気がした。
旦那さんを寂しいひとだと称した美千花さんの目は、とても昏くて、底が見えないほど深くて、静謐だった。寂しいひとと語る美千花さんのほうがよっぽど寂しそうで、今にも消えてしまいそうだった。
暗く冷えた自宅の玄関先、ドアの鍵を一人で閉めるときの、寒いようなだるいような、明言できない感覚を思い出す。どこがどうともわからないのに、似ている、と思った。
(このひとは、)
今の現実がつらいものだとわかっている。正しくないと知っている。それでも──寂しさと愛着のために、このひとはこの家から逃げられないんだ。
肌の上に、よくわからない皮膚感覚があった。ちりちりと痺れるような、おそらくは〝寂しさ〟というものの、なまなましい手触り。
生まれて初めて感じたそれに、無意識で二の腕をさすって、僕は自分の口元が引き結ばれるのを感じた。
「美千花さん」
そっと呼びかける。美千花さんは返事をしない。
笑ってくれたらいいと思っていた。このひとが、寂しくなければいいのにと。だけど当の美千花さんが嫌がる以上、この現状は今すぐには変えられない。
(だけど……でも……)
僕には、美千花さんを寂しいままにさせておくのが、どうしても我慢できなかった。たとえ解放することができなくても、せめて少しでも笑ってほしいと、その寂しさを拭い去ってあげたいと強烈に思った。
だから言った。
「僕、ここの真下でごはん食べるよ」
「え……?」
指さした先は、いつもふたりで座っているダイニングの、美千花さんの椅子。僕は続ける。
「夜になったら、美千花さんのベッドの真下で寝る」
「なにを──」
「時間、教えて。時計を合わせよう」
ソファの上、身を乗り出して、美千花さんの顔をじっと見据えた。深いグレーの瞳に、バカみたいに真剣な顔の僕が、はっきりと映り込んでいる。
美しいダークグレーの眼球、その表面に映る僕が、息を吸うのがはっきり見えた。
「僕がずっと美千花さんの下で眠ってあげる。そしたら寂しくないよ。僕がきみを守ってあげる。だから──」
ぴっ、と小指を立てる。丸い爪とささくれだらけの指先を、祈るみたいに差し出して、僕は言った。
「同じ時間に食べて、同じ時間に眠ろう。別々の階で、一緒に暮らそう」
美千花さんは、目を見開いたまま、長い間黙っていた。永遠にも似た沈黙の末、美千花さんは色のないくちびるをかすかに震わせて。
「……わかったわ」
僕の小指に、自分のそれをそっと絡ませた。桜色の爪をした女性的な白い指が、荒れた指と触れ合って、上下に揺れる。
僕はその光景を見つめながら、僕がこのひとを守るんだと、そしていつか本当の笑顔を見せてもらうんだと、誓いにも似た思いを噛み締めていた。




