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【完結・百合】家庭環境最悪な僕っ娘(14)が、マンションの上階に住む人妻(28)にズルズルに依存する話  作者: Ru
第二章 時計を合わせて

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第8話

「ああ、いらっしゃい──あら」


 いつものように広々としたLDKに入り、定位置になった椅子に座ろうとしたとき。美千花さんが目を丸くした。


「スカートが汚れてるわ」

「え?」


 見下ろす。後ろよ、と言われて首をひねった。たしかに、スカートに一点、赤黒いシミがついている。


「あー……さっき急に生理来たから、それかも」

「大変。すぐ落とさないとシミになるわ。ちょっと来て」


 ぱたぱたと美千花さんが廊下に消えていく。美千花さんにしては珍しい、慌てたような動作だった。


 美千花さんの後を追う。洗面所に入った美千花さんは、タオルやドライヤーを取り出すと、ふわふわのバスタオルを僕に手渡した。


「スカートは脱いで、これを腰に巻いて」

「え? あ、うん……」


 言われるがままにスカートを脱ぎ、タオルを腰に巻きつける。ペールグレーのバスタオルは、ふかふかであったかくて、柔軟剤のいい匂いがした。


 美千花さんは僕からスカートを受け取ると、それを洗面台で洗いはじめた。石鹸で揉んで、水をかけて、タオルを当てて裏からとんとん叩いたり。やけに手際が良い。

 僕は腰のバスタオルが落ちないよう、ふわふわの端っこを両手で握ったまま、ぼうっと美千花さんを見上げていた。


「別にいいよ。ちょっとのシミくらい」

「でも、落とせるなら落としたほうがいいわ」


 それもそうなのかな。あんまり気にしたことなかったけど。

 ぼんやりと首をひねっている僕をよそに、美千花さんは熱心にシミと格闘している。かすかにしかめられた眉、引き結ばれたくちびるから、困ったような声がした。


「どうしましょう。うち、ナプキンないのよ」

「大丈夫。僕、周期不安定だから、こういうのは慣れてるし」


 というか、ナプキンなんてほとんど使ったことがない。もともと周期も量も安定しないせいで、ペーパーでじゅうぶん事足りるからだ。


「そう? ならよかったわ。……はい、これくらいかしらね」


 最後にひとつ、ぱん、と布を張る音。美千花さんはスカートの水分を拭き取っていたタオルを、役目は終えたとばかりに洗濯カゴの上によけた。


「あとはドライヤーで乾かしたらおしまいね」

「そのまま履いてもいいのに」

「生理中の女の子が、下半身を冷やすものじゃありません」

「そういうもの?」

「そうよ」


 リビングに向かう美千花さんを、僕は所在なく追いかける。ぴかぴかのフローリングに僕の足音がぺたぺたと響いて、美千花さんはソファに腰を下ろした。


 僕も隣に座る。美千花さんの家のソファはスプリングが良く効いていて、座ってもちっとも大きな音が立たなかった。


 ぶおお、という音が響きわたる。美千花さんは、ドライヤーの角度を巧みに調整して、僕のスカートを乾かしていた。本当に手際が良い。


 そのとき、僕はふと美千花さんの袖が濡れていることに気付いた。いつも通りの黒だからわかりづらいが、袖口がぐっしょり湿っている。


 そういえば、さっきスカートを洗うとき、美千花さんは腕まくりをしなかった。慌てていたせいかとも思ったが、なんとなく不自然な気がする。


(なんか、変な……嫌な感じがする)


 不意にドライヤーの音が止まった。美千花さんが薄く微笑みかける。


「はい、おしまい。どうぞ」

「あ……うん」


 僕は渡されたスカートをもぞもぞと履きながら、横目で美千花さんを観察した。黒くしめった袖はどことなく重たそうで、他の部分より色が濃い。


「美千花さん」


 そっと呼びかけると、美千花さんはいつもと同じ仄暗い表情のまま、なにかしら、とささやいた。


 意を決して、僕は言う。


「袖、まくってみてもらえる?」

「──っ……」


 ひくっ、と美千花さんが喉を鳴らした。不自然に静止した指先のまま、美千花さんが困ったように微笑む。


「どうしたの、急に」

「だって、濡れてる」

「ああ。大丈夫よ。あとでちゃんと拭いておくわ」

「そうじゃなくて」

「さ、スカートもきれいになったことだし、お茶にしましょう。そうそう、今日はあなたの好きな──」

「美千花さん!」


 どう考えてもごまかしとしか思えない言葉を浴びせられ、僕は耐えられず身を乗り出した。あまり音を立てないソファ、革かなにかの座面に手をついて、美千花さんに手を伸ばす。そして、細い腕を軽く握った瞬間──


「いッ……!」


 それは小さな、だけど間違いなく悲鳴だった。


 美千花さんが顔を歪めている。あからさまに〝痛み〟を訴えるその表情に、僕はああ、と静かな確信を抱いた。


「……袖、上げるよ」

「っ……」


 顔を背ける美千花さんにささやきかけ、ゆっくりと、黒い袖をたくしあげる。

 そこには、僕が予想した通りのものが散らばっていた。


 ──大量の痣と、引っかき傷。

 

 血がにじむほど深い傷。すでにかさぶたになった長い傷跡。どす黒い赤色の、まだ新しい痣。他にも青く変色したもの、治りかけて黄色くなりはじめたもの。何種類もの傷と痣は、彼女の上に恒常的な暴力があることをはっきりと示していた。


(……やっぱり……)


 ずっと感じていた違和感、うっすらと漂っていた嫌な予感。その正体はこれだったんだ。


 僕は自分の口元が、ぎりぎりと引き結ばれるのを感じた。低く震える声が出る。


「これ……旦那さん?」

「……」


 美千花さんは返事をしない。ただ諦めたように顔を背け、静かにうなだれている。

 僕はきっ、と顔をあげると、ますます身を乗り出した。


「ねえ。こんなの駄目だよ。なんとか……なんとかしなきゃ」

「無理よ」

「なんで! 誰かに言うとか、戦う……のは無理でも、助けてもらうとか、家を出るとか……!」

「無理だわ」

「無理なことない! こんなこと、我慢しちゃだめだよ! 絶対にだめ」


 僕がいくら言い募っても、美千花さんはただ首を左右に振るだけだ。苛立ちといたたまれなさがこみ上げて、僕はぎゅうっと拳を握りしめた。ひどい、と吐き捨てる。


「ひどいよ! こんな、自分は強いくせに、弱い女のひとに暴力を振るうなんて……最低だ! ありえない、クソみたいな、クズの──」

「そんなことを言うものじゃないわ」

「ッ──どうして庇うの⁉」


 思わず叫んだ。憤りのあまり顔が熱い。

 けれど美千花さんは黙って、ゆっくりと目を伏せて。ためらうように息を吸うと、ひどく静かにささやいた。


「……あのひとは、寂しいひとなの」

「ッ……!」


 ──どうしてだろう。


 その瞬間、僕は自分の心臓の奥、魂というもののいちばん底が、震えるような感覚を覚えた。


(僕は──)


 知っている、ような気がする。美千花さんが語る、とても静かな諦念。それとほとんど似たようなものを、僕も知っている。そんな気がした。


 旦那さんを寂しいひとだと称した美千花さんの目は、とても昏くて、底が見えないほど深くて、静謐だった。寂しいひとと語る美千花さんのほうがよっぽど寂しそうで、今にも消えてしまいそうだった。


 暗く冷えた自宅の玄関先、ドアの鍵を一人で閉めるときの、寒いようなだるいような、明言できない感覚を思い出す。どこがどうともわからないのに、似ている、と思った。


(このひとは、)


 今の現実がつらいものだとわかっている。正しくないと知っている。それでも──寂しさと愛着のために、このひとはこの家から逃げられないんだ。


 肌の上に、よくわからない皮膚感覚があった。ちりちりと痺れるような、おそらくは〝寂しさ〟というものの、なまなましい手触り。


 生まれて初めて感じたそれに、無意識で二の腕をさすって、僕は自分の口元が引き結ばれるのを感じた。


「美千花さん」


 そっと呼びかける。美千花さんは返事をしない。


 笑ってくれたらいいと思っていた。このひとが、寂しくなければいいのにと。だけど当の美千花さんが嫌がる以上、この現状は今すぐには変えられない。


(だけど……でも……)


 僕には、美千花さんを寂しいままにさせておくのが、どうしても我慢できなかった。たとえ解放することができなくても、せめて少しでも笑ってほしいと、その寂しさを拭い去ってあげたいと強烈に思った。

 だから言った。


「僕、ここの真下でごはん食べるよ」

「え……?」


 指さした先は、いつもふたりで座っているダイニングの、美千花さんの椅子。僕は続ける。


「夜になったら、美千花さんのベッドの真下で寝る」

「なにを──」

「時間、教えて。時計を合わせよう」


 ソファの上、身を乗り出して、美千花さんの顔をじっと見据えた。深いグレーの瞳に、バカみたいに真剣な顔の僕が、はっきりと映り込んでいる。


 美しいダークグレーの眼球、その表面に映る僕が、息を吸うのがはっきり見えた。


「僕がずっと美千花さんの下で眠ってあげる。そしたら寂しくないよ。僕がきみを守ってあげる。だから──」


 ぴっ、と小指を立てる。丸い爪とささくれだらけの指先を、祈るみたいに差し出して、僕は言った。


「同じ時間に食べて、同じ時間に眠ろう。別々の階で、一緒に暮らそう」


 美千花さんは、目を見開いたまま、長い間黙っていた。永遠にも似た沈黙の末、美千花さんは色のないくちびるをかすかに震わせて。


「……わかったわ」


 僕の小指に、自分のそれをそっと絡ませた。桜色の爪をした女性的な白い指が、荒れた指と触れ合って、上下に揺れる。


 僕はその光景を見つめながら、僕がこのひとを守るんだと、そしていつか本当の笑顔を見せてもらうんだと、誓いにも似た思いを噛み締めていた。


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