第7話
散らかったLDKは薄暗い。
二十時を少しまわって、僕は近所のコンビニに行ってきたところだった。
つけっぱなしだったテレビが、暗い部屋の中で青白く光を放っている。ぺたぺたとフローリングの上を歩けば、ぶら下げたコンビニの袋ががさりと音を立てた。
テレビの向かいのソファに座って、びりびりとビニールをやぶる。白いおにぎりを取り出して、もくもくと口に含んだ。たまに水を飲みながら、咀嚼と嚥下を繰り返す。おにぎりはあっという間になくなってしまった。もうひとつ買っておけばよかった。
ソファの背ごしに、そっと後ろを振り返る。背後のダイニングスペースはリビングと同じく、盛大に散らかっていた。美千花さんの家とはぜんぜん違う。
夕方まで過ごしていた、あの整然としたダイニングの風景が思い浮かんで、僕はかすかに目を細めた。
美千花さんの部屋とうちは、真上と真下ということもあって、まったく同じ間取りになっている。ダイニングとリビングの位置関係も同じだ。
(このダイニングスペースの真上に、いつも僕が座ってるテーブルがあるのか……)
なんとなく、ふうん、と思って、僕はソファから立ち上がった。スプリングがかすかにぎしりと残響を立てる。ソファを回って、散らかったダイニングのほうへ。ぺたぺたとフローリングを歩くと、僕はある一点で立ち止まった。
「……ここが、僕の座ってた椅子」
散らかったごちゃごちゃを押しのけて、裸足の爪先で、つい、とフローリングの床を撫でる。ざらついた感触が足の裏に伝わって、僕は小さく息を吐いた。
そのまま、数歩横へ。足を止め、じっ、とフローリングを見下ろした。なにもないただの床、けれど、ここは。
「……ここが、美千花さんの椅子……」
とても小さく呟いて、何度かまばたきをして。僕はすうっと天井を見上げた。白い天井の向こう、うちの真上の部屋で、美千花さんはいま、何をしているのだろう。
もう夜だから、旦那さんと一緒だろうか。夕ご飯の最中かもしれない。美千花さんもテレビを見たりするのかな。せめて寂しくなければいい。
ちら、と付けっぱなしのテレビを見た。適当に合わせたチャンネルではバラエティをやっていて、スタジオの楽しそうな笑い声が響いていた。
ソファに戻って、ぎしりと座り込むと、にぎやかだったテレビを消す。手元用の小さなライトをぱちんとつけた。
僕は手近な本を引き寄せて、ぱらりと開いた。今日は物語じゃなく、近代医学の歴史の本だ。ところどころ内容がわからないところもあるけれど、新しいことを知るのは純粋に楽しい。
行きつ戻りつしながらぱらぱらと読んでいると、あっという間に時間が過ぎていった。ふと顔を上げ、壁の時計に目を凝らせば、二時間以上経っている。二十二時半。
(……お母さん、なかなか帰ってこないな)
まあ、外で楽しくしてるならいいけど。帰ってきたらきたで、またしくしく泣いてたりしたら、慰めるの、いろいろ大変だし。本当に寂しがりだからな、あの人は。
ぱたん、と本を閉じた。今日は早いけど、もう寝てしまおうか。
ううん、と大きく伸びをすると、ソファがぎしりと音を立てた。伸びの姿勢のまま、天井を見上げる。今ごろ、美千花さんはどうしているだろう。さすがにまだ寝ていないとは思うけど。大人たちが二十二時になにをしているのか、僕はよく知らない。
ふと、美千花さんの顔が思い浮かんだ。
儚げな表情、暗い瞳、疲れたような、諦めたような雰囲気。旦那さんに褒められたという黒い服に、病的なほど白い肌。
初めて会ったときから、寂しそうな人だと思っていた。表情、仕草、言葉の端々、その存在のあらゆるところから、寂しさというものが滲み出ている、そんな人だと。
笑わない、化粧もしない、ただ静かにあの家で、旦那さんを慈しんで暮らしている人。
(……美千花さんが笑ったら、きっと素敵なのに)
見たことはない、でも、わかる。美千花さんはきれいな人だ。お化粧だって、笑顔だって、きっと似合うに違いない。
僕は美千花さんの明るい笑顔を想像して、いいな、と思った。
もしいつか、あのひとの、心からの笑顔が見れたなら。そしたらきっと、僕はすごく嬉しいだろう。よかったと思うだろう。
美千花さんの瞳を思い出す。深いダークグレーの、複雑な色合いをした虹彩。そのずっと奥のほうに、決して消えない寂寥を隠している。
──あのひとが寂しいなら、僕が助けてあげたい。
──そしていつか、心からの笑顔を見せてほしい。
こみ上げた感情は、思ったよりずっと強く僕の心を動かした。
想像や空想じゃない、本当の美千花さんが笑った顔が見たい。あのひとの寂しさを、僕がこの手で取り去ってあげたい。悲しいときは守ってあげたい。
ソファの背にもたれて、天井を見上げた。この白い天井の上で、美千花さんが暮らしている。そのことを考えると、なんともいえない気持ちになった。
僕はソファから立ち上がると、床にわだかまっていたタオルケットを拾い上げた。ずるずるとタオルケットを引きずったまま、リビングを横切って、廊下に出る。玄関に向かって歩いて、廊下の両側にドアがひとつずつ。美千花さんの寝室は左の部屋だ。
導かれるように左のドアを開いた。お母さんのクロゼット代わりになっている左の部屋はごちゃごちゃしていて、棚にいくつもカバンや、帽子や、靴の箱なんかが並んでいて、すこし埃っぽい。
中に入って、ドアを閉めた。あたりを見渡す。一度だけ入れてもらった美千花さんの寝室を思い浮かべて、目の前の部屋にイメージを重ね合わせた。
(鏡台がここ。サイドテーブルがここ。ベッドは……たぶん、このあたり)
ちょうど当たりをつけた場所、床の上に、僕はごろりと横になった。タオルケットを引き寄せて、ごそり、と身体に巻き付ける。固い床が肩の骨を圧迫する、独特の感触。
僕はそっと目を閉じて、美千花さんのことを思い浮かべた。あのグレーのシーツに横たわっている、寂しいひとを夢想する。旦那さんは隣で眠っているのだろうか。それとも、僕の父親みたいに、別の場所で眠ったりするんだろうか。
ぎゅう、と背を丸めて、あちこちほつれたタオルケットを、きつく巻きつけた。美千花さんの部屋のシーツはきれいだった。つるつるで、すべすべで、いい匂いがした。思い出すと、なんだかうまく言えない気持ちになる。
僕は上階の美千花さんに心を寄せて、胸のうちだけで呟いた。
──ねえ、僕はここだよ。
──どうか美千花さんが、寂しくありませんように。
「……おやすみなさい」
口の中で、とても小さく挨拶を唱える。返事などどこにもない。それでも、まぶたの裏で、美千花さんがかすかに微笑んだような気がした。
僕はどこか安心するような、それでいて祈るような気持ちで、自分の呼吸が少しずつゆっくりになっていって、次第に寝息へと変わっていくのを、じっと感じていた。




