第6話
ふわふわと、ティーカップから湯気が立ち上っている。
美千花さんの家で出されるお茶は相変わらず知らないものばかりで、僕はいつも戸惑ってしまう。ただ、今日はお茶と別のところが目に留まった。
「……カップ、また違うのになってる」
「そうなの。割っちゃって」
「え、また?」
透明のカップが割れてからは、美千花さんの家では花柄のカップが出されるようになった。けれど今日のカップには、よくわからない幾何学的な模様が描かれている。モノトーンの曲線はおしゃれな雰囲気だけれど、僕は前の花柄のほうが好きだと思った。
「怪我しなかった?」
「大丈夫よ。破片はぜんぶ、夫が片付けてくれたから」
「そうなんだ」
ずっ、とお茶を飲みながら、僕はそっと美千花さんを見つめた。対面に座る彼女はいつもと同じ、消え入りそうに淡い微笑みを浮かべている。その指先は病的なくらい白いままで、切り傷のようなものは見当たらなかった。よかった。
そのときふと、彼女の背後の壁に、一点の暗い翳りがあるのに気付いた。ちょうど美千花さんの顔の横くらいの高さだ。じっと目を凝らしてみれば、壁紙の一部がするどく凹んでいるのがわかった。その凹みが、小さな翳りに見えていたらしい。
(こんな跡、前に来たとき、あったっけ……)
なんとなくの違和感。内心で首を傾げつつも、僕はお茶と一緒に出されたお菓子を頬張った。口の中に甘酸っぱい味がふわりと広がる。この味には覚えがあった。何度か出されたことのある味。
「フランボワーズだ」
「あら。覚えたのね」
「うん。僕、これ好き」
「良かったわ」
美千花さんがかすかに笑う。初めてフランボワーズなるものの味を知った日のことを思い出して、そういえば、と僕は口を開いた。
「今日も黒だね、服」
「ええ」
「あのときのワンピースは? 袖が濡れてたやつ」
「ああ……結局、だめになっちゃったわ。裏地のシミが抜けなくて」
「そうなんだ……?」
──シミ。
よく考えればおかしな話だ。
あのとき僕が指摘したのは、袖が〝濡れている〟ことだった。美千花さんは直前まで洗い物をしていて、そのときに袖が濡れたんだと僕は思っていた。あのシチュエーションなら、原因は水か、あるいは洗剤のどちらかだ。
それなのに。どうやったら、裏地が駄目になるほどの〝シミ〟が残るんだろうか。
顔をしかめて考え込む僕の正面で、美千花さんは変わらず淡い微笑みを浮かべている。病的に白い肌、深いグレーの暗い瞳、くちびるの色は相変わらずひどく薄い。
「ねえ。口紅とか、塗らないの」
「あら、急にどうしたの」
「あ……えっと……美千花さん、色白だから。似合うのになって」
さすがに、いつもやけに血色が悪いから、とは言えなかった。けれど美千花さんは僕の意図なんてわかっていたらしい、そうね、と困ったように返事をして、薬指でくちびるを軽く撫でた。
僕はちら、と廊下に続くドアを見る。長く伸びた廊下を進んで、玄関の前、左側の扉。一度だけ寝かせてもらったベッドルーム、そこに転がっていた黒と金のケースを思い浮かべて、言った。
「あの口紅は? ベッドの部屋の、鏡台の」
何気ない問いかけに、美千花さんはふっと目を細める。色の薄いくちびるから、ささやくような返答があった。
「ああ……あれは、いつも使うものじゃないの」
「そうなんだ?」
特別なお出かけ用、とか、そういうのだろうか。うちのお母さんも、家にいるときと父親が来るときでは、化粧の雰囲気がぜんぜん違っていたっけ。
ぼんやりとお母さんの顔を思い浮かべていると、美千花さんがとても小さく、ほとんど吐息のような声を漏らした。
「──……夫と」
え、と顔を上げる。美千花さんはどこを見ているかわからない瞳で、かすかにささやいた。
「……約束の口紅なの。夫との」
真っ白い指先が、とん、とん、とくちびるを叩く仕草。なぜだろう、その仕草が妙に艶めかしく見えて、僕は首を傾げた。
「約束」
「そう。約束っていうか……合図、かしら」
「なんの?」
「……」
美千花さんは返事をしなかった。ただ、くちびるの端から端までをゆっくりと薬指でなぞると、最後にふうっ、と指先に息を吹きかけた。どことなく、色めいた仕草に感じる。気のせいかもしれない。
深いグレーの瞳が、ゆっくりと僕を見た。すっ、と小さく息を吸う音。そして。
「お化粧、普段はしないことになってるの」
そう言うと美千花さんはほんの少しだけ、笑った。僕の知らない、どこか深い寂寥を宿した瞳。
(……なんか……変だ)
だんだんと、なにかがおかしい、という気持ちが強くなっていく。じわじわと、とてもゆっくりこみ上げる、明言できない嫌な予感。
具体的に、なにがどうとはわからない。正体などまだひとつも掴めてはいない。だけど──なんだかとても、嫌な感じがする。
心臓の鼓動が妙にはっきりと感じられた。僕は視線を落として、テーブルで湯気を上げるカップの、モノトーンの幾何学模様を見つめた。妙に早いサイクルで割れてゆき、取り替えられていくカップを。
……嫌な感じがする。言葉にはできない。
美千花さんは笑わない。美千花さんは化粧をしない。
もちろん、笑わなくても化粧なんてしなくても、美千花さんは十分にきれいだ。
でも普通、これくらいの大人の女性なら、外に出るときくらいは化粧をするものじゃないだろうか。僕と話して、面白がったり楽しそうにするときに、もっとはっきり、笑ったりするものじゃないだろうか。
もやもやとした、よくわからない不安と焦燥。僕は胸のうちに満ちた嫌な予感に目を凝らし、適切な言葉を探そうとした。
視線を上げ、じっと美千花さんを見つめる。淡く細まった暗いグレーの瞳、そのずっと奥に、寂しさの輪郭がぼんやりと光って見える。そんな気がした。
美千花さんは言う。寂しいひとならどこにでもいるもの、と。それはきっと、美千花さん自身のことだ。
(美千花さんは……どうして、寂しいんだろう)
この家には写真があるのに。知らないお茶も、おいしいお菓子も、あたたかくて明るい部屋だって、ぜんぶ揃っているのに。今だって、コートハンガーにはアイロンの当たったスラックスとネクタイがかかっていて、きっと夜になれば、僕がいま座っているこの場所に、旦那さんが帰ってくるはずなのに。
うまく言えない、ひたひたとした予感があった。疑問がひとつ、胸の底から静かに浮かんでくる。
──本当に、旦那さんは、美千花さんの言うような人なんだろうか。
穏やかで、優しくて、気が弱くて、甘えたがりの人なんだろうか。
だってもし本当に旦那さんが優しくて、毎日がいつも楽しいのなら。美千花さんはこんなに、寂しそうな目をしないはずだ。もっと笑ったりするはずだ。
かた、と椅子を鳴らして、立ち上がった。テーブルの向こう、美千花さんのほうに身を乗り出す。僕は両腕を伸ばして、病的に白い両の頬、その肌に触れる直前でかろうじて手を止めた。
ねえ、と呼びかける。美千花さんが無言で僕を見つめ返す。
「美千花さん、笑って」
「笑う? ……こうかしら」
美千花さんの口の端が、ゆっくりと持ち上がる。口元が笑みの形になる。けれどそれはとてもぎこちない、わざとらしいもので、どうしたって心からの笑顔には見えなかった。
不自然な笑みを保ったまま、美千花さんが静かに問いかける。
「どうしたの、急に」
「……えっと……」
尋ねたいことは山ほどあった。不安なことも、心配なことも、いくらだって湧いてきた。だけどそれはひとつもまともな言葉にならなくて、僕は半開きになったくちびるをかすかに震わせるしかできない。
「……ううん、なんでもない」
結局それだけを呟くと、僕はかたん、と椅子に戻った。
うつむいた視線の先に、モノトーンのカップ。割れてしまった花柄は、旦那さんが片付けたという。もうひとつ前の、透明のカップもそうだったんだろうか。美千花さんのカップが割れたとき、旦那さんはなにをしていたんだろう。
こみ上げる不安。明言できない感覚。胸の底が落ち着かない。
僕はぐるぐるした気持ちをこらえたまま、モノトーンのカップを手に取った。女性にいい成分だという知らないお茶をすする。ずっ、というやけに大きな音が、清潔で美しいLDKに不躾に響きわたった。




