第5話
ぱたん、と背後で玄関ドアが閉まる。玄関内は薄暗い。
僕は後ろ手でかちゃりと鍵を閉めると、ただいま、と小さく呟いた。靴を脱ぐ。転がったお母さんのヒールをまたいで、家の中に入った。
ぺたぺたと廊下を歩く。冷えた廊下は薄暗かった。突き当たりのドアに手をかける。ドアノブのひやりとした感触。
かちゃ、と静かにドアを開けると、散らかった夜のLDKが目に飛び込んできた。
カーテンが開きっぱなしの、薄暗い部屋。ソファやテーブルや棚が床のごちゃごちゃしたあれこれと混じり合って、よくわからないシルエットが薄闇の中でぼんやりと浮かび上がっている。窓の外はグレーがかった夜闇に満ちていて、汚れたガラスごしにうっすらと月の姿が見えた。
「……ただいま」
もう一度ささやく。返事はない。
とても小さく息を吐く。僕はカーテンを閉めようと、リビングを横切って歩いた。つま先に、とん、と軽いものが当たる。ころころと床を転がっていくのは、ペットボトルのゴミだった。
腰をかがめて、拾い上げる。目の高さまでかかげて、僕は何気なくそれを夜の外光に透かしてみた。潰れかけたペットボトルの中、かすかに残った水はぼんやりと濁って、塵のようなものがちらちら瞬いている。
ため息交じりに、ペットボトルをゴミ箱のあたりに投げ込んだ。狙いがそれたのか、ペットボトルはカコンッ、と軽い音を立てて、ゴミ箱ごと倒れ込んでしまう。ゴミ箱の中身が散らばって、ああもう、と目元が歪んだ。
ちら、と振り返って、LDKを見渡した。相変わらず派手に散らかっている。お母さんは片付けが苦手だ。僕もそこまで得意なほうじゃない。そんな二人で暮らしていれば、部屋が散らかるのは自明の理というやつだった。
(美千花さんの家、きれいだったな……)
目の前の、暗闇にうっすら浮かび上がる、ごちゃごちゃと散らかったLDK。そのシルエットに、記憶の中の美千花さんの部屋が重なった。美しく整った、テレビドラマで見るみたいな、きれいで、おしゃれな。
目の前にある空間は、住み慣れた、いつもの自宅だ。それなのに、なんだかひどく落ち着かない感じがする。理由はわからない。なんとなく、美千花さんを思い浮かべる。あなたはひとりじゃないという言葉。寂しいひとという単語。
──もしかしたら。
──寂しさ、というものは、僕の中にも存在するのかもしれない。
なんとなく浮かんだ考えは安っぽく、直截で、僕をひどく呆れさせた。バカな、と首を軽く横に振る。
僕の中の寂しさ? そんなもの、感じたこともないのに。美千花さんの寂しさに当てられてしまったのかな。やっぱりあの人は寂しげで、どこか陰があって、ちょっと心配だ。僕が気をつけて見てあげないと。
「うーん……」
小さくため息。帰ったら晩御飯になにか作ろう、とか思っていたのに、ゴミ箱が倒れたり、寂しさがどうとかを考えていたら、急になにもかもが面倒くさくなってきた。
「もう、カップ麺でいいや……」
お母さんは美容に悪いから嫌だって言うけど、こういうときのカップ麺は楽でいい。美千花さんのきれいな家には似合わないかもしれないが、散らかった我が家なら、カップ麺のパッケージもそれなりに収まりがいいだろう。
うん、と心のなかで唱えると、僕は窓の端にわだかまったカーテンに手をかけた。シャッ、と音を立て、カーテンを引く。窓からかすかに見えていた街明かりと月、夜の風景が一気にさえぎられた。一瞬で部屋の中が真っ暗になる。
僕は最後にひとつ深呼吸をすると、ええとカップ麺はどこにしまったかな、なんて、わざとらしく独り事をこぼした。




