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【完結・百合】家庭環境最悪な僕っ娘(14)が、マンションの上階に住む人妻(28)にズルズルに依存する話  作者: Ru
最終章 『寂しさ』

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最終話

 息を吸って、しゃくりあげそうになるのに耐えて、心の中から大切に言葉を取り出す。震えそうになる語尾を必死に制御して、僕は美千花さんにささやきかけた。


「お菓子、おいしかった。お茶も、あったかかった」


 つたない言葉で懸命に伝えると、美千花さんは泣きそうな顔をして頷いた。


「寂しいなら守ってあげるって言ってくれて、嬉しかったわ」

「うん、……うん」


 僕も頷く。このひとと僕のあいだに存在した、ありとあらゆる出来事が、次々と思い浮かんだ。


 言葉が、いくつも続いていく。


「からすの歌、本で調べて、覚えたんだよ」

「フランボワーズ、常備するようになったの」

「橋の上で、傘、なくしちゃって、ごめんね」

「手術のこと、ひとに話せたの、初めてだったわ」

「口紅を盗んだの、ずっと後悔してた……」

「私の下で眠ってくれて、本当に、ありがとう」

「一緒にごはんが食べられて、うれしかった」


 僕がささやいて、美千花さんがうなずいて、ひとつずつ、ひとつずつ、思い出を吐き出すように、僕たちは語り続ける。


「あのとき、僕は──……」

「私だって、はじめて──」


 あのときはああだった、このときはこうだったと、僕たちは互いの存在を確かめ合うように言葉をかわした。泣きたいくらい嬉しくて、同じくらい切ないと思った。


 その上で、もう二度と今までのようにはいられないのだと、そのことを僕たちはいま、順番に確認しているのだと──きっとふたりとも、それがはっきりわかっていた。だからいつまでも話した。


 なにかを、惜しむように。終わってしまうのが寂しいと、目の前のひとに伝えるために。




 ひとしきり、話して、話して、話し続けて──とうとう、言葉がなくなった。時計の針の音とヤカンの湯気の音だけが、静謐の中に響いている。


 僕たちはふたりぶんの小さな呼吸を続けて、なにかもう、心の底から掠えるものはないかと探し続けた。だけどもう、なにひとつ思いつかない。──終わりだ、と思った。


 美千花さんが、ゆっくりと顔を上げる。その様子は以前とまったく違っていた。それは諦念を振り払い、ひとりの大人の女性として、新しい道を歩み始めている人の姿だった。


 ダークグレーの瞳が、じっと僕を見つめる。まるで魂の底まで覗き込まれているようだ、と思った。


 言葉にできない透明な感慨が、静かに胸を満たしていく。満たされているのに欠けていて、切ないのに受け入れている、不思議な感覚があった。


 この感情の名前を、僕はもう知っている。


「……あのね。寂しいって、わかったよ、僕」

「そう……」


 美千花さんは、どこか切なそうな、それでいて受け入れてもいるような──寂しい目をして微笑んだ。静謐な声が言う。


「きっと、一生寂しいままなのよ。私も、あなたも、……たぶん、みんなも」

「……うん」


 その通りだ、と思った。寂しさを知った今、美千花さんの言葉が、僕には肌で理解できた。


 僕たちだけじゃない。誰もがきっと、胸の中に自分だけの孤独を抱えている。その根源的な寂しさは、誰にも埋めることはできない。


(だけど──)


 僕たちはそれでも、生きていかなければいけない。ずっと寂しい、そのままで。


 もう一度、「わかってる」と呟いた。美千花さんは僕の相槌に、一度だけ頷く。そして、とても静かな、だけど芯のある、澄んだ声音がささやいた。


「みんな寂しいひとなのよ。あなたは、ひとりじゃないわ」


 僕は顔を上げる。美千花さんの姿を見つめる。


 目の前に座っていたのは、もう、僕の知る美千花さんではなかった。仄暗い目をした寂しいひとではなく、寂しさを受け入れ、寂しいままに生きていこうとする、ひとりの、大人の女性だった。


「……そうだね」


 僕は静かに返事をする。目を伏せて、自分の内側にある感覚、寂しさと名付けられたそれを、ゆっくりと噛み締めた。


(……みんな、寂しいひとなんだ)


 誰もがみんな、寂しいまま生きていた。寂しいのは、僕やきみや他の誰か、ひとりじゃない。寂しいひとならどこにでもいる。だから──僕は、きみは、ひとりじゃない。


「ねえ、美千花さん」


 呼びかけると、美千花さんは静かに僕を見つめ返した。ダークグレーの瞳、複雑な色をした美しい虹彩の中に、僕の姿が映っている。


 僕は手を伸ばして、美千花さんの指先をつかまえた。そっと手を取り、引き寄せる。


 そして──いつかそうしたように、白い手を下から掬い上げて、まるで騎士様みたいにその指先に口付けた。触れる感触が、胸の底をかすかに揺らした。


 眼差しをはっきりと強くして、まっすぐに美千花さんを見つめる。僕は万感の思いを込めて、はっきりと言った。


「次に住むところ、アパートにしてよ。大きくなったら、僕、その下に住むから」

「あなた、……」


 美千花さんが、大きく目を見開く。その虹彩のダークグレーがとても綺麗だということを、ずっと思い続けてきた。この瞳が本当の笑みの形になるのを、ずっと見てみたかった。


「まだ……私の下に、いてくれるの」

「うん」


 うなずいて、僕は続ける。ありったけの感情を込めて、僕の心のすべてを取り出して、このひとに差し出すように。


「約束しようよ。同じ時間にごはんを食べて、同じ時間に眠ろう。別々の階で、一緒に」

「……っ……」


 握りしめた美千花さんの指先が、小さく震えている。美千花さんはくちびるを噛み締めて、とても長いあいだ黙っていた。いくつもの表情が彼女のうえを横切った。


 そして。長い沈黙のあと、美千花さんは静かに僕の手を握り返すと、


「待ってるわ、ずっと──」


 きらきらした、満面の笑みを見せた。紅潮した頬、濡れた瞳が涙の光でまたたいて、本当にきれいだった。まるで冬の凪いだ湖面に、いちめんの星空が差したみたいに見える。


(ああ──……)


 それは僕がずっと見たくて、でもいくらもがいても叶わなくて、痛切に求めながら、どこかで諦めていたもの──心からの、素直な笑顔だった。


 目の前の明るい笑みが、僕の心のいちばん奥に、まっすぐに入ってくる。心臓の奥が震えている。


「──っ……」


 その瞬間、なにか美しくて尊くて透明なものが、僕の内側をしんしんと満たしていくのを感じて──僕ははじめて、まじりっけのない幸福、というものがわかった気がした。悲しくもないのに涙が出て、どうしても、止まらなかった。



        ※



 ブルーグレーの傘が、雪の中を遠ざかっていく。僕は門の前で、美千花さんの後ろ姿が小さくなってゆくのを、ずっと見つめていた。


(美千花さん……)


 吐いた息が白い。冷えた両手を擦り合わせて、僕は小さく鼻をすすった。


 これから、僕と美千花さんは、それぞれの道を生きることになる。また会えるかどうかは、きっとこれからの僕たち次第だ。


 はらはらと雪が舞う。吐いた息が後から後から、真っ白く散っていく。雪は美千花さんの足音をすっかり吸収して、耳に届くのは雪と大気の音だけだった。あのひとの気配が少しずつ、僕の前から消えていく。


 だけど、僕は怖くはなかった。たとえ人生の中でたったひとりになったとしても、きっと大丈夫だと思った。


 悲しくても、不安でも、たとえずっと寂しくても、それでもいいのだと。そのことを、彼女が教えてくれたから。


「さよなら、美千花さん。……またね」


 とても静かにつぶやく。応えてくれる人はいない。それでも、僕は深く息を吸った。何度か深呼吸をして、静かに、だけどはっきりと微笑む。胸の内は不思議なほど穏やかだ。


 僕たちは、寂しいままで生きていく。埋め合うことはできない。

 僕を満たす静謐な寂しさは、きっとこれからも僕を蝕み、同時に僕を導くだろう。

(だけど──……)


 もうどこにも見えなくなった美千花さんに、心の中で呼びかける。ねえ美千花さん、と声に出さずに囁けば、あのダークグレーの静かな瞳が、まだ僕を見つめているような気がした。


 雪は降り続ける。いくら心で呼びかけても、返事などひとつもない。

 だけど、僕は満たされていた。寂しさと、いつかの未来への意志が、僕の道行きを照らしている。


 きっとこれからも僕は寂しいだろう。悲しいだろう、怖いだろう、やるせないことばかりだろう。人生において希望など、そう多くは存在しない。

 でも、それでも、僕は。


 降りしきる雪の中、空を見上げた。薄く輝く空から、白い雪がちらちらと舞い落ちてくる。淡いグレーの、とても静かで哀切なのに、美しい、あのひとの色。

 僕は呼びかける。もう戻らないひとに向かって。



 ……ねえ、美千花さん。

 いつかまた、同じ時間に食べて、同じ時間に眠ろう。

 寂しいままで幸せになろう。

 きっと別々の場所で、それでも──ふたり、一緒に。



 呼びかけの残響が静かに胸を満たす中、そっと目を閉じる。目の端に降り落ちた雪のかけらがすうっと溶けて、こめかみを伝い落ちていった。それがまるで涙みたいだと思って、僕は少しだけ、笑った。




《きみの階下で眠りたい ── 了 ──》

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