表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【完結・百合】家庭環境最悪な僕っ娘(14)が、マンションの上階に住む人妻(28)にズルズルに依存する話  作者: Ru
最終章 『寂しさ』

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

28/29

第28話

 あたたかい部屋の中、ストーブにかかったヤカンから、しゅんしゅんと湯気の音がする。


 相談室のテーブルに向かい合って、僕と美千花さんは座っていた。ドアの前には、保育員さんと男性の相談員さんが、心配そうに立っている。彼らの立ち会いの元ならという条件で、僕たちの面会は許されていた。


 美千花さんは、出されたお茶に手を付けることなく、静かに辺りを見回した。ふ、と小さく息の音。


「……いいところね。あたたかくて、やさしい場所」

「うん……僕も、そう思う」


 控えめに言うと、美千花さんはやわらかく微笑んだ。そのくちびるには、コーラルピンクの色が乗っている。あの口紅とは、ぜんぜん違う色だった。


 美千花さんの雰囲気は、以前とまったく変わっていた。まとう服は黒ではなく、やわらかなパステルカラーになっている。うすく化粧もしているようで、全体的に血色がいい。前よりも、ずっと明るい印象だった。


「なんか……格好、ぜんぜん違うね」

「ああ、そうね。もう、必要ないから」

「必要……ないの?」


 美千花さんは何気なくうなずくと、さらりと言う。


「ええ。今、離婚調停中なの」

「えっ」

「マンションを出て、今はDV被害者向けのシェルターで暮らしてるわ。だから現住所は、夫にも内緒」


 そう言うと、美千花さんはいたずらっぽく微笑んだ。僕はなんだか信じられなくて、ただ目をぱちぱちさせる。


「その……いいの? 旦那さんのこと、あんなに……」

「いいのよ。もう、……いいの」


 最後だけ、どこか寂しさを感じさせる声だった。だけど美千花さんはくすりと微笑んで、まっすぐな目で僕を見た。


「あなたも、元気そうで良かったわ」

「うん。ここは快適だし、みんなすごく優しい」

「そう……安心したわ。本は変わらず読めてる? あなた、好きでしょう」

「大丈夫。前の家ほどじゃないけど、ここにも本はたくさんあるし……それにそうだ、図書カード。見て、これ、僕の!」


 僕はごそごそとポケットから図書カードを取り出すと、美千花さんに見せつけた。


「これ、すごいんだよ。これさえあれば、十冊まで本を持って帰ってもいいんだって! 知ってた⁉」


 興奮気味に言うと、なぜか美千花さんはぷっと吹き出す。そのままくすくす笑いだすものだから、僕はなんだか恥ずかしくなってしまった。


「な、なんで笑うの……」

「ふふ、ふふふっ……! ごめんなさい、ただ──」


 そこまで言って、美千花さんは急に言葉を切る。そして、ふっと顔を伏せてしまった。


「……美千花さん?」

「……ただ、あなたが、元気で、笑っているから……っ」


 美千花さんが、震える声を詰まらせる。下を向いた美千花さんの肩が小刻みに震えて、ダークグレーの前髪の隙間から、きらきらっ、と光るなにかが落ちていった。


「……美千花さん……」

「ごめんなさい。大丈夫よ」


 軽く鼻をすすると、美千花さんは目元を拭って顔を上げた。やわらかい表情だった。


「今日はね、挨拶に来たの」

「挨拶……?」

「ええ。離婚の目処が立ったから……シェルターを出て、遠くに引っ越すことになったの」

「え……」


 呆然とする僕に、美千花さんが微笑みかける。穏やかな、だけどどこか芯の強さを感じさせる声で、彼女は言った。


「私はもう、ひとりでも、どこか遠くに行けるようになったの。……あなたのおかげよ」


 そう言った美千花さんの顔は静かで、強い決意に満ちていて、だから僕にもはっきりわかった。この人の手を引いて、必死で「行こう」と呼びかける必要は、もうないのだと。


 じんわりとこみ上げるのは、安堵とそれから、にじむような寂しさだ。


「……そっか……」


 僕は目を伏せて、静かにつぶやいた。美千花さんが短く、そうよ、と返事をする。

 僕は自分の前にある湯呑みを両手で包むと、ころころと揺するように転がした。あたたかくてほっとするのに、どこか寂しい感じがする。美千花さんも自分のお茶を持つと、こくり、と一口飲んだ。それきり、沈黙。


 しゅんしゅんと、ヤカンの口から湯気がのぼる音。かすかな身じろぎの気配。壁にかかった時計の針が、こち、こち、と規則的な鼓動を刻んでいる。


 僕はあたたかい湯呑みを手の中でもてあそんで、小さな声でささやいた。


「美千花さんも、僕も出ていって……あのマンション、誰もいなくなっちゃったね」


 美千花さんが戸惑ったように、「誰も?」と尋ねる。僕はうなずくと、少しだけためらいながらも、言った。


「うん。お母さんも、……きっともう、帰ってこないし……」

「……。そうね……」


 美千花さんの、静かな相槌。やんわりと同意を示す仕草に、僕がいつまでも捨てきれなかったみじめな期待が、しぼむように消えていくのを感じる。僕はかすかにうつむいて、くすっと笑った。


「渚さん?」

「ううん。ありがとう、美千花さん」

「え……」


 美千花さんの戸惑う気配。僕はすっと顔を持ち上げると、美千花さんをまっすぐに見て、少しだけ笑った。


「……はじめてだから。お母さんはもう帰らないって、ちゃんと伝えてくれた人」

「あ……」

「あっ、別に他の大人が悪いとかじゃないよ? みんな僕に気を使ってくれてたことくらい、ちゃんとわかって──」

「──渚さん」


 テーブルの向こうから、美千花さんがするりと手を伸ばしてくる。真っ白い手のひらが、ひたり、と僕の頬に触れた。


「あ……」


(……あったかい)


 ゆっくりと僕の肌をさすっていく、なめらかな感触。やわらかなぬくもりに、うまく言えない気持ちがこみ上げて、僕はかすかに眉を寄せた。


 途端、はっとしたように美千花さんが手を引っ込める。戒めのようにぎゅっと両手を握り、彼女は自分を責めるように表情を歪めた。


「ごめんなさい……私、あなたに触れる資格なんて──」

「美千花さん。僕ね、ずっと言ってなかったことがあるんだ」

「え……?」


 謝罪を打ち切られた美千花さんは、戸惑ったように僕に視線を向けた。ダークグレーの美しい瞳。それをまっすぐに見つめ返して、僕は笑う。


「はじめて会ったとき、同じことしてくれたよね。それに、口の食べかすを取ってくれたり、ベッドで歌を歌ってくれたり」

「そうだったかしら……」

「そうだったよ。こんなこと、生まれて初めてだったから。全部、はっきり覚えてる」


 美千花さんはくちびるを軽く開いて、多分なにかを言おうとして──けれどなにも言わずに、ただ、僕をいたわるような顔をした。


 寄せられる心遣いの気配に、僕は静かに微笑んで、ゆるゆると首を振る。


「あのね。僕、もう一度美千花さんに会えたら、ずっと言おうと思ってた。ありがとう、って」

「……そんなの、私、ちっとも……」

「いいんだ。美千花さんが、どういうつもりだったかなんて、関係ない。僕がただ、伝えたいだけ」


 噛みしめるように続けると、美千花さんは、痛いみたいに目元を歪め、ぽつりと僕の名前を呼んだ。


「渚さん、でも私は──」

「いいの。全部」


 このひとが僕にしてくれた、あらゆることが思い浮かぶ。それだけが全てだと思った。ただ笑って、感情のままに伝えた。


「美千花さん。そばにいてくれて、ありがとう」

「っ……」


 はっきりと、息を呑む音。


「そんなの……私の、ほうこそ……っ」


 美千花さんが、くちびるを噛みしめて下を向く。小さく震えた肩、垂れかかったダークグレーの髪の合間から、とても小さな声が絞り出された。


「……私こそ、あなたに、甘えてたのよ。あなたの無垢な親愛に、ずっと救われていたのは、私のほうなの」

「え……」


(僕に、救われて──?)


 まばたきを一度。僕は美千花さんの言葉を受け取って、その意味をゆっくりと咀嚼して、「……ほんとに?」と言った。美千花さんがうなずく。


 僕はただ目を見開いて、信じられない気持ちで尋ねた。


「ほんとに……僕が、美千花さんを?」

「そうよ」

「っ……」


 ──じいん、となにか深いところが、震えるような感覚。


 なつかしい、前に感じたことのある感じだった。まるで、まだ濡れたままの傷口が、丁寧に手当をされて、熱くしみるような。


 くちびるが半開きになって、声がぽつりと、勝手にこぼれ落ちる。


「僕……自分は無力だって、なにもできない子供だって、ずっと思ってた……」


 呆然と美千花さんを見つめる。下を向いている美千花さんは、ずっ、と鼻をすすって、小さく背を震わせていた。ダークグレーのつむじが、黙って首を振る仕草。


「僕、美千花さんの、助けになれてたの?」

「……そうよ」

「なにか、意味のあることができてたの?」

「ずっと、そうだったわ……」

「でも、僕、美千花さんの役に立つようなこと、なにも──」

「そんなことない」


 それは、とてもはっきりした声だった。美千花さんがゆっくりと顔を上げる。涙じみた真っ赤な目で僕を見つめて、美千花さんは静かに言った。


「ずっと、そばにいてくれた……」

「そばに……いた……」


 それだけ? なんて、言うことはできなかった。


 だって僕は知っている。美千花さんがそばにいてくれて、その階下で眠ることができて、それだけのことに、僕がどれだけ救われたか。


(美千花さんも、同じだったんだ……)


 そう思った瞬間、じわり、と視界がにじんだ。鼻の奥がつんとして、目頭がじんと熱を持つ。口元がみるみる歪んでいって、僕は泣きそうになるのを必死でこらえた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ