第27話
その日から、僕は少しずつ、部屋の外に出るようになった。同じ施設の子たちとも話すようになった。友達みたいな存在も、少しはできた気がする。相談員さんいわく、僕が学校に行ける日も、そう遠くはないらしい。
冬はしんしんと深まってゆき、やがてカレンダーが新しいものに取り替えられた。クリスマスやお正月といった、生まれて初めての季節行事も経験した。なにもかもが新鮮だった。
朝起きると、僕たちの街に、この冬で二度目の雪が降っていた。窓の外を覗いてみれば、中庭の地面がうっすらと白くなっている。見上げた空は淡い灰色に光っていて、白い雪のかけらが、上空からしんしんと降ってきていた。
「……きれい……」
ぽつりとつぶやく。触れた窓ガラスはひんやりと冷たく、暖房のよくきいた室内とのコントラストで、表面がうっすらしめっていた。
つう、と指先を動かしてみれば、薄い結露に濡れた線が引かれていく。僕はなんだか楽しくなって、猫とかクマとかウサギだとか、思いつく限りの絵を窓の上に描いてみた。
そうして、ひとしきり窓を動物で埋め尽くしたころ。
ふと、窓の外から人の声がした。
(なに……?)
声のトーンからして、誰かが揉めているようだ。僕はからりと窓を開けて、冷えた外気の中に顔を突き出してみた。
誰かが、門の前に立っている。人影は傘を差していて、顔はよく見えない。淡いブルーグレーの傘の上に、白い雪がうっすらと積もっていた。
その誰かに向かって、施設の大人が二人ほど対峙している。剣呑な空気でこそないけれど、彼らはあからさまに『帰ってくれ』というような身振りをしていた。
(誰だろう……)
誰かの保護者だろうか。ここの大人たちが帰らせようとしているということは、あまり良い保護者じゃないんだろう。
まあ、よくあることだ。僕はたちまち興味を失って、ふいと門から視線を逸らした。そのまま、窓を閉めようとしたとき。
「……わかりました。どうか、渚さんをよろしくお願いします」
(……えっ?)
耳に届く自分の名前、それ以上に──どこか沈痛で静かな響きの、何度も聞いたことのある──あの、声は。
がばっ、と勢いよく顔を上げた。半開きだった窓を跳ね開けて、降りしきる雪の中、ぐっと大きく身を乗り出す。門のあたりに目を凝らす。
その人は、黒い服ではなかった。やわらかなグレージュのコートに、薄いむらさきのスカートを履いていた。だけど僕にははっきりわかる。
物静かな佇まい。儚げで、どこか仄暗い雰囲気。傘の持ち手を握る、病的なほど白い、桜色の爪が並ぶ女性らしい手。
(あれは……あの、ひとは──)
「──美千花さんッ‼」
気が付けば叫んでいた。喉がびりびりするほどの大声に、はっ、と門にいた全員が振り返る。淡いブルーグレーの傘がぱっと持ち上がって、その影から、美千花さんの顔が覗いた。
「待って! すぐ行くから‼」
僕はそれだけ叫ぶと、窓も閉めずに身を翻した。部屋を飛び出し、廊下を走り抜け、階段を駆け下りて、玄関の扉にぶつかるように建物から転がり出た。
外に出たとたん、ぶわっ、と真冬の冷気が押し寄せてくる。ちらちらと視界の中を雪がかすかに横切って、僕はもつれそうになる足を必死に動かして、走った。
施設のスタッフたちが、焦ったように振り返る。慌てふためく彼らに向かって、僕はすがるように声を上げた。
「渚ちゃん……!」
「待って、そのひと、僕の、すごく、大事な……!」
はあっ、はあっ、としきりに白い息が散る。僕はようやく門の前に辿り着くと、膝に手をついてぜえぜえと背を上下させた。
真っ白な息を切らせながら、ゆっくりと顔を上げる。ちかちかと光る雪がまたたく中、僕の視界の真ん中に、美千花さんが立っていた。
「美千花さん……」
「……」
美千花さんはなにか言いたげに口を開いたが、ためらったように閉じてしまった。ダークグレーの眼差しがかすかに逸らされて、彼女はそっと下を向く。
僕は周囲を見回すと、施設長さんに向かって言った。
「このひと、僕の、えっと……友達です!」
スタッフのみんなが、戸惑ったように顔を見合わせる。僕は焦って、「あの!」と声を大きくした。
「年はたしかに離れてるけど、でも、僕にとっては、すごく、すごく大事な……っ」
こみ上げる感情で喉が詰まる。自分はもう少し口が回る人間だと思っていたのに、こんな大事なときに、ちっともうまく説明できない。
「違うの……ほんと、ほんとに、大切な……」
もどかしさのあまり、じわりと涙がにじんだ。白い視界がゆらりと揺れて、ずっ、と鼻をすする。僕はふらふらと、美千花さんのほうに歩み寄った。
美千花さんが、そっと僕へと視線を戻す。美しいダークグレーの、複雑な色をした虹彩が、静かに僕を見つめていた。儚げな声が僕を呼ぶ。
「渚さん……」
「っ……会いた、かった……」
それきり、もう、言葉が出なかった。僕はぐずぐすと鼻を鳴らすと、下を向いて歯を食いしばった。ぽたぽたと落ちた涙が足元の雪を溶かして、淡いまだらの模様を作っていった。




