第26話
大量の本が散らばったベッドの上で、僕は布団にくるまって、いつまでも呆然としていた。表情がなにも作れない。ひたすらにまばたきを繰り返し、ふかふかの知らないベッドの感触に、ぼんやりした違和感を覚える。それだけの毎日だ。
もう何日も、ずっとこうしている。ベッドの上で大量の本に囲まれて、ただひたすら、細くかすかな息を続けるだけの。
いくら天井を見上げても、上階に眠る人はもういない。おやすみを言う相手も、女性にいいお茶を出してくれる人も、一緒に逃げたいと願った人も、もう、どこにも。
僕は──ひとりだった。
【最終章 『寂しさ』 】
目まぐるしく状況は変わる。
あの公園の朝、病院に連れて行かれた僕は、心身をくまなく検査された。下された診断は、極度のストレスと慢性的な栄養失調による発育不良。なんでも、とても十四歳とは思えない発育具合だったらしい。
検査と治療のため、僕は一週間以上入院を余儀なくされた。そのあいだ、病院の人や役所の人、僕の知らない立場の人、ありとあらゆる大人たちと、何度も〝お話〟と称した面談を繰り返した。
その後、退院を迎えた僕が連れて行かれたのは、あのマンションではなく、家庭に問題がある子供たちが暮らす施設だった。
僕は二階の角に部屋を与えられ、これからここで暮らすのだと言われた。ものを取りに行くのはいいけれど、マンションに戻ることは許されない、と。じゃあお母さんはどうするの、と尋ねたけれど、その答えは誰からも返ってこなかった。
そうして、与えられた部屋に落ち着いて、五日ほどが過ぎた。
あたたかい色の壁紙で囲まれた、清潔な一人部屋。窓の外からは、真冬の淡い日差しが静かに差し込んでいる。今日も天気はいいらしい。どうでもいいことだ。
なにもない勉強机の横に、ぎっしりと詰まった本棚。そこに入り切らなかった本が、僕の周囲、ベッドの上に散乱している。
僕はぼんやりとベッドに横たわったまま、なんの意味もない呼吸とまばたきを、ただ淡々と繰り返していた。視界に移るのは見慣れない部屋の風景と、大量に散らばった本たち。そばに本がないと落ち着いて眠れない僕のために、大人たちが施設中からかき集めたものだった。
散らばった本のうち、一冊を引き寄せる。あのマンションから唯一持ってきた、図書館のおじさんがくれた本だった。
残酷な現実に耐えるため、自分を傷付ける人間を愛してしまう、人間の心理的習性。ストックホルム症候群、というのだそうだ。
おじさんの本を胸に抱き、ぼうっとまばたきをする。そのとき、とんとん、とノックの音がした。
「渚ちゃん。入ってもいい?」
「……」
「駄目だったら、そう言ってね。これから、少しだけドアを開けて中を覗くね。渚ちゃんが眠っていたら、その場で引き返すから、安心してちょうだい」
「……」
返事をしないままでいると、キイ、と薄くドアが開く音がする。僕はぼうっと目を見開いたまま、ただ息をしていた。保育員のお姉さんがそっと顔を覗かせる。僕が起きていることを確認すると、彼女は静かに身を滑り込ませてきた。
「渚ちゃん、こんにちは。今日もいい天気よ」
「……」
「この部屋、ちょっと寒いね。暖房をつけてもいい? 嫌だったら教えてね。すぐにやめるから」
返事はしない。ただ暖房をつける習慣がなかっただけで、別にどうでもいいからだ。保育員さんはやさしい目で僕に笑いかけると、黙ってエアコンのスイッチを入れた。ぶおお、と温風が吐き出される音がする。
「ベッドの本、もう読んじゃったでしょう? 少し取り替えようか」
「……うん」
消え入りそうな声で言う。本が入れ替わるのはいい。ずっと同じ本なのも悪くはないけど、やっぱり新しいものを読むほうが気が紛れる。
お姉さんは静かに僕に歩み寄ると、散らばった本を何冊か新しいものに取り替えた。すぐ目の前に、ぱたり、と一冊の本が置かれる。僕はぼんやりとその背表紙を見つめた。ずっと昔に、一度だけ読んだことのある本だった。
「お夕飯、みんなと食べる? ここで食べる?」
「……ここ」
「わかった。じゃあ、時間になったら運んでくるからね。おいしく作るから、食べれるだけ食べてね」
「……」
「……じゃあ、またあとでね、渚ちゃん」
お姉さんは、最後に僕の髪を撫でようとして、ためらったように指先を引っ込めた。なんとなく、美千花さんの仕草に似ていると思った。じくりと胸が痛くなる。
お姉さんは、ただ横たわって息をするだけの僕を数秒見つめていたけれど、やがて小さく息をついて、微笑んで部屋を出ていった。
しいん、と静かになる。誰もいなくなった室内に、僕の呼吸音だけが、規則的に響いていた。
僕は目の前に転がった本の背表紙を、ぼんやりと見つめる。さっき取り替えられたばかりの、昔いちど読んだ本だった。
いなくなった飼い主を探し求め、たった一匹で何百キロもの旅をする、忠犬の物語。背表紙のタイトルを心の中で読み上げて、僕は細い息を吐き出した。
寂しさ。愛着。犬や猫は消えた飼い主を死ぬまで忘れないという。現実と認識の間にあるフィルター。ストックホルム症候群。七歳までは神のものというフレーズ。子供はまだ人間ではない。
そう。この社会の中で、僕は正しく〝人間ではなかった〟。
生きているのに、存在しないことになっている人間。『無戸籍児童』というらしい。十四歳を児童と呼ぶのは、なんだかあまりピンとこなかった。僕の知る本の中では、その呼び名は小学生のもののはずだけれど。ただ、こういうケースでは、十八歳まではみんな児童と呼ぶのだそうだ。
戸籍、というのはとても大切らしい。戸籍がないと学校にも行けないし、病院にもかかれないし、僕が死にそうになっても、誰も助けに来てくれない。だって僕は人間じゃないから。この社会の中で、存在してはいないから。
そんなのは、当たり前のことだと思っていた。でも、どうやらそうじゃなかったらしい。大人たちが少しずつ教えてくれたことによって、僕はしだいに現実を知っていった。
そうして、はっきりわかったことがある。
僕の命は、存在は、まったくの無価値で、無力だった、ということだ。
誰も僕を知らなかった。その生命を尊ばなかった。僕が死んでも、生きていても、この社会にとってはどうでもいいことだったのだ。
お母さんは僕の生存を放棄した。美千花さんは僕の手を掴まずに、背を向けて去っていった。僕が守るべき人は、もう、どこにもいない。
(──いや、違う……)
最初から、そんなものはなかったんだ。
僕はただ、勘違いをしていただけ。思い込みたかっただけだ。
僕は強くて、十分立派で、単なる女の子とは違う。僕は騎士様で、大人を守れるくらいすごくて、お母さんはそんな僕を頼りにして、ただ甘えているだけだと。僕を捨ててなんかいないんだと。
ずっと言い聞かせていた。こんなのはいっときのことだと。いずれ全部元通りになるんだから、僕はひとりでも平気だと。怖くなんかないって、大丈夫なんだって、寂しくなんかないんだって、
(……信じていたかった、だけなんだ……)
──寂しさとはなんだろう。
僕にはそれがわからない。
ずっとそう信じてきた。でも、そうじゃなかった。
僕は自分が寂しい人間だと知りたくなかった。寂しいひとを救うことで、その寂しさを拭い去ってあげることで、自分はそうじゃないんだと、違うと思いたかっただけなんだ。
(だけど──)
美千花さんの言葉が蘇る。もし、僕があの男より寂しくなったら、と言ったとき。あのひとは「あなたには〝まだ〟無理」とはっきり言った。
美千花さんは気付いていたんだ。僕が無力なこと、ただの未熟な子供だったこと、僕の信じた恋なんて、全部まぼろしだったこと。この感覚を表す言葉を、僕がずっと、持ち合わせていないふりをしていたことを。
本当は僕こそが、みじめで、無力で、寂しい人間だったのに。僕はただ、それに気付いていなかった。美千花さんの「あなたには〝まだ〟無理」とは、きっとそういう意味だったんだ。
美千花さんは言った。
『あなたは、私じゃなくてもいい』
(ああ──本当に、その通りだった)
誰でも良かった。誰かを助けてみせることで、自分は強いと錯覚させてくれるなら。大人の真似事をすることで、この拙い自尊心を満たしてくれるなら。寂しいことを寂しいと気付かせぬまま、この残酷な現実に目を塞ぐことを許されたまま、黙ってそばにいてくれるなら、僕は──
(誰でも、よかったんだ……)
ぎゅうう、と本を抱きしめる。図書館のおじさん、僕を連れに来た大人たち、施設のみんな、そして、美千花さん。僕にやさしかったありとあらゆる人を思い出して、それでも、と思う。
「っ……それでも、美千花さん……」
きみと一緒にいるあいだ、僕はずっと救われていた。それだけは、本当だったんだ。
閉じたまぶたの裏側に、美千花さんの姿がよみがえる。黒い服、病的なほど白い肌、静謐な寂しさに満ちた、ダークグレーの仄暗い瞳。ずっとずっと、僕のそばにいてくれた人。
「美千花さん……みちか、さん……っ」
絞り出した声が震えた。目の奥がじいん、と熱を持って、鼻の奥がつんと苦しくなる。喉がぎゅうと引き絞られたみたいに痛んで、僕は心もとない呼吸を必死で繰り返した。
美千花さん。たったひとり、僕を救ってくれた人。
もう二度と触れたいなんて言わない、連れ出したいなんて思わない。騎士様になれない子供でも、それでももう、かまわないから。
(だから、せめて──)
「……もう一度、きみの階下で眠りたい……」
痛切な願いが、もう二度と叶わない切望が、消え入りそうな声となって、魂の底を揺さぶった。こみ上げるものを抑えきれない。どうしようもなくなってしまう。
見ないふりなんてできない。知らないふりなんてできない。認識と現実のあいだのフィルターはもうすっかり上げられて、僕の前にはむごたらしい現実が、いつまでも永遠に続いている。あの寂しくも愛おしかった日々は、もう二度と、決して戻ることはない。その、どうしようもない現実が。
ひぐっ、と喉が鳴った。視界がじわじわ、にじんでいく。僕のいちばん奥のほうから、引き痙れた悲鳴が絞り出される。我慢しようと思ったのに、どうしても、耐えられなかった。
「……寂しい……寂しいよぉ、っう、うぁあああ……っ‼」
横たわったシーツに頬を擦り付けて、歯を食いしばって、呻くようにすすり泣く。目の端から、ぼろぼろ涙がこぼれていって、僕は生まれて初めて、自分は寂しい人間なのだと痛感して、声が枯れるまで泣いた。




