第25話
「『お母さんは出かけてるだけ』」
「ッ──」
「あなた、本当にそれを信じてるの?」
「……っ、しんじて、るよ……」
「嘘」
「うそじゃ、な──」
「15万円を残して突然いなくなって、半年以上も音沙汰のない人間が、ただ『出かけてる』だけ? それを素直に信じるほど、あなたは子供でも、愚かでもないはずよ」
「──それ、は」
「あなたはわかっている。現実を認識している。ただそれを見るのが怖いから、目を背けているだけ」
「げん、じつ……」
「そうよ」
託宣は続く。僕がいくら首を振っても、嫌だと表情で示しても、目の前の人はやめてくれない。ただ淡々と、残酷な言葉を告げるだけ。
「あなたが守ってあげたかった母親は、あなたをとっくに放棄した」
「ちが、」
「あなたは、半年も前に、もう捨てられてるの」
「やめて」
「だけどあなたは何もできない」
「そうじゃない、」
「だってあなたは誰にも認知されていないから。ずっと隠れてきたから。あなたがここにいることも、生まれてきたことさえも、誰にも知ってもらえなかったから」
「いやだ、」
「このままだとどうなると思う?」
「──いや、やめて、」
反射的に耳をふさぐ。背を丸める。縮こまって、首を振って、真実を、残酷なものを、僕に降りかかるありとあらゆる槍のような現実を、見ないように逃げようとする。だけど。
「わかって、渚さん」
ひどくやさしい指先が、耳を塞ぐ僕の手にそっと触れた。ゆっくりと手を捉えられ、僕の両耳が解放される。そして──
「──あなたは、何もできないまま、飢えて死ぬの」
(──ぁ、あ……ッ……)
ずっと見て見ぬふりをしてきた、本当の現実が──僕のいちばん内側に、まっすぐに入り込んできた。防ぐ余地もなかった。
呆然と、目を見開く。視界がぐらぐら、勝手に揺れて、わけのわからない涙がにじんだ。
全身が、少しずつ冷たくなっていく。ちがう、という言葉を口に乗せようとして、できなかった。かわりに込み上げてくるのは、言いようのない恐怖だ。それは僕の生活の底にずっと横たわっていた、怖くて、怖くてたまらない、ともすれば叫びだしそうになるほどの、今にも泣きわめいてしまいそうな、あまりに強烈な感情だった。
「……っ、やだ……」
それはずっとそこにあった。はっきりとした死の予感と、なまなましい絶望を、一分一秒のなかでずっと実感しながら、それでも、僕は知らないふりをし続けた。
ただ死ぬのを待つだけなんて、そんなのは怖い。どうしようもないなんて、そんなこと、認めたくない。現実と認識のあいだにあるフィルター。僕は自分でそれを下ろした。見えない人のふりをした。だけど。
「……渚さん」
美千花さんの静かな目が、じっと僕を見つめている。慈しみと哀れみが同居する、痛ましいものを見るような瞳。伸ばされた真っ白い指先が、僕の頬に触れようとして──すっ、と引っこめられた。
美千花さんが、ぐっ、とくちびるを引き結ぶ。そして、彼女はしゃんと背筋を伸ばして立ち上がると、くるりと顔を巡らせた。
「すみません──こっちです!」
「え……?」
ぴんと張りつめた声が、公園の奥側に投げられる。美千花さんの呼びかけに応じて、遊具の向こうから、二人の人影が現れた。知らない人だ。スーツのおじさんと、エプロンのおばさん。少し険しい顔をした大人たちが、美千花さんに近寄ってくる。
「この子です」
「わかりました、ご協力感謝します」
「事情は、電話で説明した通りですから」
「ええ」
「み──美千花さん……?」
美千花さんは、なにか僕の知らない、大人の顔をしていた。きりりとした目をして、おじさんたちと話し合っている。
二、三の会話があった、かと思うと。エプロンのおばさんが、急に僕のほうに歩み寄ってきた。びく、と肩が跳ねる。思わず身を縮めた僕に、おばさんは膝に手をついて屈み込んできた。
「驚かせてごめんなさいね。あなた、お名前は?」
「な……渚……」
「渚ちゃん。いくつか、あなたのことで知りたいことがあるの。質問に答えてくれるかしら」
「え……?」
呆然とする僕に、おばさんとおじさんがゆっくりと質問を投げかけてくる。食事は、洗濯は、お金は、普段の過ごし方は。
僕がそれに答えるたび、彼らは顔をしかめて頷き合う。まるで、とっくに知っていることを、ただ最終確認しているだけ、みたいな口調だった。
いくつもの答えを口にして、ようやく質問が途絶えた、と思ったとき。おじさんとおばさん、そして美千花さんが、すっと視線を交わしあった。おじさんたちが美千花さんを見て、美千花さんは厳しい顔でひとつ頷きを返す。
「……な、なに、なんなの……?」
僕が戸惑い、うろたえていると、おばさんが少し悲しそうに眉を寄せた。やわらかい声で呼びかけられる。
「ねえ、渚ちゃん。おばさんたちからね、ひとつお願いがあるの」
「え……お願い……?」
「今から、おばさんたちと、一緒に来てほしいの」
「ど、どこに」
「渚ちゃんが、安心して過ごせるところよ」
「で、でも僕、家でお母さんを待たないと──」
反射的に言った途端、大人たちの顔に沈痛な哀れみの色が宿った。やめてほしい、と痛切に思う。違う、僕は、だって、お母さんはきっとまだ、でも、現実はそうじゃなくて、僕はいずれ飢えて、いや違う、そうじゃ、そうじゃない。
「ぼ、ぼく、ぼくは……っ」
「……あのね。あなたは、保護の対象なの。大人が側について、安全で、安心できる場所にいかないといけないのよ」
「だ、だから、僕は、あの家で──」
「今から行くところは、暖房もきいてるし、ご飯もたくさんあるし、お風呂だって入れるの。ちゃんとベッドで眠れるし、しばらくしたら、学校にだって通えるわ」
「そ、そんなの、僕、いらない……」
矢継ぎ早に与えられる言葉に混乱がこみ上げて、僕はふるふると首を振る。どうすればいいかわからない。助けを求めるつもりで美千花さんを見たのに、彼女はただ、なにかを決意した瞳で僕を見つめるだけだった。
「いやだ、ぼくは、美千花さんの、下で、ずっと……」
状況が、ちっとも飲み込めない。混乱と恐慌で呆然とするしかできない。いつまでも要領を得ない僕にしびれを切らしたのか、ずっと背後で控えていたおじさんが、ずい、と一歩前に出た。
「……仕方がありません。緊急事態です、僕が連れて行きます」
「お願いします。どうか穏やかに」
「はい」
おじさんとおばさんが頷きあった、と思った瞬間。近寄ってきたおじさんが、僕の腕をそっと取る。
「な、なに──」
「ああ、細いな……ごめんよ。この栄養状態、この気温で、大人のいない現状観察は無理なんだ。君には、無理にでも一緒に来てもらうことになる」
おじさんが痛みをこらえるような顔をした。半ば強引に立たされた、かと思うと、力強く引っ張られる。僕は慌てて地面を踏ん張って、連れて行かれないように必死で耐えた。待ってよ、と叫ぶ。
「待って、なにこれ、どういうこと⁉ 一緒に行くって、なに、なんで──」
混乱のあまり周囲を見回して、でも、誰も助けてはくれない。僕は足を突っ張ったまま、少し離れたところでじっと立っている美千花さんに向かって、ねえ、と叫び声を上げた。
「嫌だ、美千花さん、美千花さん!」
「……っ」
「なんで⁉ 僕、美千花さんの下にいちゃ駄目なの⁉ ねえ! 答えてよ‼」
美千花さんは泣きそうな顔でくちびるを噛みしめる。ダークグレーの瞳がきっ、と僕を見据えて、凛とした声がした。
「……最後くらい、大人らしいことをさせて」
「最後、って──」
愕然とする。美千花さんはもう、僕と一緒にいるつもりはない、ということか。
(そんな……)
ぐい、と腕を引かれる。バカみたいに目を見開く僕を引きずって、おじさんの押し殺したような声がした。
「さあ、渚ちゃん。まずは病院で検査を受けて……問題がなければ、安全な場所に行こう」
「いやだ、助けて! 美千花さん‼」
身を捩って、全身を振り乱して、僕は美千花さんに手を伸ばす。その存在にすがりつこうとする。
けれど美千花さんは、ゆっくりと首を左右に振った。黒い服の佇まいが、すっ、と後ろに一歩下がる。
「私には、あなたに触れる資格はない」
「やめて、離して! 美千花さん、助けてよ!」
「──聞いて、渚さん」
泣きわめく僕と対象的な、とても静謐な声。なにか深い決意を宿した眼差しが、まっすぐに僕を見つめていた。美千花さんがささやく。
「あなたはひとりじゃない。私じゃなくても──いいの」
(──……どう、して)
どうして、そんなことを言うの。
どうして、そんな目をするの。
まるで全てを覚悟したみたいな、二度と戻れない場所にたったひとりで立っているみたいな、僕ともう、一生会えなくても構わない、みたいな──どうしてそんな表情で、僕のことを見ているの。
(だってぼく、僕はまだ、美千花さんと──)
「──さよなら」
美千花さんの、はっきりと澄んだ声。凛とした響きが冷え切った真冬の空間を貫いて、僕の耳にまっすぐに突き刺さる。与えられた言葉が信じられなくて、愕然とした。
黒いシルエットがくるりと踵を返す。美千花さんが遠ざかる。
(まっ、て──)
「いかないで……そばにいて、まだ、ここにいてよ……」
美千花さんは振り返らなかった。人影がどんどん小さくなる。黒いヒールの靴音が、だんだんと聞こえなくなっていく。
おじさんが、震える声で「さあ、行こう」と言った。ぐいと強く手を引かれ、上体が大きく傾く。ぐらりとよろめく僕を、おばさんがさっと抱きとめた。そのまま、二人がかりで引きずられる。
僕は呆然と目を見開いて、ほとんど粒みたいに小さくなった黒い影に向かって、全力で叫んだ。
「いやだ……美千花さん、やだぁぁあッ‼」
振り絞った絶叫の残響は、誰にも届くことはなかった。
もがき、喚いて、泣きながら暴れて、それでも全ては無駄な抵抗で。僕はそのまま、おじさんたちの車にずるずると押し込まれていった。引きずられた僕の抵抗の足跡が、公園の砂の上に、のたうつように残っていた。




