第24話
「……この前は、ごめんなさい」
「え?」
「二日前。私が、あなたを、ベッドに引き込んだ日のことよ」
「……えっと」
どうして、美千花さんが謝るんだろう。意味がわからない。だって、謝るべきは僕だ。美千花さんは僕になにかを望んでいたのに、僕はそれをうまく読み取ることができなかった。彼女の期待を裏切った。悪いのは、どう考えたって僕だろう。
本当にわからなくて、だから素直に尋ねた。
「なんで美千花さんが謝るの?」
「……それも、わからないのね」
「え? うん……ごめん……」
僕は謝罪を口にする。美千花さんはぴくり、と肩を跳ねさせて、長く、押し殺した溜め息をこぼした。「違うの」と、とても小さな声がする。
「違う。あなたは、なにも悪くない。悪いのは、ずっと悪かったのは──私たちよ」
「私──たち?」
どういうことだろう。いつもと違う美千花さんの、理解できない言葉に、僕はただ戸惑うしかできない。美千花さんは下を向いたまま、低く、掠れた声で言った。
「あのとき、私があなたをベッドに引きずり込んだのは……私が愚かだったからよ。たまたま寂しかったときに、苛立ったときに、誰でもいいから八つ当たりしたかったときに──あなたが、たまたまそこにいた」
「っ……」
ずき、と胸が痛む。とっくに知っていたけれど、改めて誰でもよかったと口にされると、心臓が引き絞られるような気持ちになった。
美千花さんは続ける。
「あなたはまだ子供だってわかってたけど、そんなこと、どうだってよかったの」
「ちがう、僕は子供じゃ──」
「あのとき、無理やりセックスをしなかったのは」
感情的な僕の反論を強引に遮って、下を向いた美千花さんが、まるで懺悔のようにつぶやく。
「単に、あのときのあなたじゃ、私の役に立たなかったから。それだけよ」
「──ッ……」
ぐさりと、全身が突き刺されたようだった。役に立たないことも、僕じゃ駄目なことも、知っていた。だけど、知っているからって、言われて平気だということにはならない。
ぐっ、と感情をこらえる僕を、美千花さんはちらりと横目で見た。端正な、陰のある顔立ちが、僕の知らないなにかで翳っていく。静かな声が吐き出される。
「……ほんっと、最低よね……」
絞り出すようなその語尾は、涙じみて掠れていた。見たことのない美千花さんの様子に、戸惑いと焦りがこみ上げる。僕はぎし、とシーソーを鳴らして、美千花さんの方に身を乗り出した。
「大丈夫……? もしかして、旦那さんになにかされたの? だったら僕が──」
「やめて」
びくり、と思わず身が跳ねる。聞いたことのない、はっきりした、強い口調の拒絶だった。
呆然とする僕に、美千花さんがゆっくりと顔を巡らせる。こちらを向いた白い顔が、見たことのない、意志を宿した眼差しが、まっすぐに僕を見つめていた。美千花さんは言う。
「私は大人よ。自分のことは、自分でなんとかする」
「っでも、だって、美千花さんには、僕がいないと──」
「本当にそう思うの?」
「ッ……!」
きっぱりと問いかけられ、思わず息が詰まった。ひぐ、と喉が鳴る。美千花さんはかすかに眉を寄せると、ひとつ静かに息を吐いた。ゆっくりと、黒いコートの姿がシーソーから立ち上がる。僕の座面がするすると落ちていって、爪先がとん、と地面にぶつかった。
下りきったシーソーに座り込む僕の前に、美千花さんがやってくる。僕を見下ろす美千花さんの表情は、白い後光とグレーの逆光に塗りつぶされて、ちっともうまく見えなかった。
「み……美千花さん?」
「あなた、本当は、気付いているんでしょう」
「なに、に──」
「すべてに、よ」
シルエットだけになった人影から、はっきりと、託宣のような声がする。僕は自分の底から、得体の知れない怯えがこみ上げるのを感じた。ぶるっ、と全身が震える。寒さだけのせいじゃなかった。
美千花さんが、小さく、ためらいのように息を吐く。そして、意を決したように言った。
「あなたは、〝私〟が好きなわけじゃないのよ」
「そんな、こと……」
「あなた、以前うちに、本を忘れていったわね」
そう言って読み上げられたタイトルは、図書館でおじさんからもらった本だった。実話をもとにしたサスペンス小説。「有名なエピソードよね」と美千花さんは静かに言った。
「どうしようもない現実に耐えるため、恋や愛を心の中に作り出す、人間の生理的反応」
「それが……なに……」
「あなたはそれに慣れていた。そうすることが当たり前だった。あなたには、自分を傷付ける人を愛さずにはいられない習性があった」
「ちが、」
「今回もそうしたんでしょう? つらくて、苦しくて、逃げ出したくて、でもできないから。薄々見えていた現実を、直視したら壊れてしまうから。だから、その時いちばん自分を傷付けてくれる人を愛した」
「っ──」
「あなたは、私じゃなくてもよかったの。傷付けて、愛させてくれるなら、現実を忘れさせてもらえるなら、誰でも」
「ち──違うッ‼」
気が付けば、声のかぎりに叫んでいた。ばさばさと木立の中から鳥が飛ぶ。美千花さんは遠ざかるそれを視線だけで追うと、とても静かな目で僕を見た。
(なに、な、……なんで?)
「どうして、そんなこと、いうの……ぼくが役に立たないのが、そんなに、怒って……」
支離滅裂な僕の言葉にも、美千花さんは表情ひとつ揺らさない。ただ静かに、淡々と、なにかを堪えるような目をして、逆光の中で僕を見つめているだけだ。
美しいくちびるが、僕の名前を静かに呼ぶ。
「渚さん」
「わかんない、わかんないよ……ぼく、しらない、なにも、わからない……」
「誰でもよかったのよ。あなたも、私も。みんな寂しい人間なの。それだけよ」
「ちがう……僕は、ちがう、僕だけは、そうじゃない……」
呆然とつぶやく僕に、美千花さんはまるで痛ましいものを見るような顔をした。
(やめ、……やめてよ……)
そんな目をしないでほしい。僕は違う。そうじゃない。寂しいのは美千花さんだ。お母さんだ。僕以外のすべてだ。僕だけは違う。僕は寂しいひとなんかじゃない。
「ぼ、僕は、寂しくない……」
ふるふると、逃げるように首を振った。美千花さんはただ静かに僕を見下ろしている。シーソーはとっくに下りきっていて、そこにしゃがみこむ僕は、ほとんど地面にへたり込んでいるのと同じだった。
頭上から、残酷な託宣のように声が降ってくる。
「あなたは、現状を〝正しく〟認識している」
「なんの、こと……」
「そのことから目を逸らして、必死に自分を保ってきた」
「しらない──」
「目の前の現実があまりに残酷で、耐えられないから。でもそれは──仕方のないことだわ」
「っ、ちがう……」
呆然と目を見開いて、僕はただ首を振るしかできない。震えながら、違う、を繰り返すしかできない。
目の前に立っているのは、本当に美千花さんなんだろうか。あの、儚く仄暗い、寂しい目をした人なのだろうか。僕の身体に長く影がさしかかる。すぐ目の前にいる女性が、まるで恐ろしい託宣をくだす女神のように感じられた。




