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【完結・百合】家庭環境最悪な僕っ娘(14)が、マンションの上階に住む人妻(28)にズルズルに依存する話  作者: Ru
第六章 左右の寝室

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第22話

 ……言葉が、出なかった。


 だって今は冬だ。もう十二月だ。母親が出ていった四月から、ゆうに半年以上経っている。それでもなお、この子は、『母親は出かけている』と笑うのか。いつか当たり前に戻ってくると、本気で。


「……あなた、お金は?」


 ぽつり、と言葉がこぼれた。彼女は首をかしげる。


「お母さんが出かけた次の日、生活用の口座に、15万3千円入ってた」

「15万、3千円……」


 たったの、それだけ。


 愕然とする私に、彼女はふうふう息をしながら、やけにはっきりした早口で続けた。


「水道代とか、光熱費とか、そこから毎月引かれてく。ああ、家賃は父親の人の持ち家だからいらないんだけど。新しく金額が足される気配がないから、やりくり大変なんだよね……照明なんか、もう数ヶ月は小さいデスクライトとテレビだけで賄ってるし。冷蔵庫のコンセントも、だいぶ前に抜いちゃった」

「じゃあ、食べ物は……」

「食べるもの? いま残ってるのはええと……お米が少しと、カップ麺が7、8個かな……? でも、まだマヨネーズとかケチャップはあるし。意外とお腹ふくれるんだよ」

「……」

「ほんと、うちのお母さんにも困ったものだよね」

「……っ」

「……美千花さん? どうしたの?」

「…………私、は……」


 それ以上なにも言えない。私がとうとう完全に沈黙したのを見届けると、彼女はふっ、と小さく息をついた。くすりと笑う声。


「ね、もういい? 僕、少し休みたい」

「あっ……ごめんなさい……」


 はっと顔を上げる。そうだ、この子は熱があるんだった。慌てて寝具を探す。けれど信じられないことに、彼女は硬く冷えたフローリングの上に横になろうとした。あまりにも当たり前のような仕草に、とっさに「待って!」と叫ぶ。


「ん……なに……?」


 真っ赤な顔が不服そうに私を見上げる。その手がもそもそとゴミ山の中をさまよって、ほつれたタオルケットを取り出すのが見えた。うろたえる。


「だって、マットレスとか、布団とか……」

「え? ああ……」


 そんなことか、と言わんばかりの口調。彼女はごそりとタオルケットを巻きつけると、ぶるっ、とひとつ大きく身震いした。寒いのだろう。


「前はソファで寝てたけど、最近はずっとここだよ」

「ここって……床……」

「だって約束したでしょ」


(──やくそく、って)


 それは、まさか。


 くらりと思わず視界が揺れる。彼女はもそもそとタオルを巻き直しながら、まるでとても大切なことのように、ゆっくりとささやいた。


「僕がずっと、美千花さんの真下で寝てあげる」

「……それ、って……」


 ──美千花さんの真下で眠ってあげる。

 ──そしたら寂しくないよ。

 ──僕がきみを守ってあげる。


 かつて交わした約束の言葉が、たった今ささやかれたように、鮮烈によみがえる。たまらなく苦しくなった。


 だってあんな言葉、ただの慰めだと思っていたのだ。本気になんてしていなかった。約束の時刻が何時なのかも忘れて、私はただ普通に暮らしていた。なにも考えていなかった。


 あなたが寂しくないように、僕が守ってあげるから。そうささやいたこの小さな女の子は、電気もつかない、暖房もない、こんな硬くて冷えた床の上で、毎晩眠り続けていたというのに。ただ私の寂しさを慰める、それだけのために。


「……せめて、ソファに行きましょう」


 つぶやいた声が、震えていない自信はなかった。床に寝転がった子供の口から、戸惑った声がする。


「え? でも、僕ここが……」

「──行きましょう。抱っこしてあげるから」


 返事も聞かず、ほとんど強引に彼女の身体を引き起こした。タオルケットを巻き付けたまま、十四歳にしてはあまりに小柄な身体を抱きかかえる。重心を腰に引き付けて、ぐっと立ち上がった。予想していた人体の重みは、ほとんど感じられなかった。


「……軽いのね」


 そう独りごちた私の声は、今度こそ隠しきれない震えに満ちていて、語尾がひどく掠れていた。


 小さく鼻をすすって、歩き出す。ゴミの山をかきわけ、積み上がった本を崩さないように気を付けて、なんとかLDKに辿り着いた。


 予想に違わず、LDKもひどいありさまだった。ソファやテーブルや棚の輪郭が大量のゴミや本の山と混じり合って、ごちゃごちゃしたシルエットが薄明るい中にぼんやりと浮かび上がっている。


 一度彼女を抱え直すと、私は慎重にゴミをまたいで、リビングのソファに向かった。途中何度かペットボトルのゴミを蹴飛ばしたが、幸いにして転ばずに済んだ。


 ソファに積まれたゴミを床に払い除けて、少女の身体を横たえる。私は黒いコートを脱いで、タオルケットの上から彼女を包みこんだ。


 アウターを失った瞬間から、部屋の冷気が一気に肌に染み込んでくる。ぶるっ、と身を震わせて、彼女はこんな冷たい家の中、あんな薄着で暮らしていたのか、と思った。


 横たわった子供の顔を、そっと覗き込む。あどけない頬は真っ赤で、息も荒く、とても苦しそうだ。当たり前だ、40度近い熱が出ているのに。むしろさっきまでの、妙にはきはきした喋り方が異常だったのだ。


 上階の自宅から、子供でも飲める解熱鎮痛剤を取ってくるべきだろうか。お粥とかうどんとか、温かくて消化のいい食べ物も。それから、もっと暖かい寝具も必要だ。


 そう思いながらも、この子供を置いて部屋に戻ることが忍びなくて、私はきつくくちびるを噛んだ。もし薬を取りにここを出ると告げたとして、この子は私を信じてくれるのだろうか。母のように、もう私が二度と戻らないと、思ってしまったりはしないだろうか。


「……みちか、さん……?」

「あ……」


 ぽそり、と小さな声がした。はっとする。熱に浮かされた瞳が、ぼうっと私を見上げていた。その眼差しににじむのは、間違いなく私への気遣いだ。


「ひどい顔、してる……」


 ゆっくりと、小さな手がこちらに伸ばされた。熱くもつれる指先が、そうっと私の頬に触れる。彼女は真っ赤に発熱した、汗にまみれたぐしゃぐしゃの顔で、「大丈夫だよ」と私に笑いかけた。


「ぼくが、ついてるからね……」


 朦朧とした眼差しが、それでもまっすぐに私を捉えている。丸く短い爪、ささくれだらけの子供の指が、何度も私の頬を撫でた。慈しむような仕草だった。


 目を細め、眉をゆるめて、彼女は微笑む。熱い吐息がささやいた。


「だいじょうぶ……きみは、ひとりじゃない……」


(あ……)


 それはたしかに、かつて私が、彼女に伝えた言葉だった。私に寄ってくるということは、どうせこの子も寂しいのだろう。みんな一緒、こんなのはいつものことだ。そう思った私が、なんの気なしに伝えた言葉。


 とても大切な呪文のように、彼女は何度もそれを繰り返す。君はひとりじゃないと、その言葉を唱えることで、まるで魂が救われるのだとでもいうように。


 いや、きっと〝まるで〟ではないのだ。この子は本当に、気まぐれに私が落とした言葉を拾って、後生大事にそれを抱えて、自らを救うための呪文にしていたのだ。


(わたし……私、は……)


 彼女はまだ笑っている。熱い小さな指先が、たどたどしく私の頬を撫でている。


 無垢な信頼、なんのまじりっけもない親愛、性も恋も存在しない、ただ純粋なだけの子供の思慕。それがあまりに透明で、美しくて、そして──哀れで。どうしようもなく、泣いてしまいそうになる。


「……っ、……渚、さん……」


 どうしても耐えられなくて、震える声で呼びかけた。その瞬間、彼女──渚さんは、ぱちぱちと何度かまばたきをして──花がほころぶように笑った。


「美千花さん、はじめて、名前、呼んでくれた……」

「そう……そうね……」

「……うれしい……」


 にこにこと細められた子供の目の端から、ぼろぼろ、涙がこぼれていく。後から後から落ちていく、透明で美しいしずくを拭いもせず、彼女はずっ、と鼻をすすって、また笑った。


「なんでかな……いま、ぼく、生まれてからいちばん、幸せだな……」

「ッ……っ、……」


 ふふふ、と満足げに笑うと、渚さんはそのまま目を閉じて──ふうっ、と意識を失った。


「渚さん⁉ 渚さん……っ‼」


 慌てて首筋に触れる。ちゃんと脈は動いていた。呼吸も正常だ。どうやら、安心して気が抜けたのだろう、眠ってしまっただけのようだ。


「っ……よかっ、た……」


 がくり、と肩を落とす。全身が一気に脱力した。安堵のあまり、はあーっ、と深い息が漏れる。ほっとした途端、部屋の寒さが芯まで沁みてきた。


(……そうだ、薬……)


 体温計、食べ物と毛布と、それから他に必要なものは。あれこれ考えて、スマホのメモにリストを作る。その途中でふと、この子をうちに連れて行ったほうが早いのではないか、と思った。


(でも、うちは──……)


 浮かんだ考えは、けれど即座に打ち消される。スマホに文字を打ち込む親指、その付け根に刻まれているのは、包丁の切り傷だ。夫の〝癇癪〟によるものだった。


 連れて行くのは無理だ。あんな場所に、こんな子供を、私は連れて帰れない。


(……こども……)


 渚さんを見下ろした。私のコートに包まれてすうすうと眠り込む彼女の姿は、小さく、あどけなく、ひどくいとけなくて、ただの無垢な子供にしか見えなかった。


「……っ」


 ぎゅうっ、と手を握りしめる。手の甲が軋むほど、爪が皮膚に食い込むほど、強く。


 頬に張り付いた髪を、払ってあげたかった。額ににじむ汗を、拭ってやりたかった。だけど私にはできない。私はこの子の好意に甘えて、いつまでも自分の悲劇にばかり注目して、好きなだけこの子を振り回して、こんな小さな子供を、苛立ちに任せてベッドに引きずり込みさえした。こんな私に、この子に触れる資格なんてない。


 この子の肌に触れる前に、私には、しなければならないことがある。私は大人で、社会の中で正しく認識されていて、自分の傷は自分で面倒をみなければならないし、不適切な環境からは自分の力で逃げられる。だけど──この子はそうじゃない。


 この子は子供だ。そして、私は大人なのだ。

 私は、彼女の生命を、その存在を知るものとして、責任を果たさなければならない。


 静かに立ち上がった。彼女にかけたコートはそのままに、ゴミまみれの部屋から踵を返す。LDKを出る前に、最後に顔だけで彼女を振り返って、私は小さくつぶやいた。


「……渚さん。私は、あなたを──」



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