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【完結・百合】家庭環境最悪な僕っ娘(14)が、マンションの上階に住む人妻(28)にズルズルに依存する話  作者: Ru
第六章 左右の寝室

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第21話

 愕然としている私の耳に、くしゅんッ、と大きなくしゃみの音が聞こえてくる。はっ、として腕の中を見下ろすと、小さな身体は背を丸め、痙攣のような咳を何度も繰り返しはじめた。


 慌ててぎゅっと抱きしめて、ゆっくり背中をさすってやる。腕の中の身体はさっきより強烈な熱を帯びて、がたがたと大きく震えていた。額に触れれば、信じられないほど熱い。


「熱を下げなきゃ……薬、薬はどこ……?」

「ッげほ! ごほっ、げほっ……お薬……?」

「そう……そうよ……」


 どうすればいいかわからずに、意味もなく子供の二の腕をさする。心地よさそうに目を細めた彼女は、ようやく咳が収まったらしい。うーん、と小さく唸った。


「薬箱、ベッドの部屋にあるから……無理かな」

「無理、って──なに言ってるの⁉」


 高熱にひどい咳、震えがあるから寒気もひどいのだろう。それなのに、誰も見ていない、母親だって今ここにはいない、それでもこの子は、寝室に入るなという母の言い付けを健気に守っている。


 たまらなくなって、目頭がぐうっと熱くなるのに耐えた。震えそうになる声を振り絞る。


「お願い……あなたじゃなくて、私が入るならいいでしょう? お母さんには、後で私から説明するから」

「でも……げほ、ごほごほ……ッ‼」

「ちょっと横になってて! 取ってくるから!」

「あ、待って──」


 聞いてなどいられなかった。私はゴミをかき分けて、うちと真向かいの位置にある寝室のドアを開けた。キイ、と軋む音がして、扉が開く。部屋の風景が明らかになる。


(あ──)


 そこは、『普通の部屋』だった。


 廊下のすさまじいゴミ屋敷ぶりが嘘のように、この部屋だけがきれいに整えられている。けれど置かれた調度品は全体的に派手でけばけばしく、あまり趣味がいいようには思えなかった。


「っ……」


 意を決して、中に入る。その瞬間、ぴくっ、と歩みが止まった。


 足の裏に伝わるざらりとした違和感に、そっと足を持ち上げる。ストッキングの裏には、埃がたっぷりこびりついていた。


 改めて中を見回す。大きなベッドとヘッドボード、カラーボックス、大小の棚。どれもこれも全体的に装飾過多で、印象が雑多だ。けれど棚の上にもカラーボックスの上にも厚く埃がつもっていて、私はかすかに眉をひそめた。


「……中のもの、触るわよ」


 いちおうの宣言をして、家探しに移る。薬箱はすぐに見つかった。ベッドのすぐ脇にあるカラーボックス、ギラギラした布で目隠しされたそこをめくると、中に透明のボックスがある。プラスチックの向こうに錠剤のシートが透けて見えた。


 ボックスごと取り出して、ベッドに広げる。薬箱の中には、大量のゴムとローションのパックが詰め込まれていた。薬といえばピルと大人用の強烈な解熱鎮痛剤だけで、体温計は婦人体温計しかない。


 私はため息をつくと、婦人体温計を手に取った。玄関に戻り、彼女のそばに膝をつく。ピンクの体温計を見せて、ねえ、と尋ねた。


「普通の体温計はないの?」

「ふつうって?」

「これは、その……普通の体温計より、温度を細かく測れるの」

「ふうん。お得なんだ」

「……そうね」


 そうとしか答えられない。私は仕方なく、体温計の先端を何度か服の袖で拭うと、小さな口の中に押し込んだ。しばらくして、ピピッ、と音がする。39度2分。ひどい熱だ。解熱剤を飲ませたかったが、この家には子供が飲めるような薬はひとつもなかった。


「せめて、少し横になりましょう」

「……寝るの? わかった」


 きょとんとした彼女は、けほけほ咳き込みながらふらりと立ち上がる。慌てて身体を支える私によりかかりながら、小さな手がうちの寝室の真下、左側の部屋のドアを開けた。


(こっちも、ゴミ屋敷ね……)


 いちおう、この部屋はクローゼット代わりに使っているらしい。大量の服、鞄やヒールが棚に詰め込まれている。けれど床は相変わらず大量の本とゴミで溢れていた。中心部分の床にだけ、小さなスペースがあった。


 わずかに見える床に崩れるように腰を下ろして、彼女はふうふう肩で息をする。私はゴミまみれの周囲を見回して、きっとこの家で整えられているのはベッドルームだけなのだ、と思った。


(でも……)


 さっきから収まらない嫌な予感。今までの彼女の言動と、たった今知った事実、そしてあのベッドルームの様子。すべての情報が、私の中にとても恐ろしい推測を連れてくる。


 私は何度か息を吸うと、彼女のそばに膝をついた。真っ赤な顔をまっすぐに覗き込み、静かにささやく。


「……ねえ。あの寝室、ずいぶん埃っぽかったわ」

「え? ああ、そうかな……」


 彼女の返事はぼんやりしていて、瞳はどこか遠いところをさまよっていた。忙しない呼吸は浅く、とても早くて、震える身体はじくじくと発熱している。会話なんてしないで、一刻も早くこの子を休ませるべきだった。それくらいわかっていた。だけど。


 そっとストッキングの足裏を撫でる。ざらついた埃の感触。いくら掃除が苦手でも、あれだけきちんと整えられた部屋に、あんなに埃が積もっているのはおかしい。

 膝の上についた両手を、ぎゅっと握りしめた。こくりと唾を飲む。私は何度か躊躇して、くちびるを開いたり閉じたりを繰り返し、そして──とうとう、その問いかけを口にした。


「……質問、なのだけど」

「なに……?」



「あなた──いつからお母さんと会ってないの?」



 その問いを口にした瞬間、彼女の瞳孔がきゅう、と開いた。小さなくちびるがわなないて、あ、と素朴な声が漏れる。


(ああ──)


 それで、わかった。彼女がこの現状を、〝正しく認識している〟ことを。


 私が痛ましい顔をしているのに気付いたのだろう。彼女は唐突にふっ、と表情を切り替えた。真っ赤な顔がにこりと笑う。そして、当たり前の、まるでなんでもないことのように、言った。


「最後にお母さんを見たのは、たぶん──四月の頭ごろ?」

「……っ……!」


 私の問いに答えるのは、妙に明るく、不自然なほどはっきりした声だった。彼女はにこにこしたまま、春だね、と言った。


「桜がきれいで、ちょうど入学式の季節って、テレビで言ってた。そう──入学式の写真を見つけたって、お母さんが」


 私は無言でうつむく。膝の上で握った手に、ぎりぎりと力がこもる。彼女は少しだけ困ったように息を漏らすと、それでね、と続けた。


「あの女の息子が小学校に入ったんだ、って言ってた。それで、どうしてあたしには写真がないのって、あたしだって同じなのに、どうしてどうしてって──」

「……ッ」

「お母さん、すごく荒れて。泣いて喚いて、自分の顔を引っ掻いて、たまにものを投げたりして」


 やたらはきはきした声に、もうやめて、と叫びたかった。それでも、言えなかった。彼女はただ、当たり前のことのように、にこにこ笑って言葉を続ける。


「僕、必死になってお母さんを慰めたんだけど、あんまり、うまくできなくて。それで、泣きすぎてくたびれたんだろうね。お母さん、『もう疲れちゃった』って言うと、落っこちるみたいにすとんと眠っちゃってさ」

「……」

「次の朝、僕が起きたときにはもう、どこかに出かけてた」


 どこかに、出かけた。


(そして、きっと──)


 私は顔を上げる。無垢な瞳を見つめて、せめて声が震えないよう制御して、問いかけた。


「お母さんは、それから、一度も……?」


 彼女はとても素直な表情で、すんなりうなずいた。



「──うん。まだ、出かけてる」



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