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【完結・百合】家庭環境最悪な僕っ娘(14)が、マンションの上階に住む人妻(28)にズルズルに依存する話  作者: Ru
第六章 左右の寝室

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第20話

 鈴原家の空気はひどく淀んでいた。滞留した空気特有のにおいに顔をしかめる。よいしょ、と痩せた腰を抱え直したとき、こつん、となにかが爪先にぶつかった。


 見下ろせば、ハイヒールが三和土に転がっている。ずいぶん派手なデザインだ。正直なところ、昼間に働く人間のものとは思えなかった。


 私はかすかに眉をひそめると、落ちたヒールをそっとまたぐ。まずはこの子の靴を脱がせないと。なんとか誘導して、どさり、と彼女を玄関先に座らせた。


「……ふう」


 そうして、人心地ついたとき。少しずつ玄関の暗さに慣れてきた目が、ようやく、あたりの景色を認識しはじめた。ぼんやりした輪郭が形を持ち、認識が追いついて、風景が現実になっていく。


(……えっ?)


 ──最初に目に入ったのは、ゴミ袋だった。


 いや、最初に、という話ではない。上がり框の向こう、突き当りのLDKまで伸びる長い廊下は、大量のゴミ袋で埋まっていた。最初どころか最後まで、どこを見てもゴミの山だ。


 所狭しと置かれたゴミ袋の山、その合間に、割り箸や丸めたラップ、山と積まれた本、中途半端に服がかかったハンガー、また本の山、ペットボトル、脱ぎ捨てた下着、医学雑誌とふたたびの大量の本、コンビニのビニール袋、またしても本の山──そこにはゴミだか生活用品だかもはや区別のつかないありとあらゆる物品と、それから本が溢れていた。


 床なんてほとんど見えない。とてもじゃないが、人の暮らせるような場所だとは思えなかった。それくらいひどい状態だった。


 テレビで見る汚部屋──この惨状はそうとしか言いようがない──と違うのは、山と積まれたゴミの中に、書籍の占める割合が異様に多いことくらいだ。


(この子──こんな、ところに……)


 ──どさっ、という音で我に返る。


 はっ、と見下ろせば、小さな身体が玄関口に倒れ込んでいた。慌ててしゃがみ込み、靴を脱がせてやる。


 靴の中から現れたのは裸足だった。もう冬だというのに、この子はいつも靴下の一枚すら履いていない。彼女の環境を考えれば、好きで裸足でいるのだとは、とてもじゃないけれど思えなかった。


 全身はひどく熱いのに、手のひらに収まる小さな足は氷のように冷え切っている。両手で包んで何度かこすってみても、温度が戻る気配はなかった。それでも心地が良いらしい、あどけない口元から、ほうっ、と安堵のような吐息がこぼれる。


 ゆっくりと、閉じていた彼女のまぶたが持ち上がった。


「あれ……みちか、さん……?」


 ひどく弱々しい声がする。私は静かにうなずいた。


「具合はどう」

「ん……最悪……」

「そのようね。上がっても?」


 こくり、とうなずきが返ってくる。ありがとう、と告げると、私も三センチのヒールを脱いだ。


(とにかく、この子を休ませないと)


 ともすれば床に崩れ落ちそうな身体を抱き起こし、辺りを見回す。改めて見ても、異様な光景だった。ゴミまみれの汚部屋に、常軌を逸した量の本が、山のように積まれている。私は彼女を抱いたまま、すぐそばに落ちていた本を手に取った。


「『医療現場の経済学』……」


 視線を走らせる。小説やエッセイなどの娯楽書の中に、『基礎からわかる医療レーザー脱毛』や『新時代の美容皮膚科概論』などの専門書が混じっていた。


 腕の中でふうふう息をしていた彼女が、もぞりと身じろぎをする。見下ろせば、子供らしい瞳が私の手元の本を見つめていた。


「ああ、それかあ……」


 さっきより、ずいぶんはっきりとした声だ。そういえば、冷えきった足にようやく温度が戻っている。触れ合った場所から、私の体温が移ったのだろう。


 ほっとした私の心はしかし、続く彼女の言葉でぎくりと固まった。


「父親の人がね。家から、いらない本を運んでくるんだ」


(父親の、人──)


 あきらかに、通常の幸福な家庭ではしない呼び方だ。私は自分の口から「家って」と間抜けな問いかけがこぼれ落ちるのを感じた。腕の中の少女が、ぱちりとまばたきをする。


「父親の人が、奥さんや子供と暮らしてるほうの家」

「──奥さん」


 薄々、そうじゃないかとは思っていた。けれどこうして子供の口からはっきり聞かされると、彼女にまったく悲壮感がないぶん、余計むごたらしいことのように感じられる。


 けれど呆然としている私をよそに、彼女は何でもないことのように頷いて、さらに信じられないことを口にした。


「そうだよ。僕が生まれたこと、お母さん以外は父親の人しか知らないから」

「えっ……?」

「だから僕、隠れてなきゃいけないんだって」

「ま──待って、」


 隠れるって、それは──どういう。


 背筋を冷たいものが伝った。じわじわと、なにか嫌な予感がこみ上げる。私はおそるおそる、彼女に問いかけた。


「あなた……学校は……」

「学校? 行ったことない」


 あまりにもあっさりと言い放たれる。愕然として、私はほとんど確信を抱きながらも、さらに質問を重ねた。


「先生とか、行政の人とか……会いに来ないの」

「? 来るわけないじゃん。僕が生まれたこと、誰も知らないのに」

「っ……で、でも、」


 小さな肩を抱く手に、ぎゅっ、と力がこもる。腕の中、抱き起こされた彼女の目はあどけなく、ひたすらに澄んだまま、ただ不思議そうに私を見上げていた。


「誰も知らないって……だってあなた、文字書きも計算もできるじゃない。色んなことを知ってるじゃない。勉強は──」

「小さいときは、父親の人がいろいろ教えてくれたよ。医者だから、あのひと」

「……っ」


 ──だから、か。


 積み上げられ、散らばった大量の書籍たち。その中に医学書の占める割合がやたら多かったのは、持ってきた人の職業が原因だったらしい。


 呆然と本を見つめる私の視線を追いかけて、彼女は「ああ」とうなずいた。


「大きくなってからは、これ」


 小さな手が持ち上がり、おぼつかない指先が本の山を指差す。にこり、と彼女は嬉しそうに笑った。


「子供のころから、いっぱいもらった。おまえは本さえ与えておけば邪魔をしないから、って」

「邪魔って……なんの……」

「セックス」


 ──絶句する。


 なにも言えなくなってしまった私の心境など知りもせず、彼女は持ち上げた指先をつうっと動かして、ひとつのドアを指し示した。玄関に向かって、右側の部屋。私の家の寝室とは真向かいの位置。


「あそこ、ベッドの部屋だから。なにしてるか具体的にはわかんないんだけど……僕は入っちゃ駄目なの」

「……ッ──」


 頭が、ぐらぐらする。さっきから矢継ぎ早に与えられる情報が処理しきれなくて、血の気がひたすら、すうっと地面の方に落ちていく。


 家庭環境が、良くないのだろうとは思っていた。だけど、〝ここまで〟だなんて思わなかった。


 誰かが助けに入るだろうと思っていた。学校でも行政でも、どうせ私じゃない何かが、適切な対処をするだろうと信じていた。まさか誰も彼女を知らないなんて、誰かがこの子を助けに来ることは絶対にないなんて、〝ここまで〟だったなんて──私はひとつも、想像すらしていなかったのだ。


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