第19話
──私は、自分が寂しい人間だと知っている。
だからだろうか。
同じように寂しいひとの、いびつな愛を跳ね除けることができないのは。
いつからそうだったのか、どうしてそうなってしまったのか、わからない。ただ、私の周りにはいつも、寂しいひとが集まってくる。ずっと、そうだった。
私には、彼らの寂しさをどうしてやることもできない。ただ一緒に、寂しくあることしかできない。私はずっと寂しい人間だった。誰かにそばにいてほしかった。きっと、彼らもそうなのだろう。
寂しい人間どうしが一緒にいて、良いことがあったためしはほとんどない。だいたい、どちらかが先に倒れる。支えようとしたもうひとりも、じきに倒れる。その繰り返しだ。
凝りもせず、同じことばかり繰り返している。逃げることも、変えることもせず、バカみたいに、同じことばかりを、ずっと。
「……、……」
「……? …………」
ぼそぼそと、エントランスの隅から声がする。ちら、と視線を投げかければ、じろじろと私を見ていた母親たちの集団が、逃げるように視線をそらした。いくつも並ぶベビーカーの中では、赤ちゃんがすやすや眠っていた。
私もすっと目を背ける。噂話の気配にも、もうすっかり慣れてしまった。そっと二の腕をさする。鈍い痛みがじんわりと広がった。
がさ、とビニール袋を持ち直す。夕食の買い出しをして、スーパーからの帰りだった。マンションに入った途端に感じた好奇の目は、気のせいなんかじゃない。当たり前だ、こんなに傷まみれなのだから。
意味のないため息をついた。エレベーターホールに向かおうとして、あの母親たちの中を突っ切っていかなければならないことに気づく。少し迷って、今日は階段を使うことに決めた。
カツン、カツン、と足音が響く。ヒールはいつも三センチ以上、五センチ以下。服は黒、スカートを着用、デートのとき以外メイクはしない。それが夫との『約束』だ。
淡々と階段をのぼり、あとワンフロアで自宅だ、というところで、私はふと異変に気が付いた。
(──あの子……)
ちょうど自宅の真下にある部屋、その玄関先に、小さな人影がうずくまっている。痩せたシルエットと薄汚れた服装には見覚えがある。鈴原渚だ。
私は足を止めて、冷え切ったマンションの廊下に座り込む少女の影を見つめた。
渚という、あの小さな女の子は、なぜか私になついている。学校に行っているのを見たことがないから、おそらくは不登校児だ。
彼女の言葉や態度、服装などから日々の生活がちらほらと伺えるが、家庭環境は決して良くはないのだろう。生活のほとんどを自分で担っているというから、ネグレクトの可能性さえある。
だけど私は、通報や援助をする気にはなれなかった。どうせ他人の家だ。私には彼女を守る義務も責任もない。深入りするつもりもない。いずれ学校なり行政なり、私以外の誰かが、適切な対処をするだろう。
正直、大人としてまっとうな接し方ができているとは微塵も思わない。それなのに、あの子はひたむきに私を慕ってくる。
(……昔っから、そう)
私の周りには、寂しい人間ばかり寄ってくる。といっても、あの子はまだ〝寂しさ〟というものを理解できていないのだけれど。彼女の目は素直すぎる。
つい昨日、ベッドの上で裸の私を見上げていた、あまりにも無垢な瞳を思い出した。苦い気持ちで目を伏せる。こぼれそうになるため息をこらえて、私はゆっくりと顔を上げた。
視線の先、うずくまった彼女の姿はとても小さく見える。きつく丸めた背は、かたかたと小刻みに震えていた。
数秒の逡巡。私はスーパーの袋を握り直すと、彼女のそばに歩み寄ることにした。放っておくことも一瞬考えたのだけれど、階段をのぼるにはどうしても彼女の前を通るのだ。これで無視するのは不自然が過ぎる。
足音を殺して歩み寄ると、私はそっと声をかけた。
「──あなた、大丈夫?」
はじめて会ったときと同じだな、と思う。あのときはまだ秋だったけれど、今はもう十二月、すっかり冬だ。いつも薄着の彼女には、この温度はきついだろう。
彼女は顔を上げない。どうやら聞こえなかったようだ。また生理痛だろうか。そう考えた瞬間、ちくりとどこかが痛くなった。
こんな小さな子供にさえ生理が来るのに、私にはもう、なにひとつ訪れない。悪いことなどした覚えはひとつもない。それなのに、私が繋ぐべき未来は、この肚のうちから永遠に奪い去られてしまった。
「……ねえ、あなた、大丈夫?」
無意識に下腹部に当てていた手を逃げるように外し、改めて呼びかける。ビニール袋を下ろし、すぐ傍らにしゃがみこんだ。
人の気配に気付いたのだろう。彼女はそろそろと顔を持ち上げる。ぼんやりした視線が、ゆっくりと私のほうを見た。
あどけない顔立ちは、りんごと見紛うほど真っ赤に上気していた。汗まみれの額から一滴の汗がつるりと流れ落ち、襟元に消えていく。ぐっしょりしめった髪の毛が、頬に幾筋も張り付いていた。半開きになったくちびるから、忙しない呼吸が何度も出入りを繰り返す。どう見ても、かなり発熱しているようだった。
「……また、鍵を落としたの」
まずは状況を把握しようと、そっと呼びかける。少女のぼんやりした瞳が何度かまばたきをして、消え入りそうな声がこぼれ落ちた。
「かぎ……」
震える小さな手が、ポケットからなにかを取り出す。こちらに差し出そうとする手のひらから、かしゃん、と銀色の鍵が落ちた。
思わず眉根が寄る。鍵を持っているのに、こんな寒いところにずっと座っているなんて。
「もしかして、お母さんに叱られたの?」
ふるふると首を横に振る仕草。じゃあどうして、と続きを問いかけようとしたとき、掠れて震えた、とても小さな声がした。
「…………立て、な……」
(ああ、そういう……)
なるほど。外出先から玄関まではなんとか辿り着けたけれど、ここで体調の限界を迎えてしゃがみこんでしまったらしい。
私は指を伸ばして、コンクリートの床に落ちた鍵を拾い上げた。キーホルダーもなにも付いていない。むき出しだ。
少しためらって、問いかける。
「おうちの人は?」
「……でかけてる……」
やっぱりか。その回答は、半ば予想できていた。今まで何度母親の所在を聞いても、同じ答えしか返ってきたことがないからだ。きっとろくに家に帰ってこないのだろう。
……仕方がない。私は覚悟を決めた。立ち上がり、他人のドアに鍵を挿し込む。思い切って回すと、かちゃん、と錠の外れる音がした。
「立って。手を貸してあげるわ」
ビニール袋は、この子を玄関に上げてから入れればいいだろう。私は彼女の腕を取って、自分の肩に回そうとした。だけどすぐに思い直す。
(これだと、この子の身体が宙に浮いちゃうわ……)
彼女は自分を十四歳だと言っているけれど、正直あまり信じていない。少女の身体はひどく痩せて小さくて、どう見ても小学生くらいにしか見えなかった。
「よりかかっていいわよ。はい、立って」
細すぎる腰を抱いて立ち上がらせる。相当つらいのだろう、彼女はぐったりと私にもたれかかってきた。
「おうちの人はいないのよね? 開けるわよ」
重心を維持したまま、キイ、と玄関ドアを開ける。慎重に少女の身体を支え、中に入った。背後で静かにドアが閉まる。




