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【完結・百合】家庭環境最悪な僕っ娘(14)が、マンションの上階に住む人妻(28)にズルズルに依存する話  作者: Ru
第五章 十二月のおそいくちづけ

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第18話


 いくら好きだと伝えても、美千花さんはまるで取り合ってくれない。傷まみれの彼女は心身ともにすっかり衰弱しきっていて、コミュニケーションすらまともに行えない。


「好きだよ、美千花さん、きみが好き……」


 通じないことはわかっていて、それでも、何度も好きだと口にした。言わずにはいられなかった。たとえどんなに、無意味な行動だったとしても。


 思えばはじめからそうだった。この人と、まともなコミュニケーションなんてずっと取れなかった。そもそも、彼女にその気がなかったのだ。


 美千花さんは一度も、僕の名前を呼んだことがない。僕の事情や、個人情報を聞いたこともない。僕の家を訪ねてくることももちろんなかったし、僕が訪ねていかなくても、約束の時間に遅れても、心配したり不安になったりする素振りを見せたことは一度もなかった。


 わかっている。美千花さんは僕に、願いも、希望も、期待さえも、ひとかけらだって抱いていない。それくらい、ずっとわかっていた。だけど。


「……すきだよ……」


 こつん、と額を押し付けて、泣きたいような気持ちでささやく。通じないことなんて知っていた。いくら心を捧げても、この人とはコミュニケーションが取れない。通じあうことができない。


 だけどそれは、僕が僕だからという理由ではなく、きっと彼女は世界のいっさいと、もはや言葉を交わしたくはないのだろう。それくらい、このひとは傷つき、疲れ果て、すべてに絶望しきっている。


(でも、それでも……)


 それでも、どうしても、伝えたかった。僕の心のすべてを取り出して、このひとに差し出すつもりでささやいた。


「僕のことなんて見なくていい。それでも、僕はきみの寂しさを取り払いたい」

「……そう……」


 まともな返答などひとつもない。それでもいい。このひとが好きだ。通じなくてもかまわない、恋ならばひとりでもできる。僕はただ、このひとの寂しさを消し去ってあげたい。


「美千花さん」


 静かに、だけどはっきりと呼びかけた。声のトーンが変わったのに気付いたのか、ダークグレーの瞳がそっと僕を捉える。


 僕は少しためらって、でも、意を決して言った。


「一緒に逃げない?」

「……また、同じことをするの」

「違う」


 つい先日の逃避行が蘇り、じくりと胸の奥が痛くなる。僕は首を振ると、横たわる美千花さんに身を乗り出した。


「今度は、ちゃんと計画を立てよう。準備して、お金も、行くあても、将来のこともぜんぶ用意して、タイミングを見計らって……きちんと、正しくここから逃げるんだ」

「……」

「美千花さん。僕と一緒にここを出よう」


 返事はない。なにを考えているかわからない、淡々としたダークグレーの瞳が、ガラス玉のように僕を見つめているだけ。そこにはなんの手応えもない。


 表情がくしゃりと歪んだ。ねえ、と呼びかける声が情けなく掠れる。


「お願いだよ。このままじゃ、いつか美千花さんが殺されちゃう」

「……」

「僕、やだよ。美千花さんが死んじゃうの」

「……」

「美千花さんだって、このままだとどうなるか、とっくにわかってるんじゃないの?」

「……」


 いつまでも美千花さんは返事をしない。ぴくりともしないまま、死体のように横たわっているだけ。それがあまりに苦して、僕はぐっとくちびるを噛むと、震える声で絞り出した。


「……ただ死ぬのを待つなんて、そんなのは、怖い……すごく、怖いんだよ……」

「……」

「美千花さん……‼」


 たまらなくなって、細い肩を強く揺さぶる。美千花さんは軽く目を伏せると、とても細い息を、ふーっ、と長く吐ききった。そして。


「……あの人は、寂しいひとなのよ……」

「ッ……」


 すべて許すような、なにもかもを諦めるような、静かな言葉。


 ぐうっ、と喉が苦しくなった。ぼんやりと僕を見つめ返す美千花さんの全身には、むごたらしい暴力の痕跡が散らばっている。あまりにもひどい姿だった。


(……寂しければ、許されるのか)


 こんなこと、絶対にあってはならないのに。僕だったら、こんなことは絶対にしないのに。きみを傷付けないのに、苦しめないのに、寂しくなんてさせないのに。


 こんこんと湧き上がる感情に、今にも泣き出しそうになって、僕は美千花さんの肩にすがりついた。あまりにも必死な声が声帯を震わせる。


「じゃあ、あの男よりずっと寂しい人間になったら、きみは僕を見てくれるの」


 ほとんど祈るつもりで問いかけた。お願いどうか、と、胸の底が震える感覚に必死で耐える。


 けれど──美千花さんはかすかに目元を歪めて、笑った。


「……あなたには無理よ」


 か細い声が、けれどはっきりと、拒絶の言葉を僕に告げる。美千花さんの手がゆっくりと持ち上がって、ひんやりした手のひらが、そうっと僕の頬を撫でた。なめらかで、吸い付くような肌の感触。表面上だけのやさしい仕草。


 美千花さんが、じっと僕の目を見つめている。ダークグレーの瞳は不思議なほど静まり返っていて、はじめて、ほんとうの僕自身を、はっきりと見つめられた気がした。まるで魂の奥まで覗き込まれているようだと思った。


 美千花さんが、静かに微笑む。


「素直で、純粋で、まだ、なにも知らない。あなたの目はきれいすぎる。

 だから──あなたには、まだ、無理」


 そう締めくくった美千花さんの声が、あまりに静かで、穏やかで、淡々としていて。僕を見つめる瞳に、嘘やごまかしはひとつもなくて。それで──どうしようもなく、わかってしまった。


(ああ、──……)


 それは明白な、断絶の言葉だった。


 僕は美千花さんを連れ出せなかった。彼女の求めるものがわからなかった。誘いに応えることができなかった。せめて一緒に寂しいひとになろうと思っても、それすらうまくできなかった。


 痛感する。僕はどれだけ手を伸ばしても、このひとの心に触れられないのだと、そのための資格を、なにひとつ持ち合わせていないのだと──


「そんな顔をしないで」

「……っ……」


 無理だ。だって、こんなにも苦しい。やるせなくて、もどかしくて、情けない。

 このひとと僕のあいだには、埋めようのない、僕の力ではどうすることもできない、絶対的な断絶がある。それがわかってしまった。


 ただ呆然とするしかできない僕を見て、美千花さんがほんの少しだけ笑う。ぐずついた子供を見るような目。それがひどく苦しくて、どうしても耐えられなくて、


「……ぼ、僕、っ……帰る……‼」


 それだけ言うのが精一杯だった。


 僕はつるつるしたグレーの寝具を跳ね除けると、ばたばたと足音を立て、勢いよく寝室を飛び出した。胸の苦しさが限界を訴えて、音がするほど強く歯を食いしばる。僕にはもう、そうするしか、できなかった。



        ※



 帰宅して、暗い玄関に鍵と靴を放り捨てて、まっすぐ脱衣所に駆け込んだ。床の上にぐちゃぐちゃに服を脱ぎ捨てて、浴室に飛び込んで、給湯器もつけずにコックを最大までひねった。


 豪雨のように打ちつける冷水が、僕の身体をびしゃびしゃ叩いていく。冷たさを通り越してほとんど痛みに近い感覚が、鞭打つように降り注いだ。


「っ……く、うっ、うぅうう……ッ‼」


 動物みたいな唸り声を、必死になって押し殺す。だあだあと身体を伝う冷水にまじって、目元から熱い液体が流れていった。鼻の奥がつんとして、喉が詰まって、あとからあとから、熱く苦いものがこみ上げてくる。


 悔しくて、情けなくて、自分の無力が許せなかった。歯を食いしばって水を浴び続けた。泣いてしまうのは嫌だった。


 目から流れるものをごまかすように全身にシャワーを浴びせかけ、十二月の冷水が、石つぶてのように肌を叩いていく。少しずつ、末端がしびれて、感覚を失っていく。


 このままなにも感じなくなればいい。苦しいのも、悲しいのも、不安なのも、怖くて、すごく怖くて、ともすれば泣きわめいて、今にも叫び出してしまいそうなのも、ぜんぶ。


「っ、ひぐ、っ、うっ、ううう……ッ‼」


 ぐずぐずと鼻をすすりながら、ごしごしと何度も手で口元をこする。


 生まれて初めて塗ったピンクベージュの口紅は、冷えた水をいつまでも弾きつづけて、どんなに頑張っても落ちてはくれなかった。


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