第15話
それからしばらく、僕は美千花さんの家に行けなかった。
本当は行こうと思った。行って、口紅を返して謝って、改めてきみを守りたいと、好きだと伝えるつもりだった。
だけどそんなことに何の意味があるだろう。僕は美千花さんを助けられなかったし、それどころか、彼女の大切なものを持って帰ってしまった。僕に彼女を慈しむ資格はあるのだろうか。
僕はぼんやりしたまま、口紅を取り出しては眺めて、何度も物思いにふけって、返そうと思いながら片付けて、また取り出しては眺めて、そんなことばかり繰り返して過ごした。十二月の日付が、いくつも無為に過ぎていった。
そうして、一週間ほど経ったころ。
僕はとうとう、勇気を振り絞って美千花さんの玄関の前に立った。対面する覚悟を決めた。
ポケットの口紅を握りしめ、インターホンを鳴らす。僕がこれを鳴らすのは、はじめてのことだった。美千花さんはいつも、僕が来る時間に合わせて鍵を開けておいてくれたから。
ポーン、とチャイムの残響が消えて、数秒ののち。
『……開いてるわ』
僕が誰かも問わぬまま、美千花さんがインターホンごしに答えた。小さな、力ない声だった。
「……うん。入るね」
それだけ答えると、プツッ、と通信が切れる。僕は扉を開けると、美千花さんの家に入った。靴を脱いで、廊下に上がる。ぺたぺたとフローリングを歩いて、細いガラスのはまったドアを開けた。
LDKのソファに、美千花さんは座っていた。ぐったりと背を丸め、うなだれるようにうつむいている。
僕は静かに室内に入ると、ゆっくりとソファに近付いた。美千花さんの前に立って、そうっと彼女を覗き込む。
相変わらずの黒い服、いつもと同じ佇まい、だけど美千花さんの姿は前と違っていた。
ひとことで言えば──ぼろぼろだった。
今までは見えないところだけだった痣や傷が、顔や手、脚などのありとあらゆるところに、容赦なく散らばっている。そして、今までは痣か引っかき傷しかなかった怪我の中に、いくつもの切り傷が混ざっていた。
──明らかに、エスカレートしている。
もしこれ以上、暴力がエスカレートしたら。浮かぶ考えに、恐怖でひゅっと身がすくむ。うつむいた美千花さんは、僕のほうを見なかった。
「その……大丈夫?」
返事はない。当たり前だ、大丈夫なわけないんだから。こんなバカみたいなことしか言えない自分が、心底情けなかった。
僕は手当てを申し出ようと思って、だけどその必要などなかったのだと思い出す。ごねる僕のためだけに手当ての余地を残していた美千花さんは、僕よりよっぽど応急処置がうまかった。きっと、必要な処置はすでに終わっている。
沈黙が下りる。美千花さんはただうなだれていて、僕は愚かな棒切れみたいに突っ立っているだけだった。それだけの時間が、淡々と秒針を回転させていく。だだっ広いLDKの中、どこか沈痛な静けさが、ひたひたと辺りを満たしていた。
唐突に──ヴーッ、ヴーッ、と音がした。
ちら、と音のほうを見やる。ソファの座面に放りっぱなしの、美千花さんのスマホだった。
バイブレーションは二度ほど鳴ってすぐ止まった。メッセージアプリの通知が、画面の上に光っている。
『美千花、今朝は本当にごめん』
僕が文字を読み終えるのとほぼ同時、さらに連続で通知が重ねられた。
『俺は最低のクズだ、自分で自分が許せない』
『もう二度とあんなことはしないと誓うよ』
『許してくれなんて、言えた義理じゃないのはわかってる』
『でも俺には美千花しかいないんだ』
『愛してる』
(……っ、ひどい……)
それからもスマホはいくつも通知を知らせていたが、僕はそれ以上読むことなく目を背けた。
三分ほど不規則に通知を鳴らし続けたスマホが、ようやく沈黙する。ずっと下を向いていた美千花さんが、ゆるゆると顔を上げた。死んだような表情だった。
ダークグレーの昏い瞳、真っ黒い瞳孔がすうっと動いて、無音になったスマホを見る。それを拾おうと手を伸ばした美千花さんの、指先は小刻みに震えていた。開かれた瞳は虚無と絶望でいっぱいだった。
「っ……もういい、もういいよ……‼」
たまらなかった。衝動に任せてソファに乗り上げて、美千花さんをぎゅっと抱きしめる。心の中で、いくつもの言葉が渦を巻いた。
──大丈夫だよ。
──僕が守ってあげる。
──きみを寂しくはさせない。
だけどそんな言葉に、なんの意味があるだろう。だってそれはただの嘘だ。意味のない気休めで、その場しのぎのごまかしだ。状況はなにも大丈夫なんかじゃないし、僕はこのひとのために、何ひとつできなかった。
それでも、なにもしないのはどうしても堪えきれなくて、僕はますますきつく美千花さんを抱きしめる。耳の横の切り傷にくちびるを寄せ、かすれた声でささやいた。
「……きみはひとりじゃない」
僕に言えることはもう、それしか残っていなかった。やるせなさが僕を打ちのめした。
美千花さんを抱きしめて、髪を撫でて、とんとんと背中を叩く。言える言葉がない以上、僕にできるのは行為だけだった。
かつて母にしていたように、思いつくありったけの慰めを指先に込めて、僕は懸命に美千花さんを慈しむ。だけど美千花さんは僕の抱擁など存在すらしていないように、まだスマホに手を伸ばそうとしていた。
なんの反応も示さず、腕の中でうっすらもがくだけの美千花さんに、ああ、と思う。
(このひとに──僕の慰めは、なにひとつ届いてない)
実感がじわじわと無力感に変わっていって、ほとんど諦念に近い恋慕を連れてくる。じいん、とこみ上げた愛おしさで、さらさらの髪の上から小さなつむじにキスをした。
「……きみが好きだよ」
とても小さくささやく。いつまでもスマホを取ろうとしていた美千花さんの手が、ぱたり、とソファの上に落ちた。初めての、反応らしい反応。僕は身を離すと、美千花さんの顔を覗き込んだ。
美千花さんが、ゆるゆると顔をあげる。視線が交わった。ダークグレーの瞳は虚ろで、眼差しはひどくぼんやりとしている。
「……くちべに……」
ぽつり、と落とされた単語に、ぴくっ、と肩が跳ねる。思わず目を逸らしてしまった。美千花さんが、ふ、と息を吐く音。
「あなたが、盗んだの」
「……っ」
──盗んだ。
間違いなくその通りの事実なのに、改めて言葉にされると、ひどく堪えている自分がいた。ずきずきと胸が痛んだ。
「ど……どうして……」
「……本が、寝室に。あなたの、よね……」
「あ……」
おじさんがくれた本。忘れていた。
突きつけられた証拠に、諦めに近い感情がこみ上げる。美千花さんの肩に添えていた僕の手が、ゆるゆると勝手に下がっていった。
ソファに投げ出された美千花さんの手を、僕はそっと両手で握りしめる。つらいのは美千花さんのほうなのに、泣き出してしまいそうだった。
感情が、勝手に言葉になっていく。
「っ……ぼ、僕……悔しくて……」
「……悔しい……?」
「だって僕、美千花さんが、好きだから……」
ただ正直に、胸の中を打ち明ける。美千花さんは驚くこともなく、ただ口をつぐんで黙り込んだ。僕は握った手を持ち上げて、引っ掻き傷の走る手の甲に、額をそっと押し付ける。すがりつくようにささやいた。
「好きなんだよ……」
その、掠れた語尾が消えるか消えないかのうちに。美千花さんが、すっと息を吸う音がした。ぽつりと、静かな声。
「それは──嘘よ」
「えっ?」
顔を上げる。虚無的な瞳がぼんやりと中空を見つめていて、美千花さんは淡々と、嘘なのよ、と続けた。
意味がわからなくて、僕は呆然と目を見開く。
「嘘じゃない、僕は本当に──」
「思い込みなの」
芒洋とした瞳、小さな声、だけど口調だけがやけにはっきりとしていて、そこには明確な意思が感じられた。
じわじわと、もどかしさが込み上げてくる。
「違う──違うよ」
ふるふると首を振った。違う、と何度も繰り返す。美千花さんの目を覗き込もうとして、だけど視線がちっとも合わない。僕は信じられない気持ちで、ねえ、と美千花さんの手を揺らした。
「僕、ほんとに美千花さんが好きだよ。どうして信じてくれないの?」
返事はない。もどかしさに混じって、じりじりと増していく焦燥。
「ねえ! 美千花さん!」
たまらなくなって、握った手をぐっと強く引いた。美千花さんの上体がぐらりと揺らいで、それでも、美千花さんは僕のことを見なかった。どことも知れぬ場所をさまよう瞳がまばたいて、ぽつり、と問いかけが落ちる。
「あなたが、私を好き?」
「そう──そうだよ」
「……ふふ」
必死に言い募る僕に、なぜか美千花さんが小さく笑った。疲れたような諦めたような、悲しげで儚い微笑み。
「美千花さん……?」
ダークグレーの瞳が、ゆっくりと動いて、ようやく僕のことを見た。なめらかな虹彩の曲面に、情けなく顔を歪めた僕の姿が映っている。
けれど美千花さんはそんな僕に構うこともなく、ごくわずかに首を傾げると、哀れむような声で──笑った。
「それはね。ただの子供の、勘違いよ」
「ッ……‼」




