第14話
とぼとぼと、来た道を歩いてマンションに戻った。
帰り道、僕たちはもう手を繋がなかった。ひと一人分くらいの間を空けて、横並びのまま、下を向いて歩いた。
うつむいた視界に入り込むアスファルトはどんどん白い光に照らされていって、あたりはみるみる明るくなっていった。
雨で湿ったスニーカーのつま先が、すっかり朝の色になった地面を、右、左、と順番に踏んでいく。その淡々とした動きを意味もなくじっと見下ろして、僕はただ、隣をゆく美千花さんの足音を聞いていた。
帰路をゆく美千花さんの足取りは、逃げるときよりずっと正確で、規則的で、はっきりしていた。それがよけいに心に来た。無力感が僕を打ちのめした。
本当は、逃げるときの美千花さんのように、足をゆるめたり、立ち止まったりしたかった。だけどそんなことをすれば、美千花さんは僕を置いて先に行ってしまう。それがわかっているから、僕はうつむいて、くちびるを引き結んで、息を詰めて歩き続けるしかなかった。
しばらく歩き続け、マンションの前に辿り着いたころには、あたりはすっかり真昼の景色に変わっていた。
逃げているときは時間が永遠のように感じられたのに、戻るときはこんなにあっさり着くなんて。なんだか、ひどい落胆を覚える。
僕はのろのろと階段に向かおうとして、けれど美千花さんがエレベーターを呼ぶのを見て、黙って同じエレベーターに乗り込んだ。
ぐっとかかるGを感じながら、僕たちは別々の壁にもたれた。狭苦しい箱の中、沈痛な無言がじっとあたりを満たしている。なんだか呼吸の音すらためらわれた。
ポーン、と音がして、着いたのは美千花さんのフロアだった。一つ下である僕の階のボタンを、美千花さんは押さなかったらしい。
淡々と廊下に出る美千花さんを、そのまま見送って、また下りればよかったのに。なぜだろう、僕はふらふらと、彼女のあとを追いかけていた。
スニーカーが、湿った足音を立てる。少し遅れて美千花さんを追う僕が、廊下の角を曲がった瞬間──
(──あ……ッ)
美千花さんが、玄関ドアに引きずり込まれるのが見えた。
反射的に走り出す。バランスを崩して身をもつれさせる美千花さんが、倒れ込みながら室内に消えていく。片方だけの黒い袖が、ドアの隙間で残滓のようにひらめいた。
その袖の先、病的に白い手を──僕は咄嗟に掴んでいた。なにも考えられないまま、力を込めてぐっと引っ張る。必死で彼女を引き戻そうとする。
けれど──僕の懸命な抵抗は、美千花さん本人によって、いともあっさり振り払われた。
「うわ……っ⁉」
掴んだ手を振りほどかれ、反動で後ろに転がる。ごちっ、と嫌な音がして、後頭部と背中を思い切り床にぶつけた。じいんと伝わる痛みと床材の冷えた感触に耐え、ばっ、と身を起こす。
玄関は、もうほとんど閉まりかけていた。ただ、ドアの隙間から、美千花さんの瞳が見えた。ダークグレーの、複雑な色合いをした、昏く美しい瞳。
その瞳が、はっきりとひとつの言葉を語っていた。
『──どうせあなたには何もできない』
美千花さんの淡々とした声が、すぐ耳元で聞こえた気がした。
(ッ──ぼ、くは──)
ほとんど同時にドアが閉まった。がちゃん、と錠が激しく回る音。ドアの向こうでもつれあう足音が、しだいに聞こえなくなっていく。
そうして、あたりは完全に、静かになった。
よろよろと立ち上がる。僕はぶつけた後頭部を呆然と押さえて、ふらりと一歩前に出ると、美千花さんの家のドアに触れた。金属製の重いドアは黒く、冷たく、ひややかで、外界のあらゆる干渉を拒んでいるように思われた。
みじめさがこみ上げる。震える言葉が、ぼろっ、とこぼれ落ちた。
「……、……ぼく、どうすれば……」
どうすればよかったんだろう。
どうすれば、彼女を守ってあげられたんだろう。
どうすれば、彼女に笑ってもらえたんだろう。
どうすれば、彼女の寂しさを、取り払ってあげられた?
わからない。わからない。なにも──わからなかった。
そのまま、ずっと、ドアの前に立っていた。
どれくらいそうしていたかわからない。ただ、十二月の最初の日、冬がはじまったばかりの気温はひどく冷たくて、指先の感覚がなくなっていくゆっくりした過程だけが、時間の経過を伝えていた。
そうして永遠のような時間がすぎて、僕の全身がすっかり冷え切って、気がつけば暗くなりはじめたマンションの廊下に、ふっ、と明かりが灯ったとき。
──ばあん、といきなりドアが開いた。
咄嗟に手でドアをふせいだものの、顔面にもろに衝撃を浴びる。
「い……っ」
よろめいた僕はそのまま、開いたドアに押しやられ、廊下の壁とドアの間に閉じ込められた。
痛みに顔をしかめる僕のすぐ傍を、玄関から出てきたスーツの男が通り過ぎていく。昨日見た、美千花さんの旦那さんだ。
荒々しく出てきた旦那さんはちらりと腕時計を確認すると、舌打ちをひとつして、ずかずかとエレベーターホールのほうへ歩いていった。
キイ、と玄関ドアが動く。僕は自分を隠していたドアの裏から出ると、呆然と旦那さんが消えていったほうを見つめた。背後で静かにドアが閉まった。
(……行っちゃった……)
旦那さんは、最後まで僕に気付かなかった。僕はエレベーターホールと、それから背後のドアを交互に見る。少し迷って、玄関ドアに向き直った。
ドアノブに手をかける。当然のことながら、鍵はかかっていなかった。そうっとドアを引いて、開ける。玄関の中に入ると、嗅ぎなれた美千花さんの家のにおいがした。
「……あの、……入るよ……」
とても小さくつぶやくと、昨晩の霧雨でしめった靴を脱ぐ。玄関を上がろうとしたとき、昨日落としていった本が見えた。そっと拾い上げる。そのまま、ぺたぺたとフローリングの廊下を歩いた。
LDKに美千花さんはいなかった。電気どころかカーテンすら引かれておらず、清潔な窓の外に、夕方の終わりかけた街が見えた。
カーテンを閉めてあげるべきか迷って、僕はそのまま引き返す。ぺたぺたと廊下を戻って、玄関の隣に並ぶ左右のドア、左側のベッドルームをノックする。
返事はなかった。だけど耳を澄ませれば、なんとなく、中に人がいるような気配がする。
「……美千花さん?」
音を立てないようドアを開いた。室内に、そろそろと身を滑り込ませる。後ろ手にドアを閉めて、下を向いたまま、何度か細い息をした。ぎゅっ、と本を抱いた手に力を込め、そうっと顔を持ち上げる。
大きなベッドの中で、美千花さんが眠っていた。
横たわる美千花さんの輪郭が、規則的に上下している。美千花さんは呼吸している──生きている。そのことに、全身が脱力するほどの安堵を感じた。
ベッドに歩み寄る。僕はかつて美千花さんがしてくれたように、彼女の傍ら、ベッドの縁に腰を下ろした。きし、と小さな音がした。横のシーツに本を置く。
美千花さんはグレーのシーツを身にまとい、すっかり眠りこんでいた。乱れた前髪の隙間から、こめかみに痣が覗いている。口の端が切れていて、閉じたまぶたは色褪せ、憔悴しきっていた。
(昨日は、口元にこんな傷、なかったのに……)
口の端からにじむ血はじわりと赤く、止まりきっていない。まだ新しい傷だと思われた。ずき、と胸が痛んだ。
悲しみと慈しみと罪悪感がぐちゃぐちゃに混じり合って、こみ上げた感情で喉の奥が苦しくなる。僕は衝動に任せて手を伸ばして、美千花さんの髪を撫でようとした。
けれど指先が触れるより先に、美千花さんが小さくうめき声を上げた。苦しそうなものではない、どちらかというと寝息や寝言に近いものだ。
んん、と鼻にかかった声を漏らしながら、美千花さんが寝返りを打つ。その肩から、グレーのシーツがするりと滑り落ちた。
(あっ……)
シーツの下から現れたのは、真っ白い背中だった。むき出しの、なまの肌が、間接照明のもとにあらわになっている。
そこには、痣や傷にまみれた裸体──そうだこれは裸だ──が、下着のひとつもまとわずに、ベッドの中に横たわっていた。
薄明るい部屋の中、肌の白さがしっとりと光って見える。その艶めかしさに、ひくっ、と喉が鳴った。
改めて寝室を見回す。サイドボードの引き出しは開いていて、中に0.01と書かれた箱が見えた。きれいだったベッドメイクはぐちゃぐちゃに乱れている。美千花さんの顔の横、枕元には、雑に丸めたティッシュの塊がいくつも転がっていた。
「ぁ……」
ふらり、とベッドから立ち上がる。意味もなく何度も首を横に振って、ふらふらと、数歩後ろによろめいた。
美千花さんは青白い顔で眠っている。だけどよく見れば、血の滲んだくちびるには、いつもと違う、はっきりした色が乗っていた。
上品なピンクベージュ。
〝合図〟の──色。
「ッ──‼」
その意味に気が付いた瞬間、美千花さんの寝顔がやけになまなましく感じられて、よくわからない、粘っこくてどろどろしたものが、身体の内側にべっとりと塗りつけられたような感じがした。
ほとんど嫌悪に近いなにかが、ぐうっ、とこみ上げる。制御できない激情で、五感すべてがぐちゃぐちゃになる。はっ、はっ、と犬のように息が浅くなって、心臓がどくどくと気持ち悪い鼓動を鳴らした。
よろよろと、慄くように後ろに下がる。けれど下がるにも限度があって、たった数歩で僕の背中はとんっ、となにかにぶつかった。びくっ、と振り返る。
そこには鏡台があった。なめらかな天板の上に、一本の口紅が転がっている。黒と金のケースは開いていて、長く繰り出されたピンクベージュの先端が、強引に塗りつけたように潰れていた。
「はっ、はあっ、は……ッ」
正体のわからない不快感。ほとんど恐慌じみた感情。全身をずぶずぶと浸していくありとあらゆる負の感覚に耐えて、僕は呆然とまばたきを繰り返す。
天板の上に手を伸ばした。震えながら口紅を拾い上げた。繰り出されたピンクベージュをゆっくりともとに戻して、ぱちん、と黒い蓋を閉める。これ以上この色を見ていたくなかった。
両手でぎゅうっと口紅を握りしめ、はあっ、はあっ、と呼吸を繰り返す。怯えるように背を丸める僕の背後で、美千花さんが眠っている。セックスの痕跡を、その裸体に刻み込んで。
(……っ、……ぼく、は……)
僕は、ぼくは、──僕は。
耐えられない、と思った。
僕は咄嗟に、口紅を握った手をポケットに突っ込んでいた。身体が勝手に動いていた。
弾かれるように駆け出す。美千花さんの裸を視界に入れないようにして、僕はドアを跳ね開けると、閉めることもせず寝室を飛び出した。
玄関に投げ出された靴につま先を突っ込む。湿った感触がぐじゅりと足を包む。冷え切った不快感が、妙に非現実的に感じられた。
ドアノブに飛びついて、勢いよく玄関ドアを開く。僕はもつれる足で、ほとんど這うように美千花さんの家から出た。そのまま、マンションの階段を、転げ落ちる勢いで駆け下りる。けたたましい足音が、がらんとした廊下に響き渡った。
自宅の玄関に飛び込んで、ドアが閉まるのと同時に後ろ手でがちゃん! と施錠する。ドアに背をつけて、下を向いて、はあっ、はあっ、と乱れた息の音。肩がしきりに上下して、酸素がまるで足りなかった。
真っ暗な玄関で、ぐしょぐしょの靴を見下ろす。荒れた呼吸はいつまでも整う気配はない。心臓が、ばくばくと早鐘を打っている。
僕は口紅を握ったままの手を、ポケットの中でぎりっ、と握りしめた。痛いほど力を込めた指先は、いつまでもかたかたと震えていた。




