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【完結・百合】家庭環境最悪な僕っ娘(14)が、マンションの上階に住む人妻(28)にズルズルに依存する話  作者: Ru
第四章 月とクレーンゲーム

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第13話

 ほとんど無理やり美千花さんを引っ張って、僕たちはふたたび走り出していた。ショーウィンドウがしだいに遠ざかり、さらさらと音を立てる霧雨の夜を、いつまでも走っていく。


 だけど、あのやり取りから、美千花さんの足取りは目に見えて重くなった。


 引かれるまま走っていたのが、やがて小走りになり、早歩きになり、徒歩になり。その歩みがほとんど止まっているのと変わらない速度になるまで、さほど時間はかからなかった。僕がいくら強く手を引いても、声をかけても励ましても、美千花さんの足取りの速度が戻ることは二度となかった。

 

 繁華街を抜けて、人気のない住宅街を通り過ぎて、国道沿いをずっとまっすぐ進む。長い歩道をひたすら歩いて、大きな橋にさしかかった。


 入り口のプレートに、橋の名前がかかっている。聞いたことのない橋だった。ちらと見下ろせば、岸辺には一級河川の看板。川の名前もやっぱり知らない。僕たちはいったい、どのあたりまで来たのだろう。わからない。


 橋の歩道をゆく僕たちの横を、せわしない車たちが、容赦のない速度でびょおびょお通り過ぎていく。タイヤが水を蹴散らす音がひっきりなしに鳴り続ける。


 数メートル歩くごとに、美千花さんはふらりと立ち止まろうとする。僕は歯を食いしばって、握った手の抵抗が重くなるたび、必死で美千花さんの手を引っ張った。だけど。


「…………口紅……」


 行き交う車の音にまじって、ぽつり、と小さなつぶやきが落ちる。

 その一言を最後に、美千花さんはとうとう、完全に足を止めてしまった。繋いだ手を引っ張っても、揺らしても、動かなかった。


 美千花さんは、肩を落としてぐったりと俯いている。雨でしめった髪が蹴立てられた風にあおられて、しきりにはためいた。夜のさなかに浮かび上がる真っ白な指先が、飛んでしまいそうな傘を懸命に握りしめている。


 か細い、弱々しい姿だった。ぎゅう、と胸が苦しくなる。


「美千花さん」

「……口紅、置いてきちゃったわ」


 ぽつり、とこぼされた小さな声に、ぴくっ、と指先に力がこもった。


 口紅。あの、ピンクベージュの。


 もし、取りに戻りたい、なんて言われたら、どうしたらいいだろう。途方に暮れてしまいそうになる。けれど美千花さんはただ黙ったまま、細い傘を耐えるように握って、立ち尽くしているだけだった。


 僕は一歩だけ近付いて、うなだれた美千花さんと向かい合う。


「寝室の口紅……大事なもの?」


 美千花さんが、かすかにうなずく。くちびるから、消え入りそうな声。


「……夫がね。買ってくれたの」

「ッ──‼」


 美千花さんの、旦那さん。今だけは、絶対に聞きたくない名前だった。かっ、と後頭部が熱くなって、いやだ、と叫ぶ。


「いいじゃん、そんなの!」

「あの人が、とても……優しかったころよ」

「だからって……!」


 ぎりっ、と歯を食いしばった。ひどい表情の僕を、美千花さんは一瞬だけちらりと見る。そしてふっと顔を背けると、雨を蹴散らしていく車の群れをぼんやりと見つめた。


 病的に白い、整った横顔が、ヘッドライトで何度もきらりと照らされる。色の薄いくちびるから、小さな吐息が落ちた。


「あれはね。合図だったの」

「……なんの」

「セックス」


 あまりにもあっさりと言い放たれた、生々しい言葉に、血の気が下がる感じがした。すうっ、と一瞬だけ世界が遠くなって、ゆっくりと、現実が戻ってくる感覚。


 横顔の美千花さんはかすかに目をすがめると、ふふっ、と笑った。


「私、そういうのを誘うのがとても下手で」

「やめて」

「いつも気を使わせたり、困らせてばかりでね」

「言わないで」

「だからあの人が買ってくれたの」

「もういい」

「これをつけた夜は、一緒に寝ようねって」

「──ッやだ‼ 聞きたくない‼」


 もうどうしたって耐えられなくて、僕はばしっ、と美千花さんの腕を払う。細い手から勢いよく傘が弾かれて、半円のシルエットが夜空にぶわりと舞い上がった。くるりと回転した傘が欄干の向こうに消えていく。少し遅れて、ぱしゃっ、と小さな着水音。


 泣きわめいてしまいたいのをぐっとこらえた。まばたきをすると涙が落ちてしまいそうで、必死で目を見開く。歯を食いしばって美千花さんを睨んだ。


 降りしきる霧雨のなか、通り過ぎるヘッドライトに照らされて、美千花さんの輪郭がぼんやりと光って見える。霞に滲む光をまとう、いっそ幻想的なまでの姿に、僕は呆然とつぶやいていた。


「なんで? なんでそんなこと言うの……?」


 美千花さんは返事をしない。ふら、とさらに一歩踏み出して、僕は泣きそうなのをこらえて言った。


「僕、がんばったよ。どこまでだって走れるよ。美千花さんのためなら、僕、なんでもする。だから、」

「どうして私、こんなところにいるのかしら」

「みちか、さ──」


 美千花さんが一言喋るたび、ずきずきと心臓が痛くなる。喉がひくりと痙攣する。

 僕が絶望的な顔をしていることくらい、とっくに気付いているはずなのに。美千花さんはゆるゆると首を振ると、消え入りそうに細い息を吐き出した。


「……こんなはずじゃなかった……」

「──っ‼」


 疲れ果てた声。あからさまな失望の言葉。ここではないどこかを見つめている、諦めきった眼差し。


 僕は泣きそうなのをこらえて、美千花さんになにかを言おうとした。わななくくちびるをかろうじて開きかけたそのとき、美千花さんがふっ、と笑った。妙にいびつな表情だった。


 夜の中で浮かび上がる白い手が、真っ黒いスカートのポケットに差し入れられる。取り出されたのはスマートフォンだった。


 無機質な四角い板は、ちかちかと何度もまたたいて、小刻みな振動を永遠のように繰り返していた。マンションを出てから今まで、このスマホはずっと鳴り続けていたのだろう。


 いっさい止まることなく、おそらくは旦那さんからの着信を繰り返すスマホをかかげて、美千花さんがかすかに微笑む。


「ただ、逃げて──あなたは、どうするの」

「ぼく、は──」


 なにか言いたかった。この人を励ませるような、また一緒に歩いていけるような、どこまでも逃げていけるだけの根拠になることを、なにか。


(僕、ぼくは、これから──……)


 だけど──返事など、もうひとつも、できなかった。


 ぐしゃり、と表情が歪む。僕にできることなど何ひとつ残っていない、そんなことはわかっていて、それでも、諦めきれなかった。


 せめて泣いてしまわないよう、感情を懸命にこらえて、わななく口を必死に開く。


「行こう」


 僕はもうそれしか言うことはできなくて、返事をしない美千花さんの白い手を、ぎゅっと握りしめた。冷え切った手は力なくうなだれて、僕を握り返してはくれなかった。


 ひどく重い抵抗を無視して、ほとんど強引に引きずるみたいにして、もう一度歩きはじめる。霧雨のはらはらという音に混じって、美千花さんの不規則によろめく足音が背後に続く。


 深い夜、少しずつ弱くなっていく霧雨の中。僕は必死に前だけを向いて、くちびるを噛み締めて、アスファルトを何度も踏み締め続けた。



        ※



 重苦しい足取りのまま、美千花さんは二度と素直に歩いてはくれなかった。


 美千花さんの歩みはまったく規則的ではなく、何度も何度も立ち止まり、そのたびに彼女はポケットのスマホを確認した。僕はちかちかと明滅を繰り返すスマホの白い光に目を灼かれながら、ありったけの言葉で美千花さんの気を引き続けた。なだめ、すかし、励まし、懇願して、なんとかかんとか歩みを続けた。


 だけど、本当はわかっていた。僕たちに、行くあてなどどこにもない。あまりにも衝動的な出奔だった。準備も、覚悟も、将来も、そこにはひとつも存在していなかった。


 僕の世界はあのマンションと図書館と、その周囲のわずかな範囲だけで、そこより外のことなんて何ひとつ知らない。自分が今どこを歩いているのか、どこを目指しているのか、そんなことすらわからない。


 きみが笑ってくれるところに行く、と僕は言った。だけど振り返るたびに美千花さんの顔は曇り、うなだれ、疲労と諦念の色が濃くなっていった。のしかかる現実に、恐れと絶望がじわじわとこみあげる。


 そうして、夜がすっかり深まりきったころ。僕はとうとう、背後の美千花さんを振り返るのを、完全にやめた。



        ※



 いつまでも永遠に続くかと思われた、ひどく息苦しい夜の底。その時間に、とうとう終わりの気配が見え始めた。


 気が付けば、雨があがって夜明け前。東の空がうっすらと、薄紫色に染まりはじめている。淡い色の月は地平の近くまで傾いて、明星が月の隣で小さくまたたいていた。その下で、積荷運搬用のクレーンがいくつも交差している。


 歩き続けた僕たちは、海のそば、港の埠頭にたどり着いていた。


 ボオオオオ、とどこかで早朝の汽笛が鳴っている。打ち寄せる波音と潮のにおい、柵もなく切り立ったコンクリートの、味気ない海岸線。


 歩いて、歩き続けて、こうしてとうとう海に出た。道はもう、どこにも繋がっていなかった。──終わりだ、と思った。


 ずん、と手の中の抵抗がいっきに重くなる。ゆるゆると振り返れば、美千花さんは僕に手を引かれたまま、コンクリートの地面にしゃがみ込んでいた。


「……美千花さん」


 そっと呼びかける。思ったより、ずっと静謐な声が出た。


 膝に額を押し付けて、うずくまった美千花さんは、僕に返事をしなかった。埠頭と海の境界で、コンクリートに当たる波が、ざあん、としぶきの音を立てる。それに混じってヴーッ、ヴーッ、と鳴り続けるスマホのバイブレーションが、断罪みたいに響き渡っていた。


 背を丸めた美千花さんが、ふーっ、と長い息をはく。


 そして。


「……私、帰るわ」


 彼女はとうとう、決定的なひとことを、ぽそりと小さくつぶやいた。


 僕はなにも言えなかった。だってその言葉を聞いた瞬間、ひどい無力感と同時に押し寄せたのは、間違いなく、はっきりした安堵だったのだ。


 これ以上、道の続きはどこにもない。引き返すしかない。もう頑張ることはできない。僕が諦めても仕方のない、正当な理由が、まっとうな言い訳が──そこにはきちんと存在していた。


 仕方ないんだ、という諦念とともに、ぐたぐたの疲労と、どうしようもない無力感が、さあっと海風に吹かれていく。僕は海辺の冷えた空気を吸い込んで、何度か細い息を繰り返して。


 美千花さんの手をきゅっと握りしめると、


「……うん。帰ろう……」


 とても静かに、うなずいた。美千花さんは返事をせず、丸めた背をただかすかに震わせた。


 いつまでも続く波の音と、ひっきりなしになり続けるスマホのバイブレーション。朝の空気がひゅうひゅうと耳元を通り過ぎて、どこか遠くにカモメの声。


 冷えきった潮風がしきりに頬を叩いて、のぼせ上がった僕の選択を冷やしていく。熱かった指先が、しいんと冷たくなっていく。心拍が、少しずつゆっくりになる。


 しゃがみこんだ美千花さんが、ふっと顔を上げて海を見た。ダークグレーのぼんやりした瞳が、早朝の海面を見つめている。その横顔を眺めながら、このひとの選択にほっとしてしまった自分が、心底嫌いだ、と僕は思った。


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