第12話
夜。ちらちらと、霧雨が降り注いでいる。
僕たちは手を繋いだまま、雨の繁華街を走っていた。
まつげを濡らす雨の微細な雫が、街の明かりを乱反射して、視界のあちこちがきらきらと虹色に光っている。
ほとんど霧、あるいは霞みたいに淡い雨。見上げれば薄ぼんやりした雲ごしに、フォーカスのぼやけた月が、円形のハローをまとっていた。
たったひとつしかない傘を美千花さんに持たせて、僕たちは繁華街を駆け抜ける。コンビニの角をまがって、ドラッグストアの前を過ぎ、居酒屋の群れを通り抜けて、ひたすらに夜を走った。
ゲーセンの前、居並ぶクレーンゲームから楽しげな音楽がドップラー効果みたいに響いてくる。濡れたアスファルトに、ぬいぐるみを狙ったアームを照らす光が反射する。まだらに輝く水たまりを踏み抜いた瞬間、ピンクとブルーの反射光がびしゃっ、と跳ねた。
はあはあと息が弾む。踏み散らした水で足元がしとどに濡れて、靴の中が少しずつ湿っていく感触。
「ねえ」
背後から、乱れた呼吸の呼びかけが聞こえた。
「どこへ行くの」
(どこへ、って──)
わからない。
ただ無我夢中で飛び出して、先のことなどなにも考えていなかった。あの瞬間、ただ美千花さんの手を取って、指先に伝わる冷えた感触だけがすべてで。それ以外のことなんて、ぜんぶ頭から飛んでいた。今だって、なにも考えてなんかいない。だけど。
「──きみが、笑って、いられる、ところ」
このひとを、不安にさせるようなことだけは言いたくなくて、僕は走りながら振り返る。にこり、と背後へ笑いかけた。美千花さんが僕を見つめる。肌を湿らせる細かな霧雨が、かすかな汗と混じり合って、なんとも言えない高揚感。
握る指先に力を込め、僕は笑う。美千花さんは眉を下げ、耐えるようにかすかに微笑んで、それ以上なにも言わなかった。
※
それからしばらく、美千花さんは大人しく僕に手を引かれていた。
だけどずっと走り続けていると、さすがに疲れてきたのだろう。しだいに、美千花さんはぽつぽつと不安をこぼすようになっていった。
「行き先はどこ」
「さっきも言ったよ。きみが笑えるところ」
楽しげな酔っぱらいのおじさんたちの間をすり抜けて走る。焼き鳥屋の巨大な赤提灯に、黒い文字が踊っている。千客万来。
「当てはあるの」
「なんとかなるって。僕が守ってあげる」
女性客ばかりのおしゃれな店の角を曲がる。いちめんの窓ガラスの中、カウンターの天井にワイングラスがずらりと吊ってある。きらめくグラスに真っ赤なワインが注がれる。
「……休む場所や、これからのことは」
「この雨さえ上がれば、どうにかなるはず」
きらびやかな食器店の前。見覚えのあるモノトーンの幾何学模様のティーセットがあった。気を取られて足を緩める美千花さんの手を、前を向いたままぐっと引く。
「大丈夫だよ」
「……」
「ほら、急ごう。しんどいけど、頑張って」
「……でも、……」
僕の呼びかけに、美千花さんはほとんど返事をしてくれなかった。背後の気配が、ふらり、と歩みを止めてしまう。
はあはあと肩を上下させ、僕はゆっくりと振り返った。
向かい合う僕たちの姿が、大きなショーウィンドウに映り込んでいる。中に並ぶのは高級そうな食器たちで、透明なカップ、花柄のお皿や、モノトーンの幾何学模様など、どれもこれも美千花さんの家で見たことがあるものばかりだった。
美千花さんは動かない。くちびるを噛みたいのをこらえる。
「……美千花さん。もうちょっとだけ、頑張ろう」
「……」
「美千花さん」
じっと口をつぐんだまま、美千花さんは静かに僕を見つめていた。
ダークグレーの瞳が揺れている。その奥に見え隠れしていたかすかな期待が、走れば走るほど薄れていくことに、僕はずっと気付かないふりをしていた。励ますように笑った。
「引っ張りすぎてごめん。しんどかったよね」
「……私」
「あとちょっと、頑張ろうよ」
必死に自分を奮い立たせて、美千花さんに笑いかける。細い手をきゅっと握りしめた。手の中の冷たい指先が、ぴくん、と小さく跳ねる。美千花さんの傘がゆっくりと手前に傾いて、白く端正な表情を隠した。
ナイロンが雨をはじく、ぱらぱらという音。伏せた傘の向こうから、やけに静かな声がする。
「……逃げたあと、私たち、どうするの」
「それは……」
くちびるが開いて、なにか言おうとして、止まった。続きの言葉は、僕には思いつかなかった。
じわじわとこみ上げてくる、言いようのない不安。ずっと見ないようにしていたそれが、たったひとつの問いかけで、ぶわり、と一気に膨らんでいく。
僕はくちびるを引き結び、まだだ、と呪文みたいに心の中で何度も繰り返した。
まだだ。まだ、頑張れる。僕は強いし、子供じゃないし、か弱いだけの女の子とは違う。騎士様にだってなれる。正しいことをしている。立ち止まるわけにはいかない。このひとのために、何かをしなければいけない。まだ、頑張らなきゃいけないんだ。
くっ、と口の端を持ち上げた。表情が歪んでしまわないよう、必死に笑ってみせる。
「きっと大丈夫。僕たちならなんだってできるよ」
美千花さんが、傘をそっと持ち上げた。ナイロン生地の端から、ダークグレーの瞳がちらりと覗く。その瞳には、消えかかった期待にすがりたいのに、実際はほとんど諦めているような、仄暗く複雑な光があった。
聞こえたのは、ひどく冷静な、声。
「──大丈夫の、根拠は?」
「っ……」
ひゅ、と息が詰まる。なんでもいい、なにか、彼女を安心させてあげるような言葉を答えようとして、だけど。適切な言葉は、やっぱり、ひとつも思い浮かばなかった。
「……そうよね」
なにも言えずにひるんでしまった僕を見て、美千花さんはかすかに微笑むと、小首を傾げる。僕が答えを持っていないことなんて、はじめからわかっていた、という仕草。ずきりと胸が痛くなった。
美千花さんの表情が、うっすらと、とても静かに歪んでいく。目を凝らさないとわからないほど微量の変化。それは笑っているようにも泣いているようにも見えて、幾重にも入り組んだ表情の下にどういう感情が隠れているのか、僕にはひとつもわからなかった。悔しさに近い焦躁が胸を焼いた。
「……行こう」
「……」
「行こう。──行くんだ」
逃げるみたいに口調を強くして、いや、まぎれもなく逃げにしかなっていない、なんの意味もない呼びかけを口にする。美千花さんは昏い瞳のまま、そうね、とだけささやいた。




