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【完結・百合】家庭環境最悪な僕っ娘(14)が、マンションの上階に住む人妻(28)にズルズルに依存する話  作者: Ru
第四章 月とクレーンゲーム

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第12話

 夜。ちらちらと、霧雨が降り注いでいる。

 僕たちは手を繋いだまま、雨の繁華街を走っていた。


 まつげを濡らす雨の微細な雫が、街の明かりを乱反射して、視界のあちこちがきらきらと虹色に光っている。


 ほとんど霧、あるいは霞みたいに淡い雨。見上げれば薄ぼんやりした雲ごしに、フォーカスのぼやけた月が、円形のハローをまとっていた。


 たったひとつしかない傘を美千花さんに持たせて、僕たちは繁華街を駆け抜ける。コンビニの角をまがって、ドラッグストアの前を過ぎ、居酒屋の群れを通り抜けて、ひたすらに夜を走った。


 ゲーセンの前、居並ぶクレーンゲームから楽しげな音楽がドップラー効果みたいに響いてくる。濡れたアスファルトに、ぬいぐるみを狙ったアームを照らす光が反射する。まだらに輝く水たまりを踏み抜いた瞬間、ピンクとブルーの反射光がびしゃっ、と跳ねた。


 はあはあと息が弾む。踏み散らした水で足元がしとどに濡れて、靴の中が少しずつ湿っていく感触。


「ねえ」


 背後から、乱れた呼吸の呼びかけが聞こえた。


「どこへ行くの」

(どこへ、って──)


 わからない。

 ただ無我夢中で飛び出して、先のことなどなにも考えていなかった。あの瞬間、ただ美千花さんの手を取って、指先に伝わる冷えた感触だけがすべてで。それ以外のことなんて、ぜんぶ頭から飛んでいた。今だって、なにも考えてなんかいない。だけど。


「──きみが、笑って、いられる、ところ」


 このひとを、不安にさせるようなことだけは言いたくなくて、僕は走りながら振り返る。にこり、と背後へ笑いかけた。美千花さんが僕を見つめる。肌を湿らせる細かな霧雨が、かすかな汗と混じり合って、なんとも言えない高揚感。


 握る指先に力を込め、僕は笑う。美千花さんは眉を下げ、耐えるようにかすかに微笑んで、それ以上なにも言わなかった。



        ※



 それからしばらく、美千花さんは大人しく僕に手を引かれていた。


 だけどずっと走り続けていると、さすがに疲れてきたのだろう。しだいに、美千花さんはぽつぽつと不安をこぼすようになっていった。


「行き先はどこ」

「さっきも言ったよ。きみが笑えるところ」


 楽しげな酔っぱらいのおじさんたちの間をすり抜けて走る。焼き鳥屋の巨大な赤提灯に、黒い文字が踊っている。千客万来。


「当てはあるの」

「なんとかなるって。僕が守ってあげる」


 女性客ばかりのおしゃれな店の角を曲がる。いちめんの窓ガラスの中、カウンターの天井にワイングラスがずらりと吊ってある。きらめくグラスに真っ赤なワインが注がれる。


「……休む場所や、これからのことは」

「この雨さえ上がれば、どうにかなるはず」


 きらびやかな食器店の前。見覚えのあるモノトーンの幾何学模様のティーセットがあった。気を取られて足を緩める美千花さんの手を、前を向いたままぐっと引く。


「大丈夫だよ」

「……」

「ほら、急ごう。しんどいけど、頑張って」

「……でも、……」


 僕の呼びかけに、美千花さんはほとんど返事をしてくれなかった。背後の気配が、ふらり、と歩みを止めてしまう。


 はあはあと肩を上下させ、僕はゆっくりと振り返った。


 向かい合う僕たちの姿が、大きなショーウィンドウに映り込んでいる。中に並ぶのは高級そうな食器たちで、透明なカップ、花柄のお皿や、モノトーンの幾何学模様など、どれもこれも美千花さんの家で見たことがあるものばかりだった。


 美千花さんは動かない。くちびるを噛みたいのをこらえる。


「……美千花さん。もうちょっとだけ、頑張ろう」

「……」

「美千花さん」


 じっと口をつぐんだまま、美千花さんは静かに僕を見つめていた。


 ダークグレーの瞳が揺れている。その奥に見え隠れしていたかすかな期待が、走れば走るほど薄れていくことに、僕はずっと気付かないふりをしていた。励ますように笑った。


「引っ張りすぎてごめん。しんどかったよね」

「……私」

「あとちょっと、頑張ろうよ」


 必死に自分を奮い立たせて、美千花さんに笑いかける。細い手をきゅっと握りしめた。手の中の冷たい指先が、ぴくん、と小さく跳ねる。美千花さんの傘がゆっくりと手前に傾いて、白く端正な表情を隠した。


 ナイロンが雨をはじく、ぱらぱらという音。伏せた傘の向こうから、やけに静かな声がする。


「……逃げたあと、私たち、どうするの」

「それは……」


 くちびるが開いて、なにか言おうとして、止まった。続きの言葉は、僕には思いつかなかった。


 じわじわとこみ上げてくる、言いようのない不安。ずっと見ないようにしていたそれが、たったひとつの問いかけで、ぶわり、と一気に膨らんでいく。


 僕はくちびるを引き結び、まだだ、と呪文みたいに心の中で何度も繰り返した。


 まだだ。まだ、頑張れる。僕は強いし、子供じゃないし、か弱いだけの女の子とは違う。騎士様にだってなれる。正しいことをしている。立ち止まるわけにはいかない。このひとのために、何かをしなければいけない。まだ、頑張らなきゃいけないんだ。


 くっ、と口の端を持ち上げた。表情が歪んでしまわないよう、必死に笑ってみせる。


「きっと大丈夫。僕たちならなんだってできるよ」


 美千花さんが、傘をそっと持ち上げた。ナイロン生地の端から、ダークグレーの瞳がちらりと覗く。その瞳には、消えかかった期待にすがりたいのに、実際はほとんど諦めているような、仄暗く複雑な光があった。


 聞こえたのは、ひどく冷静な、声。


「──大丈夫の、根拠は?」

「っ……」


 ひゅ、と息が詰まる。なんでもいい、なにか、彼女を安心させてあげるような言葉を答えようとして、だけど。適切な言葉は、やっぱり、ひとつも思い浮かばなかった。


「……そうよね」


 なにも言えずにひるんでしまった僕を見て、美千花さんはかすかに微笑むと、小首を傾げる。僕が答えを持っていないことなんて、はじめからわかっていた、という仕草。ずきりと胸が痛くなった。


 美千花さんの表情が、うっすらと、とても静かに歪んでいく。目を凝らさないとわからないほど微量の変化。それは笑っているようにも泣いているようにも見えて、幾重にも入り組んだ表情の下にどういう感情が隠れているのか、僕にはひとつもわからなかった。悔しさに近い焦躁が胸を焼いた。


「……行こう」

「……」

「行こう。──行くんだ」


 逃げるみたいに口調を強くして、いや、まぎれもなく逃げにしかなっていない、なんの意味もない呼びかけを口にする。美千花さんは昏い瞳のまま、そうね、とだけささやいた。

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