終章 そして、世界は動き出す3
彼らの部屋を出ると、窓の外は既に白い朝日が差し込み始めていた。
慌てて足早にゼルダの待つ研究室へ戻る。するとそこには、彼女以外の意外な人物が佇んでいた。
「……トリスタン」
金色の髪が、穏やかな相貌と共に振り返る。
「来ましたか。待っていましたよ、アウラ」
アウラは目を丸くして彼を眺めた。意外だったのは、彼が白衣を着用していなかったからだ。
トリスタンはアウラの様子に満足げに笑って、彼女の手を引き室内へ促した。
「驚きました? でも時間外なんだから問題ありませんよね」
「それはそうだけど。ここに居たのも驚いたけど、私服だとなんだか印象が違うわ」
「そうかな? 結構、こういった締め付けない服が好きなんですよ、僕は」
トリスタンはいつも白衣を隙なく身に着けていて、当然前のボタンもきっちり締めている。もちろん中には襟付きのシャツだ。
今の彼はといえば、V字の襟をした、とても薄いベージュのニットに白いパンツ。肌が白く、鎖骨が映える。
「そういう服が似合うのね。知らなかった」
アウラは場違いだと知りつつも、素直な感想を漏らした。
ゼルダは呆れた顔で作業に戻っている。室内は変わらず暗いが、転送台はライトで煌々と照らされているし、壁中に巡らされた機器が作動して青い光を放っている。通常の研究室とさほど変わらない稼働率だろう。
トリスタンは柔らかく笑って、転送台の前で立ち止まった。
「それはどうも。貴女は最初から僕に関心がなかったからなあ。私服でお会いするのも初めてですし」
「べ、別に関心がなかったわけじゃないよ。そんな言い方しないでくれる?」
「すみません。いや、貴女と話すのもこれで最後かと思うと名残惜しくて」
トリスタンは凪いだ表情で、優しく言った。
先ほどのディディエの抱擁を思い出す。カストルの姿も。込み上げてくるもので瞳が潤むのを感じながらも、懸命にそれらが零れ落ちないように瞬きを止めた。
アウラの動揺を知ってか、トリスタンはそれ以上距離を詰めようとはしなかった。
「あ、そうだ。リュクスは来ませんよ。貴女のことが落着したので、もう寝ると言っていました」
どうも見送りは好まないみたいで、と申し訳なさそうにする青年にアウラは頭を振った。
ディディエのみならず、ゼルダや二人にもアウラの考えは筒抜けだったらしい。
その上で、リュクスは止めに来なかった。トリスタンもその気配はない。
みんな、と呟いたが、その先は言葉にならずに唇が震えただけだった。
「僕が来たのはね、見送りというのも本当ですが……言い残したことがあればお伝えしようと思って来たんですよ」
思わぬ言葉に、アウラは訝しげな視線を送った。
すると物腰柔らかなまま、トリスタンはあっさりと爆弾を投下するのだった。
「アウラ、貴女は全くご存知ではないみたいなんですけれど、僕は大公閣下のご指示で研究院に来たんですよ」
「は?」
にっこり。
目を瞬かせている間に、トリスタンはおかしそうに笑って補足した。
「いやあ、きっとこの様子じゃ僕の家のこともご存じないかな。ここまで関心をもたれないというのも、ある意味すごいよなあ」
結構近くに居たつもりなんだけれど。
そう首を傾げるポーズに、思わずアウラは詰め寄った。
「どういうことなの、トリスタン!」
同じようににっこりほほ笑む父親の顔が脳裏に浮かんで点滅する。
「ミュゼ伯爵家の兄弟のことが明るみに出る前のことですけどね。大公妃が貴女に望んでいたのは研究院での活躍じゃなくて、良いお婿さんを迎えることだったはずでしょう? 夜会でもお目にかかっていた筈なんだけれど、一度もそのことに触れないのは……やっぱりアウラ、僕のことは覚えていないですよね?」
「……」
言葉もない。
絶句とはまさしくこのことだ。
「いやあ、しかし。大公閣下にお墨付きを頂いた、婿候補だったんだけれど……」
「嘘でしょう?!」
愕然としたアウラの顔に、トリスタンは高らかに笑い声を立てた。
こんな冗談を今この時に言う人間なんていないでしょうにと、涙混じりに宥められる。
「僕はこんな冗談を言ったりしませんよ。アウラ・グランギニョル。うちの家名はレガールというんですが、僕の家も伯爵家なんです」
次男ですけど、と付け加えられたのをすっ飛ばして、アウラの頭にレガールの名が響き渡る。
父の推す婿の中に彼の名前があったというのだろうか。たくさん居たし興味もなかったから、今となってはわからない。
そんなの全然気づかなかった、と思わず漏らせば、だって貴女はミュゼに夢中だったでしょう、とからかわれる始末だ。
「ま、そのことは良いんですよ。僕も研究を志す人間でしたから、研究院に入れてくれるというならばということで入っただけですから。残念ながら貴女の心はカストルに向いていて、僕の心も親愛の情以外は湧かなかった。こればかりは仕方がないことです」
ただ、とトリスタンはその瞳をアウラに向けた。
「貴女はもうこの世界を離れてしまうつもりなのでしょう。僕も既にこの研究に深く携わっている身として、神の如き大公閣下であっても、貴女のことを洩らすつもりはありません。けれど……言伝があれば、承ろうかと思いまして」
「トリスタン……」
少しの間躊躇して、結局アウラはそれを断った。
不自由なく育ててくれ、自分を尊重してくれた両親に親不孝をする身。どんな理由もいいわけでしかない。
それにアウラの父は、愛情豊かな父親である反面、冷酷な大公でもある。これ以上グランギニョルという世界を、そして研究院を政治利用されるのは避けたかった。
「あなたに……みんなに頼みたいのは、この研究が悪しき方向へ導かれないよう、正しい選択をしてほしいということ。それだけよ。カストルが目覚めればきっと、素晴らしい未来の為にこの研究は進んでいくから」
「ええ。わかりました。やはりそういうのですね、貴女は。僕だけじゃなくて、きっとリュクスやディディエもわかっているはずです。僕の推測ですが、今後、カストルが目覚めるまでは、現状を維持することに全力を尽くすことになるでしょう。貴女はここには戻らなかった、最初から。そしてカストルが目覚めた時、グランギニョルに潜んでいるはずの貴女は見つからなかったと、公式にはそういう報告になるはずです」
「ええ。それでお願い」
トリスタンは真摯な瞳で頷いて見せた。
「もういいかい? ……準備ができたよ。転送台に乗りな」
アウラは最後にもう一度、トリスタンに向かって笑みを送り、転送台に上った。
台の上は酷く熱い。上部に設置されたライトの光で、薄暗い研究室の様子は見えなくなった。
傍らにトリスタン。少し離れたところでゼルダが機器を操作している。
「行くよ。……初めてじゃないかもしれないけど、気をつけなよ。一応、アンタが住んでいた、セ・ラティエに座標を合わせたけど、ウィスプランドの方がいい?」
「それでいいよ」
「オーケー。準備はいいね?」
「うん。……トリスタン、リュクスにも、後を頼むね」
「ええ。お任せを。なんとかしますから、こちらのことはどうぞご心配なく」
「ゼルダ、短い間だったけれど、どうもありがとう。……ディディエのこと、お願い」
「……わかってるよ」
「……アウラ。カストルには良いのですか」
「うん。……きっとあの人は、わかってくれると思うから」
「そうですか。……では、お元気で」
「しっかりしなよ。ちゃんと男をつかまえときな!」
「わかってる。じゃあ、二人とも……元気で」
小さく手を振ると、金色の粒子がアウラを包みこんで輝き始める。それらに覆い尽くされる前に、アウラは別れの言葉を告げた。
粒子がアウラを覆い尽くすと、一瞬、転送台の上下から強烈な光が柱のように放たれた。
初めて目の当たりにした衝撃とあっけなさに、ゼルダはぽつりと呟いた。
「……いっちゃったね」
「ええ。……さあ、これからが大変です。僕たちの姫君の為に力を尽くさなくてはね」
そうしてアウラは、再びグランギニョルへと還ったのだった。
***
目を開けると、眩い光と爽快な青い空が視界を埋め尽くしていた。深い青だ。そして雲は、すぐ近くを漂っている。霧のようにつかず離れず。遠くを見渡せば、今自分を包んでいるような白い雲がはっきりと形を露わに至る所に浮かんでいた。
ぱちり、とアウラは赤茶色の瞳を瞬かせた。横を向くと、櫻と異なる赤がかった茶色い髪がさらりと流れた。……ああ、そうだ。姿かたちはアウラなのだ。
起き上がると、掌に草の感触。神殿は視界に入らないが、アウラの視界の端は陸地がこと切れているようだ。
「……帰って来た」
帰って来た。グランギニョルに。
指先を動かしてみたが、問題はない。櫻の姿は消えてしまって、アウラという元の姿のまま、こちらに転送されてきたらしい。恐らく、一番最初に転送されてきたときもこの姿であったはずだ。今はもう、記憶もなくて知る由もないけれど。
少し強めの心地よい風が、アウラの髪を撫でる。グランギニョル独特の風。
見渡す限りの草原と、ところどころに散らばる白い花畑。神殿の部屋から眺めた景色とほぼ変わらない。
「……いや、変わったか」
アウラは起き上がって草原に足を進める。さく、さく、と草と土の匂いを感じながら歩いていく。誰も、いない。風の音と、穏やかな景色。それだけだった。
一面の草原で陸の表面は見えないが、既に数か所、地盤が隆起しているのを見つけた。おそらく、ディディエと共に消えたあの時……。アクシャム・ソードとかいう光柱が一斉にはなたれた時のものだ。
ここの様子からはそう酷い被害にも見えないが、もしかしたらゼルダが転送先を優先して修復してくれているのかもしれない。
少なくともウィスプランドの方は相当な被害を出しているだろう。壊滅状態だとトリスタンも言っていたのだから。修復にはまだ時間がかかるはずだ。
「……ジルアート、どこだろう」
ぽつり。アウラは独りごちた。
ウィスプランドにいるままか、この地へ戻ったか、それとも他の島か……。
つらつらと、そんなことを考えながら隆起している場所を越えようとして、アウラはひび割れた地面に足をかけた、その時。
「えっ……! ウソ!」
足を掛けた場所のすぐ向こう。隆起した地盤で視界になっていた向こう側が、なんとあたりの地盤ごと陥没していた。
ぐらり。アウラの体がかしぐ。けれど体の重心は、隆起を乗り越えようと前のめりに動いていて、どうあがいても後ろには戻らない。
「ちょっとちょっと、ちょっと……! うそでしょ、いやー!」
再び、ぐらり。アウラの体は勢いよく陥没した地盤の中に落下した。