終章 そして、世界は動き出す2
歩きながら回廊の窓の外を見ると、辺りはすでに明け方の時間であったらしい。
うっすらと空が白み始め、水色の空と夜の闇が混ざり合う時間。
誰もが寝静まった、秘密の時間だ。世界で孤独を抱えるような、そんな不思議な感覚を抱く。行き着いた考えに、アウラはゆるく頭を振った。
この世界で自分が孤独かもしれないというのは、恐らく幻想ではないのだ。自分が生まれて生き、愛した人がたくさんいるこの地を、世界ごと置いていこうというのだから。
アウラは目的の部屋へと辿り着いた。誰に会うこともなく。
……扉にそっと、触れてみる。
ひんやりと冷たい。当たり前だ。金属の扉の向こうは気配すらつかめない。
アウラは目を閉じ、そっと息を吸った。
この向こうにあの人がいる――カストル・ミュゼ。
私が、愛した人。
……そして、全ての始まりとなった人が。
扉を開くと、中央に機器が安置されているのが見える。個室ほどの広さの、さほど広いとは言えない部屋だ。機器類が壁に埋め込まれているためか、室内は簡素な様子だった。
機器はアウラも見覚えのあるもので、棺の形状をしていた。きっとアウラが入っていた時と同様に、中には保生液が満たされ、その中の人物は眠りについているはずだった。
……そう。眠っているはずだった。その事実を信じるのが、ひどく難しい。
予期せぬことに、そこには一人の先客がいた。
その人物は、機器を安置している土台に座り込み、機器に凭れるようにして目を閉じていた。眠っているのかは定かではない。
アウラは立ち尽くしたまま、彼の名を呟いた。
「ディー……」
小さな、微かな声に、ディディエはうっすらと目を開けた。長い睫毛に彩られた紺色の瞳が光に触れて、輝きだす。
彼はゆっくり首を回し、やがてこちらに視線を定めた。
……どのぐらい、そのまま立ち尽くしていただろう。足が棒になってしまったかのように、アウラは身動きが取れないでいた。
ディディエはぼんやりと、しばらくそのまま佇んでいたが、傍らに安置されている機器にこつん、と頭を寄せた。そして、小さく、細く、長い溜息を一つ。
まるで体内の空気を全て吐き出すような動作だった。
「来たんだ……?」
返答を求めていない声だった。
ディディエは気だるげに右手で髪を掻き上げた。銀色の長い髪は、いつもと違って結われておらず、少し乱れていた。表情のない様子に、アウラは精巧な人形のようだと思う。
ディディエは動けずにいるアウラをちらりと横目で見たものの、それ以外は声をかけることもなく。ただ、沈黙が横たわって続いた。
「……」
どうしよう。アウラは微かに身じろぎをしたが、思考を巡らせてもどうにも答えが見つからない。
普段のディディエなら、こちらへ飛んできては、腕を引っ張ってでも部屋へ招き入れたはずだ。実際にはそれどころかあからさまに溜め息を吐かれ、目を逸らされる始末。
(多分、ディディエは私がジルアートを選んだことに気づいている)
きっと失望しただろう。ディディエはカストルとアウラの為に、長い間心血を注いでくれたのだから。
安易に謝罪ができる立場ではない。そして数時間前に起こった諍いも、言葉をためらう原因であった。 あの時投げつけたことに後悔はしても、言葉に後悔はしていない。
どのくらい時間が経ったのか、アウラにはわからなかった。
気が遠くなるような時間が過ぎ去ったような気がしたその時、ディディエは髪をくしゃくしゃにしながら、冷たい視線でこちらを見据えた。
「……会いにきたんじゃないの。 カストルに」
「……」
「おいでよ。……アウラ」
初めて感じる視線が痛い。アウラは一瞬、その視線から逃げたくて強く目を瞑った。
憎まれることは覚悟の上だ。非道な行いに手を染めたディディエや研究員たちを、アウラだけは批難する資格を持たない。その道に強引に引きずり込んだ張本人だからだ。
だからこそ、ジルアートのいるグランギニョルへ戻りたいというのは、勝手な思いであると承知している。
不安はある。恐怖もある。それでも強い思いで決めたことだ。
(……それでも行くと、決めただけ。もう決めたことじゃない)
奥歯に力を入れ、緊張に震えそうな拳をきつく握った。
……けれど、このような眼差しを、冷え冷えと凍てついた目で見つめられると、アウラはどうしていいのか、わからなくなる。
「おいでったら」
少しだけディディエの声に険が混じる。その声に、アウラは引き寄せられるように、ゆっくりと中心へと歩き出した。
機器が間近に迫ったところで足は自然と立ち止まる。ディディエはすぐ傍らの位置で座り込んだままだ。機器は台座の上にあって、手前に数段の階段がついているようだった。
酩酊したような意識。ぐらぐらと揺れる意識。
(……これは、私がカストルの顔を見ることを、恐れているから)
ぐっとそれを抑え込んで、階段を上った。
機器のあるボタンを押すと、それはやがて透明のケージに変化を見せる。
瞬時に姿を見せた姿に、アウラは目を見開いたまま、思わず両手で口を塞いだ。
その掌さえも震えが走った。
「……カストル」
ああ、と吐息が零れた。
ぼろぼろと、突然涙が頬を伝う。
ああ、ああ。
「本当に……生きてるのね……!」
緑色の保生液が満たされた棺の中。ゆらゆらと漂うのは、細い金の髪。短かった髪は、体を覆うように長い。端麗な相貌、色白な肌。薄い唇のかたち。長い睫毛。
間違いない。アウラが焦がれて焦がれてやまなかった、カストル・ミュゼがそこにいた。
がくん、と膝から崩れ落ちる。込み上げてくる感情は、ジルアートの時の思いとも違うけれど、確かにアウラの生かすものだった。
生きてる。胸が、鼓動に波打つ。生きていた。カストルは、生きていた。
――無駄じゃなかった。
その事実に、全てが昇華していく。
彼が生きる道を探し出せた。それだけで満たされる想い。
「……っ、生きてる……生きているのね、ミュゼ……!」
その時、背後から強く抱きすくめられる。
「――君のおかげだよ。アウラ」
君のおかげなんだ、とディディエは耳元で囁いた。
突然の抱擁に、アウラは硬直した。けれどディディエは構わなかった。
「……ごめん。さっき、部屋で、君にあんなことを言って。何より最初に、僕は感謝を述べるべきだったんだ。……アウラ、カストルは生きているよ。死ぬはずだった僕の大切な弟は、君のおかげで今も生きてる。そして、これからも自分の人生を歩んで行ける。……ありがとう。アウラ」
「ディー……?」
掠れるような声に、アウラは振り向こうとして、失敗した。
思ったより腕の拘束が強かったのだ。
「ごめん。……今は、僕の顔、見ないで」
そう告げて、ディディエはきゅっとアウラを抱き込む。
「カストルの分まで、礼を言うよ。……本当にありがとう」
その言葉に、アウラはくしゃりと顔を歪めた。
「そんなことない。わたし……勝手に、飛び出て」
「うん」
「全部ディーや皆に押し付けたのよ……」
「うん」
「……いやだったの。どうしても、失いたくなかった」
「うん」
「助けたかったの。それしか、それしか……」
「……わかってるよ。」
「私も、ごめんね……ディディエ」
「いい。僕は本当に感謝してる。カストルだってそうさ」
「……そうかな……?」
「そうだよ。顔を顰めて、『まあ、悪かったな』って気まずそうに言うだろうけど。……でも、僕にはわかる。カストルは無茶をした君を怒るかもしれないけど、感謝してるよ」
「……うん。ありがとう」
アウラはそっと目を伏せ、自分を抱くディディエの腕に触れた。
嗅ぎ慣れた香り。カストルと近しい匂い。
けれど二人は違う。別々の人間だ。
「……ねえ、アウラ。僕は君が好きだったよ」
「ディー……」
「好きだったよ。ずっとずっと、君を守りたいって思ってた」
ディディエは再び腕に力を込めた。
アウラの頬に、頭上から銀幕のようなディディエの髪が零れ落ちる。
きらきらと光を零すようで、とても美しい。
「ありがとう。でもごめん。ディーのこと、そういう風には思えない」
「……知ってたよ」
耳元でくすりと微笑む声に、アウラは緊張を解いた。
「……決めたんだね。アウラ」
その声は、凪いだ海のように穏やかだった。
「……うん。もう、決めたの」
「どうしても?」
「そう。……どうしても。私は今、あの人の傍にいたいの」
「カストルじゃ、なくて?」
「……うん。カストルじゃなくて」
言葉にして、再び自覚する。
――……そう。今は、カストルじゃなくて。
アウラは目の前の機器に触れて、そっと撫でる。
「ごめんなさい。カストル。私は……ジルアートが好き」
「……兄弟そろって振られたなんてね」
「ディーとカストルは私の大事な人だよ。けど今は、ジルアートの傍に居たいの」
「……そっか」
「うん」
アウラは素直に頷くことができた。
「……本当は、ディディエに挨拶しようか、迷っていたの。何といっていいかわからなかったから」
「……そっか。うん。僕は……」
しばらく逡巡した後、ぽつりと言った。
「僕はやっぱり、カストルと居て欲しかった。気持ちが変わったなんて、今でも信じたくないよ」
アウラは肯定も否定もしなかった。ただ、そう、と頷いた。
「……だけど、君の幸せを、願ってる。それは何より本当の気持ちなんだ」
ディディエは絞り出すように、そう告げた。
「だから、どうか。……幸せに。僕たちの愛したアウラ」
――さよなら。
この時彼が落とした言葉の痛みを、アウラは生涯忘れることはなかった。