終章 そして、世界は動き出す1
深夜の研究院は、昼間にも増して静けさを保っている。
歩けど歩けど、人気が全く感じられない。慌ただしく駆けるアウラの足音が軽く聞こえるだけだ。だが、研究院は広い。巡回の警備員や深夜まで残っている研究員がいることは、そう珍しいことでもないのに。
そこまで考えて、はたと行き着く。ディディエたちが立ち入りの規制をしているのかもしれない。
それは正しく正解なのだが、アウラは思考を切り替えた。
目的地にはすぐ辿り着いた。かつて見慣れていた大扉。傍らのセキュリティは幸運なことに指紋と網膜の認証で開く。
あっけなく、まるでアウラの訪れを待っていたかのように、その扉は口を開けた。
「あ、来た? 良かったわ。もう今夜はハズレなんじゃないかと思ってところさ」
高い女の声に、アウラは足を止めた。
薄暗い研究室内は、体がよく覚えている。そこかしこで機器が微かな運転音を鳴らし、中央の転送台は天井から金色の光が射し込んでいる。
その、向こう。中央の巨大なメインディスプレイに照らされた女は椅子に腰かけたままこちらを振り返っていた。表情までは薄暗くて判別できない。
だが、その目を見てすぐ、アウラは眉間に皺を寄せた。見覚えのない珍しい色彩だった。
「……あなたは?」
研究院には女性の研究員もいるが、見たことがない顔だ。白衣を着ている。新顔だろうか。
けれど、ここに出入りできる人間は計画に直接携わっていた研究員だけだ。易々と入れ替わったりはしない。
女の手元を見ると、どうやら作業中のようらしかった。メインディスプレイに映っているのは、崩壊の痕も新しい偽世界グランギニョル。
そこで作業するには幾つものパスコードが必要だ。コードの変更は頻繁だが、システム自体を変更したとはとても思えない。
女はぱち、と目を瞬いて、悪戯混じりの眼差しをよこす。アウラの目はようやく暗闇に慣れたようで、女の様子がわかるようになってきた。小さな仕草が茶目っ気に溢れ、派手な容姿の印象が和らぐ。目の覚めるような美女であることには間違いない。
「そういえば目が覚めてるアンタに会うのは初めてよねぇ。初めまして。あたしはゼルダ。一応、ここのれっきとした研究員よ」
ま、所属は国軍だけどさ、と軽く笑った仕草を無視してアウラは警戒を露わにした。
国軍の人間が計画に関係するということは、とてもではないが歓迎できる事態ではない。この計画を軍事利用されるわけにはいかないのだ。と、トリスタンの言葉を思い出す。
確かに軍の人間を一人入れたと言っていた気がする。この女がそうなのか。
思考がまとまらずに困惑しているうちに、女はディスプレイに向き直り、作業をあっという間に終わらせた。手際の良さに驚いていると、女は立ち上がってこちらへ歩き出す。高いヒールの音が響いて、転送台に身を乗り出すように凭れた。
この広い研究室を、作業台を挟んで二人の女が対峙している。
アウラはじっと女を見つめる。
女がどうやら自分を待っていたらしいことはわかったからだ。
案の定、女は蠱惑的な肉厚の唇で微笑んだ。
アウラが先陣を切った。
「国軍のあなたが、研究員に組み込まれたという人ね?」
「そうだよ。ここでちゃーんと研究に携わってる。あそこでのんびりしていた誰かさんと違って、ちゃんと働いていたよ」
ネイルの煌めく指先がグランギニョルを指す。アウラを揶揄したのだ。
ゼルダは目を細め、さらに前のめりに身を屈めた。
「アンタさ、本当に自分勝手だよね。自分でちゃんと理解してるの? 周囲の人間振り回すだけ振り回しておいてさ、人の気持ちを利用するだけして、あげくに踏みにじって。結局自分がしたいことしかしやしない。……ここに何をしに来たのか、あたしはわかってるよ」
意地の悪い言い草だ。それでも間違いではないことを、既にアウラは十分理解している。
顰めた顔のまま、醜悪な言葉を弾き返した。
「……確かに、否定はしない。皆を振り回して、自分のやりたいことをやっているって、私はちゃんとわかってる。……けど、あなたに言われる謂れはないわ」
言外に部外者に話すことはないと突っぱねた。
するとゼルダは怒りをあらわにした。鋭い視線がアウラを射抜く。
「ディディエはアンタみたいな馬鹿な女のことを本気で気にかけてる。あたしはそれが気に食わないの。身を投げ打ったのはアンタだけじゃない。あいつだってそうさ。報われずに身動きが取れない分、あいつの方がよっぽど可哀そうだ」
アウラは苛立ちを隠せずにいた。……先ほどの会話を知っているような口ぶりだ。
……この女に、ディディエとカストル、そして自分の一体何がわかるというのだろう。
「……それだって、あなたに関係ないわ」
「そうかい。けどね、あたしはディディエに惚れているのさ。それじゃ理由にならないわけ?」
くたりとしなを作るように問いかけるゼルダに、アウラは苦虫を噛み潰したかのような反応をした。
「あなたが? ディーと? ……恋愛は個人の自由だけれど、たぶん無理よ」
「なんだって? ちょいと、それどういうことさ」
「あの人肉感的な女性に興味ないから。……ああもう、そんなのはどうでもいいのよ」
話が逸れそうになるのを修正する。
「とにかく、私はディーのことを大事に思ってはいるけれど、皆のこともそうだけれど、それでも一番大事にしたい人を優先するって決めたのよ。……そこをどいて」
「わお。さぁすが、大公の娘っていうのは偉そうに命令するのに慣れているんだねェ。恐れ入るわ」
「御託はいいのよ。私を待っていたんでしょう? 何が言いたいの」
「いや、アンタ自身には別に。文句は言ってやりたいとずっと思っていたけど。なんかアンタ図太いよね、見かけの割に。……あたしはただ、アンタが勝手に一人で戻って消えたら、ディディエが悲しむと思ってさ」
思いがけない言葉にアウラが息を呑むと、そんなに驚かなくてもいいじゃないかとゼルダは心外そうに柳眉を寄せた。
「戻るつもりだろう? グランギニョルへ」
「……どうして」
「男の元へ戻るんだろ? わかりきったことじゃないか。ただいきなりあんな壊れかけの場所に戻るつもりかはわからなかったしね。念のためと思ってここで張っていたらアンタが来た。それだけだよ」
赤い艶やかな髪。凛として迷わぬ視線。
アウラは容姿ではなく美しいと思った。
「……ゼルダ。あなたは、私のすることを阻もうとしないということ……?」
「今は、ね。ディディエに言われたら、容赦なくやらせてもらう。言っておくけど、あたしは優秀だよ?」
勝ち誇ったような笑みはフェイクだ。
アウラは肩の力を抜いて苦笑した。
「……国軍の人間だというから、裏があるのかと思ったら。とんだ恋愛体質の人間ね」
「それをアンタが言うのかい。まあいいけどさ。あたしだって、あいつに出会うまではこうじゃなかったんだけど」
「……わかってくれるの、私のすることを」
「肯定はしない。だけど、否定もしない。あたしはここの正式な研究員じゃないし、経緯だって又聞きだもの。ディディエが悲しまなければ、それで」
「ゼルダ。でも、私は……」
アウラは自分のやろうとしたことを思って黙り込んだ。
確実にディディエは悲しみ、憤るだろうから。
「アンタが今考えたことを当ててやろうか。随分と自信過剰なようだけど、それは多分、違うよ」
「……どうして?」
「表面上はアンタが言うようになるだろうね。でもきっと、あいつは……」
苦笑が唇に刻まれる。
どうしようもない、と諦観を混ぜた笑みだ。
「認められないだけじゃないかと思うんだ。たぶん、弟のことと同じぐらい、ディディエはアンタを想ってる。それは、自己犠牲の上に成り立つような感情だと思うよ。だから、アンタが結果的に幸せになれば、ディディエはどんなに傷つこうと涙を呑む。……ただ、アンタの背中を押すような勇気はないんだ。あたしはそう思ってる」
「ゼルダ……」
「だから、あたしはその恨まれ役をやってやろうかと。いい女だろ?」
ディディエはきっと、ゼルダに激情をぶつけるだろう。
それでも心の奥底の願いをゼルダは見抜いて、それを差し出すのだ。
アウラは堪らなくなった。
「……そんなにディディエが好きなの?」
「ああ、好きさ。幼いころから社交界で憧れてた」
はすっぱな物言いと貴族のイメージが重ならない。
遠い思い出を懐かしむようなゼルダに、アウラは口を閉じた。
「……まあ、あたしのことはいいんだ。昔のことは、ディディエも知らない。さて――向こうの話をするよ。グランギニョルの再生プログラムを組んでおいたから、少し時間はかかるけど陸地は回復するはずだ。アンタが行くのに崩壊させるわけにはいかないからね」
「ゼルダ……!」
アウラは驚愕した。
ゼルダが告げたことは、アウラがやろうとしていたことだったからだ。
グランギニョルは六戒による光柱――アクシャム・ソードによって崩壊寸前まで追い込まれている。最も重要なのは、グランギニョルの陸地である島々を崩壊から救うために、プログラムによって正常な形を取り戻すことにあった。
既定の物理プログラムをコピーするのは複製だが、壊れた箇所を修復するには細かい作業が必要になる。
アウラはゼルダの腕に驚いたのだ。
「あなたがそれをやったというの?」
「そうだよ。これでもちゃんと、科学者なんだって。……ま、話を戻すけどさ、アンタすぐに飛び込むつもり?」
「え……?」
「わかっているとは思うけど、グランギニョルへ入ったら、自分からは出られない。アンタの親は、連れ戻されるだろうから止めた方が良いと思うけどさ。……ただ、話に聞いた様子だと、あっちへ行った時も突然だったんだろう? もうちょっと周りのことを考えて動きなよ。同じことを繰り返すつもりかい」
ぐ、とアウラは唇を噛んだ。
本当は一つだけ、心残りがあった。
……本当は一つだけじゃないけれど、研究員たちや両親に会って決意を話したら、強引に止められてしまうこと必至だ。だから止めた。
けれど、そのたった一つの心残りは胸の中に棘のようにある。
「転送の準備には少し時間がかかるよ。会ってきたら?」
「……ゼルダ」
「ディディエに会うかどうかは、アンタが決めな。あたしはどっちでも構わない。アンタがいなくなって地の底まで落ち込んだあいつは、あたしが面倒見るから心配いらない。むしろさっさと行ってってカンジだし」
ひらひら、と優美な手が容赦なくアウラを追い出す。
アウラは戸惑いながらも頷いて、ゼルダに礼を言った。
「ありがとう、ゼルダ。……私、どうしても諦めたくないの。よろしくお願いします」
「礼なんかいいって。これはあたしの為でもあるんだって」
「うん。わかってる。……ねえ、さっき言ったこと、やっぱり撤回するわ」
「……何を?」
「あなたじゃ無理だって話。ディディエのことをこんなに考えてくれる人、他にいないと思う。ゼルダ、ディディエのことを、お願いね」
ゼルダは呆気にとられたようにアウラの顔を見つめた。
アウラは今度こそ視線を受け止め、見つめ返す。
「……そ、んなの! 当たり前じゃないか! さっさと行っておいで。カストル・ミュゼの部屋はD棟の一番奥だよ!」
ぷいっと逸らされた大人の女が照れた顔に、思わずアウラは笑い返した。
「うん。行ってきます!」