現実と虚構の狭間4
アウラは色を失い、黙り込んだ。
胸に焼き付いているのは、綺麗な朱色の長い髪と、紺色の瞳。
穏やかに心凪ぐような微笑と、ためらいがちに伸ばされた腕。
心の中心に向かって、一気に意識が集束していくのを止められない。
『私のアウラ』
宝物のように、じんわりと私をそう呼ぶ人。
ジルアートは家の呪いに囚われて、務めと称された近親相姦に身を汚した。
彼の家系に連なるものは、彼が手を血に染めることで命を失った。
家族の為に、同性に穢された。
姉への呪縛に、身を焦がしながらも――私に手を伸ばしていた。
苦難の連続を乗り越えて、それでも生きていた人。
『どうか。……どうか、信じてください』
――あの人を苦しめたのが、目の前の仲間たちだったなんて。
彼らは指先一つで、ジルアートの運命を真っ黒に塗りつぶしたのだ。
心の琴線がぶつりと切れたように、頭の線が途切れたように、一切の思考を遮断する。
そしてアウラは思い切りディディエの頬を張った。
「ディディエ!」
慌ててトリスタンがアウラを羽交い絞めにする。
けれどアウラは抗うことすらせずに、呆然と視線を宙に彷徨わせている。
「……なんでよ。なんで?」
その様子にリュクスは知らず息を呑んだ。
アウラの白い頬を、幾筋も涙が流れ落ちていく。
大公の娘として、アウラは丁寧に生かされてきた存在だ。その髪も肌も、何一つ傷を負わず、艶やかなまま。
だというのに、表情を彩る悲愴さは筆舌に尽くしがたい有様だった。
アウラは盛大にと顔を歪め、喉が切れてしまうほどの叫びを叩きつけた。
「なんでそんな酷い事をするの?! あの人が一体何をしたっていうの! あの人が、ジルアートが、どんなに苦しんだか……っ。あんたたちにわかりっこない! 人を、命を! 弄ばないで!」
ディディエは強気で応じて見せた。
「君がグランギニョルを断ち切るためだ! 僕たちだってひどい筋書だと思ったけど、君が何の未練もなくあそこを離れるには、あれぐらいしないと無理だっただろ!」
わなわなとアウラの唇が戦慄いた。
堪えきれないほどの怒り。この涙は、怒りの涙だ。
「人を玩具にするな!!」
ディディエはぐっと黙り込んだ。
ジルアート・カストル・キルセルク。カストルの名を混ぜた存在は、意図的に造りだしたものだ。
アウラの相手役として設定された人物であり、彼の人生は全て【プログラム】だ。凄惨なら凄惨なだけ良いと思った。それは否定できない。
「ディディエも、みんなも、わかってないよ……私が、カストルがどんな気持ちであの世界を実現したか」
その言葉は何より三人の胸を突いた。
糸が切れたように、アウラは全身を抱え込んで唸る。
なんでそんなことができるの、と怯えたように蹲った。
「あそこは、私たちが作ったのは、もう一つの世界なんだよ。同じように人が生きてる。苦しんで、悩んで、笑っているんだよ……わかってない。みんな、わかってない。あそこは畑でも牧場でもない。サンプルだなんて言わないでよ。酷いよ……」
悲痛な嗚咽が止まることなく続いていた。
三人は、知らず視線を伏せていた。アウラの主張した事実は正しい。
偽世界をこことは違う、コントロールできる世界だと思っていたこと。人口でさえこの手で操れることにいつしか慣れてしまっていたこと。
カストルとアウラが作りたかった世界は、人が人を絶対的に支配する世界ではない。
実験台と同じ扱いをしていたことに違和感さえ抱かなかった。
「アウラ……」
トリスタンは困ったように声をかけた。
ディディエが彼女の背に触れようと衣擦れの音を立てた時、くぐもった声がした。
「……触らないで」
明らかな拒絶だった。
ディディエは顔を顰めたものの、言葉はない。
だけどね、と苦し紛れに突いて出た言葉は、嫉妬か、恨みか。
もはや彼自身にもわからない。
「……だけど、的中したじゃないか。僕たちの不安は」
この手に触れることも叶わなくなるのか。
ディディエは二人の制止を押し切って、アウラに現実を突きつける。
「君は目覚めてから一度もカストルのことを尋ねない。それは裏切りとは違うの?」
そして銀色の影は、鋼鉄の扉に消え去るのだった。
***
「どうしてあんなことを言ったんです!」
わぉ、と激昂した声に思わず足を止めた。
人気のない廊下は意図的に造られたものだ。この区画は人の出入りを固く禁じている。システムも研究員でさえ易々と立ち入ることができない場所だ。
咄嗟に息を潜め、声の方向へ忍び寄る。
この廊下は突き当たってT字に分かれている。今、ここで使用されているのは、片側の廊下さの先にある一室だけ。
だからこの廊下が終わる直前までは近寄ることができるはず――ゼルダは若干の緊張と多大な好奇心で声の方向に意識を向けた。
「わかってる。……僕だって、あんなことを言いたかったわけじゃない」
苦々しい声。
聞きなれた声色で、それはすぐにディディエのものだと知れた。
ゼルダは思わず顔をしかめた。またあの女のせいでディディエが傷ついているのか。
妖艶な魅力でも、自慢とする知性でも、あの男はゼルダの元へ堕ちてこない。一心にあの女のことを思い、身を削っている。きっと、あの女はそのことを知りもせずに彼の好意の上にあぐらをかいているのだ。……ああ、腹立たしい。
しかも、あの女は彼の弟の恋人だという話だった。その男の為に研究員を振り回し、あまつさえその身を二次元に投げ出した……そんな女を守ったって仕方がないのに。
「……アウラが戻ったら、大事にしようって……もう後悔しないようにって思ったんだ。だから守ろうと思った! けど、駄目なんだ。彼女がグランギニョルへ向けるものが、前と違いすぎる。優しくしたいのに、できないよ……」
どん、と壁を殴りつける音。
ゼルダはぎょっと驚いた。
どんな時も紳士的な態度を崩さないディディエが、壁を叩くなんて。
「……お前が納得できないのは、アウラが我々の計画に納得しなかったことじゃないだろう」
嫌な沈黙が流れた。
思わずゼルダは唾をのみ込んだ。この耳が触れている壁のすぐ向こうに、三人がいる。
しかも、話題が厄介だ。
だが気づいた時には動けない場所まで来ていた。
「……何さ」
「あいつが変わってしまったからだ。元のアウラを取り戻したかったのに変わってしまった。それが許せないだけだろうが、お前は」
「そんな……僕はっ」
リュクス、と困惑したようなトリスタンの声がした。
けれどリュクスの声は平坦で、だからこそ信憑性を煽った。
「アウラは生を繰り返した。中でも最後の櫻という人格を持ったまま、アウラと同化したんだ。アウラであっても、以前のアウラと同一ではない。それが許せないんだろう、ディディエ」
「違う、僕は……っ!」
今度はリュクスが声を荒げる番だった。
「いい加減認めろ! あいつはもう、俺たちが知っているアウラじゃない。それはわかっていたはずだ。櫻という人格を排除することは不可能だ。二重人格ではないのだからな」
ふう、と暗いため息が聞こえた。
「……まあ、そうですね。仮に排除できたとしても、それは立派な人間操作ですよ。……さっき、アウラに言われた言葉が身に沁みませんか。僕たちが良かれと思ってやって来たことは……彼女や偽世界の人間たちにとって、世界を裏で操る支配者だって。玩具って……これは堪えましたよ、かなり」
「――急ぎ過ぎたのかもしれない。……あいつはきっと、人間が人間を操作するような、監視するような世界を望んではいなかったんだ。今言っても詮無きことではあるがな。我々は出来ることに手を尽くしただけだ」
「……もう、遅いよ」
ディディエの声は、ゼルダの背筋を凍らせた。
「……わかってたよ。わかってたさ! アウラがそのままの彼女で戻ってくることはないんだって! だけど……っ、頭でわかっていてもダメなんだ! あの子の頭にあるのはカストルですらない……っ! そんなのってないよ……!」
「……あいつはカストルの命を救いたくて、文字通り身を投げ打ったんだぞ」
リュクスの声に怒気が見えた。
トリスタンもそれに同調する。
「……確かに。アウラの人格が変化したことで、心変わりをしたとしても。カストルに攻める資格はありませんよ」
「トリスタン!」
「……ディディエ。あなたは、元通り彼らが結ばれてめでたし、という結末を望んでいたんですよね。それはわかりますが。……危険を承知でハティアーニへ向かったカストルを、命を投げ打つ覚悟で彼女は救おうとしたんです。結果として彼女自身が変わってしまって心変わりをしたとしても、全て自業自得に思えるんですよね」
「君たちは、なんてことを言うんだ……っ。じゃあ、僕たちがやって来たことは何だったのさ?!」
「誤解するな。お前の目的は勝手なお前だけのものだろう」
「私たちは、仲間の命を救いたかったんですよ。アウラの命がけの行為に敬意を表して。……ちゃんと二人の命は救われた。それ以上のことは、あなたの勝手な独りよがりですよ、ディディエ」
***
たくさん、たくさん泣いた。
あの人のために、私は涙が枯れてしまうほど泣いたんだ。
触れているはずの手。温度はあるのにそれを伝って見上げれば、紺色の瞳は他所を向いているような気がしてならなかった。
握りしめて、抱き抱えていいかもわからなかった。
だけど、それを全部放り出してあの人の胸へ飛び込んだあの時。彼は確かに言ったのだ。
『……女性として愛しいのは、この世界中探してもあなただけだ』と。
アウラは一人、咽び泣いた。時間なんて知らない。何も知りたくなどない。
ただただ恋しくて、寂しくて、アウラは泣く。
アウラは櫻。櫻はアウラ。そして、それはどちらも私だ。
胸を掻き切って楽になるのであればそうしよう。
あなたを地獄のような運命へと追いやったのが、私であるといっても過言ではない。
静まり返った部屋に、機器の音とアウラの嗚咽がかすかに響く。
……【プログラム】なのだと聞いて、ジルアートの行動は全て理解できた。
櫻を、アウラをグランギニョルから切り離す為に仕組まれたことならば、ジルアートの最後の行動は【プログラム】によるものだ。
……櫻に向けられていた笑顔も、抱かれた腕の強さも、守ると言ってくれた言葉も、【プログラム】なのだとしても。
ここにある気持ちは変わらない。
「ジルアート……!」
血を吐くような思いで彼の名を呟く。それが唯一この世界で彼と繋がれる方法だからだ。
会いたい。
会いたいよ。
体中がそう叫んでいる。
不安定な精神も、切り捨てられない優しさも、指先の冷えた温度も、綺麗な髪も、ほっそりと目を細めて微笑む様も、全部、全部。
貴方だけが、愛おしい。
私は、アウラじゃない。
櫻でもない。
だからもう、あの人以外を選べないのだ。
我慢なんか、できない。
――そうしてアウラは、櫻は、
ただ一人の女となって、部屋の外へ飛び出した。