現実と虚構の狭間3
(――……ジルアート)
名前を心で呟いただけだ。なのに途端に胸の中から込み上げてくるものを抑えて、アウラはくしゃりと顔を歪めた。止められない感情が湧き出て、目の縁に涙がこみ上げてくるのを必死で堪える。
何らかの情を持っていたと言われては、到底否定できない。
「あのままこっちに戻ってきてって言っても、絶対納得しなかった。そうだよね」
ディディエはディプレイに投影されたグランギニョルを見ながらそう告げた。
アウラは、はっと繋がれた手を思い出した。ディディエが握る力を込めたのだ。
「……それは、」
反射的に、彼が納得する返答をしなければならないと思った。……否定する返答をだ。そう思って勢い口を開いたけれど、結局、言葉は見つからなかった。
投影されたグランギニョルは大きな三角を模すようなバランスで、様々な大きさの島が浮かんで成り立っている。アウラである今、懐かしくも見慣れたもの。島の底辺を覆うように、ディスプレイで投影可能な範囲までを厚い雲――暗雲が覆っている。
だが、この映像では人々の様子までは見ることができない。
「聞かれる前に教えておくけど、さっき出たアクシャム・ソードっていうのは例のアクシャム・バリアの原理を利用してできた攻撃型の光線だよ。カストルの続きを僕が完成させたんだ。それの試験運用も兼ねて、この偽世界は最終的に消去される世界として設定した」
蛇足ですが、とトリスタンは付け加える。
「あのバリア、軍事用でしょう?どこから嗅ぎつけたのか、それを利用したおかげで国軍から一人、科学者を入れることになってしまったんですけどね……今度紹介しますが、優秀なのは間違いありませんから。安心してください」
「……あいつの話はするな。思い出しただけでやかましい」
リュクスは珍しく顔を顰めて見せた。トリスタンは面白そうに肩を竦めて、ディスプレイを見上げた。
グランギニョルの映像はそのままで、新たな画面が発生した。そこに映し出されたのは、見覚えのある六つの言葉だ。
「……六戒」
ええ、とトリスタンは頷く。
リュクスが補足する。
「六戒はおまえがグランギニョルに教義として備え付けようとしたオプションだが、状況から考えて利用価値があった。それを利用させてもらった」
「ええ。治療薬が完成すると同時に貴女を引き寄せられるよう、偽世界の全てに仕掛けを施しましたんです。貴女の生体反応を感知次第、グランギニョルへ転送されるように」
そこからは僕が考案したものですが、とトリスタンはファイルを確認しつつ、説明した。
何かの記録を見ているらしかった。
「アウラ、グランギニョルに転送された時にカストルみたいなのに会いましたよね」
そう言われて考える間もなく思い出す。グランギニョルへ運ばれる時に乗っていた電車と――不可思議な青年の存在だ。その容姿。金髪の髪に青い瞳。
弾かれたようにアウラはトリスタンに応えた。
「――会ったわ!今思うとどうしてわからなかったのっていうくらい、カストル、よね……?」
三人は三者三様の態度で皮肉った。
「……そのままだからな」
「姿かたちはね。僕は期待してなかったけど?」
「最初は私も、ここで記憶が戻ったりしないかなぁと期待もしていたんですけどね……」
何も思い出せませんでした。項垂れるアウラ。
ま、それはともかく、とはトリスタンが続けてホログラフを操作する。
「実は生体反応で貴女を探索しようにも、こちらの精度をもってしても限界があったんですよ。ですからグランギニョルの神託者のシステムを考案したんです。そしてようやく見つけた貴女は、記憶がない状態だった――そこで、記憶を取り戻すための刺激を幾つか」
ディディエが乗り込んで行ったこともあったでしょう?と含んだ笑みに、「でもあれ、ホログラフだもん」とディディエ。
「記憶が戻るのを待ちながら六戒を犯してもらい――最終的にグランギニョルを崩壊させる。これが僕たちの筋書きでした」
淡々と告げられる言葉に後悔はない。
「……生体反応は必ずしも個人を特定できるものではない。カストルのように特殊な場所にいない以上、近しい者が出て来てしまうのは防ぎようもないからな。それがグランギニョルにおける歴代のアウラだ」
「順調だったんですよ。でもアウラ本人が見つかった時は少々焦りましたね……」
ふう、と重い溜め息が聞こえた。
「どうして?」
「……お前を発見したのは、治療薬の開発に成功した偽世界だった。……偶然だった」
ディディエは次に口にしたことは、アウラの思考を止めた。
「つまり君の前にいた、君と酷似した生体反応を持つ人物が存命中だったってことさ」
体中の血の気が引く感覚。
それは前代のアウラ。……ヴィスドールの妻のことだ。
「貴女が見つかった時点で、グランギニョルに移送してしまえば他の偽世界は消去させることができました。エレボスの残骸が残るといけませんから、どちらにしても消去する必要があったんです。そして、危険性を考慮すれば、一刻も早く貴女から隔離する必要があった」
その方には悪いことをしました――トリスタンは告げた。
乾いた音が室内に響く。アウラがディディエの手を振り払ったのだ。三人の視線が一気にアウラに刺さっても、彼女は今度は構いませずに睨みつけた。
アウラは込み上げてくる怒りと悲しみを抑えきれなかった。頬を涙が幾度も伝う。
「……っ、なんで、どうしてよ!」
「アウラ?」
「そんなのって……そんなのってない。どうしてヴィスの奥さんを殺したのよ?!二次元の世界にあったって、偽世界は三次元の生き物がいる。ヴィスドールの奥さんだって生きていたのに!」
三人は困惑した表情でアウラを見た。
「そうですが……偽世界で進化したサンプルの一つですよ、アウラ。落ち着いて」
「その人だって生きていたわ!結婚して、愛されて――同じ人間なのに……っ」
トリスタンが困った様子で告げた内容が信じられない。彼らがアウラや研究を急いだのは理解できる。だが、だからといって、どうしてそんな残酷なことができるんだろう。あの場所で生きている人たちは血も流れたし、涙もあった。人としての肌の温度だって、ちゃんとあった。それをサンプルだなんて!
ディディエは落ち着いて、とアウラの肩を叩いて言った。
「……君は櫻が入って混乱しているんだ。残念だけど、君から櫻として育った人格や常識を抜き取ることはできない。君が憤るのは櫻の良識によってなんだろう。でも、それは慣れてもらうしかないよ」
「……そんな、無理よ。だって、私は、見たのよ……っ!彼女が死んで、ずっとずっと悲しんでいる人を知ってる!」
以前の自分なら、平気な顔でいたというのか。それはわからない。だが今の自分には到底無理だ。
アウラは頬を涙に濡らし、震える声で問いかけた。……震えたのは、純粋な怒りからだ。
「……ねえ、ジルアートは……あの人も、死んだの……?」
ディディエはその名に微かな反応を見せた。彼が最後の瞬間、斬りつけたのはジルアートだ。
覚えている。楽しかった日。最後の裏切り。……アジェリーチェの美しい白い肌さえ。
それでも生きていた。生命なのだ。データを消すようにあっけなく、死んでいいはずがない。
まばたきの度に、涙がぼろぼろと落ちていくのを止められなかった。胸が張り裂けてしまいそうだ。この一瞬で、目の前の人間が信じられなくなる。それはなんて恐ろしいんだろう。
(――ジルアート……ジルアート)
「……死んではいないはずだ」
リュクスは臨んだ答えをくれた。
ああ、と吐いた吐息は、確実に三人に届いただろう。
暗闇の中、近くにある紺色の瞳。アウラが知るこの色の瞳を持つ者は、三人いる。間近にある紺色の瞳は、何も言わずアウラを見つめていた。……心まで見透かすように。
「だが、グランギニョル自体の崩壊も間もないはずだ。島の粉砕には至らなかったようだが、各地致命的なダメージを被っている。……あとは自滅の道を進むだけだ」
「グランギニョルは!……あそこは、エレボスに侵された場所じゃないでしょう。私たちが戻りさえすれば壊す必要なんかないじゃない……っ」
今、この手に繋ぎとめることができるものが、何もない。手を伸ばしようもない現実に、アウラの中で、櫻としての自分が戦慄くのを感じる。
……やめてよ。お願いだから、殺さないで。
嗚咽に混じった懇願は、沈黙する部屋の中心にぽつりと落ちた。
「……君が、」
低く、昏い声だった。
「……君がそこまでこだわるのはさ、あの男のせいだよね」
「それだけじゃ、ないよ」
「――嘘だ」
アウラは視界の利かない薄暗い中でも、ディディエの様子が手に取るようにわかった。他の二人も手に取るようにわかったはずだ。
ディディエは深く、怒りを宿している。
「……君があいつを気にするのは、彼と恋仲だったから?だとしたら、忘れることだよ。今あるグランギニョルはカストルのためだよね。そもそもこの計画は全てカストルのためだもの。だいたいさ、良く考えてごらんよ。本当は君と恋仲だったわけじゃない。櫻が彼を想っていた記憶が抜けないだけなんだ。その前提でいっても――」
櫻はあの男に振られちゃったじゃない。もう忘れたの?
ぐ、とアウラは唇を噛みしめた。……忘れてなんか、いない。
「ねぇ、トリスタン。やっぱり僕はこの子に教えてあげた方がいいと思う」」
「……本気で言ってます?」
冷たい回答。けれど頓着もせず、ディディエはもちろん、と笑った。
――嗤ったのだ。
「……ね、アウラ。そんなにあいつのことが気になる?櫻だった時の感情が忘れられない?じゃあ、仕方ないから僕が教えてあげるよ」
「……必要のないことを、するな」
リュクスの声は強張っていた。
「やだよ。だっていつまでもアウラがあいつに縛られるの、見ていたくないんだ」
ねえ。だから、秘密にしようと思ったけれど、教えてあげるよ。
ディディエは隣で微かに笑った。
……ああ、とトリスタンが諦めの溜め息を吐いた。
「ジルアートに関連するものは、全部こっちでシステムを組んだものなんだよ。君を確実にこちらへ連れ帰るために、六戒を犯してもらうためにさ。……つまり、ジルアートの存在自体、全部仕組まれたプログラムだってこと」