現実と虚構の狭間1
許可を求めず入室した者を横目で見やり、すぐに元の場所へ視線を戻した。
溌剌とした彼女の香りが髪と共に揺れ動く。高いヒールに豊満な肢体を白衣に包んで歩くその姿は、寝台の縁まで近づいて、ベッドの主をまじまじと見つめる。その瞳は明るい緑色で彼女の気性によく合っていた。
「へーえ、この子がそうなんだね。あたしも映像で知ってちゃいたけどさ、なんだかお嬢さまってカンジの子だね。髪も肌もツヤツヤだしお肌も真っ白」
「大公の愛娘だからね」
苦労の痕なんざないね、と吐くように告げてから、彼女はようやくこちらを向いた。
「ちょっとディディエ。いつまであたしはこのお姫様のために踏ん張ってりゃいいのさ?」
彼女が十分踏ん張っているのは良く知っている。だからもっと踏ん張れとは言えないのがツライところだ。
アウラが二次元――グランギニョルから抽出され、一時的な保護装置に入り、そしてようやく生体反応の異常がないことが確認でき、今に至る。
その間、彼女の奮闘はめざましかった。
「ゼルダの活躍はよくわかってる。誰一人としてこの棟に近づいてこないからね。メディアだけじゃない、大公閣下の御手も含めてさ。さすが、情報操作のエキスパートだ」
ディディエが諸手を挙げて褒めるのは珍しい。予想通り、赤髪のゼルダは、その豊かな長い髪に赤くなった頬を隠すようにしてそっぽを向いた。――ふん、卑怯なヤツ。それは聞こえなかったことにして、ディディエは別の用件を尋ねることにした。
目下、最重要の件は決まっている。――アウラ帰還という情報の秘匿だ。
情報が広まれば、研究院の封鎖や一研究員の確保は一部の人間にとって容易いことだ。ましてや彼女は大公の一人娘。二次元から戻った被験者の一人で、世界を揺るがす研究の第一人者。身体も頭脳も、良くも悪くも利用価値があり過ぎる。
だからディディエは隠すことにした。全てか終わるまで。
「で、どう?あとどのくらい保てるかな」
「どのくらいって……保てるだけ保てって?」
「僕はそう考えているよ。彼女には時間を与えたいんだ」
ディディエは窓辺から、寝台に横たわる姿を見つめて目を細めた。その姿に、ゼルダは嫉妬を隠すことができない。……どうして。どうしてあんな子のために、ディディエは血を吐くような思いをしなければならないのだ。あの子のワガママは他の男のためなのに!
「ご立派なことね。でもディディエ、この子が目覚めて動き始めたら、情報漏えいの危険性は一気に増すよ。データ上の情報なら、私とトリスタンでなんとかすることはできるけど、生身の人間についてはどうしようもない」
「……わかってる」
それでも、僕は守りたい。
不安げな表情は、まるで迷子になった子供のようだ。ゼルダの胸は切なく締め付けられる。見ていられず、足早に退室するしかなかった。
……残されたのは、二人だけの部屋。
「……もう目覚めるはずなんだ。ね、アウラ……早く起きて。僕を見てよ」
ディディエはそっと寝台に歩み寄り、音もなく腰を屈めて顔を近づける。さらりと銀色の髪が陽の光にきらめいた。
ただ眠る懐かしい顔。あの時より今の方が、ずっとずっと愛しかった。
言葉はなく、温度の低い唇が、彼女の瞼に触れた。
***
一面に広がる閃光。……ああ、帰って来た。帰って来たんだ。瞼がかすかに動く感触がして、私は徐々に感覚を取り戻していく。
夢で見た過去の私も、櫻として生きた私も、カストルの顔、ジルアートの髪の色、全てすべて、記憶に焼き付いて残っていた。
……記憶を取り戻した私が、色のある世界へ戻るその時。どうしてだろう。なぜだか、泣きたくなった。
本当はがむしゃらにただ、泣いて。
――……『逃げたい』、と思った。
シーツの海から身を起こすと、そこは狭い部屋だった。
灰色一色の硬質な壁。壁の中央にはディスプレイが埋めこまれている。咄嗟に脳裏に浮かんだのは、キーボードがないということ。それは櫻の世界の記憶だ。けれど今は知っている。ホログラフに指を接触させるだけで、キーは必要ない文明なのだということを。
この部屋をアウラの記憶で知っていた。研究院で助手から研究員になる時に与えられる個人研究室だ。
さして驚くこともなく、窓辺でぼんやりと外を見下ろす人物を見つけた。物憂げな様子で両腕を組んで、佇む人。……それは、彼の弟の仕草であったはずなのに。
「……おはよう」
久しぶりに使う私の身体。思ったよりもしっかりとした声だ。
ディディエは気づいていたのだろう。声にぎこちなく肩を揺らして、それから時間をかけて、こちらを見つめた。
「……おはよう」
ディディエは、次の言葉に詰まって、困惑した表情で私を見つめた後、何かを諦めたように床に視線を落とす。
どのくらい時間が経ったのだろう。張りつめたような沈黙の中、震えるような声があった。
「……アウラ……?」
「うん」
しっかりと頷く。ディディエは恐れを滲ませたように、ようやくこちらに目を向ける。
そう。私はアウラだ、とアウラは言い聞かせる。アウラ・グランギニョルというのが、私の名。……けれども、櫻でもある。心に二人棲んでいるわけじゃないことは救いだろう。
アウラは余計なことかもしれないと感じながら、それでもなんとなく、その思いは口を突いて出た。
「でも、櫻でもある、かな」
「……どっちさ」
また、微かに俯く。銀の長い髪はそのままで、さらりと胸元へ滑り落ちる。
……この髪を見るのも、本当に久しぶりだ。まるで長い夢から目覚めたような、ぼんやりとした意識のままだけれど。
「どっちかな。でも、私はアウラだよ。……ディー」
言葉を発することで少しずつ、アウラとしての自覚を手にしていく。
気持ちを込めて愛称を言葉にすると、ディディエははっと顔を上げて、くしゃりと顔を歪ませた。アウラは未だぼんやりと思う。櫻でもあった自分は、きっと今までと何かが違うんだろう。
震える声で、ディディエはアウラを睨み、謗った。
「……ばかだよ、ほんとに」
「うん」
「……どれだけ、僕が。みんなが、君を、心配したと思ってる……っ!」
「……うん。ごめん」
「もう、もう会えないかと思っ……!」
ディディエはぶつかるように、アウラを強く抱きしめた。アウラは一瞬驚きに目を瞠った。けれどすぐ、子供が母親を見つけたようなそんな必死さに、黙って目を閉じる。
そっと触れた腕。彼の華奢だった体躯は、少し変わったかもしれない。カストルとは異なった、でも少しだけ、他の誰かよりも近しかった人。
……きっとそれは、あの日、変わってしまった。アウラはそれでも、理解しているつもりだった。私がきっと、変えてしまったのだ、と。
「……ごめんね。……ありがとう」
きゅう、と背中に回った腕に力がこもる。
櫻だった時の記憶を思う。ディディエは外見に寄らず、子供のように泣きじゃくる。けれどその反面、アウラだった“私”が告げる。ディディエはこんな性格じゃなかったって。
アウラとしての記憶に残る彼は、少しお茶目で、弟思いで、けれど伯爵としての自覚を忘れない男だった。
抱きとめながらも、アウラの眉は自然に寄った。ひたすらに泣く彼を受け止めながら考えてしまう。いや、感じてしまうのだ。
私は――……私と、カストルの不在は、彼を変えてしまったのかもしれない、と。
「……ただいま、ディディエ」
「遅いんだよ。ばかなアウラ。……けど、おかえり。君がこうして帰ってきてくれただけで、僕は……僕たちは、嬉しいんだ」
「……うん」
「話さなくちゃいけないことが、たくさんあるんだ」
「……わかってる。カストルのことだね」
「……そう。あと、研究のこともね」
「わかってる。わかってるよ、ディディエ」
「――もうどこにも、行かないで」
再び、ディディエの両腕に力が入り。
真摯な声に、アウラは一瞬、息を止めた。
――……不意に蘇った、赤い髪を思って。
***
しばらくして、神経質そうな眼鏡の男性と、まだ年若い様子のぽやっとした男性が入ってきた。どちらも白衣を着ている。一人目は硬質な印象で黒髪をきっちりと撫でつけて後ろへ流しているのに対し、二人目はタンポポの綿毛ような金髪をそのままに揺らしていた。無表情とにこやか。それだけでも十分対照的な二人だ。
ディディエは二人を淡々と迎え入れる。それを見ながら、アウラは記憶を確認するように二人の名を呼んだ。
「……リュクス。トリスタン」
リュクスは表情を変えずに、くいと眼鏡を上げたが、返事はない。彼のスタイルは変わりがないようだ。
にぱっと笑う明るさは、馴染のあるトリスタンのもの。
「アウラ!会いたかったよ。元気になったようで何より」
極めて不快を感じさせない優しい挨拶をしながら、彼は持っていたファイルの半分をディディエに手渡した。
ディディエは傍を少し離れ、男性三人は距離をとりつつアウラを囲むように立った。その表情が冴えないのが少し気にかかる。……櫻として対面した時でさえ明るさのあった彼の表情は、翳って物憂げに見えた。
「……久しぶりだな。状況の説明に入るが、いいか」
リュクスは銀縁の眼鏡フレームを上げる。無駄を好まない彼らしい。最後にアウラが研究を、そしてアウラ自身とカストルの身を頼んだのはリュクスだった。
「そうね。正直、まだ少しぼんやりしているけど、お願い」
リュクスは頷くと、ディディエに問いかけた。
「どこまで話した?」
ディディエは先ほどとは様子を変えて、けろっとした様子で肩を竦める。
「どこまでって、まだなんにも。アウラが目覚めたのも今さっきだもん」
「おまえ……」
眉間に皺を寄せたリュクスを、トリスタンはすかさずフォローする。
「じゃあ、僕から行きましょうか。アウラ、体調が悪くなりそうだったら言ってくださいね」
「ありがとう」
トリスタンは満足そうに笑顔で頷くと、ファイルを開く。
「貴女が一番知りたいことから言いましょうか。カストルが患った伝染病――通称【エレボス】に対する治療薬について、結果をご報告します。アウラが最後に生まれた偽世界で、無事開発に成功しましたよ」
思ったより時間がかかりましたが、とトリスタンは付け加えた。
「偽世界においては、この新薬の効果は立証されています。……残念ながら、まだこちらではこの薬の使用データはありませんが」
アウラは思わず手を伸ばした。
「……ちょっと待って。どういうことなの、それは」
新薬が発見されたなら、こちら側に移動させることは可能であるのは、この計画の大前提だ。アウラも帰還し、カストルに投与するまで使用しないというのは違和感があった。少なくともあの青い薔薇を育む惑星の民は、この新薬を喉から手が出るほど欲しているはず。うっすらと、アウラの胸を不安がよぎる。
リュクスが代わりに口を開いた。
「治療薬は偽世界で開発され、効果が確認されていた。だが、現在、エレボスの患者はゼロだ。……この意味がわかるな」
考えるまでもない。
アウラは呆然と三人を見上げた。
誰一人、表情を変えるものはなかった。
「……投薬する患者が、いない……っていうの?」
自分が口にした推測の意味を思って、そんな、とアウラの唇が戦慄いた。
被験者がいないということは、病はなくなったということになる。でもさっき、トリスタンは言ったではないか。薬の開発は偽世界で成功した、と。
「そうです」
トリスタンは厳しい顔つきをした。
「惑星ハティアーニにおいて確認された伝染病は、今現在、存在が確認されていません。既にエレボスの拡大によって、死者の星となり、人類のみならず、動物も完全な死滅が確認されています。あれは肉を持つ生き物にかかる病ですから、一応惑星としての形は維持されていますが、各政府が接近禁止星域の通達を出しています。……あの星は、エレボスによって滅んでしまったのですよ、アウラ」