時の回廊3
2次元の空間に3次元を組み込む理論が認められ、偽世界計画は始まった。
他のプロジェクトと同程度の研究室が手に入り、私もカストルも専らそちらの研究にかかりきりになっている。ディーはといえば、公のパトロンとして出資を決めて、定期的に顔を出すようになった。
私の夢は、着実に現実へと近づいていた。
そんなある日のこと。
見慣れた高級な料紙の手紙を受け取った瞬間、私の顔は確実に引きつっていたに違いない。
廊下を歩く私の顔を、研究員たちが驚くように……慄くように(?)見ているようだけど、今は気に留めている余裕もない。ああ、どうしよう。どうしよう。
受け取りに行った手紙を持ったまま、私はフラフラしながら研究室へ向かっていた。
廊下に射し込む夕日が眩しい。ああ、もうすぐ夜が来る。どうしよう。溜息が重くなるばかり。思考がぐるぐると回っても、さっぱり答えは出そうにない。
そもそも、あんな高そうな紙で手紙を届けること自体ひどいじゃない。お父さまの思惑がスケスケで困る。隠す気なんてこれっぽっちもないことも丸見えよ!
(うっかり、身分がばれちゃえばいいのにって思っているのね!)
私の研究が少しずつ成果を見せ始めていることは、お父さまを始め、親戚連中だって知っている。2次元の中に3次元が成立し、それを自由に構築できるようになれば、多くの社会問題が解決するからだ。食糧問題、軍事問題、考えればキリがない。ミュゼ伯爵家を始め、資金の協力者も多く、計画自体は順調だった。
でもあの人たちは、それを私がやる必要はないと思ってる。私は自分である前に、一人の公女なのだと言いたいんだってことは、子供のころから知っている。愛情をくれる両親でさえも。
再三戻って来いという手紙は来たけど、私は全部送り返していた。一人娘に弱いお父さまなのは百も承知だ。
だから憤る。こめかみの血管が浮き出ているのか、目元も引きつる。
(誰の入れ知恵なのよ、これは!)
白衣のポケットの中には、件の手紙が入っている。普段のような“戻ってこいコール”などではない。これは………
考えているうちに、研究室の自動扉が開く。
「じゃーん! 夜会のお知らせだよ~☆」
全身が飛び上がるぐらい驚いた。中へ入ると見慣れたパトロンの後ろ姿がある。
ディーは振り向くと、機嫌よくこちらに笑いかけてくるけれど、それに応える余力もない。
「おっと、麗しき研究者どの。しかしここは危ないよ」
「は? 危ないってどういう、」
こと、と言い終わる前に、すごい速さでデータカルテが飛んできた。
兄はそれを素早く掴み取る。見越していたのだろうか。やれやれ、という顔だ。
それより私は、物が飛んでくるのに慣れているのか、と驚きのままにディーの方を見た。
弟の方からは強烈な冷気が漂っている気がしてならない。あまり見たいものじゃないのよ。
「危ないよ、カストル。彼女に当たったらどうするんだい?」
「当たらないように投げた。さっさと帰れ」
「だめだよ~。これを君に届けにきたんだからさ」
ひらひらと手にしている物を見て、体が勝手に反応した。咄嗟に白衣のポケットを押さえつける。同じものがここにも入っているのだ。
振り向いてこちらを睨んでいたカストルが、不可解そうな顔でこちらを見るのを必死に誤魔化す。それにしてもすごい顔だ。所長も裸足で逃げ出しそうな冷たさよ、アンタ。
「ほら、招待状。今回の夜会は随分大規模らしい。主催は大公殿なんだから、参加しなよ」
「お前がいつも出ているからいいだろうが。何故僕まで出なきゃならない」
「人ごみが苦手なのは慣れだよ慣れ!ダンスは上手なのにもったいない!」
「だから!何で僕が出なきゃならないんだ!」
「決まってるじゃないか!君にキラキラした服を着せるためさ!」
「アホか、帰れ!」
「いーやーだ!」
あーだこーだと兄弟げんかが勃発しているのを横目に、慌ただしく自席につく。この研究室をもらってから移動してきた他の研究者たちは、この兄弟げんかにまだ慣れないのか、ちらちらと視線を送っている。さすがに一番大事なパトロン故に文句が言えないのだろう。
しかしこの時の私は、ああ、ミュゼ家にも招待状が来ているのか、そりゃそうだ、とその程度にしか思わなかった。思えなかった。公女としての思考に沈んでいたから。
お父さまから来た夜会の手紙。そこには手書きで一筆添えてあった。
“ 婿探しだから、必ず出席するように。夕刻に迎えを出すよ ”
子が子なら、親も親だ。お父さまも私のことをよくわかってる。
さっき受け取ったばかりの手紙。
夕刻の迎えに応じない場合は研究所に突入するってナニ。脅しよね、どうみても……!
――― 夜会の日付は、今夜だったのだ。
***
久しぶりに眩しい世界に身を置いて、それに嫌気がさしている自分に気づく。
天井に咲く、巨大な花。その花からは光が溢れ、会場を満たしている。滅多に見えることのできない希少価値の高い花だ。その光の下、誰が誰かも判別がつかないぐらいに溢れた人の群れ。香水の匂い。グラスを重ねる音。鼈甲を塗りたくったような笑い声。
………やっぱり、私には合わない世界なのよ。そう結論を出すと、お父さまが談笑しているすきに外へ抜け出した。久しぶりに大人しく着飾った私を見て、とりあえずお母さまの溜飲は下がったらしい。横目でこちらを見ていたようだけれど、何も言われなかった。
婿探しだなんて脅しておいて、結局はお母さまが寂しがっているのを見かねたお父さまが、強制的に呼び出しただけだった。久しぶりに親戚と顔を合わせ、子供のころから良くしてくれる政府のおじさまたちともしっかり話した。うちの息子はどうだい、なんて半分本気に言ってくれる人が多いから、はっきり言ってやったわ。私より頭が良くない人と結婚なんかできないわ!って。
研究所で話題の計画の責任者をやっている私よりできるヤツがいるっていうなら、連れてきなさいっていうのよ!ふん。
わっさわっさとかさばるドレスを気にしながら、ガラス戸の向こうに広がるテラスへ向かう。まだまだ盛り上がる勢いのパーティだもの、ここなら人気もないに違いない。あっても追い出してやる!それぐらい、私は疲れていた。
春の暖かな夜。生温かな夜風が吹く、そのテラス。暗くなっても少しだけ明るさの残る夜の空は、濃い紫のような色をしている。テラスの外は、小さな森のような庭だ。今は暗くて見えないけれど、木々が風に揺れてざわめく音が耳に響く。分厚いガラス戸に遮られて、中の声は聞こえない。ここはそういう場所なのだ。大公邸の敷地の一角にあるこの迎賓館は、最近では滅多に足を踏み入れることもなくなったけれど、子供のころは両親とよく来ていた場所だ。お父さまが大事な話をするときは、このテラスが閉じられるのを知っている。今は、私しかいないけれど。
手すりに手をついて、見えない暗闇に視線を向ける。風と、森の音。それだけだ。
まるで眠っている時のように、そこは静かだった。振り向けば、すぐそこに現実が見えるっていうのに。
ここ一番の、大きなため息を吐く。原因はパーティじゃない。
今まで何度もこういう誘いはあったけど、多分今日のように大人しく従ったのは久しぶりのことだ。自分でもそれを自覚しているから、お母さまやおばさまにどうしたのとからかわれても、答える術が見つからなかった。
(………いるわけないじゃない。私の、ばか)
会場はくまなく探した。誰にも気づかれないように、視線でそっと。
でも、金の影は見当たらない。どういうわけか、銀の影も。
期待していたの、と自分に問う。それは答えるまでもなかった。無意識に握りしめていた両手を見る。シルクの手袋。こんなに着飾って、あいつを探して。何をしているの、私は。
………知っている。私は、会いたかったのだ。
研究所で、強い視線を感じるのは、議論の時だけ。私だって、どうしてあんな奴が気になるのかなんて、さっぱりわからないわ。
でも、それでも。
研究所とは違う場所で、研究に関係のないあいつを、見たかったんだ。
会って、研究以外の話をもっと、してみたかった。
はー、と長い息が漏れる。
(一体、あの男に何回期待したら気が済むのよ、私は………っ!)
大公息女だってバレてもいいとさえ、思ってしまっている。あんな冷たい男なのに。
戻ろう。そう決めて踵を返す。そして会場へ足を踏み入れた途端、強い力で腰をさらわれた。
「きゃ……っ」
ふらついた身体はあっという間に腕の持ち主の腕の中だ。目の前には豪奢で繊細な細工のある、グレーの礼服。思わず手をついたのは相手の胸であることに気づいてぎょっとする。
(何なのよ………!)
礼儀知らずにもほどがある。睨みつけて文句を言おうと顔を上げて、口を開いたままに硬直する。ここいいない筈の秀麗な顔があったからだ。
「おまえ、こんなところで何しているんだ」
見下ろされるのは長身の彼の場合いつもそうだが、威圧感に押されて口ごもる。今までにないぐらい、不機嫌を通り越して不快なのか、彼は怒っていた。すさまじい眉間の皺だ。
「何って、………その」
私の父が主催だし、そう言っても良かったんだけど。驚きから抜け出せずにいると、彼はますます苛立って、小さく舌打ちをした。
「……ああ、もういい。来い」
「ちょ、待ってよ……!」
ぐいぐいと腕を引かれたのは、会場の中央。踊りが始まる直前に人の中に入った私たちは、音楽が流れると同時に動くしかない。
カストルは、ディーの言うとおりに上手だった。
久しぶりに踊る私を難なくリードする。彼手を握られたまま、大きくターンするのが気持ち良い。
二人が近づいたその時、背中に回されている手に力が込められた。うわ、と声にならない悲鳴を内心上げるけれど、表面上はあっさりとカストルの胸に抱き寄せられた格好になってしまった。
「で、何故こんなところにいるんだ」
「何でって………あのね、不法侵入したわけじゃないんだから」
「そうは言っていない。だが今日、この夜会の話をした時何も言ってなかっただろう」
「それは………」
それに、と続けようとしたカストルは、不意に力を緩めて私の腰を抱き寄せた。
「おまえが居たテラスがどんな場所か知っているのか。あそこは大公の許しがなければ入れない」
「そうだったの?」
そんな話、聞いたことがない。と思ってすぐ納得した。
私に許可が必要なわけがない。
「大体、どうも似ている奴がいるなと思えばあのテラスに消えていくしな。何人がテラスの傍でお前が戻ってくるのを待っていたと思ってる」
今日のカストルは饒舌だった。
不機嫌絶好調のくせに。
見上げれば、視線があった。彼の紺色の瞳に映る自分が、不思議そうな顔をしている。
それはそうだ、不思議でしょうがないんだもの。
今こうやって、二人で踊っていることさえ。
「そんなの、知らないわ」
笑って返せば、案の定強張っていく綺麗な顔
そういえば、いつもの眼鏡をしていない。顔つきは似ているのかもしれないけど、髪の色が違い過ぎる双子は、実はあまり似ているように見えない。
ただ、眉を寄せても、綺麗な顔だった。
「知らないって………おまえな。あそこで僕が引っ張らなかったら、見境のない貴族連中の餌食だったんだぞ!」
「なに、心配してくれているわけ?」
「当たり前だ!」
思いがけない言葉に、目を瞠る。
「気づかなかったとは、言わせないぞ」
僕の気持ちに。そう後に告げて、またターンの為に身体が離れる。
まさか、本当に?―――信じられない!
本当に気づかなかったのだと言って、信じてくれるかしら。
「………気づかなかったわ」
強引に抱き寄せられたり、無理にダンスに引き込まれたり、今夜の彼はおかしかった。後で考えればなぜ気づかなかったのかと思うけど、カストルはこの時、猛烈に嫉妬していた。
「そうか、なら気づかせてやる」
薄い唇はかすかに笑みを形作る。
ダンスの音楽よりも、彼の衣擦れが耳に響いて。次の瞬間、頭の中は真っ白になった。
―――強く重ねられた、口づけによって。